元文小判

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元文小判(文字小判)

元文小判(げんぶんこばん)とは元文元年5月(1736年)から鋳造が始まり同年6月15日より通用開始された一としての額面を持つ小判である。文字小判(ぶんじこばん)とも呼び、後の文政小判が発行されてからは、これと区別するため、古文字小判(こぶんじこばん)あるいは真文小判(しんぶんこばん)とも呼ばれた。

また元文小判および元文一分判を総称して元文金(げんぶんきん)、文字金(ぶんじきん)、古文字金(こぶんじきん)、あるいは真文金(しんぶんきん)と呼ぶ。

概要[編集]

表面には鏨(たがね)による茣蓙目が刻まれ、上下に桐紋を囲む枠、中央上部に「壹」下部に「光次(花押)」の極印、裏面は中央に花押、下部の左端に小判師の験極印、、吹所の験極印さらに右上に「文」字が打印されている。これは元禄金と区別するため「元」の使用を避けたことによる。

下部の左端の小判師の験極印および吹所の験極印の組み合わせにより「大」「吉」となったものは偶然大吉と呼ばれ、七福小判として縁起が良い物であると珍重されるが、元文小判以降は特製の献上小判も作成され、この極印は意図的に「大」「吉」が打たれている。

佐渡金座でも鋳造され、小判師の験極印、および吹所の験極印の組み合わせが「筋」「神」、「筋」「当」は佐渡小判とされる[1]

略史[編集]

徳川吉宗米価引き上げ策を講じて、財政に困窮する武士および農民を救済しようと試みるが思うような効果を挙げるものではなかった。そこで町奉行であるとともに、官僚として優れた才覚を有する大岡忠相らの提案を受け入れ、貨幣の品位を低下させ、通貨量を増大させる貨幣改鋳に着手した[2]。旧金(享保金および慶長金)100両に対し、新金(文字金)165両という大幅な増歩を付けて交換するというものであった。純金量を約44%低下させる吹替えであったため、このような大幅な増歩を付けても幕府には出目が入った[2][3]

元文元年5月(1736年)に出された、文字金銀に関する触書は以下の通りであった[4]

  • 一、世上金銀不足に付、通用不自由の由相聞へ候に付、此度金銀新に吹替被仰付候事

また古金に対する引替は以下のように定められた[4]

当初、旧金(慶長金、享保金)および新金(文字金)は無差別通用という触書であったが、江戸の十組問屋から品位の異なるものを無差別通用とするのは不可能との嘆願により、暫定的という条件で、引換の増歩と同率の旧金は65%増しという割合遣いを認めざるを得なかった[5]

一方。このような大幅な増歩での交換は通貨の急激な増大につながり、発行当初は急激なインフレーションに見舞われたが、この吹替えが当時の経済状況に即したものであったため、やがて物価および金銀相場は安定し、文字金は広く普及するようになり80年以上の長期間に亘り流通することとなった[2]。そのため流通による損傷が著しく、金座による直し小判が少なからず存在し異式槌目のものがそれであるとされる。

通用停止は文政7年3月(1824年)の触書では8年2月迄(1825年)であったが、延期され文政10年1月末(1827年)となった[5]

元文一分判[編集]

元文一分判(文字一分判)

元文一分判(げんぶんいちぶばん)は元文小判と同品位、1/4の量目でもってつくられた長方形短冊形の一分判であり、表面は上部に扇枠の桐紋、中央に横書きで「分一」、下部に桐紋が配置され、裏面は「光次(花押)」の極印が打たれている。裏面の右上に楷書体の「文」の年代印が打たれていることは小判と同様であり、文字一分判(ぶんじいちぶばん)あるいは真文一分判(しんぶんいちぶばん)とも呼ばれる。

元文金の量目および品位[編集]

小判の規定量目は三五分(13.11グラム)であり、一分判は八分七厘五毛(3.28グラム)である。

規定品位は六十六匁九分五厘六毛五糸位(金44匁につき銀22.9565匁、金65.71%、銀34.29%)である。

明治時代造幣局により江戸時代の貨幣の分析が行われた[6]。元文金についてその結果は以下の通りであった。

  • 65.31%
  • 34.41%
  • 雑0.28%

雑分はイリジウムなどである。

元文金の鋳造量[編集]

『旧貨幣表』によれば、小判および一分判の合計で17,435,711両1分である。

一分判は総鋳造量の三割とされる。すなわち5,230,713両1分(約20,922,853枚)前後である。小判は約12,204,998両という計算になる[1]

佐渡判は延享3年(1746年)より文政2年(1819年)までの鋳造高は小判149,001両、一分判63,858両1分(255,433枚)、合わせて212,859両1分と推計される[1]

吹替えにより幕府が得た出目(改鋳利益)は1,025,800両であった[3]。また金座における鋳造手数料である分一金(ぶいちきん)は鋳造高1000両につき、手代10両、金座人10両2分、吹所棟梁4両3分であった[1]

参考文献[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d 瀧澤武雄, 西脇康『日本史小百科「貨幣」』東京堂出版1999年
  2. ^ a b c 三上隆三『江戸の貨幣物語』東洋経済新報社1996年
  3. ^ a b 滝沢武雄『日本の貨幣の歴史』吉川弘文館、1996年
  4. ^ a b 草間直方『三貨図彙』 1815年
  5. ^ a b 小葉田淳『日本の貨幣』至文堂、1958年
  6. ^ 甲賀宜政『古金銀調査明細録』1930年

関連項目[編集]