ジョゼフ・ヴァラキ

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ジョゼフ・ヴァラキ
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ジョセフ・"ジョー・カーゴ"・ヴァラキJoseph "Joe Cargo" Valachi, 1904年9月22日 - 1971年4月3日)はマフィアジェノヴェーゼ一家の構成員。マフィア組織内の地位は低いが、オメルタを破った人物として有名。

来歴[編集]

初期[編集]

ニューヨークマンハッタンのイースト・ハーレム(East Harlem)にてナポリから来た移民の子として生まれる[1]。家庭は極貧で、薪や石炭をゴミ箱で漁って厳しい寒さに耐え、セメント袋でベッドシーツを代用し、靴がないので足に絆創膏を巻いて歩いた[2]。若い頃から地元の窃盗団"ミニッツメン"で泥棒をした[3]。1分で仕事を完了する早業からミニッツメンと呼ばれた。些細なことから地元ギャングのチロ・テラノヴァに命を狙われ、以後テラノヴァを敵対視した[1]。1923年、1925年に続けて窃盗で服役した。1928年出所すると入獄中知り合いになったギャングからサントゥッチなるギャングを紹介され、その仲介でトミー・ガリアーノの配下となり、組織犯罪の道に入った[1]

ガリアーノは、ジョー・マッセリア陣営のガエタノ・レイナの部下だったが、レイナの死後マッセリアの敵であるサルヴァトーレ・マランツァーノに寝返ったため、ヴァラキもマランツァーノ派になった[4]。マランツァーノが組織した暗殺チームにヒットマンとして加わり、多くの暗殺現場に居合わせた。一説に1930年11月のマッセリア派アル・ミネオ暗殺や、1931年2月のジョー・カタニア暗殺に加担したとされる。マランツァーノがマッセリアとの抗争に勝利した後、一時マランツァーノの元にいた。

ルチアーノ一家[編集]

1931年9月、マランツァーノがラッキー・ルチアーノにより殺された後、ルチアーノ一家に入り、一家の副ボスのヴィト・ジェノヴェーゼのもと、トニー・ベンダー配下となった[4]。1932年、ガエタノ・レイナの娘と結婚した[1][4]

スロットマシン、ナンバーズ賭博、高利貸しが主な収入で、稼ぎが安定するとジュークボックスビジネスにも手を広げた[1]。戦時中は役所から盗んだガソリン配給券をヤミ市で捌いて大儲けし、ニューヨーク郊外のヨンカーズに家を買った。レストランを開店し競馬の馬主になった。トニー・ベンダーの指令で殺人を請け負い、麻薬にも手を出した[1]。一家のボスは戦争をはさんでルチアーノからフランク・コステロへと変わったが、上層部の指令を忠実に実行した。

収監[編集]

1959年、麻薬取引の罪で起訴され、ジェノヴェーゼらと共にアトランタ刑務所に収監された[4]。その後、ジェノヴェーゼの獄中の指示により、ヴァラキのかつての上司だったトニーベンダーは1962年4月8日に殺害されたが、ヴァラキも裏切りの濡れ衣によりジェノヴェーゼのコントラクト(殺人指令)によって追われる身となった。1962年6月22日、ジェノヴェーゼが送った刺客と間違えてジョン・ジョゼフ・サウップという組織とは関係ない男を殺した[5]。追いつめられたヴァラキは、1963年10月FBIとの司法取引により、上院のマクレラン委員会の場でコーサ・ノストラ内部の情報を証言した。組織の情報をリークするかわりに、FBIの証人保護プログラムによる保護下に入った[4]

マフィア上層部はヴァラキを暗殺するために刑務所の刑務官を買収して飲み物に毒を入れたり、殺し屋を刑務所に送り込んだりもしたという。ヴァラキの首に10万ドルの懸賞金が掛けられていたとも言われた[6]。その後、ヴァラキは厳重に管理された独房で過ごし、1971年テキサス州の拘置所で心臓発作によりこの世を去った。

マクレラン委員会で証言をしたことで、司法取引で外に出られるという約束をしたが、当時の司法長官のロバート・ケネディが暗殺され、ニコラス・カッツェンバックが司法長官となったときに、約束は無視されて、失意のヴァラキは首をつり自殺したという説もある。後にジェノヴェーゼは、ヴァラキは1956年に逮捕されたときから政府に協力していたと主張した。

ヴァラキの証言[編集]

マクレラン委員会の後の1964年、司法当局により改めてヴァラキの40年の犯罪キャリアの供述が筆記され、1180ページに及ぶ原本「The Real Thing」が作成された。その後、公表方法を巡り司法当局で揉めた末、直接的な回想記ではなくヴァラキのインタビュー内容を第三者が語るという形に落ち着き、ピーター・マーズが編集して『The Valachi Papers』の題で出版した[4]

証言の意義[編集]

1940年代初め、エイブ・レルズが司法取引によりマフィアに関わる組織的な殺人行為を暴露したが、マフィアの外様団体マーダー・インクの組織についての暴露に限られ、マフィア本体組織はノータッチだった。1950年代のキーファーバー組織犯罪捜査委員会では、マフィアメンバー個々の脱税の告発はしたが、メンバー間の横のつながりは「近所の仲間」「ビジネス仲間」という「仲間」で括られ、組織が存在するかどうかも不明だった。ヴァラキの証言は、血の掟(オメルタ:Omertà)により隠されてきた組織の実在を、具体的な人名入りの体制表で明らかにした点で画期的だった。

現在進行形のマフィアのみならず、マフィアが辿ってきた過去についても、謎とされてきた個々の抗争の背景や原因を解説したり、未解決事件の首謀者や実行犯を数多く挙げた。1930年代前半のカステランマレーゼ戦争の直接当事者としての証言は元より、1957年のアルバート・アナスタシア暗殺やフランク・コステロ暗殺未遂事件などにも言及した。

犯罪史料としては、1920年代にさかのぼる内部証言者の告白は極めて珍しく、ジョゼフ・ボナンノの自伝(1983年)やニコラ・ジェンタイルの自伝(1963年)と並んで、アメリカにおける犯罪シンジケート形成期の貴重な情報源とされている。

限界[編集]

ヴァラキが直接携わった犯罪行為はヴァラキに都合よく語られているとも、マフィア内でのディスインフォメーションに乗せられていたとも言われる。ヴァラキはストリート犯罪を知り尽くしたベテランだったが、組織の末端にいたため上層部の駆け引きや戦略などの知識には一定の限界があり、またニューヨークのマフィアファミリーなど東海岸のマフィアが中心だった。

エピソード[編集]

  • 同じイタリア系でも、イタリア育ちの移民1世のギャングを"グリーズボール"と呼び、本人らアメリカ育ちのギャングと区別していた。
  • 1925年、獄中で知り合ったブルックリンのカモッラギャングのリーダー、アレッサンドロ・ヴォレロから、信頼できないシチリア人と仕事をするよりシカゴに行ってアル・カポネの一派に加わるのが良いとシカゴ行きを勧められたが、出所後、ニューヨークにとどまった[1]
  • マッセリアを倒したマランツァーノの「次に排除すべきギャング」を連ねた暗殺リストに、アル・カポネ、コステロ、ルチアーノ、ジェノヴェーゼ、ヴィンセント・マンガーノジョー・アドニスダッチ・シュルツの名があったという[7]
  • ジェノヴェーゼにはヴァラキ自身の結婚式で仲人役を務めてもらった。ジェノヴェーゼのような大物に務めてもらうことは光栄で、彼の部下として堅い忠誠を誓っていた。

題材にした作品等[編集]

  • 1968年、ピーター・マーズ編集による「The Valachi Papers」が出版された(邦題『マフィア』常盤新平訳、絶版)。
  • 1972年、同名タイトルで映画化された(邦題『バラキ』)。映画では、FBI取調室でのチャールズ・ブロンソン演ずるヴァラキの証言を通して,オメルタの掟から始まるコーサ・ノストラ入会から出世、逃亡、そして当局に保護されるまでを描くことで、ラッキー・ルチアーノ等、実名で登場する本物のコーサ・ノストラの史実が解り易く忠実に再現された。
  • 上院委員会の査問シーンは、「ゴッドファーザー PART II」に取り入れられた。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g Joseph Valachi The American Mafia, 2007
  2. ^ David Critchley, The Origin of Organized Crime in America - Black Hand, Calabrians, and the Mafia - Introduction
  3. ^ Joe Valachi – The First Rat American Mafia History
  4. ^ a b c d e f Joe Valachi La Cosa Nostra Database
  5. ^ How Valachi Gave His Story On Crime The Pittsburgh Press - Sep 27, 1963
  6. ^ The Two Faces Of Vita Genovese Daytona Beach Sunday News-Journal - Sep 28, 1963
  7. ^ Genovese Link To Gang Deaths Lawrence Journal-World - Oct 2, 1963

関連項目[編集]