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倭奴国王印

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

漢委奴國王印文

漢委奴國王印かんのわのなのこくおうのいん)は、日本で出土した金製の王印(金印)。倭奴国王印わのなのこくおうのいん)とも。天明4年2月23日1784年4月12日)、福岡県福岡市東区志賀島南端、叶崎の「叶の浜」で出土、福岡市博物館所蔵(福岡藩黒田家旧蔵)。国宝に指定されている。形式・発見の経緯に不自然な点があるとして、近世に偽造された偽物であるとの説もある。また偽物説に対する反論もある。

目次

概要

印は印面一辺2.3cm、鈕(ちゅう、「つまみ」)を除く高さ0.8cm、重さ108.7g。鈕は蛇鈕。3行にわけて篆書で『漢委奴國王』と刻されている。「委」は「倭」即ち倭国と解され「漢の倭(委)の奴(な)の国王」と訓じるのが通説である。

発見したのは甚兵衛という地元の百姓(近年の研究では発見者は秀治・喜平という百姓で、甚兵衛はそのことを那珂郡奉行に提出した人物という説も有力である)で、田の耕作中に偶然発見したとされる。一巨石の下に三石周囲して匣の形をした中に存したという。郡奉行から福岡藩へと渡り、儒学者亀井南冥によって『後漢書』に記された金印であると同定。その後は黒田家に伝えられ、1978年に福岡市に寄贈され、現在は福岡市博物館に保管・展示される。

『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」に

「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」

という記述があり、後漢光武帝建武中元二年(57年)に奴国からの朝賀使へ(冊封のしるしとして)賜った印がこれに相当するとされる。

中国代の制度では冊封された周辺諸国のうちで王号を持つ者に対しては、諸侯王が授けられるよりも一段低い金の印が授けられる。詳しくは印綬の項を参照。

1981年、中国江蘇省の甘泉2号墳で「廣陵王璽(こうりょうおうじ)」の金印が出土した。それは58年に光武帝第9子であり廣陵王であった劉荊に下賜されたものであり、字体が漢委奴国王印と似通っていることなどから、2つの金印は同じ工房で作られた可能性が高いとの結論が出た。これが真実だとすれば偽造説は完全に否定されることになる。

その他の説

  • 印綬の形式が漢の礼制に合わないとして、私印説・偽造説もある(西嶋定生宮崎市定三浦佑之など)[1]。また、私印説・偽造説に対する反論もある[2]
  • 「委」は「倭」の減筆とする説がある。一方、「委」には「まかせる」の意味があり、「倭」の減筆か疑問視する声もある。
  • 「漢の倭(委)の奴(な)の国王」と訓じる説(落合直澄、三宅米吉(「漢委奴国王印考」 『史学雑誌』、1892年)など)の他、委奴を「いと・ゐど(伊都国)」と読み、「漢の委奴(いと・ゐど)の国王」と訓じる説もある(藤貞幹上田秋成、久米雅雄、柳田康雄など)。
  • 倭の発音 「上古音uar 中古音ua 中世音uo 現代音u∂」(藤堂明保編「漢和大字典」学習研究社)
  • 奴の発音 「上古音nag  中古音no(ndo)  中世音nu  現代音nu」(出典同じ)
  • 漢代の漢字音(上古音)では奴をド、トとは読めないというのが定説である。
  • 上古北方漢音(漢代の方言)が存在したとして、奴を「ど」と読む久米雅雄説(『日本印章史の研究』 雄山閣、2004年)もあるが少数説である。
  • 古田武彦は、「漢」の「倭奴国」の「王」と読み、漢の家臣である倭奴国王(倭国王)の印綬とするが、学術論文として提示された説ではなく、研究者による検討、批判の対象とはされていない。

脚注

  1. ^ 志賀島「金印」に偽造説再燃 地元の反応は複雑、asahi.com、2007年3月3日
  2. ^ 高倉洋彰は漢代の印制にない蛇鈕の金印を偽造するのは不自然とする。また、安本美典は偽物に「倭」ではなく「委」を使用するのは不自然とする。また同一工房で同時期に「広陵王璽」と「漢倭奴国王」の金印が、製作されたとして
    • 辺長が、後漢時代の一寸に合っている。
    • 鈕にある魚子鏨の文様は、同一の鏨によって打ち出されている。
    • 文字は、Ц型とV型の箱彫りに近い形で彫られ、字体もよく似ている。
    を指摘している。

関連項目