中西太

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中西 太
Futoshi Nakanishi 1954 NPB All-star game.jpg
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 香川県高松市
生年月日 (1933-04-11) 1933年4月11日(84歳)
身長
体重
173 cm
93 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手
プロ入り 1952年
初出場 1952年3月21日
最終出場 1969年10月8日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
野球殿堂(日本)
Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg 殿堂表彰者Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg
選出年 1999年
選出方法 競技者表彰

中西 太(なかにし ふとし、1933年4月11日 - )は、香川県高松市出身の元プロ野球選手内野手)・コーチ監督解説者評論家

現役時代は数多くの伝説を残す強打者であり、現役引退後は数多くの打者を育て上げた名コーチとして知られる。

来歴[編集]

プロ入り前[編集]

高松一高時代は本塁打を量産し、「怪童」といわれていた。甲子園には1949年春1949年夏1951年夏の三度出場し、ベスト4に2回進出。2回とも優勝校に惜敗した。1951年夏は岡山東戦で秋山登(後に大洋)から本塁打を打つなど、計2本塁打6打点を記録[1]

国体出場した後、高校卒業後の進路について飛田穂洲より早稲田大学進学を勧められ、見学のために上京。この時に同郷・香川の先輩である西鉄ライオンズ三原脩監督と出会った[1]。貧しかった中西の早大進学の費用を西鉄が出す変わりに卒業したら入団する様に約束をさせたが、毎日オリオンズ若林忠志監督が毎日新聞高松支局長を伴って中西の兄を抱き込み、契約寸前までいっているとの連絡が入る。三原はすぐさま中西の家に向かい、西鉄側には高松一高野球部後援会や市会議員までが出てきて入団を後押し。最終的には郷里の先輩を信じるのが一番良いという母親の決断により、西鉄入りが決まった。早大進学の夢が打ち砕かれたのとプロでやっていく自信の無さから、決定の瞬間に中西は大声をあげて泣いた[2][3]

現役時代[編集]

1952年に西鉄へ正式入団すると、1年目から活躍。プロ初本塁打はランニングホームランであった(高校時代に甲子園で記録した本塁打も2本ともランニングホームランである)。同年は打率.281、12本塁打で新人王を獲得。続く2年目の1953年にはトリプルスリー(打率.314、36本塁打、36盗塁)を史上最年少で達成。これは2015年現在でも破られていない。その後も1958年まで毎年の様に三冠王に近い成績を残し、1953年から1956年にかけては4年連続で本塁打王を獲得。1953年は大映(30本)と近鉄(31本)、1954年は近鉄(27本)のチーム本塁打を個人で上回っていた。

大下弘豊田泰光関口清治高倉照幸河野昭修らと形成する強力打線は「流線型打線」と呼ばれ、1954年に球団初のリーグ優勝、稲尾和久が入団した1956年からは水原茂監督率いる巨人を相手に3年連続日本一という黄金時代を築き上げた。この時期に三原の長女・敏子のもとへ婿入りし、三原の義理の息子となっている(戸籍上は「三原太」となっている)。

1958年までは常にタイトル争いに加わるほどの打棒を誇るが、1959年小玉明利近鉄)に利き手をスパイクされて負傷。さらに1960年には左手首に腱鞘炎を患い満足なスイングができなくなり、常時出場は困難になる。1961年には回復が見られ、78試合に先発出場して打率.304、21本塁打を記録。

1962年からは西鉄の選手兼任監督に就任。再び怪我が悪化し、代打での出場が主になる。2年目の1963年にはトニー・ロイジム・バーマジョージ・ウィルソンら「三銃士」が活躍。若生忠男畑隆幸田中勉安部和春井上善夫ら若手投手の奮闘もあり、南海と熾烈な優勝争いを繰り広げ、最大14.5ゲーム差を追い上げて最後の4試合(2日連続のダブルヘッダー。3勝1分以上もしくは2勝2分で優勝、3勝1敗で南海との同率プレーオフ、それ以外は南海の優勝)に全勝し、劇的なリーグ優勝を決める(これが西鉄最後の優勝となった。2016年現在、最大ゲーム差の逆転優勝である)。同年の日本シリーズでは巨人に3勝4敗で敗退した。

1964年は稲尾を故障で欠いたため、一気に5位へ転落。同年オフの退団となった若林忠志ヘッドコーチの処遇を巡りバッシングを受け、若林に成績不振の責任を取らせたとマスコミからの非難を浴びた。若林退団の理由は末期ガンのためであったが、若林の家族の意向から退団の真相は中西と若林夫人しか知らなかった。自らの真の病状を知らない若林は、中西が見舞いに来るたびに、自分はもう大丈夫だから現場に戻してほしいと語っていたという。それがもはや叶わないことを知っていた中西は「涙が出るほど辛かった」と後年に回想している。若林は1965年、58歳で死去した。

1965年はルーキーの池永正明が20勝で新人王を獲得したほか、稲尾の復活もあり3位でAクラスに返り咲く。1966年は稲尾がリリーフに転向し、最優秀防御率を獲得。同年9月30日、中西はこのシーズン5本目の代打本塁打を記録するが、これは自身通算10本目の代打本塁打であり、大館勲夫の当時の日本プロ野球記録を二つとも更新している[4]1967年宮寺勝利を正捕手に据えたため、和田博実を外野にコンバート。池永が最多勝を獲得し、2年連続で2位となった。1968年は「猛打西鉄」復活を狙って、高木喬広野功を獲得。東田正義竹之内雅史の台頭もあったが、5位に終わる。

1969年は宮寺に代わって村上公康が正捕手となったが、チーム打率最下位・チーム防御率5位という散々な内容で2年連続で5位となる。広野が20本塁打、村上が14本塁打を放った。同年に中西は現役を引退し、監督も退任。同年10月に発覚し、西鉄の選手も関与していた八百長疑惑事件、いわゆる「黒い霧事件」についての道義的責任を負っての辞任でもあった。

中西が着けた背番号6は、将来有望な選手が出るまでの保留欠番とされ、1973年、西鉄が身売りした際に、監督の稲尾の推薦で菊川昭二郎が33から変更して着けた。

引退後[編集]

引退後は1970年TBS解説者を経て、1971年から1973年までヤクルトアトムズヘッドコーチ、1974年から1975年まで日本ハムファイターズの初代監督に就任したが2年連続最下位で解任された[5]。代表取締役社長兼球団代表の三原は初回ランナー出た場面でバントのサインを出した中西の采配を見てこいつ監督の器じゃないと思ったという[6]1979年から阪神タイガース一軍打撃コーチに就任、1980年途中監督のドン・ブレイザー辞任に伴い監督へ昇格したが、5位に終わる。1981年は3位になるも同年退任。1983年からヤクルト一軍ヘッド兼打撃コーチ、1984年4月には武上四郎辞任に伴い監督代行を務めるも、体調不良と成績不振のため18試合で辞任。1985年から1988年まで近鉄バファローズ一軍打撃コーチ、1989年から1990年同球団ヘッドコーチ、1992年は巨人一軍打撃総合コーチ、1994年は千葉ロッテマリーンズヘッドコーチを務めシーズン途中からは八木沢荘六の後を受けて監督代行を務めた。1995年から1997年までオリックス・ブルーウェーブヘッドコーチ、1999年から2001年までヤクルトバッティングアドバイザーを務めた。

指導者生活の合間を縫って、毎日放送1976年, 1982年, 1991年, 1993年)・九州朝日放送1977年 - 1978年)解説者、日刊スポーツ評論家(1977年 - 1978年, 1982年 , 1991年, 1993年)を務めた。1999年からはヤクルトのバッティングアドバイザーとなり同年には野球殿堂入りを果たし、2000年からは日刊スポーツ評論家。

近鉄コーチ時代は盟友・監督の仰木彬とタッグを組み、1989年のリーグ優勝に貢献。オリックスコーチ時代には仰木と再びタッグを組み、リーグ2連覇と1996年の日本一に貢献。

近年甲状腺がんを患ったが、経過は良好。2007年2月には、メジャーリーグに挑戦する愛弟子・岩村明憲の自主トレを手伝い、中西自らバッティングピッチャーとして登板した。岩村も「こんな元気な70代の人はそうはいないですよ」と驚くほどであった。また、自身の座右の銘である「何苦楚(なにくそ-何事も苦しむことが楚となる)」は、オリックス・ヤクルト時代の教え子である田口壮や岩村に受け継がれ、その影響は田口の著書「何苦楚日記」や岩村のブログ「AKI何苦楚魂」に見られる。

2007年10月、現役時代のユニフォームやトロフィーなどの資料49点を故郷の高松市に寄贈。2008年4月26日より高松市松島町の高松市民文化センターで公開されていたが、2012年3月11日限りで建物が閉館となった。その後、市民文化センターの後継施設として2016年11月23日にオープンした「高松市こども未来館」(たかまつミライエ)1階の「市民交流ゾーン」に「怪童中西太コーナー」が改めて設置されている[7][8]

プレースタイル[編集]

打撃[編集]

中西は、その豪快な打撃で数々の伝説を残している。以下はその一例である。

  • 1953年8月29日、対大映戦(平和台野球場)で林義一投手から放った打球はライナーでバックスクリーンを優々と越え、場外の福岡城址まで届いた。推定飛距離は160m以上で、プロ野球最長飛距離の本塁打、また福岡城址は「外野スタンドから更に50m先」にあるため、180〜190m近く飛んだ可能性もあると言われており、まさに球史に残る大ホームランであったとされる。この時も、林義一投手は「(取れるライナーかと思って)ジャンプした。そうしたらグングン伸びて、バックスクリーンのはるか上を越えていった」と千葉茂に後年語っていたと言う。ただ打った中西本人は、あまりにも低い弾道だった為、本塁打になるとは思わず、一塁を回るあたりまでは全力疾走をしていたといい、それほどの飛距離の本塁打になるとも思っていなかったという。また同僚の豊田泰光は「あの一発クラスのホームランを太さんは何本も打っている。左中間場外に飛ばした打球は、当時は照明が暗かったし、どこまで飛んでいったか分からんのだよ。あの一発より大きいものもあったはず」と語っている。
  • 1955年川崎球場で行われた試合では、中西の放った地面すれすれの強烈なライナーがショートを守っていた有町昌昭の足を直撃した。有町は病院送りとなったが、彼はあまりの打球の速さに一歩も動けずグラブを差し出すことすら出来なかった。この試合を観戦していた記者の大和球士は、報知新聞に「中西が日本で初めてのゴロを打った。2死後、遊撃有町めがけたライナーは有町の左のスパイクか右足首にぶつかり、勢い余って二塁の守備位置付近に転がる痛烈なゴロ。打球の鋭さといい野手を一発し打倒したことといい、跳ね返り具合といい、まさに日本で初めて見るゴロであった」と記している。
  • 1958年のシーズン、南海に7月に11.5ゲーム差をつけられた西鉄は終盤戦に猛追して、9月28日に平和台球場での26回戦(カード最終戦)を6厘差の2位で迎えた。中西は1回の第一打席で先発の杉浦忠からスリーランを放った。打った瞬間、杉浦は「ショートライナーか左前打だ」と思った打球がライナーのままスタンドインし、看板を直撃した。外野手の大沢昌芳(後に啓二)と長谷川繁雄は互いに顔を見合わせて一歩も動けなかった[9]
  • 遊撃手がジャンプしてわずかに届かなかったライナー性の打球が、ものすごい勢いでそのままスタンドインした。また、投手の肩口を抜けたライナーが伸びに伸びて平和台のバックスクリーンを超えていった(青田昇の証言より。このとき青田はセンター前ヒットと思って一歩前に出たという)。
  • ファウルチップで焦げたボールの皮の匂いが、マウンド上の投手まで届いた(中西曰く、当時はバットを動物の脂で磨くことが多く、ボールが焦げたというのは誤りであるものの、ダッグアウトまでその匂いが届いたという)。
  • 中西の打球について三原は「中西君の本領は、しかしこの本塁打ではない。飛距離もそうだが、それにプラス打球の速さがあった。この打球スピードについては、ヒイキ目でなく、中西の前に中西なく中西のあとに中西なし、といってもいい。その秘密は、類まれなリストの強さ、柔軟さにあったと思う」と述べている[10]
  • 王貞治の育ての親でもある荒川博は、「日本プロ野球で最強のバッターは誰かと聞かれたら次の2人。右の中西、左の王でしょうな。中西はあのデカイ体をものすごい勢いで回転させるから、打球が速いうえによく飛ぶ。文字どおりの大砲でしたよ。まあケタ違いの打球を打っていた。同じ右の強打者といっても、悪いけど長嶋茂雄とじゃ格が違っていたね」と語っている[11]
  • メジャーの強チームが頻繁に来日した1955年前後、来日したメジャーリーガーたちは、「中西だけはメジャー級」という言葉を残して帰国した。その打棒は、海の向こうにも鳴り響いていた[12]
  • メジャーリーガーもその打撃には一目置いていた。1956年日米野球ではブルックリン・ドジャースギル・ホッジスとホームラン競争を行い、13本塁打を放った。1958年11月4日大阪球場で行われたセントルイス・カージナルスとの日米野球第8戦では満塁の場面で野村克也の代打で登場。左中間に弾丸ライナーで飛び込むホームランを放ちカージナルスナインの度肝を抜いた。試合後カージナルスの選手たちが、わざわざ記念撮影を申し込み、「ビッグ・バッファロー」と呼ばれた[13]。この日米野球で放った3本塁打、11打点は日本勢最多である。
  • 同じリーグで同じ右のスラッガーであった山内一弘とは、互いに認め合うライバル関係であった。二人は当時の球界を代表する強打者であり、かつ打撃のスタイルが全く異なっていたことから、同じプロの右打者たちの間で「中西流」「山内流」という言葉が生まれ、参考にされる存在であった[14]
  • 「素振りの音が相手ベンチまで聞こえた」という程スイングスピードが速く大きな武器であったのだが、あまりにも速すぎたために体への負担もまた大きく腱鞘炎になった。これがなければ「率を除く全ての分野において2倍は通算成績を残していた」と言われる。

守備・走塁[編集]

ずんぐりむっくりな体型に似合わぬ俊足で盗塁数も多かった。1953年には36盗塁を記録し、史上3人目の打率3割・30本塁打・30盗塁(トリプルスリー)を達成している。三塁の守備では目の前にフェンスが迫っていても怪我を恐れずに打球を追ったことから、遊撃手を務めていた豊田泰光とともに「金網デスマッチ」と言われていた。このため前歯を3本折損している。

記録に関するトピック[編集]

二冠獲得4回、本塁打王5回(4年連続含む)、首位打者2回、打点王3回の打撃タイトルを誇る。特筆すべきは、これらのタイトルを高卒から入団7年目までに獲得していることである。

戦後初の三冠王となるチャンスが何度もあった。特に惜しかったのは1956年と1958年である。前者は首位打者を同僚の豊田泰光と争ったが、最終戦を前に三原監督が両者に休養を命じたため、豊田の首位打者が決まった(ただし、豊田は首位打者、中西は二冠王で構わないと最初から両者で話し合って決めていたとも言われている)。後者は全日程を終了して三冠、ただし打点のみは大毎オリオンズ葛城隆雄と同数という状況で、葛城が最終戦で本塁打を放ったため、打点王を逃したというものである。この時葛城に本塁打を打たれたのは、元同僚の大津守投手(当時近鉄)であり、後日試合で対戦の際に中西と顔を合わせ、「すまん」と謝ったとされている。なお、中西が何度もタイトルに近づいたことで、それまで日本ではあまり知られていなかった「トリプルクラウン」が認識されるようになり、さらに「三冠王」という訳語もマスコミで定着するに至った[15]

中西は三冠王になったことはないが、打率・本塁打・打点の部門において、「1部門がリーグ2位の二冠王」を1953年・1955年・1956年・1958年の通算4回記録している。これは王貞治の5回、長嶋茂雄の3回に挟まれて歴代2位である。中西は4回すべてが僅差であり、1953年は打率において4厘差で岡本伊三美に、1955年は打点において1打点差で山内和弘に、1956年は打率において.0004差で豊田に(中西は.3247、豊田は.3251)、1958年は打点において1打点差で葛城に、それぞれタイトルを奪われた。

指導者として[編集]

Aクラス6回(リーグ優勝1回)の実績を持つが、監督としては「失敗」という評価があり[16]、阪神監督時代には江本孟紀に「ベンチがアホや」と公言されたこともある[17]

コーチとしては数多くの強打者を指導しており、吉田義男は「中西さんは教える達人でしたね」と話している[18]江夏豊は「名監督は数多くいても、名コーチは少ない」が持論だが、その中で「投げるほうの名コーチは権藤博さん、打つほうの名コーチは中西さん」と語っている[19]

ヤクルト時代にはプロ入り前から若松勉の素質を見抜き、体の小ささを理由にプロ入りを拒否していた若松に対して北海道まで出向いて説得を行い、入団後はマンツーマン指導により2年目で首位打者を獲得するまでに育て上げた、後に若松が野球殿堂入りを果たしたときは「自分の殿堂入りよりもうれしい、自分に若松を託したお父さんからもおほめの言葉を授かり、非常に嬉しかった」と述べている[20]

阪神時代には掛布雅之を中心とした猛虎打線の基礎を打撃コーチの横溝桂と共に築き上げた。特に近鉄ヘッドコーチ時代、10.19があった1988年と劇的なリーグ優勝を果たした翌1989年における仰木彬監督とのコンビ(1995年から1997年にかけてはオリックスでもコンビを組んだ。ちなみに西鉄時代は逆に中西の参謀を仰木が務めていた)で、球団の人気も実力とともに急上昇し、近鉄は常勝チーム西武の最大のライバル球団となった。伊東勤はその西武の選手であったにも関わらず指導を受けた経験があり、中西について「教えるのが好きな人で、俺も若いときに敵のコーチなのに教えてもらったことがある。ありがたいですよ」と振り返っている[21]

1997年にオリックスを退任した後も、ヤクルトを始め様々な球団で「特別コーチ」「臨時コーチ」を務めた。1999年にはヤクルト監督を務めていた若松の依頼により、宮本慎也を指導[22]。当時の宮本は守備の人だったが、これにより打力が向上。後にプロ通算2000本安打を達成した際に「(中西との出会いがなければ)2000本になんて到底届かなかったと思います」と語っている[23]

中西の打撃理論は「ボールを呼び込んで下半身で打つ」こと、「バットを内側から出す」ことを基本としており、練習法ではティー打撃に重点を置いている。中西流の指導法は教え子の若松や杉村繁らに引き継がれている[24]

人物[編集]

愛称は「太っさん」。あるいは「太」。

非常に運動神経に優れていたことで知られ、本人も「私は農耕民族だから」と言う、その足腰の強さは特筆物であった。相撲好きであり、関脇鶴ヶ嶺(後の井筒親方)と非常に仲が良かったため、よく井筒部屋に出稽古に出かけていたという[25]。しかも十両ほどの力士であれば軽くあしらって勝ってしまうこともあった程で、鶴ヶ嶺は「中西さんは相撲の世界に入っていても、間違いなく幕内までは軽々行ったと思う」と述べている。

荒くれ者の西鉄野武士軍団の中心打者で豪快な打撃とその風貌から勘違いされやすいが、性格は繊細で真面目で人一倍練習熱心だった。宿舎で同部屋だった稲尾和久は「毎日、夜、寝る前に部屋でビュンビュンとバットを振る。振るたびにすごい風圧で、ガラス窓が割れそうになるので怖かった」と振り返っている[13]。練習のしすぎが腱鞘炎の原因のひとつとも言われる。

やや気が小さい面が見られた。腱鞘炎で試合から遠ざかっていた選手兼任監督時代、試合前にバックネットの前で素振りをしていると、スタンドのファンから大声で「中西、試合に出んか!」と野次を飛ばされた。気の強い選手ならすぐにそちらを向いて睨みつけそうなものだが、中西はそちらを見ることができず、横にいた記者に「どんな奴が怒鳴ってる?」と素振りを続けながら尋ねたという[26]

中西は現役時代における最も忘れられない場面として、1958年の日本シリーズ、1勝3敗で迎えた第5戦、2-3と1点ビハインドの9回裏一死三塁という「非常に責任ある打席(中西)」で三塁ゴロに倒れた場面を挙げている。この試合は続く5番の関口清治が起死回生のタイムリーヒットを打って同点に追いつき、延長10回裏稲尾のサヨナラ本塁打で勝利。西鉄は第6戦、第7戦も連勝して奇跡の逆転優勝を果たし、中西もまたこの第5戦に続いて第6戦、第7戦でも本塁打を放つ活躍を見せたが、第5戦9回裏の場面は「もしあのまま試合が終わっていたら…」と思い返すことがたびたびあったという。

三原脩について取材で聞かれることが多く、「三原さんの事についてはもう勘弁してくれというぐらい話してる」と語っている[27]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1952 西鉄 111 410 384 57 108 20 7 12 178 65 16 4 0 -- 26 -- 0 38 12 .281 .327 .464 .790
1953 120 509 465 92 146 20 7 36 288 86 36 16 1 -- 41 -- 1 52 13 .314 .370 .619 .989
1954 130 554 493 87 146 28 8 31 283 82 23 9 2 4 51 -- 4 73 10 .296 .364 .574 .938
1955 135 549 473 96 157 28 4 35 298 98 19 12 0 3 71 17 2 91 10 .332 .419 .630 1.049
1956 137 523 462 74 150 27 5 29 274 95 15 12 1 5 54 17 1 70 8 .325 .393 .593 .987
1957 132 538 486 84 154 31 3 24 263 100 15 6 0 2 49 6 1 71 14 .317 .379 .541 .920
1958 126 469 404 61 127 19 1 23 217 84 8 9 0 2 60 10 3 59 10 .314 .405 .537 .942
1959 59 181 153 21 45 10 1 7 78 29 2 3 0 3 24 7 1 24 6 .294 .387 .510 .897
1960 32 54 47 6 17 2 1 1 24 10 1 0 0 1 6 4 0 8 4 .362 .426 .511 .937
1961 99 301 253 48 77 6 1 21 148 54 4 6 0 3 44 13 1 42 8 .304 .405 .585 .990
1962 44 82 71 6 19 1 0 2 26 11 2 1 0 1 9 2 1 8 4 .268 .354 .366 .720
1963 81 241 216 26 61 7 0 11 101 26 0 3 0 0 24 2 1 47 10 .282 .357 .468 .824
1964 33 46 40 2 6 2 0 0 8 4 0 0 0 0 6 1 0 10 2 .150 .261 .200 .461
1965 34 58 51 3 15 2 0 2 23 9 0 0 0 1 6 1 0 8 4 .294 .362 .451 .813
1966 51 55 51 6 14 2 0 6 34 15 1 0 0 1 3 2 0 9 0 .275 .309 .667 .976
1967 32 40 36 3 10 2 0 3 21 9 0 0 0 0 3 0 1 7 1 .278 .350 .583 .933
1968 26 28 25 1 10 0 0 1 13 8 0 0 0 0 3 3 0 5 1 .400 .464 .520 .984
1969 6 7 6 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 2 0 .000 .143 .000 .143
通算:18年 1388 4645 4116 673 1262 207 38 244 2277 785 142 81 4 26 481 85 17 624 117 .307 .379 .553 .933
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別監督成績[編集]

年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
1962年 西鉄 3位 136 62 68 6 .477 16.0 92 .245 3.00 29歳
1963年 1位 150 86 60 4 .589 - 146 .244 2.69 30歳
1964年 5位 150 63 81 6 .438 19.5 116 .242 3.57 31歳
1965年 3位 140 72 64 4 .529 15.5 112 .246 3.00 32歳
1966年 2位 138 75 55 8 .577 4.0 125 .231 2.13 33歳
1967年 2位 140 66 64 10 .508 9.0 98 .222 2.50 34歳
1968年 5位 133 56 74 3 .431 24.0 110 .237 3.17 35歳
1969年 5位 130 51 75 4 .405 25.0 119 .225 3.40 36歳
1974年 日本ハム 6位 130 49 75 6 .395 6位・6位 96 .246 4.11 41歳
1975年 6位 130 55 63 12 .466 4位・4位 100 .258 3.89 42歳
1980年 阪神 5位 130 54 66 10 .450 20.5 134 .262 3.73 47歳
1981年 3位 130 67 58 5 .536 8.0 114 .272 3.32 48歳
通算:12年 1640 748 811 81 .480 Aクラス6回、Bクラス6回
※1 1962年、1966年から1996年までは130試合制
※2 1963年から1964年までは150試合制
※3 1965年は140試合制
※4 1973年から1982年までは前後期制のため、ゲーム差欄は上段前期順位、下段後期順位を表示
※5 1965年は試合前練習で負傷し4月19日から5月10日まで欠場(7勝6敗)。監督代理は深見安博
※6 1969年は成績不振により5月23日から6月13日まで(13勝5敗)、復帰後の10月9日から閉幕まで休養(1勝2敗)。監督代行は鬼頭政一
※7 1980年、ドン・ブレイザー監督辞任に伴い、5月15日にコーチから監督に就任(41勝54敗9分 勝率.432)
※8 1984年、ヤクルト武上四郎監督休養後の4月28日から監督代行(5勝11敗2分)。成績不振により5月22日に休養。監督代行は土橋正幸
※9 1994年、ロッテ八木沢荘六監督解任に伴い8月2日から監督代行(21勝22敗2分)
※10 通算成績は実際に指揮した試合の成績

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
  • 100本塁打:1955年8月4日、対近鉄パールス11回戦(平和台球場)、4回裏に山下登から先制決勝ソロ ※史上15人目
  • 150本塁打:1957年6月18日、対近鉄パールス10回戦(大阪球場)、6回表に蔦行雄から3ラン ※史上10人目
  • 1000本安打:1959年5月20日、対東映フライヤーズ8回戦(平和台球場)、6回裏に牧野伸から ※史上31人目
  • 200本塁打:1961年4月22日、対南海ホークス1回戦(大阪球場)、5回表に皆川睦雄から右中間へ3ラン ※史上7人目
  • 1000試合出場:1961年5月17日、対南海ホークス6回戦(平和台球場)、5回裏に城戸則文の代打で出場 ※史上58人目
その他の記録
  • オールスターゲーム選出:7回 (1953年 - 1955年、1957年 - 1958年、1961年、1963年)
  • 最多安打(当時連盟表彰なし):2回 (1953年、1957年) ※1994年より表彰

背番号[編集]

  • 6 (1952年 - 1969年)
  • 60 (1971年 - 1973年)
  • 88 (1974年、1995年 - 1997年)
  • 30 (1975年)
  • 81 (1979年 - 1981年)
  • 80 (1983年 - 1984年)
  • 77 (1985年 - 1990年)
  • 70 (1992年)
  • 89 (1994年)

関連情報[編集]

著書[編集]

単著[編集]

  • 『人を活かす 人を育てる』(学習研究社、1991年5月、ISBN 4051056309)
  • 『活人術:強い組織をつくるために』(小学館、1998年5月、ISBN 4093872511)
  • 『西鉄ライオンズ最強の哲学』(ベースボール・マガジン社、2007年11月、ISBN 4583100639)

監修[編集]

  • 『守備入門』(有紀書房(ぼくたちの野球百科)、1971年)
  • 『野球バッティング入門』(福田てんこう漫画、集英社(まんが版入門百科)、1972年)

解説者としての出演番組[編集]

出演CM[編集]

  • ヤクルト『タフマン』(ヤクルトヘッドコーチ時代に武上四郎監督と共演)

対談[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 憧れのWASEDA スポーツニッポン
  2. ^ 人生は他動的 スポーツニッポン
  3. ^ 立石泰則著「三原脩と西鉄ライオンズ 魔術師(上)」418ページ
  4. ^ 講談社刊 宇佐美徹也著「プロ野球記録大鑑」463ページ
  5. ^ 『俺たちの東京日本ハムファイターズ 後楽園・東京ドーム時代の30年間をこの1冊に!』 ベースボール・マガジン社〈B.B.MOOK BBMタイムトラベル〉、2014年、38頁。ISBN 9784583620886。
  6. ^ 週刊現代2016年12月31日号、p129
  7. ^ 1F 市民交流ゾーン - 高松市こども未来館
  8. ^ “香川)「たかまつミライエ」落成式 23日にオープン”. 朝日新聞. (2016年11月8日). http://www.asahi.com/articles/ASJC744BQJC7PLXB002.html 2017年1月22日閲覧。 
  9. ^ 【9月28日】1958年(昭33)怪童・中西太、2発でホークス撃沈 西鉄大逆転V スポーツニッポン2012年9月28日
  10. ^ 立石泰則著「三原脩と西鉄ライオンズ 魔術師(上)」469ページ
  11. ^ ニッポン新潮流 怪童・中西太の人材育成
  12. ^ 週刊ベースボールONLINE“レジェンド”たちに聞け!第7回 中西太[西鉄]
  13. ^ a b ベースボールマガジン社週刊プロ野球 セ・パ誕生60周年」47号24ページ
  14. ^ ノムさんの人生が示す、「一流」と「二流」の差
  15. ^ 中川淳一、「ことばオンライン 『三冠王』定着の陰に伝説の強打者 」- 日本経済新聞、2011年10月18日、2017年5月18日閲覧。
  16. ^ 野村克也 (2009). ああ、監督. 角川書店. ISBN 9784047101838. p.p.28~30 ここで野村は、コーチとしての指導実績は評価している。
  17. ^ 有名人がいまだから明かす「私が許せなかった人へ」【第6回】江本孟紀(野球解説者)から中西太へ「ベンチがアホ」発言いまからでも謝りたい”. 2016年2月7日閲覧。
  18. ^ 大阪日刊スポーツ編著『感涙!ナニワ野球伝説』朝日新聞出版、2011年、P41
  19. ^ 週刊プレイボーイ2012年10月22日号「江夏豊のアウトロー野球論」 721回
  20. ^ 若松勉氏殿堂入り「小さな大打者」に勲章日刊スポーツ2009年1月14日
  21. ^ 中西太氏がロッテ・角中らにアドバイス サンケイスポーツ2013年7月16日
  22. ^ 宮本2000安打を支えた2人の“恩人”ZAKZAK2012年5月8日
  23. ^ 「守備の人」が2000本安打。宮本慎也を支えた打撃理論と母の教えweb sportiva 2012年5月5日
  24. ^ “火ヤク庫”ヤクルト打線活躍の裏に中西太理論ありサンケイスポーツ2015年9月4日
  25. ^ おんりい・いえすたでい2015年8月21日週刊ベースボールオンライン
  26. ^ 益田啓一郎著「西鉄ライオンズとその時代」144ページ
  27. ^ [完全保存版] 草創期から支え続けた147人の監督列伝 日本プロ野球昭和の名将、ベースボール・マガジン社、2012年、P23

関連項目[編集]