ジョージ・ハリスン

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ジョージ・ハリスン
George Harrison
George Harrison 1974.jpg
フォード大統領に面会した際のハリスン 1974年
基本情報
生誕 1943年2月25日
出身地 イングランドの旗 イングランド リヴァプール
死没 (2001-11-29) 2001年11月29日(満58歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルス
ジャンル ロック
ポップス
世界
実験
職業 ミュージシャン
ギタリスト
シンガーソングライター
音楽プロデューサー
担当楽器 ボーカル
ギター
シタール
キーボード
ピアノ
モーグシンセサイザー
ベース
ウクレレ
活動期間 1958年 - 2001年
レーベル パーロフォン
キャピトル
スワン・レコード
アップル・レコード
ヴィージェイ・レコード
EMI
ダークホース・レコード
共同作業者 クオリーメンザ・ビートルズ
トラヴェリング・ウィルベリーズ
公式サイト georgeharrison.com
著名使用楽器
カール・パーキンス
チェット・アトキンス
ラヴィ・シャンカル
ジョージ・ハリスン
ジョージ・ハリスン

ジョージ・ハリスン (George Harrison, MBE[1]1943年2月25日[2] - 2001年11月29日) は、イギリスミュージシャンザ・ビートルズのメンバー。ビートルズ解散後もソロミュージシャンとして活動。

概要[編集]

1960年代にビートルズのリードギタリストとして活動し、解散後はソロ活動した。ソロでは、「マイ・スウィート・ロード」「ギヴ・ミー・ラヴ」「セット・オン・ユー」などがヒット。『オール・シングス・マスト・パス』(1970年)は、ロック・アルバムの金字塔として高く評価されている。

スライドギターの名手としても知られる[3]

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第21位、2011年の改訂版では第11位。

肺癌脳腫瘍のため2001年に死去。1988年にビートルズのメンバーとして、2004年に個人としてロックの殿堂入りしている。ナイトの称号を故人(ジョージ)に初めて授与するかどうか現在議論されている。

生い立ち[編集]

1943年にリヴァプール郊外ウェイヴァートリー区アーノルド・グローヴ12番街でハロルド・ハリスン(1909~78)とルイーズ・フレンチ(アイルランド系)(1911~70)との間の三男(4人兄弟の末っ子)として誕生。時の国王ジョージ6世に因んで「ジョージ」と命名される。

父・ハロルドはウェールズ系バス運転手。母は敬虔なカトリック教徒。

ジョージが6歳になった時、一家はアプトン・グリーン25番地に引っ越した。ダヴディル・ロード幼児学校、ダヴディル小学校に通い、リヴァプール・インスティテュートに入学した。当時の同級生はジョージを「独りぼっちで隅に座っているようなヤツ」と評している。

ロックンロールに熱中していたジョージが、スキッフルバンドを結成しようと考えて、初めて手にした楽器はギターではなく洗濯板だった。これは、一緒にバンドを組もうとしていた、2番目の兄ピーター(1941~2008)がすでにギターを持っていたため。しかし、しばらくするとギターを演奏したい気持ちが強まっていき、13歳の時に同じ学校の生徒から中古ギターを購入する。

そして毎日の練習のおかげでギターの腕前が上達したジョージは念願のスキッフル・グループを結成。バンド名を「Rebels」(レベルズ・反逆者たちの意)とした。当時のイギリスには同名のバンドは多数存在していた。

「レベルズ」が初めてコンサート・ステージに立つ日、ブッキングしている他のバンドが全てキャンセルしたので、少ないレパートリーの中、一曲を繰り返し演奏し数十分間引きのばして乗り切った、という逸話がある。

1950年代の中頃にポール・マッカートニーに出会う。ポールに紹介されジョン・レノンらのバンドクオリーメン」(ビートルズの前身)に加入[4]。バンドに加入できたのは、空のバス2階を使って行われた即席オーディションにおいて、当時高等テクニックを要したビル・ジャスティスの"Raunchy"というギターインストゥルメンタルを完璧に弾いたことが、ジョンに認められたからと言われている[5]。しかし、「いつもギターに触っていたい」という情熱を満たすため、以前から在籍しているバンドも辞めずに活動に勤しんだ。そのため、時には8時間以上、夜通し演奏することもあったが、ジョージには苦にならなかった。

“静かなビートル”[編集]

ビートルズのメンバーでは最も年下で、主にリードギターコーラスヴォーカルを担当した。自作曲も20曲以上発表している。また、各種楽器の導入にも積極的であり、初期においてはエレクトリック12弦ギターを(後にアメリカのグループ、バーズのサウンドに影響を与えたといわれる)、中期にはインド楽器であるシタールを取り入れ、楽器の導入に留まらず、インド音楽とロックの融合を試みて、後のラーガ・ロックに大きな影響を与えた。また、後期には初期の型のシンセサイザーをいち早く導入している。

ビートルズ時代のジョージの作品の特徴として、メロディーラインにシンコペーションを多用した曲が多いことが挙げられる(「タックスマン」「アイ・ウォント・トゥ・テル・ユー」「嘘つき女」「恋をするなら」など)。インド楽器の導入と同様、ジョンやポールとの違いを打ち出そうとする意識が強かったと思われる。

ビートルズのメンバーとしては、圧倒的な存在感を放つ二枚看板で天才メロディーメーカーであるレノン=マッカートニーの陰に隠れ、当初は目立たない存在であったが、活動中期に至ってジョージ作の「恋をするなら」と「嘘つき女」がアルバムラバー・ソウル』に収録され、「タックスマン」がアルバム『リボルバー』のA面1曲目を飾るなど次第に頭角を現し、後期になると「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」「サムシング」「ヒア・カムズ・ザ・サン」等の楽曲を完成させる。しかし、当時ビートルズ内でのジョージに対する評価は余り高くなく、アルバム1作につき2曲しか収録されない(『リボルバー』のみ3曲)、自由にリードギターを弾かせてもらえないなどと不満を募らせる。この確執は「ゲット・バック・セッション」で顕在化し、メンバーの中でも彼は早くからソロ活動を志向するようになり、バンド解散の原因の一つともなった。ドキュメンタリー映画「レット・イット・ビー」にギターソロをめぐってポールと口論するシーンが収録されている。ゲットバック・セッションを「最悪だったよ。地獄にいるみたいだった。世界一熱心なビートルズ・ファンでも、あの空気には耐えられないだろう」と語っている。

ジョージはビートルズの中で外部ミュージシャンとの交流が最も盛んであった。これは彼の人柄によるものが大きく、ブライアン・エプスタインは「ジョージといると本当に心が休まる。ジョンやポールと一緒のときのように、何かしなくちゃいけないというプレッシャーが全くない」と語っており、尊大ではなく誠実で人懐っこい性格だったと言われている。自作曲「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」のギターソロにエリック・クラプトンを、キーボード・プレイヤーとしてビリー・プレストンゲット・バック・セッションに参加させるなど、閉鎖的だったバンドのサウンドに、外部の血を入れるという面でも貢献した。他にもボブ・ディランボンゾ・ドッグ・ドー・ダー・バンドとの交流はよく知られるが、無名時代にロリー・ストーム、リンゴ・スターと最初に仲良くなったのも、ビリー・プレストンと仲良くなったのもジョージである。その初期において、デッカ・レコードローリング・ストーンズを紹介したとも言われる。

欧米では“静かなビートル(Quiet Beatle)”と呼ばれていた。ジョージ本人は後年に「僕はまわりから“静かなビートル”なんて呼ばれてたけど心根は狂ってるのさ。何てったってビートルズの一員として務まったんだからね」と語っている。

授与された大英帝国五等勲章について苦笑しながら「僕たちは国のために尽くしてたくさん金を儲けてやったのに、国がくれたものは戦争で人を殺した連中と同じ野暮ったいヒモの付いたチンケなメダルだけさ」と述べている。

ビートルズ解散後[編集]

1970年代前半[編集]

ビートルズ解散直後、最も活発に音楽活動を展開したのはハリスンである。その活動の充実ぶりに、多くの評論家が「ビートルズを解散して最も得をした元ビートル」と評した。本格的な初のソロ・アルバムとなった『オール・シングス・マスト・パス』は、異例のLP3枚組として発売されたにも関わらず、全米/全英のアルバムチャートで7週連続1位となる大ヒットを収め、シングル「マイ・スウィート・ロード」も米英それぞれ4、5週連続No.1となっている。自作の曲を正当に評価されず発表の機会を得ることができなかった彼が、書きためていた曲を一気に放出した作品が多く含まれ、伝説のプロデューサー、フィル・スペクターの見事なプロデュースと相まって、その完成度の高さから、今もなお画期的なロック・アルバムとして評価されている。

翌年8月には、シタールの師であるラヴィ・シャンカールの要請でロック界初の大規模なチャリティー・コンサート(バングラデシュ・コンサート)を開催。エリック・クラプトンや、ボブ・ディランレオン・ラッセルなどが参加したイヴェントは大成功を収め、20世紀最大のロック・イヴェントとも称された。その模様を収めたライヴ盤は、1972年グラミー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーに輝いた(全米・全英No.1)。

1973年に発売された2枚目の『リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』も全英2位・全米で5週連続1位を記録。翌1974年にはA&Mレコード傘下に自らのレーベル「ダーク・ホース」[6]を立ち上げ、そこから彼自身が発掘しプロデュースを手がけた新人やラヴィ・シャンカールのアルバムなどを次々リリースする(彼自身はまだアップルとの契約が残っていたため、このあともしばらくはEMIからレコードを発売し続けた)。それに伴い同年秋にはビートルズ解散後初の大規模な北米ツアーをシャンカールとの連名で行うなど、積極的に活動を続けた。しかしツアー自体は、シャンカールのインド音楽のコーナーを中間に挟む構成や、多忙なスケジュールがもたらしたハリスンの声帯の不調などが原因で失敗に終わり、評論家の間では酷評されてしまった。喉の異常は当時のアルバムにも顕著に現れており、レコードセールスもこれ以降下降してゆくこととなる。同時期には「マイ・スウィート・ロード」にまつわる盗作問題で訴訟を起こされる(最終的に敗訴する)など、順風満帆に過ぎていたソロ活動はこの頃様々な不運によって精彩を欠いていた。

1970年代後半[編集]

1974年にはアルバム「ダーク・ホース」(全米4位)を発表。1975年発売の『ジョージ・ハリスン帝国』(全米8位)を最後にEMIとの契約が満了したハリスンは、ようやくダーク・ホース・レーベルに移籍し、そこから発売される予定のアルバムの録音にとりかかる。しかし、その矢先に彼は肝炎を患って入院してしまう。そのため、レコード会社にはアルバムを提出する期限を守ることができず、鳴かず飛ばずのレコードばかり押し付けられて痺れをきらしていたA&Mから、違約金の支払いを求める訴訟を起こされてしまう。A&Mに支払う違約金を肩代わりしてもらうことを条件にワーナー・ブラザース・レコードと新たに契約した彼は、「新たな関係が築けてうれしい」と話し、ここから新たなスタートを切ることとなる。ここから1976年に「33 1/3」、1979年に「慈愛の輝き」という2枚のアルバムを発表し、それぞれ全米11、14位というまずまずのセールスを収めた。

私生活では自分の親友たるエリック・クラプトンと交際を始めた妻のパティ・ボイドと離婚。仕事上で出会ったメキシコ系のアメリカ人女性オリヴィア・トリニアード・アリアス(勿論、後のオリヴィア・ハリスン)と1978年に再婚し、同年に一人息子ダーニ・ハリスン(現在はミュージシャン)を儲けている。

1977年頃からは、音楽以外の活動にも興味を示すようになり、副業として始めた映画制作の仕事で大きく成功する。

自伝「アイ・ミー・マイン」を1979年に発表するがジョン・レノンに関する記述は少しである。ジョンは「あいつの自伝には俺のことが一切書かれていない。つまりあいつの人生に俺の影響は皆無ってわけだ。自作曲に影響を与えたものや解散後に会ったヘタクソなサックス奏者のことは書いているくせに俺のことは書いていない。俺は傷ついたね!」と発言。ジョージは「ジョンは善くも悪くも『レノン=マッカートニー』でいようとしていたから僕らのことは見えていなかった」と述べている。

1980年代前半[編集]

副業の映画プロデューサーとして成功を収めた一方で、本業の音楽活動からは遠ざかるようになる。1980年に制作したアルバム『想いは果てなく〜母なるイングランド』は「キャッチーな曲が少ない、内容が暗い」という理由からレコード会社に発売延期と収録曲の差し替えを命じられてしまう(ジョージ自身が製作したジャケットも気に入らないと要求された)。屈辱を味わいながらもレコーディングを再開した矢先に起こったのが、1980年12月8日ジョン・レノン射殺事件である。このあまりに衝撃的な訃報が音楽業界に与えた影響は大きく、翌81年から1982年にかけてはクイーンエルトン・ジョンなどによるレノンへの追悼歌が多数発表された。ハリスンの1981年のシングル「過ぎ去りし日々」(All Those Years Ago)はその代表的な例であり、この曲は全米チャートで最高2位を記録する大ヒットとなった。リンゴ・スターに提供する予定だった曲の歌詞を書き換えて完成したこの曲は、スターがドラム、ウイングスポール・マッカートニー夫妻とデニー・レインの3人)がコーラスで参加したことでも大きな話題を呼んだ。内容の差し替えを要求されたアルバムにはこの曲を含む4曲が新たに代わりに収録され、同年にリリースされた。発売延期のせいもあってか全米10位、全英8位とシングルほどの大ヒットとはならなかったが、それでも復調の兆しは垣間見ることができた。

1982年には次作『ゴーン・トロッポ』を制作・発表するが、当時の彼は音楽業界に殆ど興味を失っていたようで、アルバムの宣伝には全く力を入れなかった。所属レコード会社のワーナーも宣伝活動には協力しなかったため、アルバムはアメリカのチャートで100位圏外という結果に終わり、その他の国ではチャートインさえできなかった。このアルバムの発表以降、ハリスンはアーティストとしての活動から半引退状態となる。プライヴェートでときおり楽曲を書くことはあったものの、特に1985年は「最も音楽から離れた年」であったと後年本人は語っている。

1980年代後半[編集]

本格的な音楽活動から遠ざかっていたハリスンに変化をもたらしたのが、1986年公開のマドンナショーン・ペン主演の映画『上海サプライズ英語版』だった。この作品のために、彼は数曲を提供し自らも出演。その中で共演したのが熱狂的なビートルズフォロワーとしても知られるエレクトリック・ライト・オーケストラジェフ・リンである。リンとの出会いにより、彼は再び音楽活動への情熱を取り戻すのだった。映画自体は評論家から酷評され、ペン夫妻の演技やハリスンの書いた主題歌はゴールデンラズベリー賞にノミネートされるなど、汚点ともいえる酷い代物であったものの、この作品の存在は後のハリスンの復活劇に大きな役割を果たした。

1987年に入ると、ハリスンはリンと共に久々のアルバム制作にとりかかる。同時期には、イギリスチャールズ皇太子が主催するチャリティコンサート「プリンス・トラスト」にスター、クラプトンらと共に参加。およそ18年ぶりにイギリスでパフォーマンスを行い、「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」「ヒア・カムズ・ザ・サン」を演奏した。前年の同イヴェントにはマッカートニーが参加しており、2年連続でビートルズのメンバーが出演したことが話題となった。

リンを共同プロデューサーに迎えて制作されたアルバム『クラウド・ナイン』は、1987年11月に発売された。このアルバムの発表にあたってジョージは、久々に世界中のメディアで大々的にプロモーションを行い、その甲斐あってアルバムはアメリカをはじめとする世界各国で大ヒットする。日本では、最も売れた彼のソロ作品となった。また、シングルカットされた「セット・オン・ユー」は1988年1月20日付のビルボードのシングル・チャートでNo.1(1988年度の年間チャートでも5位)を記録。ハリスンが全米のヒットチャートで1位を記録したのは1973年以来であり[7]、この大ヒットは彼の復活を決定的に印象付けた。また、このアルバムの成功をきっかけに、リンはブライアン・ウィルソンランディ・ニューマンなどを手がける売れっ子プロデューサーとなり、後の「ビートルズ・アンソロジー・プロジェクト」でも重要な役割を担うこととなった。同年ジョージはリン、ボブ・ディランロイ・オービソントム・ペティらと覆面バンド「トラヴェリング・ウィルベリーズ」を結成。所属レコード会社が違ったため、実名を伏せ、プローモーションなどの宣伝活動を行わなかったのだが、2枚のアルバムを発表し、1stアルバム『ヴォリューム・ワン』は、1989年度のグラミー賞を受賞するなど、大きな成功を収めた。アルバムも6週連続No.3を記録した。また、1989年製作の映画「リーサル・ウェポン2/炎の約束」のエンディング曲として「チアー・ダウン」を提供し、現在でも映画ファンに親しまれている。

1990年代〜晩年[編集]

1991年12月、日本だけでエリック・クラプトンのジョイント・ツアーが行われる。17年ぶりのコンサートツアーであり、25年ぶりの日本公演でもあった。当時、息子を事故で亡くした直後だったクラプトンによるハリスン本人への申し入れによって実現したもので、コンサートはクラプトンと彼のバンドによる全面的なバックアップのもとで行われた。1989年のスター、1990年のマッカートニーに次いで、元ビートルズが3年連続で来日したことになる。結局これが、ビートルズ解散後のハリスンの2度目で最後のライヴツアーとなる。クラプトンのコーナー以外のほぼ全容は、翌年発売の2枚組のライヴ盤『ライヴ・イン・ジャパン』に収められている。翌1992年春には、ほぼ同じ曲目と同じバンド(クラプトンは不参加)で自らが支持する政党の支援を目的としたコンサートを本国で行う。同年10月16日にはボブ・ディランのレコードデビュー30周年記念コンサートに参加するが、これがジョージにとっての生涯最後のライヴ・パフォーマンスとなった。

1993年より、「ビートルズ・アンソロジー」のプロジェクトが正式に始まり、マッカートニースターとの共同作業が行われる。ジョン・レノンの生前に残されたデモ音源から「フリー・アズ・ア・バード」「リアル・ラヴ」の2曲が正式なビートルズの新曲として1995年と1996年に相次いで発表され、各国のチャートに入るヒットとなった。

1997年には、シャンカールのアルバム『チャント・オブ・インディア』をプロデュース。このアルバムの制作に全面的に協力したハリスンの思い入れは強く、彼はシャンカールと共に積極的にプロモーション活動を行った。だが、同時期に喉頭癌が判明し、7月に手術を受けることとなる。その後も放射線治療を続け、1998年に世間に手術の事実が判明した後も、数年間再発は見られなかったという。

1999年頃からは、自らが過去に発表したソロ・アルバムのリマスターの作業にもとりかかりはじめ、マイペースで新曲の制作も開始。21世紀に向けてミュージシャンとして再始動しようとしていたが、そんな矢先の1999年の晦日に自宅に侵入した変質者にナイフで襲われ、重傷を負ってしまう。幸い命に別状はなかったものの、世間に与えた衝撃は非常に大きかった。この話を聞いた多くの人が、1980年のジョン・レノン射殺を思い出して戦慄した。しかし、恐怖するファンを安心させるかのように、2001年、ジョージは自身の代表作である『オール・シングス・マスト・パス』のリマスター盤を発表。そのプロモーション活動の中で、「新作についても完成が近い」ことを明かした。

この間にビートルズの元メンバーピート・ベストに再会。ジョージは「僕はビートルズ時代にピートに何もしてあげられなかった。せめてピートに会って当時のことを謝りたかったんだ」と述べている。

しかしそんな矢先、肺癌が発見され、さらに脳腫瘍も併発していることが判明。フランスでコバルト放射線治療を受け療養生活に入るが、世界中のタブロイド誌ではハリスンの体調に関する様々な憶測が飛び交った。本人からは否定のコメントが出されたものの、秋に入ると報道は更に加熱。2001年11月には、各国の大衆紙がジョージが危篤であると報道。間もなく彼は滞在先であるロサンゼルスの友人宅[8]にて家族・友人たち看取られながら肺癌のため11月29日(日本時間11月30日早朝)に死去(満58歳没(享年59))。なおビートルズ・ファンが追悼の巡礼に殺到することを危惧するオリヴィア夫人が虚偽の場所を死亡証明書に記載し死亡した場所を公表していない。

死後[編集]

ハリスンが病に冒されなければ、生前に完成するはずだった新作は、彼の死から約1年後の2002年11月に『ブレインウォッシュド』というタイトルで発売された(プロデュースはハリスンと彼の息子ダーニ、ジェフ・リンの3人)。2003年度グラミー賞には遺作から“Any Road”と“Marwa Blues”の2曲がノミネートされ、後者は最優秀ポップ・インストゥルメンタル部門を受賞した。また、最優秀ポップ・アルバムに『ブレインウォッシュド』もノミネート、計3部門にノミネートされた。

遺作集のリリースとほぼ時期を同じくしてエリック・クラプトンの企画による追悼コンサート『コンサート・フォー・ジョージ』が行われ、リンとトム・ペティ、マッカートニースタービリー・プレストン、ジョー・ブラウンと娘サム、ジュールズ・ホランドなど、生前ハリスンと親交の深かったアーティストたちが多数参加した。このコンサートの模様は、翌年にCDとDVDでリリースされている。

2004年3月15日には、ソロ・アーティストとしてロックの殿堂入りを果たした。同時期にはワーナー在籍時代のアルバムが、デジタル・リマスターを施されて再リリースされ、話題を呼んだ。また、2005年には彼のキャリア最大の功績のひとつである『バングラデシュ・コンサート』のCDとDVDが装いを新たに再発された。2006年9月には、アルバム未収録だった2曲を加えた、1973年発表の全米No.1アルバム『リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』が、リマスターされて発売された。

2009年4月14日ハリウッドの殿堂入りを果たした。ビートルズとしては既にグループで殿堂入りしており、個人ではレノンに次いで2人目となった。また、同年5月8日には、アビイ・ロード・スタジオにて、『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を制作していた1967年頃(当時23〜24歳)に書かれたとみられる詞が、ビートルズの公式伝記の執筆者であるハンター・デイヴィスによって発見され、大英図書館にて展示された。同年6月16日には自身3枚目となるベスト盤『レット・イット・ロール ソングス・オブ・ジョージ・ハリスン』が発売された(日本盤は7月8日発売)。

没後10年である2011年マーティン・スコセッシ監督によるドキュメンタリー映画『ジョージ・ハリスン/リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』が公開された。

現在ポールに続き、英国王室から「Sir」の称号が与えられる見通しとなっている。

ジョージとモータースポーツ[編集]

少年時代からモータースポーツのファンで、ビートルズ解散後は観戦にもより一層熱中した。1979年に行われたインタヴュー[9]では、好きなドライヴァーにグラハム・ヒルジャッキー・スチュワートヨッヘン・マスジョディー・シェクターを挙げ、実際にスチュワート、ニキ・ラウダなどといったレーサーとの親交を深め、自身もレースにドライヴァーとして1度参戦している。モータースポーツ好きを裏付けるように、彼は1979年にF1で闘うドライヴァー達を歌にした「Faster」(シングル・カットも、全英、全米ともチャート・インせず)を発表している。「Faster」のミュージック・ヴィデオではギターを弾いて歌うジョージを乗せたタクシーの運転手がジャッキー・スチュワートという面白いコラボレーションが見られる。「Faster」の印税は、癌で亡くなったF1ドライヴァー、グンナー・ニルソンの癌基金に寄付されたという。

後年はグラハムの息子、デイモン・ヒルと親交があり、デイモンがF3参戦時の際、参戦資金が不足していたためジョージに支援依頼の手紙を郵送。当時のデイモンは、「無作法は重々承知していたが、背に腹を代えられぬ。そんな心境だった」という状態だったが、心を動かされたジョージはこの申し入れを快諾。数年後、F1ワールドチャンピオンになったデイモンは返済を申し出るが、これを笑って辞退したというエピソードがある[10]。デイモンの所属F1チームのモーターホームにジョージが出向いて、デイモンと談笑しているところが日本のF1中継で流れたこともある。また、デイモンとジョージの顔つきが似ていることもあり、日本のF1中継では、古館伊知郎がデイモンの事を『顔面ジョージ・ハリスン』と呼んだこともあった。なお、マーティン・スコセッシ監督が務めたジョージ・ハリスンの58年の生涯を振り返るドキュメンタリー映画『ジョージ・ハリスン/リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』ブルーレイ&DVD(2011年12月23日発売)の映像特典の中にデイモンのインタヴューが収録されている[11]

また、上記の79年に行われたインタヴューで「息子・ダーニがレーシング・ドライヴァーになりたかったらどうする?」という質問に対し、「できればなって欲しくないけど……。反対はできないだろうな。」と答えている。

ロードレース世界選手権WGP500ccクラス(現在のMotoGP)チャンピオンのバリー・シーンとも親交を持っていたことが知られている。バリー・シーンが居住するオーストラリアでWGP(あるいはMotoGP)が開催される際にはリポートを務めるバリーとともにテレビに映る姿が目撃されていた。なお、バリーが再起不能と言われた重傷を負った際に曲を書き下ろして提供したこともあるという。

日本公演[編集]

ジョージ・ハリスンwith エリック・クラプトン and his band

  • 1991年
12月1日 横浜アリーナ
12月2日 大阪城ホール
12月3日 大阪城ホール
12月5日 名古屋市国際展示場
12月6日 広島サンプラザ
12月9日 福岡国際センター
12月10日 大阪城ホール
12月11日 大阪城ホール
12月12日 大阪城ホール
12月14日 東京ドーム
12月15日 東京ドーム
12月17日 東京ドーム

ディスコグラフィー[編集]

オリジナル・アルバム[編集]

ライブ・アルバムおよび編集アルバム[編集]

シングル[編集]

アメリカ・日本のみで発売されたシングルも含む。

楽曲提供[編集]

プロデュース[編集]

トリビュート・アルバム[編集]

主なセッション参加作品[編集]


主な使用楽器[編集]

アコースティック・ギター[編集]

  • エグモンド・276 (EGMOND 276)
    ジョージが初めて入手したギター。1956年、13歳の時に同じ学校の友人レイモンド・ヒューズの所有ギターを3ポンド10シリングで購入した。
  • ヘフナー・プレジデント
    ジョージが2本目に購入したギター。クオリーメンに加入する際に所持していた。ジョージはピックアップを取り付けセミ・エレクトリックギターとして使用していた。後に別のバンド「スィンギング・ブルージーンズ」のメンバーが所有していたヘフナー・クラブ40と交換した。
  • ギブソン・J-160E
    デビュー前にマネージャーのブライアン・エプスタインから買ってもらったもの。ジョン・レノンとお揃いだったが、ジョンがその後何回か壊したり、盗難にあって買い換えたのに対して、ジョージはこの1本のみを使い続けた。
  • ハープトーン12弦
    アメリカ、ニュージャージーのメーカー。『ザ・ビートルズ』のころ購入。「ピッギーズ」で使われた説がある。
  • ギブソン・J-200
    1968年にアメリカで購入。ゲット・バック・セッションの際に使用されており、映画『レット・イット・ビー』でその姿を確認できる。アルバム『レット・イット・ビー』に収録された「フォー・ユー・ブルー」や、アルバム『アビイ・ロード』に収録された「ヒア・カムズ・ザ・サン」などの楽曲で使用されている。
  • ギブソン・J-2000
    1991〜1993年に少数製作されたモデル。1991年の日本公演にて使用。J-200同様、大型ボディでシングル・カッタウェイ。ピックアップを後付けしてエレクトリック・アコースティックとして使用。
  • マーティン・D-28
  • マーティン・D-35
  • マーティン・D-12-35 - D-35の12弦モデル
  • ゼマティス
    モデル名は不明だが、ジャンボ・タイプの12弦や比較的シンプルなモデルまで7本以上所有しているといわれている。
  • ホセ・ラミレス (Jose Ramirez)
    モデル名不明のクラシック・ギター 映画「A HARD DAY'S NIGHT」の中で使用しているが、ジョージが実際に所有していたかどうかは不明(映画の撮影の為に用意された備品の可能性がある)。もともと1963年春に友人であるビートルズの面々とカナリア諸島テネリフェ島での休暇を過ごしたクラウス・フォアマンが西ドイツ(当時)への帰国途中に立ち寄ったマドリッドで購入したもの。1963年中頃にアンドレス・セゴビアのクラシック・ギター奏法に興味を抱いたジョージがデュオ・ジェットとの交換で入手したとされる。なお、本モデルは21世紀となってホセ・ラミレスからInstrumentos Para Rondalla "GH"として復刻されている。

エレクトリック・ギター[編集]

レスポール(ハードロックカフェ展示品)
  • ヘフナー・クラブ40
    1957年製。別のバンド「スィンギング・ブルージーンズ」のメンバーが所有していた物をヘフナー・プレジデントと交換して入手した、ジョージにとって初めての(後付けピックアップによらない)エレキギター。同時期にジョンも同じモデル(こちらは1959年製)を所有している。なお、1966年ハンブルクのスター・クラブが開催したコンテストで「ベスト・バンド」賞を受賞したスモール・フェイセズが賞品として獲得した、ビートルズ4人のサイン入り(ただし専門家による後の筆跡鑑定では、これらのサインはニール・アスピノールによる可能性が高いとされる)クラブ40がこれと同一個体ではないかといわれている。
  • ハグストロム・フュチュラマ・グラジオッソ (Hagstrom Futurama Grazioso)
    デビュー前に使用していた安価なギター。チェコスロバキアのセルマー社製の輸入品である。単純に見た目が当時の若いミュージシャン達が憧れていたフェンダー・ストラトキャスターに似ているため購入したといわれているが、見た目はかなりフェンダーのそれとは異なっていて、シングルコイルのピックアップが3つあるのとヴォリュームのつまみが3つあり、白い大きなピックガードがあるくらいしか共通点はない。デビュー前のトニー・シェリダンとのポリドール・セッションの際にも用いられており、『ザ・ビートルズ・アンソロジー1』に収録された「マイ・ボニー」などでその音を聴くことができる。
  • グレッチ・デュオ・ジェット(Gretsch G6128 Duo Jet)
    デビュー直前から1963年中頃までステージおよびレコーディングで使用。1957年にリヴァプールの商船船員アイヴァン・ヘイワードがニューヨークのサム・グッディーズにて300ドルで購入、1962年夏にリヴァプール・エコー紙の広告で売りに出していたものを75ポンドで購入した。ジョージが購入した時点でグレッチのロゴが入ったビグスビー製のB3型トレモロ・アームが搭載されていたが、エンド部分のストラップピンの位置が通常の位置から変わってしまっており、アームの搭載は前所有者のアマチュア・リペアによって行われたものであると考えられる。また、通常のデュオ・ジェット(G6128)はバックがメイプルであるが、ジョージの所有するモデルはバックが黒であり、製造の過程で偶発的にそのように仕上げられてしまったか、もしくは同社の色違いモデルであるボディが赤でバックが黒のジェット・ファイアー・バード(G6131 Jet Firebird)のボディーカラーをリフィニッシュしたモデルである可能性がある。なお、1963年1月にネックに生じたクラックをリペアした際に、ネックとボディバックを黒にリペイントしている。一度クラウス・フォアマンの手に渡っていた(前述のホセ・ラミレスとの交換で、という説あり)がその後買い戻しており、現在も遺族が所有している。アルバム『クラウド・ナイン』のジャケットでは、このギターを持ったジョージが写っている。ボディは黒だが、塗装ではなくセルロイドを貼り付けていて、これはドラムメーカーでもあった同社のギターの特長でもある。なお、1963年初頭にキャヴァーン・クラブで撮影したと思われるボディー・カラーの異なる(赤色)ジェット・ファイアー・バードを弾く写真も残されているが、ジョージはこのファイアー・バードについて質問された際に「たまたま試しただけのなんかさ」と返答しており、他人が所有していたモデルを一時的に借りていただけのようである[12]
グレッチ G6122-1962 チェット・アトキンス・カントリー・ジェントルマン
  • グレッチ・カントリー・ジェントルマン (Gretsch G6122-1962 Country Gentleman)
    1963年4月に最初の1本目を購入し、「シー・ラヴズ・ユー」をはじめエド・サリヴァン・ショー出演時にも使われるなど、1965年初頭までステージやレコーディングで頻繁に使用。ミュート・スイッチの数や形状等から、少なくとも3本所有していたものと思われる。ダブルカッタウェイのホロウボディで、サウンド・ホールは開いていない(fホールのペイントのみ)。ピックアップはハムバッカーであるフィルタートロン。インタヴューで黒にリフィニッシュしたと述べている。
  • リッケンバッカー425 (Rickenbacker 425)
    ジョージが1963年に、結婚してアメリカに移住した姉に会いに行った際に購入したもの。テレビ番組「レディ・ステディ・ゴー」出演時に使用している。色は購入当時は下記360/12と同じファイア・グロー(チェリー・サンバースト)だったが、ジョン・レノンの325と同じ色にしたいというジョージの希望で黒くリフィニッシュされた。ネックは325より長いミディアム・スケールである。
  • リッケンバッカー・360/12
    ア・ハード・デイズ・ナイトのイントロの1コードを奏でた事で有名な12弦ギターで、12弦独特の分厚いコーラス感と明るいサウンドが特徴。1963年製と1964年製の2本所有していた。'63の方は初アメリカツアーの際に、リッケンバッカーから直接プレゼントされたもので、ボディのエッジがシャープで、テールピースは平たいコの字型のタイプであり、'63年12月の試作2本目のものであった。'64の方は日本公演でも使用されたもので、ボディのエッジは丸みを帯びていてRickenbackerR の文字を象ったテールピースを使っている。1本目はソロ時代のプロモーションフィルムにも登場し(「ディン・ドン」「FAB」)、現在も遺族が大切に保管しているが、2本目は後に盗難に遭い紛失した。
  • グレッチ・テネシアン (Gretsch Tennessean)
    1964年からステージやレコーディングに使われるようになり、1965年のツアーではメインギターであった。映画「ヘルプ!」での使用も知られている。シングルカッタウェイのホロウボディで、サウンド・ホールは開いていない(fホールのペイントのみ)。ピックアップはシングルコイルであるハイロートロンで強い高音が特徴。アルバムでは『ビートルズ・フォー・セール』以降でバンドサウンドに埋もれない個性的な音を聴くことができる。
  • ギブソン・ES-345
    1965年に撮影された一連のプロモーション・フィルム(「アイ・フィール・ファイン」「涙の乗車券」「ヘルプ!」「デイ・トリッパー」「恋を抱きしめよう」)でその姿を確認できる。1965年のイギリス・ツアーで使用している写真が残されている。
  • フェンダー・ストラトキャスター
    ジョージはビートルズのメジャー・デビュー前より、バディ・ホリーハンク・マーヴィンらの影響でストラトキャスターを欲しがっていたが、当時は高額な税金がかかっており手が出ず、ビートルズのデビュー後しばらくは、ドイツで購入したグレッチや譲渡されたリッケンバッカー、ギブソンを使用した。
    1965年の初頭、ジョージは『ヘルプ!』セッション時に、自分とジョン用に2本ストラトキャスターを入手するようにマル・エヴァンズに依頼した。その際もし外見上お揃いであれば支払いは自分が持つというブライアン・エプスタインの言葉を聞いたエヴァンズがケントまで出向いて入手したもの。色は当時レアカラーであったソニックブルー、61年製のスラブボードと呼ばれるローズ指板のものである。ジョン所有の個体に比べ若干ネックのフレイムが強く出ており、ヘッド裏に金色のデカールが認められる。その後ジョージ自身の手によりサイケデリック塗装がほどこされ、マジカル・ミステリー・ツアーにおけるアイ・アム・ザ・ウォルラスの映像で確認できる。愛称はロッキー。
    ジョージはこれ以外にも多数のストラトキャスターを所有し、ビートルズ解散後はメイン・ギターとして使用した。代表的なものとして、1971年のバングラデシュ難民救済コンサートでは、60年代製のボディに50年代製のメイプル・ネックが装着されたホワイトのモデルを、また1974年のアメリカ・ツアーでは、'50年代製のサンバーストのモデルを使用。1991年の日本公演では、トリノ・レッドのエリック・クラプトン・モデルをはじめ数本を使用した。また、フェンダーの下位ブランド、Squier製のストラトキャスターも所有、1987年のプリンス・トラスト・コンサート出演時に使用していた。もともと息子ダーニに買い与えた安価な日本製のモデルだが、意外な造りと音の良さをジョージが気に入り、自分で使ったという。2006年に限定リイシューされた同モデルの型番には、彼の愛称「ダークホース」の略であるDHが付けられている。
  • ギブソン・SG・スタンダード
    「ペイパーバック・ライター」「レイン」のプロモーション・フィルムでその姿を確認できる。ステージでは1966年5月のNMEポールウィナーズコンサートでのみ使用、また同年のツアー時にはスペアとして用意されており、日本公演の際もエピフォン・カジノのスペアとして持ち込まれていた。後にバッドフィンガーのピート・ハムに譲渡された。
  • エピフォン・カジノ
    1966年のコンサート・ツアーのメイン・ギターとして使用。ビグスビー製のトレモロ・アームが取り付けられており、型の違いにより全体的にやや細身なシェイプをしている点がジョン・レノンの同モデルと異なる。色はジョン・レノン所有のモデルと同じくサンバーストだったが、後にジョン同様に塗装を剥離した。現在はロンドン郊外のフライアー・パークにある自宅の壁に掛けられているという。
  • ギブソン・レスポール
    57年製ゴールドトップのものをSGと同じチェリーレッドにリフィニッシュしたもの。もともとはエリック・クラプトンの所有であったが、1968年8月初旬にクラプトンからジョージに譲られ、8月7日からレコーディングで使用し始める。愛称はルーシー。[13]1968年9月4日にレヴォリューションのPV撮影時にジョージが使用、同年9月6日のホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープスにおいてクラプトンがソロをオーヴァー・ダビングしている。[14]ジョージはこのギターを1968年から1969年にかけてメインギターとして使用している。[13]その後もジョン・レノンの「オー・マイ・ラヴ」のレコーディングや、1974年の全米ツアーでもこのギターを使用していた(DVD「ギミ・サム・トゥルース」でその模様が確認できる)。このギターは1970年に自宅から盗難の被害にあっているが、犯人は楽器店へ売却し、それを購入した人物から58年型のレス・ポールと交換で買い戻されている。これ以外にも、1969年12月,ロンドン・ライシウムにおけるプラスティック・オノバンド参加時にはクラプトンから借りた黒の59年製3ピックアップレスポール・カスタムを(クラプトンは“ロッキー”を使用。)、1991年の日本公演では60年製サンバーストのレスポール・スタンダードを使用している。
  • フェンダー・テレキャスター・オールローズ
    1968年にフェンダー社が特注を受けて製作。エレキギターでは通常指板材として使用されるローズウッド(紫檀)を用いて、ボディとネックが造られている。1969年『レット・イット・ビー』のレコーディング・セッションで使用。映画『レット・イット・ビー』では全面的にフィーチャーされている。'69年12月、ジョージがデラニー&ボニーのツアーにサポート参加した際、デラニー・ブラムレットに譲渡された。この後、返却を要求したが、拒否された。2003年にデラニーはこのギターをオークションにかけたが、オリヴィア夫人の代理人が落札し、無事ジョージの家に戻った。この他には、「セット・オン・ユー」のプロモーションフィルムで使用した、メイプル指板で、ボディがバタースコッチ・フィニッシュの一般的なテレキャスターも所有していた。
  • フェンダー・エレクトリックXII
    1991年の日本公演時に「恋をするなら」で使用。
  • フリッツ・ブラザーズ・ロイ・ブキャナン・ブルースマスター (Fritz Brothers Roy Buchanan Bluesmaster)
    1991年の日本公演時に使用された。テレキャスターをベースにしたカスタムモデル。
  • メイトン・マスターサウンド (Maton mastersound)
    メイトンはオーストラリアのギター・メーカー。1963年のステージ写真で使用が確認できる。

エレクトリック・ベース[編集]

  • フェンダー・ジャズベース
    1967-68年製と思われる、カラーはサンバーストで、ポジション・マークがブロック(四角)のモデル。1968年の『ザ・ビートルズ』セッションより使用。ポール・マッカートニーのアルバム『バンド・オン・ザ・ラン』中ジャケットにて、ポールが右利き用のジャズ・ベースを演奏している写真が掲載されており、これと同一品である可能性がある。
  • フェンダー・ベースVI
    これも1967-68年製と思われる、カラーはサンバーストで、ポジション・マークがブロック(四角)のモデル。「ヘイ・ジュード」のPVで使用。ジョン・レノンも「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」や映画「レット・イット・ビー」にて同モデルを演奏しているため、ジョージが所有していたものかどうかは不明である。1991年のジョージの日本公演では、エリック・クラプトン・バンドのアンディ・フェアウエザー・ロウ(元エーメン・コーナー)が「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」にて全く同仕様のモデルを演奏しており、同一品であった可能性がある。

アンプ[編集]

  • ヴォックス・AC30(VOX AC30)
    ビートルズ・デビュー前から初期まで(中期ではフェンダーアンプと併用)のレコーディングにおいて最もよく使用されたアンプ。真空管を使用していて独特な粘りのあるサウンドで、個々のギターの特徴と混じり合って音を出す。これこそ初期ビートルズサウンドの大きな要素である。ライヴでも使用される事はあったが、当時のPAシステムは貧弱でアンプ・スピーカーからの出音頼みだったが、出力が低いためライヴには向かなかった。
  • ヴォックス・AC50(VOX AC50)
  • ヴォックス・スーパー・ビートル(VOX SUPER BEATLE, VOX AC100, VOX AC200)
    ライヴにおいて観客から殆ど音が聞こえない状況を打開するため、出力の低いAC30などのアンプに代わって、ヴォックス社よりビートルズのライヴのために開発・提供された大型で高出力のスタックアンプ。100Wのものと200Wのものがあり真空管を使用し粘りのあるサウンド。ヴォリュームを最高にして使用しているようで、その分、アンプの持つサウンドより箱鳴りのサウンドの方が大きく聞こえる。1966年の日本公演でも使用。現在は生産停止。
  • フェンダー・ベースマン
    1964年製。ホワイトトゥーレックスモデル。元々は『ラバー・ソウル』セッション時にポールがベース・アンプとして導入。
    アルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』あたりよりジョージがギター・アンプとして使い始める。
    ゲット・バック・セッション』のトゥイッケナム・スタジオ期後半でも使用し、解散後のジョン・レノンのアルバム『イマジン』セッションに参加した時もメインアンプとして使用した、使用歴の長いアンプである。
  • フェンダー・ツインリヴァーブ

その他[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 一部にハロルド-Haroldというミドルネームがあると記されているものがあるが、ジョージの出生証明書などにミドルネームは記載されていない
  2. ^ 戸籍では2月25日であるがジョージ本人は「本当は1943年2月24日生である」と1992年に述べている。
  3. ^ 初めて発表されたプレイはDrive My Car のソロ。1969年のデラニー&ボニーのコンサート・ツアーに参加して刺激され懸命に練習してスタイルを確立させたと言われる
  4. ^ ジョージは、ポールに紹介される以前からジョン・レノンを知っていた。なぜなら、以前ジョージがアルバイトをしていたクウォーク精肉店の得意先の1つがジョンの家だったからである。
  5. ^ 彼の家をバンドに貸したからという説もある。
  6. ^ レノン=マッカートニー』の2人に比べて自身を「穴馬」に例えたネーミング。
  7. ^ このヒットにより「最も長い間隔を開けてNO.1ヒットを飛ばした男」として、ギネス・ワールド・レコーズに認定されている。
  8. ^ 東京新聞』2001年12月1日付
  9. ^ 『F1 RACING 日本版』2006年3月号「秘蔵インタビュー第三弾:ジョージ・ハリスン」三栄書房
  10. ^ 『F1 RACING 日本版』2008年8月号 三栄書房、71項
  11. ^ http://www.amazon.co.jp/gp/feature.html?ie=UTF8&docId=3077098036/ ジョージ・ハリスン/リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド DVD&Blu-ray
  12. ^ 『ザ・ビートルズ・イクイップメント・ストーリーズ』(シンコーミュージック・エンタテイメント、2010年6月30日)
  13. ^ a b アンディ・バビアック 『Beatles Gear 日本語翻訳版』 坂本信訳、リットーミュージック、2002年、224-225ページ
  14. ^ アンディ・バビアック 『Beatles Gear 日本語翻訳版』 坂本信訳、229ページ