側用人

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側用人(そばようにん)は、江戸時代幕府および諸藩に置かれた役職。正式な名称は御側御用人(おそば ごようにん)。

江戸幕府の御側御用人[編集]

江戸幕府における御側御用人は、征夷大将軍の側近であり、将軍の命令を老中らに伝える役目を担った。役料は、1万石。5代将軍綱吉時代の柳沢吉保、6代将軍家宣・7代将軍家継時代の間部詮房、9代将軍家重時代の大岡忠光、10代将軍家治時代の田沼意次、11代将軍家斉時代の水野忠成などが有名。

江戸時代初期には徳川家康秋元泰朝松平正綱が近侍しており『藩翰譜』では「御近習出頭役」と呼ばれ[1]、5000石級の旗本で、将軍の側衆として枢機に預かる者の中から選任され、特に重要事項の伝奏を役目とした。5代将軍となった綱吉は館林藩主当時の家老であった牧野成貞を初めて「御側御用人」の役職名で従来の近習出頭役の役職を引き継がせ、譜代大名に取り立てて幕府内で重用、これを老中合議制を廃して将軍専制を行う足がかりとした。

特に1684年、大老・堀田正俊江戸城内にて若年寄で従兄・稲葉正休に斬殺された事件を契機に、将軍の身を案ずるという名目で、老中の御用部屋が将軍の居所から遠ざけられたため、両者を仲介し、将軍の命令を老中に伝え、老中の上奏を将軍に伝える、伝達役が生まれた。このように老中よりも御側御用人が政権を運営する政治形態を、後代の史家は「側用人政治」と呼んだ。将軍が老中と合議する従来の形態なら、将軍としても老中の意向を無視できず、好き勝手に権力を行使できないが、直接顔をあわせる事を拒否する事で、老中の上奏をはねつけたり、将軍の命令を問答無用で押し通す事が容易となった。結果、将軍が譜代の老中を抑える手段として用いられ、将軍が御側御用人を通じて独裁政治を行うようになった。

牧野成貞引退後は、やはり館林時代からの側近であった柳沢吉保を御側御用人に任じ、牧野を上回る重用をしたほか、この頃になると綱吉が政治に熱意を失いだして、柳沢の意向が将軍の意向として伝えられることもあった。また、老中から将軍に御側御用人が取り次ぐ案件の中で御側御用人に異論があれば、取り次ぎ拒否が慣習として認められるようになった。柳沢は正式に老中に就任することは無かったが、老中上座、大老格の名を与えられ、名実共に幕臣最高の位置を占めた。次代の間部詮房にはこうした肩書きは無かったものの、実質としては老中を上回る権限を有していた。この綱吉の代以後は、もっぱら御側御用人(または御側御用取次)を通じた政治運営が主流となり、将軍専制という政治形態が完成された。将軍の親任により非常な厚遇を受け、御側用人の柳沢吉保や牧野輝貞は江戸城に個人としての部屋を与えられた[2]

「万事、神君様の掟之通り」を標榜した8代将軍吉宗は、幕府創業時にはなかったこの制度を将軍就任後ただちに廃止、これで譜代大名の信任を得た。ただし将軍と老中との間を取り次ぐ「御側御用取次」を設け、紀伊藩から吉宗に随従して幕臣(旗本)となった加納久通有馬氏倫という腹心を任命、彼らを通じた政治運営を行って、側用人政治を事実上継続した。それでも彼らを任命後すぐに大名にしたりはせず、また老中と対等になるような政治的発言や取り次ぎの拒否なども許さなかった。

言語障害があったといわれる9代将軍家重が就任すると、彼の不明瞭な言葉が解るのは近習の頃からの側近だった者に限られたため、そのうちの一人である大岡忠光が登用されて御側御用人制度が復活した。ただし、家重や次の家治はそもそも政治には積極的に関わろうとしなかったため、大岡や田沼意次といった御側御用人たちが必然的に強い権勢をもつことになったともいえる[3]。このうち田沼は初めて御側御用人から老中格を経て正式に老中に就任している。

御側御用人制度が始まった綱吉の治世の頃は身分の低い側近が任命されていたが、御側御用取次制度ができた享保以降の御用人は万石以上の大名の格式を持つ役職となった分、将軍への距離感が出た。[4]

これは吉宗以前の御側用人が老中・若年寄などの表の役職に昇進することがなかったのに対し、吉宗側近の御側御用取次加納久通が若年寄に昇進した事例を始めに、家重時代に御側用人が復活すると、将軍側近の御側御用人・御側御用取次から若年寄・老中へ昇進するルートが定着した。[5]

御側御用人一覧[6][編集]

諸藩の側用人[編集]

諸藩に置かれた側用人は、略して御側(おそば)と呼ばれることもあった。藩主にも公私の別があり、藩政を統括したのが家老なら、藩主の家の家政を取仕切ったり、藩主や世子の秘書的な役割を担ったのが側用人だった。江戸武鑑では江戸時代の後期以降に側用人就任者を掲載する藩が増加した。

側用人(御側御用人)と、用人(御用人)は、有能で藩主の信任が厚い者から選任されることが多いが、役目は異なる。用人は藩の統治機構に属する。側用人は、藩主の側衆として、枢機に預かるほか日常のお相手役となるが、藩主の家政を総覧する責任者となるのが原則である。この点、将軍と老中との伝奏役である幕府の側用人とは異なる点である。

しかし、津軽藩などのように側用人と用人を兼帯させる藩や幕府の例を模範として、側用人に藩主との公務上の取次を一括して行わせた藩もあった。この場合は御側御用取次たる側用人には、その職務内容の記述が分限帳などに注記されていることが多い。このような藩では、側用人には、家政総覧者たる側用人と、伝奏役たる側用人がいたことになる。

ただしこうした呼称や職掌は、すべての藩で普遍的に見られたものではなく、長州藩では「側用人」という役職はないが、江戸武鑑において直目付、奥番蔵就任者などを「側用人」として掲載する場合や柳河藩米沢藩のように側用人職が江戸武鑑と分限帳などの藩政史料の両方で記載のない場合も存在する。

また、側用人職がある藩も盛岡藩の近習頭のように側近職として側用人より上級職が存在することがあり、その軽重には大差があった。

幕府では老中より側用人のほうが権勢をもつこともあったが、諸藩ではあまり著名ではない。但し盛岡藩南部利済の側近で三奸臣の一人とされ、藩内では参政兼会計総括であった石原汀は江戸武鑑上では側用人として扱われているなど少数ながら存在する。

性質上、側用人には特に家格が高くなくても、藩主の信頼が厚く有能な側近であれば任じられる場合が多く、重責であることに変わりはなかった。藩によっては側用人が御側御用取次という肩書きを併せ持っていることもあるが、この場合は幕府の側用人とほぼ同義となる。

諸藩の側用人は、少なくとも給人(上級藩士の下位)または奏者(取次)以上の上級家臣の出自から選ばれるのが一般的だった。また、重臣の嫡子を教育上の観点から家督相続をする前の部屋住み身分の時代に小姓や側用人として出仕させる例は全国諸藩にあった。側用人は、用人より格下の役職であることが多いが、水戸藩や加賀藩のように格上とされている藩もある。公用人、番頭と比較した場合は藩によってさまざまである。

また全国諸藩の中には、統治機構に属する用人に取次を行わせた藩もあり、用人の中で数名の者だけに、取次役であったことを注記した分限帳も存在する。

側用人が存在しない柳河藩と米沢藩、仙台藩においては共通して小姓を統括する小姓頭職が存在しており、米沢藩の場合は一時的に側勤小姓頭御用向兼帯が存在した。

脚注[編集]

  1. ^ 笹間良彦『江戸幕府役職集成』雄山閣出版 1999年11月
  2. ^ 福留真紀『徳川将軍側近の研究』2006年3月、校倉書房)
  3. ^ これについて井沢元彦は、『逆説の日本史』において異説を唱えている。家重や家治は通説のような凡君ではなく積極的に幕政に関与し、大岡や田沼意次も積極的に登用しあえて強権を与えたのだという。その理由は、政治に消極的なら全てを老中まかせにしておけばいいのであって、言葉が不明瞭だろうが御側御用人を置く必要などないからである。
  4. ^ 深井雅海「江戸幕府御側御用取次の基礎的研究」1983年5月(『国史学 第120号』)
  5. ^ 福留真紀『徳川将軍側近の研究』2006年3月、校倉書房)
  6. ^ 笹間良彦『江戸幕府役職集成』雄山閣出版 1999年11月

参考文献[編集]

  • 美和信夫『江戸幕府側用人就任者および就任期間に関する考察』(『麗澤大学紀要』36号)昭和58年12月
  • 美和信夫『江戸幕府側用人就任者に関する分析』(『時野谷滋博士還暦記念制度史論集』)時野谷滋博士還暦記念制度史論集刊行会 昭和61年12月

関連項目[編集]