ルンガ沖夜戦

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ルンガ沖夜戦
Yoshio Shimizu, Night Battle off Lunga.jpg
清水良雄画『ルンガ沖夜戦』
戦争大東亜戦争 / 太平洋戦争
年月日:1942年11月30日
場所ガダルカナル島、タサファロンガ沖
結果:日本軍の戦術的勝利・アメリカ軍の戦略的勝利
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
指導者・指揮官
田中頼三少将 カールトン・H・ライト少将
戦力
駆逐艦8 重巡洋艦4
軽巡洋艦1
駆逐艦6
損害
駆逐艦1沈没 重巡洋艦1沈没
重巡洋艦3大破
ソロモン諸島の戦い

ルンガ沖夜戦(ルンガおきやせん)は、1942年11月30日夜にガダルカナル島ルンガ岬の沖にて日本海軍アメリカ海軍の間で行われた海戦である。連合軍側の名称はタサファロング沖海戦(Battle of Tassafaronga)。

経緯[編集]

第三次ソロモン海戦(1942年11月14日)後、ガダルカナル島周辺海域の制空権を失った日本海軍は、同島の日本陸軍への補給を闇夜に駆逐艦の高速に頼って行うしかなかった。この輸送は、自嘲的に鼠輸送(アメリカ軍側は「Tokyo Express(東京急行)」)と呼ばれた。この輸送をいち早く察知したアメリカ海軍は、その阻止のためにカールトン・ライト少将率いる第67任務部隊(ライト部隊)をガダルカナル島沖に派遣する。

一方で、日本軍では田中頼三少将率いる第二水雷戦隊の駆逐艦8隻で構成される輸送部隊が1942年11月29日、ショートランドを出撃し一路ガダルカナルへ向かっていた。

この輸送では短時間で確実に食料を日本軍陸上部隊に供給するために、洗浄したドラム缶に糧食を半分だけ詰めて密封、これをロープで数珠つなぎにしてガダルカナル沿岸で海上に投入しロープの端を海岸の日本軍陸上部隊に渡して、浮いているドラム缶を手繰り寄せる方法をとった。この部隊はそのために、警戒隊として参加する旗艦長波、高波を除いた駆逐艦6隻の次発装填用予備魚雷を陸揚げして、その空いたスペースも含めて各艦200 - 240個のドラム缶を積載していた。

昼間は第一警戒航行序列(三列梯形)、夜間は第二警戒航行序列(単縦陣)でアメリカ軍の奇襲を警戒しつつ進撃した。

参加艦艇[編集]

日本[編集]

  • 第一次ガ島増援部隊(田中頼三少将)
    • 第二水雷戦隊(田中少将直卒)
重巡ニューオーリンズ。

アメリカ[編集]

戦闘経過と結果[編集]

ルンガ沖夜戦図

11月30日19時40分、日本艦隊はガダルカナル島近海に到達する。この際の日本艦隊の隊列は田中少将座乗の旗艦「長波」が日本軍伝統の指揮官先頭に反し、隊列中央に配される形で形成されており、先頭から警戒隊の「高波」、第15駆逐隊の「黒潮」「親潮」「陽炎」、第31駆逐隊の巻波、旗艦長波、第24駆逐隊の江風、涼風の順に配列されていた。

20時00分、高波が前路警戒のため先行、艦隊から分離する。艦隊は陸上部隊の待つタサファロング泊地へ向け、速度を30ktから減速しつつドラム缶の投入準備を始めた。この時、ガダルカナル沖合の天候は晴れ、北東の風4メートル、視程10キロメートル、月齢21とかなり見通しのいい夜であった。

21時06分、アメリカ艦隊が日本艦隊を発見する。ライト部隊の旗艦・重巡ミネアポリスのレーダーが前方20キロメートルに日本艦隊の隊列を探知。ライト少将は攻撃をかけるべく平行反航態勢にアメリカ艦隊の針路を設定し直ちに攻撃態勢をとった。

21時12分、日本艦隊もアメリカ艦隊を発見する。単艦で前路警戒についていた高波の見張員が左45度、距離6000メートルに敵駆逐艦を発見。直ちに高波から日本艦隊へ「敵発見」の緊急警報が発せられたが、距離的に近すぎ、揚陸準備に入っていた日本軍としてはほぼ奇襲を受けた形になった。高波は艦長小倉正身中佐が即座に「左砲雷同時戦」の命令を下し襲撃運動に入った。一方で輸送隊でも21時13分、黒潮の見張員が敵艦隊を発見したが、本来の輸送任務を優先してアメリカ艦隊をやり過ごそうとしていた。しかし、アメリカ艦隊の動きは明らかに輸送隊に対しての攻撃運動であることが見張員の報告から明らかになり、21時16分、田中少将は麾下部隊に対し「揚陸止め! 戦闘、全軍突撃せよ」との命令を下す。各艦は直ちにドラム缶を固縛しなおし、固縛が間に合わなかったものや、魚雷発射の邪魔になるドラム缶は海中投棄して、増速しつつ魚雷の起動弁を開いて襲撃運動に入った。

21時20分、ライト少将は前衛部隊の駆逐艦4隻に攻撃開始を許可する。この時点で高波は前衛部隊の魚雷の射界から外れており、代わりに輸送隊に対してレーダー照準で魚雷を計20本発射した。しかしこれらの魚雷は距離が遠すぎて届かなかったり、あらぬ方向に走っていったりと1本も命中しなかった。しかし、巡洋艦部隊が距離9000メートルで砲撃を開始。その全てが一番アメリカ艦隊に接近していた高波への砲撃であった。

敵艦隊の猛烈な砲撃を受けた高波ではあったが、果敢にも反撃に転ずる。主砲による初弾が敵駆逐艦に命中、更に第二斉射も別の敵駆逐艦に命中した。両艦は火災となり、この火災の明かりがアメリカ艦隊をくっきりと浮かび上がらせることになった。高波は魚雷8本も発射したが直後に一番・二番連管に立て続けに被弾し、更に缶室にも被弾、航行不能となる。この後五十発以上の砲弾を浴び、艦橋、主砲は全滅。洋上に停止し炎上することとなった。

高波が集中攻撃を浴びている間に輸送隊は態勢を立て直していた。まず旗艦長波が射点を捉えて魚雷を発射すると右反転して避退した。続く第二輸送隊の江風、涼風も魚雷を発射すると左反転、長波を追うように避退する。隊列の先頭を行く第一輸送隊の駆逐艦4隻は第十五駆逐隊司令佐藤寅治郎大佐に率いられ一旦アメリカ艦隊をやり過ごすために東進してから右反転。ここで陽炎と巻波が前続艦を見失って分離する。しかし残った黒潮と親潮は敵艦隊の左舷後方からじっくり狙い、21時28分、黒潮が魚雷を発射すると親潮も魚雷を発射して戦場を離脱していった。

こうして日本軍の攻撃は終了し、次発装填魚雷が無いため戦場離脱を図った日本軍を尻目にアメリカ艦隊は高波に集中砲撃を浴びせ続けていた。そこへ日本軍の魚雷が命中したのである。日本軍のどの艦の発射した魚雷がどのアメリカ艦に命中したのかは、日本軍の発射本数が多くまた時間も重複したため明らかではないが、とにかくこれでアメリカ軍巡洋艦部隊は壊滅的被害を受けた。

被雷し大損害を被ってツラギに帰投したアメリカ軍の重巡ミネアポリス。2本の被雷により第一砲塔直前から艦首が完全に沈下してしまっている。この後損傷修理に一年を要した。

21時27分、先頭を行くミネアポリスが被雷したのを皮切りにアメリカ艦隊は次々に被雷、壊滅的な損害を被ることになる。

  • 一番艦の重巡ミネアポリスは艦首に2本被雷。同艦は艦首が第一砲塔直前から垂れ下がって、速力が急速に低下して戦列を離脱する。
  • 二番艦の重巡ニューオーリンズは、速力低下を起こした旗艦を回避しようと面舵を取った直後に左舷前部に魚雷が1本命中した。これが第一砲塔弾薬庫を誘爆させて二番砲塔前部から艦首が切断し、ニューオーリンズの艦尾にいた水兵が沈没していくミネアポリスとすれ違ったと思い、よくよく見てみると40メートル近くも切断された自艦の艦首部が流れていくところだったという証言も残っている。同艦は速力が5ktまで低下し、この後必死の戦場離脱を図ることとなる。
  • 三番艦の重巡ペンサコラはミネアポリスを避けるため取舵をとった直後にやはり被雷。艦橋直下に命中した1本の魚雷により重油タンクに火がついた同艦は大火災を起こしたが、主砲電路と共に消防主管も破壊されたために消火活動も出来ずにこの艦もまた戦場離脱を図ることとなった。
  • 四番艦の軽巡ホノルルは被雷せず、前の3艦を避けて艦隊右前方に進出して避退していく日本軍に対して砲撃を仕掛けたが、一発も命中しなかった。
  • 五番艦の重巡ノーザンプトンはホノルルのような幸運は巡ってこなかった。ペンサコラ被雷より10分後、第一輸送隊からはぐれて2艦のみで追撃してきた陽炎と巻波が絶好の射点から魚雷を発射した。この魚雷がノーザンプトンの左舷後部に2本命中し、機関室に大穴をあけられたノーザンプトンはたちまち航行不能となり、左舷に急速に傾斜すると転覆、艦尾から沈んでいった。
ツラギに帰投したニューオーリンズ(右奥)。艦首が完全に切断してしまっている。

アメリカ軍駆逐艦部隊は前衛として4隻、後衛として2隻いたが、巡洋艦部隊が壊滅していくのを見て戦場を離脱していった。

こうしてこの海戦は終了した。日本駆逐艦は高波を除いて全て戦場を離脱しており、アメリカ艦隊も無事な艦は一旦戦場を離脱していた。戦場に残されていたのは炎上し続けていた高波と深刻な損傷を受けたアメリカ軍重巡3隻のみであった。日本軍はサボ島西方海面まで一旦離脱した後、田中少将から命令を受けた第十五駆逐隊の黒潮、親潮が高波の生存者救出に戦闘海域に引き返す。23時00分、高波に横付け作業を始めた黒潮と親潮であったがこの直後、見張員が距離3000メートルにアメリカ軍重巡を発見。魚雷を撃ちつくした駆逐艦2隻では重巡と勝負にならないので、やむなく両艦は生存者救助を打ち切って戦場を離脱した。このアメリカ軍巡洋艦は高波に500メートルまで接近したが、何もせずにそのまま離れていったという。この巡洋艦は主砲電路を断たれたペンサコラであったといわれている。

高波はその後、急速に傾いたために生存者は次々と海に飛び込み退去したが、その直後にアメリカ軍駆逐艦が接近して高波に魚雷を発射、このうち一本が高波に命中して高波は沈没していった。この際、搭載爆雷が誘爆して付近を泳いでいた生存者が次々と圧死した。さらに高波から流出していた重油に引火して火災となり、相当数の戦死者を出すこととなった。結局、ガダルカナルの日本軍基地までたどり着いた生存者は准士官以上4名、下士官兵29名のわずか33名であった。

海戦後[編集]

海戦には勝利したとはいえ、目的であった輸送には失敗した日本軍は四日後の12月3日、再び田中少将指揮の下、ルンガ沖海戦の残存艦に第四駆逐隊(野分)と駆逐艦夕暮の計10隻の駆逐艦により第二次輸送作戦を行った。

一方のアメリカ軍は先の戦訓を活かしながら狭い海域に巡洋艦を投入する愚を悟り、以後は直掩の零戦隊が引き上げた後の航空機による薄暮攻撃、あるいは魚雷艇のみによる待ち受け作戦に切り替えていた。

第二次輸送部隊(親潮、黒潮、陽炎、巻波、長波、江風、涼風、嵐、野分、夕暮)は進撃中に延べ80機にも及ぶ断続的な空襲を受けたが、上空直掩の零観隊の活躍もあり、巻波が至近弾で小破しただけでタサファロング泊地に1500個のドラム缶を投入。12月4日に無事ショートランドに帰投した。ところが、この投入したドラム缶群は明け方になってアメリカ軍戦闘機部隊の銃撃によって大半が沈められてしまい、陸上部隊が回収できたのは僅か310個に過ぎなかった。本来は夜のうちに回収する予定であったが、飢えて体力の落ちた陸上部隊の兵たちが、ドラム缶引揚の重労働に耐えられなかったのである。

12月7日に開始された第三次輸送(嵐、野分、長波、親潮、黒潮、陽炎、浦風、谷風、江風、涼風、有明)は空襲により野分が大破、航行不能となった上、タサファロング泊地でアメリカ軍魚雷艇の激しい妨害攻撃に遭いドラム缶投入を断念。

12月11日に開始された第四次輸送(照月、長波、陽炎、黒潮、親潮、谷風、浦風、江風、涼風、嵐、有明)では山本五十六連合艦隊司令長官の直々の激励電文が発せられるなど、日本海軍の威信をかけた作戦であったが、アメリカ軍は狭い海域に巡洋艦を投入した反省から、先の第三次作戦同様、魚雷艇を中心とした待ち受け作戦に切り替えており、ドラム缶投入中に就役したばかりの最新鋭駆逐艦であった旗艦照月に魚雷2本が命中、照月も撃沈される被害を受けた。更に1200個投入したドラム缶がやはり敵戦闘機の銃撃でわずか220個しか陸上部隊が回収できなかった。

この作戦失敗により駆逐艦輸送は断念され空中補給及び潜水艦輸送(もぐら輸送)に切り替えられたが、これも被害が多い割には成果も上がらなかった。12月18日、杉山元参謀総長は昭和天皇に対し、「ガ島の陸軍に海軍が輸送をおこなわない」という現地電報について説明[1]辻政信陸軍中佐が怒っているため、杉山は12月11日輸送作戦失敗についてまで奏上したという[1]

12月27日、大本営で行われた図上演習で「ガ島奪回の成算無し」との結果が出るに至り、12月31日、御前会議にてガダルカナル島撤退が正式決定された。

田中少将は12月29日附で第二水雷戦隊司令官の職務を解かれた[2]

1月2日、増援部隊指揮官小柳冨次第二水雷戦隊司令官(12月30日、田中頼三少将と交代、長波座乗)直率の駆逐艦10隻(警戒隊〈長波、江風、涼風、巻波、荒潮〉、輸送隊〈親潮、黒潮、陽炎、磯波、電〉)は第五次輸送作戦を実施[3][4]。進撃中に空襲を受け涼風が至近弾により損傷、電の護衛下でショートランド泊地へ引き返した[5][6]。輸送作戦も成功した[4]


1月10-11日、外南洋部隊増援部隊指揮官小柳冨次第二水雷戦隊司令官が指揮する駆逐艦8隻(黒潮〈旗艦〉、巻波江風、大潮、荒潮、初風時津風)はガ島への第六次輸送作戦を実施するが、アメリカ軍魚雷艇の攻撃で第16駆逐隊の駆逐艦初風が大破した[7]有賀幸作第4駆逐隊司令の指揮下、駆逐艦3隻(嵐、江風、時津風)はガダルカナル島からショートランド泊地まで初風を護衛し、同作戦指揮官の小柳少将から賞賛された[8]。本作戦をもって小柳二水戦司令官は増援部隊指揮官の職務を第十戦隊司令官木村進少将(旗艦秋月)に引き継ぎ、長波に乗艦してトラック泊地に戻った[9][10]駆逐艦4隻(長波、親潮、陽炎、涼風)は艦の疲弊が激しく、最前線で行動するのは難しくなっていたのである。[要出典]

評価[編集]

この戦いは戦術的には日本軍の一方的勝利であった。これは九三式魚雷、通称酸素魚雷に拠るところが大きい。この魚雷は当時の魚雷の中では最大級の破壊力を持つものであり、直径61cm、頭部の炸薬は490kgとアメリカ軍の艦載用魚雷であったMk.15魚雷の直径53cm、炸薬375kgに比べ段違いの破壊力で、且つMk.15の射程4500m/45ktに対して酸素魚雷は射程20,000m/48ktと4倍以上の射程がある上、航跡がほとんど見えないので発見が困難という強力な兵器であった。

日本軍の駆逐艦の中では白露型駆逐艦から搭載されており、この海戦に参加した日本軍の駆逐艦は白露型駆逐艦の江風、涼風を除いて全て最新鋭の水雷戦用艦隊型駆逐艦である陽炎型駆逐艦及びその改良型である夕雲型駆逐艦であり、全艦が九三式魚雷搭載艦であった。従ってアメリカ軍巡洋艦部隊は回避する間もなく立て続けに被雷した上に、たった一本の被雷で戦闘不能に追い込まれるような大損害を被ったのである。

しかし、日本軍は海戦では大勝利を挙げたものの肝心の輸送作戦としては完全に失敗であった。従って日本軍の完全な戦術的勝利ではあったが、輸送作戦を阻止したということではアメリカ軍の完全な戦略的勝利でもあった。そして以後、太平洋戦争の海戦における夜戦において日本軍の完全勝利といえるものはこの海戦が最後となる[11]

またこの戦いでは日本軍に対する評価、特に田中少将の指揮に対して日本とアメリカでの評価が180度異なる。

日本軍側の評価[編集]

日本軍側では田中少将に対して非常に批判的であった。その理由は大きく分けて三つある。

  • 戦略目標である輸送作戦を放棄し、戦術的な戦闘を優先させた(「戦艦の1、2隻を撃沈するより、輸送任務を完遂するべきだ」[12]
  • 田中少将の旗艦長波は戦闘が始まると真っ先に魚雷を撃ってさっさと避退してしまい、以後二水戦司令部は全く指揮を取らなかった。これにより統制された指揮が行われず、「被害担任艦」となった高波が一身にアメリカ艦隊の攻撃を受けて時間を稼いでくれたおかげで他の艦は態勢を立て直して攻撃をかけることができ、また各駆逐艦艦長及び各駆逐隊司令の適切な判断により大きな戦果を挙げられたのであり二水戦司令部の功績ではない。また、長波は高波が沈没した後では日本艦隊の中では唯一次発装填魚雷を持っていた(先述したように長波、高波は警戒隊であったため次発装填魚雷を下ろしていない)にも関わらず、再攻撃を企図しようともしていない上、魚雷を撃ち尽くしたほぼ丸腰に近い第十五駆逐隊のみでの生存者救助のための戦場再突入命令を出している。
  • 艦隊の隊列が日本軍伝統の指揮官先頭ではなく旗艦長波は隊列中央に配置されていた。これは司令部が逃げ腰であったことの証左である。

消極的な戦闘指揮という点においてはこの海戦以前にも田中少将はスラバヤ沖海戦で同様の批判を浴びており、1番目は大本営海軍部、2・3番目は実際に戦った駆逐艦長クラス、隊司令クラスから出た批判であり、まさに上下からの批判の挟み撃ちであった。これが影響したのか海戦から1か月後、田中少将は突如二水戦司令官を解任され以後二度と海上勤務に戻ることはなかった。

一方でこういった評価に対して後世においては田中少将を擁護する評価もある。

  • 日清戦争の黄海海戦、日露戦争の日本海海戦以来「指揮官先頭」は日本海軍の伝統的ルールであり、これに反すると海軍部内(特に砲術科出身)からは白い目で見られてしまう。しかし、これを墨守したために真っ先に司令官が「戦死」するケースも散見される(吉川潔佐藤康夫の項を参照)が、この点については特に海軍部内で問題視された形跡は無い。田中少将は、殊更に勇猛さが尊ばれ、結果よりも過程が重視される日本海軍の司令官には、気質的に向いていなかったと思われる。
  • 航空機の力を正当に評価していた(これまでに従事した作戦において、その威力に悩まされ続けていた)ため、ドラム缶輸送には当初から反対し[13]、南東正面を担当した三川軍一司令官と不仲に陥った(同司令官は第一次ソロモン海戦の司令官で、航空機の護衛なしで大戦果を挙げた)。これも左遷原因のひとつとされている。
  • 脱落艦の乗員救助を「旗艦」自らが行うことはあまり例を見ない。また、これを実施した場合「脱落しなかった艦の指揮を放棄」して乗員救助を行うことになり、どちらが良いかは当時の組織の考え方による(前述の第一次ソロモン海戦においては、戦闘中は完勝だったが、帰還途中に潜水艦の雷撃を受け重巡洋艦を1隻喪失している。帰港するまでは司令官の仕事と言える)。ただし魚雷を持っている艦が行うべきか否かは当然、議論の対象となる。
  • 作戦自体に反対していたので「及び腰」なのは事実であろうが、「逃げ腰」であるとの批判は誤りである。田中少将は戦闘中も冷静であり、ノーザンプトンからの砲撃を受けている最中に「(敵艦の砲撃は)照準はいいが、修正がまずい」と、のんびりした口調で批評していたと言われる[14]。また、この時の突撃命令は「損失軽減のための一撃離脱」を目的とするものであったが(敵は戦艦1を含むと推定されていた)、駆逐艦長クラス、隊司令クラスには「戦艦襲撃」に勇躍して、命令の趣旨が理解できていなかった(彼らからは1番目の批判がなされていない)。

アメリカ軍側の評価[編集]

アメリカ軍は田中少将の指揮を絶賛している。特にアメリカ海軍の準公刊戦史とも言える『アメリカ海軍作戦史』を刊行したS・E・モリソンは、これは突撃命令を出した時期が極めて適切であって、十分敵を引き付けておいて突撃命令を出しその飽和雷撃によってアメリカ軍巡洋艦部隊に大打撃を与えたその判断力とよく訓練された日本の駆逐艦部隊の動きを絶賛し、アメリカ軍巡洋艦部隊は正にしてやられた、としている。むしろ被害担任艦になった高波は日本軍の態勢が整う前に過早に発砲したので一方的な攻撃を受けることとなった、と批判している。そして「田中こそ不屈の闘将である」と言って、田中少将に"redoubtable Tanaka"(不屈の猛将・田中)というあだ名をつけた。

ただしこの評価については結果を重視するあまり過程の分析がやや不足(分析内容が日本軍側の実態と異なる)という後世の評価もある。ただ不確定要素が多過ぎる「戦場」において完全を期するのは難しいという前提をもってすれば、結果をかなり重視するのは、正当な分析の仕方とも言え、アメリカ軍司令官の行動は、レーダー読み取りの錯誤や可燃物の撤去不足を除けば、しごく当然の指揮内容であり、過程のみを見れば批判されるべき内容は少ない。

なお、当の田中少将は解任された件に関してその後の生涯において一切語らなかった。ただ、アメリカ側からの評価については作家の半藤一利のインタビューに対して「私は突撃命令を出しただけ。後は全部部下の功績」と語っており、1969年に没している。

損害[編集]

日本[編集]

  • 沈没:駆逐艦高波

アメリカ[編集]

  • 沈没:重巡ノーザンプトン
  • 大破:重巡ミネアポリス、ペンサコラ、ニューオーリンズ

脚注[編集]

  1. ^ a b #高松宮日記5巻335-336頁「参謀総長『ガ』島作戦ニツキ奏上。海軍デ輸送ヲヨクヤラヌト云フ現地電報ニツイテ申上ゲタ(略)現地伝ハ十一日夜ノ駆逐艦ドラム缶輸送モ駆逐艦ガ遠クカラ周章トシテ投ゲ出シタノデ、一二〇〇缶中二五〇ヨリトレナカツタ等アリ。辻中佐ノ(ママ)「カンゝ」ニナツテルノデ、ソンナコトマデ奏上シタ」
  2. ^ 昭和17年12月31日(発令12月29日付)海軍辞令公報(部内限)第1022号 p.12』 アジア歴史資料センター Ref.C13072088700 
  3. ^ #S1801二水戦日誌(2)p.18「三.軍隊区分」
  4. ^ a b #叢書83ガ島戦510-512頁「一月二日」
  5. ^ #S1801二水戦日誌(2)pp.28-29「3日1225増援部隊指揮官→8F司令長官(略)|一.第五次ガ島輸送部隊2日1100ショートランド発1215地点ケトネ41ニ於テB-17五P-38五機ト交戦撃退1605地点ケヌフ14ニ於テ爆撃機戦斗機十数機ト交戦味方直衛戦斗機六機ト共ニ撃退涼風至近弾ニ依リ損傷電掩護ノ下ニショートランドニ回航セシム 輸送部隊2200エスペランス着警戒隊ヲ以テ魚雷艇約八隻ノ執拗ナル来襲ヲ阻止撃攘(一隻撃沈)シツツ揚陸作業強行ドラム缶540ゴム嚢250投入2230泊地発3日0800(涼風電ハ0630)ショートランド帰着(以下略)」
  6. ^ #高松宮日記5巻404頁
  7. ^ #高松宮日記5巻436-437頁
  8. ^ #S1801二水戦日誌(2)p.40「輸送部隊ハ遠ク敵制空権下ニ進出シ敵水上部隊ノ出現ヲ厳戒シツツ既ニ泊地ニ潜入待機中ノ魚雷艇7隻及哨戒機2機ト交戦シ混戦中ノ輸送ヲ強行シテ前記ノ如キ成果ヲ収メ其ノ功績顕著ナリ。特ニ嵐(将旗4dg)、江風(将旗24dg)時津風ハ損傷艦初風ヲ護衛シ友軍機ノ協力ト相俟ッテ長途離脱ニ成功シ功績極メテ顕著ナリト認ム」
  9. ^ #S1801二水戦日誌(1)p.4「(イ)第二水雷戰隊司令部 自一日至十一日『ショートランド』及『ラバウル』ヲ基地トシテ『ガ』島輸送作戰ノ指導ニ任ジ第五次(二日三日)第六次(十日十一日)『ガ』島輸送作戰ニ従事/十一日第十戰隊司令部ニ増援部隊指揮官ノ引繼ヲ了シ十二日『ショートランド』發十四日『トラック』着整備訓練次期作戰準備並ニ輸送船護衛等ノ指導ニ任ズ」
  10. ^ #S1801二水戦日誌(1)p.18「一一(天候略)一.〇六三〇秋月(司令官10S)『ショートランド』着/二.〇九一五黒潮8dg(大潮荒潮)巻波「ショートランド」着/三.一五三〇10S司令官ニ増援部隊指揮官ノ引継ヲ了ス/四.一五三五将旗ヲ長波ニ移揚/五.江風(司令24dg)巻波8dg(大潮荒潮)東部「ニューギニア」方面護衛隊ニ編入/六.一八三〇嵐江風初風時津風「ショートランド」皈着/七.一七〇〇8dg(大潮荒潮)巻波『ラバウル』ニ向ケ『ショートランド』發」
  11. ^ この後もコロンバンガラ島沖海戦のように、日本軍の大勝利と言える海戦は散見される。
  12. ^ 日本側の戦況報告では「戦艦1撃沈」となっており、アメリカ側の戦況報告では「重巡洋艦数隻を含む日本艦隊が」となっている。双方とも夜戦という事もあいまって、正確な敵情把握ができていない。
  13. ^ 搭載量の少ない決戦用駆逐艦を輸送任務に使う事に反対の意見具申を行っていた(半藤一利『ルンガ沖夜戦』より)。
  14. ^ 二水戦主席参謀・遠山安巳中佐の証言(半藤一利『ルンガ沖夜戦』より)。

参考文献[編集]

PHP研究所、2000年) ISBN 4-569-60943-0
(PHP文庫、2003年) ISBN 4-569-57981-7
  • ラッセル・クレンシャウ 著\岡部いさく 訳・監修\岩重多四郎 訳『ルンガ沖の閃光 日本海軍駆逐艦部隊対アメリカ海軍巡洋鑑部隊』(大日本絵画、2008年) ISBN 978-4-499-22973-9
  • 佐藤和正『太平洋海戦2 激闘篇』(講談社、1988年) ISBN 4-06-203742-4

関連項目[編集]