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ウサーマ・ビン=ラーディン

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ウサーマ・ビン=ラーディン
أسامة بن لادن
ウサーマ・ビン=ラーディン
生年: 1957年3月10日(53歳)?
生地: サウジアラビアの旗 サウジアラビアリヤド
思想: イスラーム主義・サラフィー主義・ワッハーブ派
活動: 911テロ他多数
所属: アルカーイダ
信教: イスラーム

ウサーマ・ビン=ラーディンأسامة بن لادن)ことウサーマ・ビン=ムハンマド・ビン=アワド・ビン=ラーディンأسامة بن محمد بن عوض بن لادن、Usāma bin Muhammad bin ʿAwad bin Lādin)は、アメリカ同時多発テロ事件をはじめとする数々のテロ事件の首謀者とされるサウジアラビア出身のイスラム過激派テロリストFBIにおける最重要指名手配者の一人。正確な生年は不明だが、1957年3月10日だという説がある。身長194cm。体重約73kg。FBI指名手配書によると肌はオリーブ色、髪と瞳はブラウンと表記されている。

目次

表記

日本語ではオサマ・ビンラディンNHKテレビ朝日など)、ウサマ・ビンラディン日本テレビTBSフジテレビテレビ東京など)、ウサマ・ビンラーディン読売新聞など)などとも表記される。

なお、「ビン=ラーディン」は厳密には姓ではなく「ラーディンの子孫」という意味の添え名であるが、ウサーマの出自であるラーディンを祖とする一族の男子は共通してビン=ラーディンを添え名として名乗っており、また本人も「ビン=ラーディン」の名を用いているため、姓のある文化圏に留まらず、アラビア語圏も含め、便宜的に「家名」や彼を指し示す名前として扱われている(人名#イスラム圏の名前を参照)。

概要

ラーディン一族

ウサーマ・ビン=ラーディンの父のムハンマド・ビン=ラーディンは、イエメンハドラマウト地方の名家の出身(ハドラミー)で、第一次世界大戦前に、イエメンからサウジアラビアに移住し、1931年、荷夫から身を興しサウジアラビアの建設業関係の財閥「サウジ・ビン=ラーディン・グループ(SBG)」を柱とするラーディン一族を形成した。一族の巨額な財産分与が様々な方面に流出した結果、そのいくつかがイスラム教原理主義テロ組織の資金源になっているとされる。グループは石油ブーム時代に建築業で財を成し、マッカ及びマディーナのモスクの修理を任されるほど、サウード家と深く結びついている。

現在、「サウジ・ビン=ラーディン・グループ」は、アメリカ、アジア及び欧州に多数の支部と子会社(60社以上)を有し、石油及び化学プロジェクト、遠距離通信及び衛星通信に従事している。グループは、50億ドル以上の資本を所有しており、その内、約3億ドルがウサーマの取り分だった。ウサーマは、スーダンの建設会社「アル・ヒジュラ」、イスラム銀行「アシュ・シャマリ」の支配株も保有している。これに加えて、投資財閥「タバ」を所有し、代理人を通して、ケニアに貿易会社、イエメンに器械製造会社、出版社、セラミック生産工場を監督している。

グループの特徴としては、多数のアメリカ人ビジネスマンが参加していることが挙げられ、アメリカのブッシュ大統領一家とも金銭的つながりがあり、父のムハンマド・ビン=ラーディンは元アメリカ大統領ジョージ・H・W・ブッシュとともにカーライル投資グループの大口投資家であり役員だった。また、ウサーマの兄のサーレムは前アメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュがかつて経営していた石油会社の共同経営者である。無論、これらはウサーマが反米に立場を転じてテロリストとなる前の話であり、また、彼ら親族はウサーマのようなテロリストではなくそのような組織との直接的関係もない。ウサーマの息子は父に対しテロ行為をやめるようメッセージを発している。しかし、それはおためごかしに過ぎないとの説がある[1]

生い立ち

ウサーマは、ムハンマド・ビン=ラーディンの10番目の妻でシリア生まれのハミド・アル=アッタスの子としてサウジアラビアのリヤドで生まれ育った。生年はウサーマ自身アルジャジーラとのインタビューで1957年3月10日である、と述べている。父・ムハンマド・ビン=ラーディンと母・ハミド・アル=アッタスの間の最初の男児であった。シャリーアでは妻の数は4人までとされるが、ムハンマド・ビン=ラーディンは22回の結婚をし55人の子供がいる。ウサーマはその17番目の子である。ムハンマドは妻ハミドとウサーマ生誕直後に離婚、ハミドは再婚し新しい夫との間に4人の子をもうけた。ウサーマはその新しい兄弟の頭として成長した。敬虔なワッハーブ派ムスリムとして育てられ、エリート教育がなされた。高校時代にイスラム原理主義に触れたとも言われる。ウサーマは17歳のとき、ラタキアで最初の結婚をした。CNNによるとウサーマは4度の結婚歴があり、子供の数はこれまでに20人程である。ウサーマは、ジッダキング・アブドゥルアズィーズ大学・経済・管理学部に入学するが、宗教や詩作に向かい、ムスリム同胞団に加入、サイイド・クトゥブの思想に引き付けられる。さらに同大学で教鞭をとっていたムスリム同胞団アブドゥッラー・アッザームの教えを受け、師と仰ぐようになった。ウサーマは自身に影響を与えた人物として、クトゥブとアッザームの名を挙げている。大学で学位取得後、暫くの間、クルアーンの規定の遵守を監督するシャリーア警察に勤務していた。

ムジャーヒディーン

ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻1978年-1989年)時、サウジアラビアは、アフガニスタンのムスリムの抵抗を積極的に支援することに決め、王室に近かったラーディン一家に支援を要請した。ウサーマは、アブドゥッラー・アッザームの誘いで、アフガニスタンでソビエト軍と戦うことを決意、パキスタンに向う。駐アフガニスタン・サウジ王国公式代表に任命され、アフガンゲリラ諸派とともにムジャーヒディーンとなった。この時期より迷彩服を着用し、素手でロシア人兵士を殺して奪ったアサルトライフルを常に携帯するようになった。

サウジアラビア総合情報庁長官トゥルキー・アル=ファイサル皇太子の委任により、ウサーマは個人財産を生かしてアフガンへの義勇兵のスポンサーとなり、アブドゥッラー・アッザームと共にペシャワールで「サービス局」(マクタブ・アル=ヒダマト。MAK)を開設し、エジプトなどアラブ諸国からアラビア人義勇兵を募集して組織化しアフガニスタンへ送り込んだ。オマル・アブドゥル=ラフマーンなどと親密な関係を構築したのはこのときである。

反米

ムジャーヒディーンはアフガニスタンではアメリカ合衆国CIAパキスタンISIを後ろ盾に援助を受けていたが、ソビエトの敗退後、ビン=ラーディンは反米活動に転じる。ユーゴスラビア紛争に積極的に関与し、バルカン半島のイスラム勢力を支援した。サウジアラビアへ帰国したビン=ラーディンは湾岸戦争時にサウジアラビア王家が彼の献策を退けてアメリカ合衆国の軍隊を国内に駐留させたことに反発し、急速に反米活動に傾倒していった。このあたりは2001年10月7日に出された彼の声明の中でも「不信心者の軍はムハンマドの地を去れ」という文言で表されている。サウジアラビアは、ビン=ラーディンを危険視、国外出国を禁止する。

ビン=ラーディンはアフガン帰還兵への福祉支援組織を隠れ蓑にイスラム主義原理主義)的な背景を持つ国際テロリズムのネットワークを作り上げたといわれている[2]

ビン=ラーディンは1992年に密かにサウジアラビアを脱出、サウジアラビア王家を攻撃し続けるビン=ラーディンに対しファハド・ビン=アブドゥルアズィーズによる追放であったとも言われている。民族イスラム戦線のハッサン・アル=トゥラビの招きでスーダンに渡り、ハルツームに軍事キャンプを設立した。財閥「サウジ・ビン=ラーディン・グループ」からの資金が止まり、スーダン国内で建設事業を行い財政面を安定化させるとともに、アフガニスタンで共に戦ったジハード団の指導者アイマン・ザワーヒリーなどと関係を深め、組織の拡大育成を行った。オスロ合意に反発、反米闘争がエスカレートしていった。ボスニア・ヘルツェゴビナの市民権を取得し、コソボアルバニアでの紛争にイスラムのムジャーヒディーンを送り込み、アルジェリア内戦では武装イスラム集団を支援する財政的な援助を行った。アルカーイダの爆弾テロは1992年末のアデンのホテル爆破が最初である。その後、アルカーイダの中枢となったジハード団からのメンバーが、イスラム集団などと共闘して、世界各地で爆弾テロを行っていく。サウジアラビア政府は、ビン=ラーディンの国籍を剥奪、同時期にラーデイン家は、ウサマを一族から追放したとの声明文をサウジアラビア国内のマスコミに送っている。ホスニー・ムバーラクエジプト大統領への暗殺未遂もあり、アメリカ・エジプトの圧力で、ビン=ラーディンやアイマン・ザワーヒリーはスーダン国内に居られない状況となり、1996年にスーダンを出国し、チャーター機でアフガニスタンジャラーラーバードに渡った。

アフガニスタン滞在

アフガニスタンにビン=ラーディンを招いたのはアブドゥル・ラスル・サヤフで、ソビエトとの戦いでジャラーラーバードにビン=ラーディンと軍事訓練キャンプを創設して以来の関係であった。アブドゥル・ラスル・サヤフは、世界貿易センター爆破事件の首謀者のラムジ・ユセフやアメリカ同時多発テロ事件の起案者とされるハリド・シェイク・モハメドなどアル・カイーダの首脳たちにかつてペシャワールでテロを指導したことがあった。ビン=ラーディンは、最初はハーリス派の庇護を受け、ジャララバードがターリバーンの手に落ちると今度はターリバーンの客人となり、ムハンマド・オマルと緊密な関係を構築、アフガニスタン国内にアル・カーイダの訓練キャンプを設置していった。

1998年2月にはユダヤ・十字軍に対する聖戦のための国際イスラム戦線を結成し、「ムスリムにはアメリカと同盟国の国民を殺害する義務がある」というファトワを布告した。8月にはタンザニアダルエスサラームおよびケニアのナイロビで1998年8月7日に起きたアメリカ大使館爆破事件によってFBIから訴追をうけた[3]。アメリカは当時ビン=ラーディンをかくまっていたアフガニスタンターリバーン政権に対しビン=ラーディンとアル・カーイダの引き渡しを求めた。しかしターリバーンは応じなかったため、国際連合安全保障理事会において国際連合安全保障理事会決議1267[4]が採択され、引き渡しを求められた。しかしターリバーン政権はこれに応じなかったため、経済制裁を受けた。2000年にもアル・カーイダは米艦コール襲撃事件をおこし、国際連合安全保障理事会決議1333[5]によって再度引き渡しが求められた。

アメリカ同時多発テロ事件以後

ブッシュ政権は、2001年9月11日に発生した(アメリカ同時多発テロ事件)の首謀者をウサーマ・ビン=ラーディンとアル・カーイダであると断定した。アメリカ政府の公式報告書(『9/11委員会レポート』)によると、航空機を使用したテロ計画の発案者は、2003年に逮捕され計画の全貌を自白したハリド・シェイク・モハメドであり、ウサーマ・ビン=ラーディンは彼から計画を持ちかけられたという[6]

2001年以降の足取り

2001年のターリバーン政権の崩壊以降、ビン=ラーディンの正確な足取りはわかっていない。

2001年12月中旬にはアイマン・ザワーヒリーと共にアフガニスタンのトラボラ渓谷にある洞穴に潜み、潜伏情報をキャッチしたアメリカ軍が捕獲しようと計画したが失敗。このことは2009年11月29日アメリカ上院外交委員会にて取り上げられ、現地指揮官からの増派要請を本国が拒否したのが捕獲失敗の原因と結論付けた[7]

2004年以降から、腎臓病に苦しみ常に人工透析の電子機器が必要であると報道されている。最近になって、死亡説が浮上した。これは、フランスの地方紙などが伝えたもので、それによると、腸チフスで死亡したとの事である。しかし、フランスのシラク大統領が、「死亡したとの情報はない」などとし、死亡説を否定した。今も尚、死亡説の正否は不明である。一説では北朝鮮に潜伏している[8]などの説があるが定かではない。2008年11月13日、マイケル・ヘイデン(Michael Hayden)CIA長官(当時)は、ウサーマ・ビン=ラーディンの追跡と逮捕は現在でもCIAの最優先事項とした上で、潜伏先をアフガニスタンとパキスタンの国境地帯ではないかという見解を示した[9]

2010年10月18日CNN北大西洋条約機構当局者の話として、ウサーマ・ビン=ラーディンが現在、アフガニスタン・パキスタン国境地帯の洞窟ではなく、パキスタン国内の家屋で「快適に」暮らしていると報じた。同当局者は「洞窟で暮らしているアル=カーイダのメンバーは誰一人としていない」と述べた。ビンラーディンらは、パキスタン情報機関や地元住民に保護され、同国北西部の家屋に居住。付近にアイマン・ザワーヒリーも住んでいるという[10]

活動の年譜

  • 2004年2月28日イラン・イスラム共和国放送パシュトゥーン人向けラジオ放送が、パキスタン国境付近でパキスタン軍が"だいぶ前に"ビン=ラーディンを拘束したとのニュースを伝えたが、AP通信/ロイターによると、パキスタン外相、アメリカ国防総省はこの情報を否定した。
  • 2004年10月29日カタールの衛星テレビ局アルジャジーラが、その頃撮影されたといわれるウサーマの映像を放映。この中で、ウサーマと思しき男はアメリカ同時多発テロ事件を行ったことを初めて認め、更なるテロを警告した。これに対し、ブッシュ大統領は「脅しに屈しない」と強調した。
  • 2005年10月に発生したパキスタン地震によりアメリカ諜報部が彼の消息が絶ったとし、更には人工透析の電子機器が常に必要でありながらも地震により電力が止まっているなどの情報もあるため、ドイツの新聞がビン=ラーディン死亡説を報道した。
  • 2007年1月31日、米CNNアラブ首長国連邦ドバイにて、ウサーマの義理の兄弟がマダガスカルで武装グループの襲撃を受け射殺されたことを明らかにした。被害者の兄弟がUAEの衛星テレビアル・アラビーヤに語った。

ウサーマ・ビン=ラーディンと911テロ

アメリカ政府はかねてからのFBIの情報収集活動などにより、早くからイスラム系国際テロ組織アル・カーイダとそのリーダーであるウサーマが9/11テロ実行犯と断定していたが、ウサーマは当初事件への関与を否定していた。

ところが2001年11月、アフガニスタンのジャラーラーバードターリバーン掃討作戦を行っていたアメリカ兵が破壊された民家から一本のビデオテープを発見、その中でウサーマが同志にこの事件については事前に知っていたと語るシーンがあったことから大騒ぎになった。ウサーマ本人がビデオテープによりアルカーイダによる911テロの犯行声明を公に発表したのは、それから3年後の2004年11月のことである。

家族

2009年7月、アメリカのラジオ局「ナショナル・パブリック・ラジオ」が、CIA当局者の話として、ビン=ラーディンの息子サアド・ビン=ラーディンが、パキスタン領内で米軍の無人偵察機による爆撃で死亡した可能性があると報じられたが[11]、12月、サウジアラビアの新聞「アッシャルク・アウサト」が、ウサーマの息子ウマル・ビン=ラーディンの話として報じたところでは[12]、サアドは、兄弟であるムハンマド、ウスマーン、ハムザ、ファーティマ、イーマーン、そしてビン=ラーディンの妻の一人であるハイリーヤと叔父にあたるバクルを含む25人の親類と共にイラン国内で治安当局の監視下で自宅軟禁に置かれていたと、ウスマーン・ビン=ラーディンが電話でウマルに話したという。ウマルによればサアドは一ヶ月前に逃亡し、現在はイラン国内には居ないという。ビン=ラーディンの家族はこれまで、2001年のアフガン空爆後は隣国イランに逃亡したと見られていた。

疑い

1990年代はじめにウサーマのテープを翻訳した経験のあるMUJCA-Netの主催者ケヴィン・バレット (Kevin Barrett) の見解では、2001年以降に発表された多くの「ビン=ラーディンだ」といわれるテープは偽物であり、CIAが「本物だ」と断定した2002年秋に発表されたテープも、スイスにあるIDIAP研究所が声の分析をした結果は「替え玉による録音だった」という。こうしたテープは、ブッシュ政権が色々な批判を浴びている状況下で報道に出てくることが多く、テープ自体は頻繁に出されている。

エピソード

  • 彼は左利きである。
  • ウサマと言う名は、シリアの伝説的な詩人の名から付けられたもの。
  • ウサーマの兄サーリム・ビンラーディンはアメリカ合衆国テキサス州において小型飛行機事故で死亡している。
  • 2006年インド東部の村を荒らしまわった象はビン=ラーディンと名付けられた。
  • 2009年2月オーストラリア・ハミルトン島の観光ガイドのアルバイトに、ビン=ラーディンを名乗る、応募のビデオテープが送られてきた。内容は、何者かがビン=ラーディンを騙った、ただのブラックジョークだった。

脚注

  1. ^ ベンジャミン・フルフォード『ステルス・ウォー』 講談社 2010年3月 ISBN 9784062161244, Page141
  2. ^ NHKスペシャル『9.11テロ 一年目の真実~ビンラディンVSアメリカ~』(2002年8月31日放送)による例では、ナイロビの爆破テロでは、その準備のために「ヘルプ・アフリカピープル」という慈善団体を隠れ蓑にしていた。
  3. ^ USAMA BIN LADEN (FBI公式サイト)
  4. ^ 安保理決議1267(訳文) 外務省
  5. ^ 安保理決議1333(訳文) 外務省
  6. ^ National Commission on Terrorist Attacks (2004). The 9/11 Commission Report: Final Report of the National Commission on Terrorist Attacks Upon the United States ; W. W. Norton & Company. 同時多発テロに関する独立調査委員会『9/11委員会レポート ダイジェスト 同時多発テロに関する独立調査委員会報告書、その衝撃の事実』(WAVE出版、2008年)
  7. ^ “ビンラーディン取り逃がし、増援拒否が原因…米上院”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社).(2009年11月30日). http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20091130-OYT1T00995.htm 2009年11月30日閲覧。 
  8. ^ 米国のAP通信は、アフガニスタンに潜伏しているオサマ・ビンラディン氏が管理している訓練キャンプで生化学武器実験が実施されたとの報道があったとし、北朝鮮関連説を提起した。AP通信は28日、「ビンラディン氏をアフガニスタン東部のクナル地域まで遂行したあるタリバーン保安関係者が、現地で北朝鮮人1人が訓練兵に化学武器訓練を行っているのを目撃した」と述べたと報道した。[要出典]
  9. ^ CIA Chief: Bin Laden Alive, Worried About 'Own Security' ABCNews
  10. ^ http://sankei.jp.msn.com/world/asia/101019/asi1010190005000-n1.htm 家屋で「快適な」生活 ビンラーディン容疑者
  11. ^ http://news.smh.com.au/breaking-news-world/us-strike-may-have-killed-bin-ladens-son-report-20090723-du9v.html
  12. ^ bin ladens wife and six children under house arrest iran

関連項目

ウィキメディア・コモンズ