フェル・ディアド

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『フェルディアとクーフーリン』像。1998年、Ann Meldon Hugh作。 二人の決闘が行われたラウス州アーディー英語版にて。
アイルランド地図
アート・イル・ディアド
アート・
イル・
ディアド
イルス・ドウナン
イルス・
ドウナン
墓標
ムレスキ
ムレスキ
フェル・ディアドゆかりの地

フェル・ディアド (アイルランド語: Fer Diad)は『クーリーの牛争い』に登場する戦士。フェル・ディアフェルディアドフェルディアなどとも。 イルス・ドウナンのフィル・ドーナン族の出であり、コナハトの王の一人ダワーンの息子。 かつての里子兄弟であるクー・フーリンとは固い友情で結ばれていたが、メイヴの姦計によって二人は決闘することになり、肛門に槍を刺されて命を落とす。

挿話『フェル・ディアドとの戦い』[編集]

『フェル・ディアドとの戦い』は『クーリーの牛争い』(以後『牛争い』)の中盤の山場であり、『牛争い』の中で最も良く知られている挿話でもある。

Ó Fiannachta はこの挿話は『牛争い』の最古の校訂本には含まれているものの、更に時代をさかのぼり、失われた『牛争い』の原型には含まれていなかったとする。彼によれば『フェル・ディアドとの戦い』は、少なくとも現存する形になったのは『牛争い』が書き止められた後の事であり、その内容には『牛争い』のモチーフが大いに借用されている。[1]

後に『フェル・ディアドとの戦い』がモチーフの借用元である『牛争い』に取り込まれたことによって、 極めて似通った粗筋[† 1]を持つ『フェル・ディアドとの戦い』と『ローホ・マク・エモニシュの最期』が共に『牛争い』の中で語られることになる。一見奇妙にも思えるが、『牛争い』を時系列の順に整理された叙事詩的文学ではなく種本もしくは資料集として編纂されたものとする説[2]を援用すれば不自然とも言えない。

人物[編集]

少年時代[編集]

フェル・ディアドとクー・フーリンは同時期にスカータハに師事する兄弟弟子の関係にあった。 フェル・ディアドは年下のクー・フーリンをまるで自分の小間使いのように扱っていたが[3]、クー・フーリンの側も特にそれを問題とせず、両者の関係は極めて良好であった。二人は寝食を共にし、常に連れ立って行動していた。

とは言え、幼いクー・フーリンは戦士としてフェル・ディアドの後塵を拝していたわけではなかった。フェル・ディアドとクー・フーリンはゲルマーン・ガルヴクラスとの戦いに参加したが[† 2]、この戦いでフェル・ディアドは敵に剣を奪われるという失態を犯す。彼の苦境にクー・フーリンは百人もの敵兵を殺し、奪われた剣を取り戻した。戦いの後、フェル・ディアドらはスカータハの給仕係の家で泊まることになったが、フェル・ディアドは給仕係に扉の外へ放り投げられてしまった。この無礼に対し、クー・フーリンはその場で給仕係を殺して報いた。後の二人の対決にも登場するフェル・ディアドの御者は、この時彼らに同行していた。給仕係がクー・フーリンに殺されたため、滞在中はその仕事を肩代わりする羽目になった御者は、幼いクー・フーリンの超人的な活躍を後々まで鮮明に記憶していた。一方でクー・フーリンに助けられたフェル・ディアドはというと、こうしたクー・フーリンの恐ろしさを少年時代の曖昧な記憶として半ば忘れ去ってしまっていた。[4]

クーリーの牛争い[編集]

ドン・クアルンゲの像

二人の修業時代から10年後。アイルランド上王の娘でありコナハトの女王メイヴが夫への虚栄心から褐牛「ドン・クアルンゲ英語版」を欲して引き起こした「クーリーの牛争い」は、 アイルランドをメイヴ率いる連合軍とアルスターの二つに割った大戦争となり、コナハトのフェル・ディアドとアルスターのクー・フーリンも敵味方に分かれる事となった。

勇猛果敢な戦士団を抱え本来なら連合軍に引けを取ることはないアルスターであったが、折り悪くこの戦争が起きたのは彼らがヴァハの呪いを受ける時期であり、その戦闘能力をことごとく失っていた。アルスターの戦士の中でただ一人この呪いの影響を受けないクー・フーリンは[† 3]同胞の呪いが解けるまでの間、略奪を繰り返すアイルランド連合軍に一人きりで対抗する必要があった。彼は罠を仕掛け、投石器で狙撃を行い、野営地に夜襲を敢行し、連合軍から1日あたり百人もの戦死者を出した。彼が殺したのは基本的には殺す価値があると認めた戦士たちであったが、逆に「殺す価値がある」と判断すれば戦闘員でなくとも容赦なく殺した。誤射で侍女が殺されることもあった。殺戮の手はメイヴらが遠征に連れていたペットにも及び、その中でも特にオコジョはメイヴの肩に乗って彼女に甘えている最中に投石器の狙撃を受けた。

この惨状に連合軍はクー・フーリンとの休戦を模索し始めた。休戦の条件をめぐって彼との調整が難航する中、コナハトの客将フェルグス・マク・ロイヒが「毎日連合軍は一人の戦士を出し、クー・フーリンと一騎打ちを行う」との条件を提言した。フェルグスの条件は、連合軍を足止めしてヴァハの呪いが解けるのを待っていたクー・フーリンには都合がよく、彼の意図を見抜いていた連合軍も背に腹は代えられず、ひとまずは合意に至った。連合軍は次々に戦士を一騎打ちの場に送り出し、時には協定を破って複数人をクー・フーリンにけしかけもしたが、その殆どが生きて帰ってくることは無かった。決闘で殺された戦士たちの中にはフェル・ディアドの叔父マン・ムレスキ[† 4]の姿もあった。

クー・フーリンとの決闘[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 「刃を通さない堅固な皮膚を持つ戦士がメイヴに無理強いされ川の浅瀬で里子兄弟クー・フーリンとの決闘を行う。戦士の肉親がこれに先立ってクー・フーリンに殺害されている。クー・フーリンの闘争心を搔き立てるために味方から野次が飛ばされる。彼の御者が川の上流から流して寄越したゲイボルグという槍を受け取ったクー・フーリンはこれを戦士の肛門に突き立てて勝利を収める。決闘の地には敗死した戦士に由来した名がつけられる。」というもの。
  2. ^ 戦いその物の描写は『レンスターの書』所収の版に詳しい。フェル・ディアド、クー・フーリン、ルギド、フェル・バイスといったスカータハの里子兄弟たちの活躍や、戦いが勝利に終わりゲルマーンが生け捕りにされたことが記されている。(O'Rahilly 1967, pp. 232-233)(カーソン 2011, p. 230-232)
  3. ^ 正確には、女性と子供は影響を受けず、後に少年たちによる戦士団が結成される。またクー・フーリンの父親スアルタウもこの呪いの影響を受けなかったが、年老いており戦力として数えられなかった。
  4. ^ Mand Muresci.極めて粗野で暴力的な人物。組み打ちでクー・フーリンを三度投げ飛ばすなどと健闘してみせるが、本気を出した彼に立石めがけて投げ飛ばされ死亡した(O'Rahilly 1976, pp. 194-195)(カーソン 2011, pp. 164-166)。「ムレスキ」は地名であり、イルス・ドウナン同様メイヨー州に位置する。現代ではマリスク男爵領英語版と呼ばれる。(eDIL - muiresc)

出典[編集]

参考文献[編集]

一次資料

  • O'Rahilly, Cecile (1976), Táin bó Cúailnge: Recension I 
原文 英語訳
  • O'Rahilly, Cecile (1967), Táin bó Cúalnge: from the Book of Leinster 
原文 英語訳
校訂本1をベースとして、レンスターの書の記述を補ったカーソンの現代英語訳を栩木が日本語へと重訳したもの。

二次資料

  • Nettlau, Max (1890). "The Fer Diad episode of the Táin Bó Cúailnge". Revue Celtique. 11: 23–32,318–343. 
  • Ó Fiannachta, Pádraig (1973). "The fight with Fer Diad". Journal of the County Louth Archaeological and Historical Society. 18 (1): 62–68.