上知令

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上知令(じょうちれい、あげちれい)は、1840年代から1870年代にかけて、江戸幕府明治政府が出した土地没収の命令。上地令と表記する場合もある。

江戸幕府[編集]

天保の改革を主導した老中首座水野忠邦は、アヘン戦争清国イギリスに敗れ、また日本近海にも外国船がしばしば出没する状況[† 1]にてらし、将来、日本にも外国が攻めてくることもありうるとみていた。特に江戸は政治の中心地、大坂は経済の中心地であるから、江戸、大坂近海に外国船が来襲した際の危機管理の重要性が課題となる。この令は水野忠邦にとって改革の総仕上げの段階ということになる[1]

これまで江戸・大坂十里四方は、幕府領(天領)、大名領、旗本領が入り組んでいた。そこで大名、旗本には十里四方に該当する領地を幕府に返上させ、かわりに、大名・旗本の本領の付近で替え地を幕府から支給するという命令を出し、江戸・大坂十里四方を幕府が一元的に管理する方針を固め1843年天保14年)6月1日、上知令が発布された。なお、庄内藩長岡藩川越藩の間で検討されていた「三方領知替え」も、この上知令の一環で検討されていたものだった。

その目的の第一は窮迫する幕府財政の補強、第2は幕領、私領の年貢収公率の平均化、第3は上げ知した土地を窮迫化してきた海防の基地とするなどである[2]

しかし、江戸大坂十里四方に領地を持つ大名旗本から反対が起こる。領地替えは莫大な経費を必要とするため、加増を伴う栄転的な領地替えや、何らからの落ち度があっての懲罰的な領地替えでなければ、大名旗本にとって承服できるものではなかった。加えて、当時の大名旗本の多くは領民から借金をしており、領地替えに際しては借金が踏み倒されるのではないかという領民の危惧があった。多くの大名旗本、特に貨幣経済が発達している江戸大坂近辺においては、財政上の理由で藩札旗本札を発行しており、これは実質的に領民から借金をしたに等しかった。財政的に余裕がある大名旗本であっても、隣接する他領で藩札旗本札が発行されていると、自領からの正貨流出を食い止めるため、対抗して藩札旗本札を発行せざるを得なかった。大名旗本が国替えになると、従来の藩札旗本札は無価値になるため、その前に正貨との交換をしなければならないが、ただでさえ領地替えのため出費が必要な大名旗本の側に交換する余裕がなく、額面からかなり差し引いた金額での交換を余儀なくされる事が懸念されたのである。

例えば、水野忠邦の同僚で老中土井利位は本領は下総国古河藩であったが、河内国摂津国にも飛び地を持っていた。土井家は河内、摂津の農民に借金があり、農民達は上知と同時に借金が踏み倒されるのではと恐れ、土井家に繰り返し上知反対の強訴が発生した。また、御三家紀州藩からも反対が発生した。

反対派は土井利位を盟主に担いで上知令撤回と、水野忠邦の老中免職に動き出し、水野忠邦の主だった腹心達(町奉行鳥居耀蔵勘定奉行榊原忠職)らも土井派に寝返り、鳥居に至っては忠邦の機密資料を残らず土井に流すという徹底ぶりであった。

結局閏9月7日、忠邦が欠席のまま土井利位から上知令撤回の幕命が出され、閏9月13日、忠邦は老中免職となり、上知令ともども天保の改革は終焉した。水野忠邦屋敷前に町民群集し騒動となる。

明治政府[編集]

江戸時代に認められていた寺院神社の領地(寺社領)が1871年明治4年)と1875年(明治8年)の2回の上知令により没収された。この背景には廃藩置県に伴い、寺社領を与える主体であった領主権力が消滅したために寺社領の法的根拠も失われたこと、地租改正によって全ての土地に地租を賦課する原則を打ち立てるために寺社領を含めた全ての土地に対する免税特権を破棄することを目的としていた。なお、同様の趣旨をもってえた非人とされた人々の所有地である「穢地」の免税特権破棄も解放令と同時に行われている。

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 1842年(天保13年)6月、オランダ船、イギリス軍艦の来日計画を報ずる。7月、異国船打払令を止め薪水食料の給与を許す。12月、幕府、伊豆下田・武蔵羽田両奉行所を置く。翌年5月、ロシア船、漂流民を護送し、択捉島に来航。10月、イギリス軍艦、琉球八重山諸島を測量する。

出典[編集]

  1. ^ 藤沢周平著 『藤沢周平全集 第18巻』 文藝春秋 1993年 521ページ
  2. ^ 藤沢周平著 『藤沢周平全集 第18巻』 文藝春秋 1993年 520-521ページ

参考文献[編集]

関連項目[編集]