全日本プロレス中継

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全日本プロレス中継
ジャンル プロレス実況中継番組
放送国 日本の旗 日本
制作局 日本テレビ
オープニング 日本テレビスポーツのテーマ
1972年10月から1979年3月まで
放送時間 土曜20:00 - 20:55→20:54
または土曜23:45 - 24:39
(55→54分)
放送期間 1972年10月7日 - 1979年3月31日
1979年4月から1985年9月まで
放送時間 土曜17:30 - 18:24
放送期間 1979年4月7日 - 1985年9月
1985年10月から1988年3月まで
放送時間 土曜19:00 - 19:54
または土曜15時台か16時台
(54分)
放送期間 1985年10月19日 - 1988年3月26日
1988年4月から1990年4月まで
放送時間 日曜22:30 - 23:26(56分)
放送期間 1988年4月3日 - 1990年3月25日
1990年4月から2000年3月まで
放送時間 日曜24:30 - 25:25
→ 土曜26:35 - 27:05
→ 日曜24:55 - 25:25
(54分→30分)
放送期間 1990年4月1日 - 2000年3月19日
2000年4月から2000年6月まで
放送時間 水曜25:45 - 26:15(30分)
放送期間 2000年4月 - 2000年6月21日

特記事項:
1994年4月から30分に短縮。
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全日本プロレス中継』(ぜんにほんプロレスちゅうけい)は1972年10月7日から2000年6月21日まで日本テレビで放映されたプロレス実況中継番組。全日本プロレスの試合を中継していた。

番組の放送時間が1時間から30分間に縮小されたのに伴い、タイトル表記が『全日本プロレス中継30』となった時期もあったが、後に放送時間は30分間のままで、従前の『全日本プロレス中継』に戻った。

テーマ曲は『日本テレビスポーツのテーマ』。

番組の歴史[編集]

前史[編集]

元々日本テレビでは開局(1953年)以来、力道山ジャイアント馬場アントニオ猪木らを中心とした日本プロレスの試合を、『三菱ダイヤモンドアワー日本プロレス中継』などのタイトルで放送していた。だが、1971年12月にNET(現・テレビ朝日)が担当していた中継(『NETワールドプロレスリング』)における番組上のメインイベンターであった猪木が日本プロレスを除名されたことでNETは馬場の試合中継を日本プロレスに要求し、日本プロレスはこれを認め、1972年4月3日に『NETワールドプロレスリング』に馬場を出場させたことに日本テレビと三菱電機は激怒した。『NETワールドプロレスリング』馬場初登場直後から日本テレビは、猪木が旗揚げした新日本プロレスの中継放送開始を計画し、新日本プロレスも交渉に応じようとした(猪木と『日本プロレス中継』のプロデューサーであった原章〈後に日本テレビ運動部長、日本テレビ取締役、現・福岡放送会長〉は親密だった)。計画では、『日本プロレス中継』を打ち切った上で、1972年夏から新日本プロレス中継を開始する計画だった[1][2]。最終的に日本テレビは三菱電機との協議の末、同年5月12日放送分を以って『日本プロレス中継』を打ち切り、1972年5月19日から7月14日までつなぎ番組として『日本プロレス選手権特集』を放送することにした[3]。『日本プロレス選手権特集』の後番組はドラマ『太陽にほえろ!』となったため(同時に1972年7月15日から日本テレビにおけるプロレス中継が初めて空白となった)、日本テレビにおける新日本プロレス中継放送計画は頓挫した。

しかし、プロレス中継の視聴率自体は高かったため、日本テレビは、『日本プロレス中継』終了直後から当時の小林與三次社長が、日本プロレスやNETに極秘裏に馬場がエース格となる新団体を設立するという裏工作を指示し[4]、これを受けて日本テレビはこの裏工作に於いて馬場に接触し、馬場に日本プロレスからの独立と新団体設立並びに日本テレビでの中継を持ちかけた。

NETへの自分の登場に反対していた馬場は、日プロ経営陣への不満もあって日本テレビの提案に同意し、1972年の「第1次サマー・ビッグ・シリーズ」開幕前に最終合意に至った。馬場はNETが金曜20時台でも日本プロレス中継(『NET日本プロレス中継』)を開始した翌日である1972年7月29日に赤坂プリンスホテルにおいて、「第1次サマー・ビッグ・シリーズ」終了(最終戦は8月18日に行われた宮城県石巻市中央広場大会)をもって日本プロレスを退団する記者会見を行った。そして馬場は同年9月9日に馬場自身がエース兼社長とする全日本プロレスの創立会見を行い、同年9月18日には旗揚げシリーズの概要が発表された[5]。なお、新日本プロレス中継は東京12チャンネル(現・テレビ東京)における単発放送を経て、NETが1973年4月6日に『NET日本プロレス中継』を打ち切り、新日本中継に変更した上で『ワールドプロレスリング』に再改題して再スタートしている[1]

土曜20時枠時代[編集]

1972年10月、馬場が新たに創設した全日本プロレスと日本テレビが中継権を締結し、新番組『全日本プロレス中継』が毎週土曜日の20:00 - 20:55(1975年10月より20:00 - 20:54)に放送されることとなると同時に日本テレビにおけるプロレス中継が3カ月ぶりに復活した。当初は全国29局ネットで開始した。第1回(10月7日)当日の新聞に掲載されたキャッチコピーは「お待たせしました! リングの王者ジャイアント馬場日本テレビに再登場! いよいよ今夜8時」「18年の歴史を誇る日本テレビ全日本プロレス中継」[3][6]と謳われていたように、日本テレビにおける馬場の試合中継並びに、日本テレビにおけるプロレス実況中継が5か月ぶりに復活する事をアピールした。第1回(10月7日[7])は「海外遠征第一戦『G・馬場対ザ・シーク』」(1972年9月20日、ホノルル)、第2回(10月14日)は「G・馬場アメリカ転戦記」と題し、団体旗揚げ前の馬場が、アメリカ遠征で行った試合の模様(一部、馬場以外の所属選手も含む)を放映。第3回目となる10月21日の「ジャイアントシリーズ前夜祭」(東京都町田市体育館)の生中継から、正式に新団体の中継放送に入り、翌10月22日に行われた旗揚げ第1戦である「'72ジャイアント・シリーズ」開幕戦日大講堂大会は10月28日に録画中継された[8]

創立初期は、馬場の人脈を利して一流外国人を常時招へいする一方、国際プロレスとも協力関係を築き、日本陣営に国際プロレスから移籍したサンダー杉山ザ・デストロイヤーを参加させたり、国際プロレスの選手を出場させるなど、選手の拡充を図った。さらに、鶴田友美(ジャンボ鶴田)、天龍源一郎などといった、話題性のある大型新人を、積極的にデビューさせていった。1973年6月に同年4月に崩壊した日本プロレスの残党が合流した他、1974年3月には国際プロレス中継番組であった『TWWAプロレス中継』(TBS)を打ち切られた国際プロレスと正式に提携した。

都内におけるビッグマッチは、初期は主に日大講堂を使用していた。全日本プロレスが日大講堂をビッグマッチ会場とした理由は、日本テレビと日大講堂との間でボクシング中継に関する包括契約が締結されていたためである[9]。日大講堂における全日本プロレスの興行は、日本大学が日大関連の行事以外の使用中止を通告した1977年3月まで続けられた[10]

1970年代から1980年代にかけては「プロレスの本場」としてのアメリカや、NWAの権威や地位などがまだまだ保たれていた時代であり、それはそのまま実質的に日本で唯一のNWA加盟団体であった全日本の強味となっていた。とかく大味になりがちだった試合内容はともかくとして、NWAなど数々のメジャーなタイトル戦の開催や、NWA公認の数多くのタイトルの新設(もしくは復活)、そしてNWAvsAWAの世界ヘビー級ダブルタイトル戦などアメリカでも実現不可能といわれた豪華な企画やマッチメイクが出来たのは、まさに当時の「馬場・全日本」だからこそ成し得たものだった(そんな馬場も1990年代に入ると「プロレスは日本の方がレベルが上」「今さらNWAでもないでしょう」と公言するようになる)。

無論、こうした豪華でグローバルなイメージは、テレビマッチのラインナップにも強く反映された。その流れで、海外の試合(主に所属選手の海外遠征時の試合。NWAエリアが多かった)も数多く放映された。1974年9月には東京12チャンネルにて『国際プロレスアワー』が開始し、国際プロレス中継が復活したが、『国際プロレスアワー』はネット局が少なかったため、ラッシャー木村グレート草津などの国際プロレス所属選手の出場試合は、大部分の地域では本番組でしか視聴できなかった他、馬場VS国際プロレス所属選手の試合、1975年に開催された「オープン選手権」は基本的に日本テレビの独占中継となるなど、馬場と日本テレビは、国際プロレスと東京12チャンネルに対する影響力も強めていった[11]

なおこの時期、4-10月まではプロ野球ナイター読売ジャイアンツ主管試合中心)が編成・開催された場合は野球を優先したため、23:45-24:40に繰り下げ(雨天中止の場合は定時通り)して放送が行われた。(後述参照

視聴率は、開始当初からプロ野球中継放送の場合は深夜に時差放送されていたことや、裏番組でなおかつ30%以上の高視聴率を叩き出していた『8時だョ!全員集合』(TBS)や『欽ちゃんのドンとやってみよう!』(フジテレビ)の影響で苦戦が続き、実力世界一路線や猪木とタイガー・ジェット・シンとの抗争で人気を博し、かつ視聴率が20%以上をたたき出していた『ワールドプロレスリング』を下回る週が多く[12][13]、1973年7月 - 9月の土曜20時台に放送されたときの視聴率は7% - 9%といった有様で、同年8月には4%の回もあったという[13]。また、初期の日大講堂における興行も閑古鳥が鳴く有様だった[10]。テコ入れ策として、1973年10月にはアントン・ヘーシンクをデビューさせたり、1977年には「世界オープンタッグ選手権」を開催し、1978年には11月25日に開催された国際プロレス「日本リーグ争覇戦蔵前国技館大会の実況生中継を放送したり、第1回となる「世界最強タッグ決定リーグ戦」を開催したものの、最終的に視聴率アップには繋がらなかった[12][13]。全日本プロレスと国際プロレスとの関係も、「日本リーグ争覇戦」蔵前大会当日に新日本プロレスのストロング小林小林邦明が、1978年12月16日開催の新日本プロレス「プレ日本選手権」蔵前大会に木村、アニマル浜口寺西勇吉原功代表がそれぞれ登場したことから全日本プロレスと国際プロレスとの不協和音が発生。これに伴い、全日本と国際との提携は1978年を以って終了した。

1979年4月の日本テレビの大幅改編に伴い、土曜20時枠の放送は同年3月31日新潟県三条市厚生福祉会館大会(「'79チャンピオン・カーニバル」第25戦)の生中継を以って終了した。

土曜夕方枠へ - ゴールデンタイム復帰[編集]

1979年4月7日からは土曜17:30 - 18:24のローカルセールス枠に変更され(ローカル枠変更初回の放送は前日4月6日に秋田県立体育館で行われた「'79チャンピオン・カーニバル」優勝決定戦〈鶴田VSアブドーラ・ザ・ブッチャー〉の録画中継)、同時に『日本プロレス中継』から続いてきたスポンサー付横幕や提供スポンサーによる読み上げがなくなり、基本的に録画中継に変更され、プロ野球中継で放送時間が左右されることも無くなった。

この時期から、初代タイガーマスクハルク・ホーガンなどのWWF(現・WWE)勢の参戦によって新日本プロレスの人気がさらに上昇した。1981年には新日本がブッチャーを引き抜いた事への報復で全日本はシンとスタン・ハンセンを引き抜き、日本テレビにおけるインターナショナル・ヘビー級選手権試合の放送も『日本プロレス中継』打ち切り以来9年ぶりに復活した[14]。しかし、土曜夕方枠へ移動後は全日本の経営が悪化し、日本テレビから役員が送り込まれ、松根光雄が代表取締役社長となると同時に馬場は代表取締役会長へ退いた上で、経営の立て直しが急務となった[12]。これにより、マッチメイクの見直しが行われることと同時に、現場責任者に佐藤昭雄を指名。鶴田と天龍の2人を二枚看板とし、年功序列のマッチメイクもやめ、越中詩郎三沢光晴、国際プロレスから移籍した冬木弘道などの若手育成に努め、1983年2月のザ・グレート・カブキ登場で、「'83エキサイト・シリーズ」は2月シリーズ初の黒字を達成した[12]

1980年代初期には正月や『土曜トップスペシャル』の枠において、大規模大会においてゴールデンタイムの特番が数回組まれたことがあり、生中継で放送されたこともあった。その一方、1980年代中期には全日本とジャパンプロレスとの業務提携や、木村の参戦に伴う国際血盟軍結成によって、日本人同士の抗争という新機軸も盛り込んだ。これを機に現場は再び馬場が仕切るようになり[15]、ジャパンプロレス勢の全日本参戦やザ・ロードウォリアーズ登場に伴い、新日本や『ワールドプロレスリング』は新日本における日本人大量離脱やWWFとの提携解消、テレビ朝日の不振で人気や視聴率が低下していき、同時に全日本の人気も上昇していった。一方で1985年3月には、新日本が一連の引き抜き戦争の報復としてブルーザー・ブロディを引き抜いたと同時にハンセン・ブロディとのミラクルパワーコンビが解消したものの、全日本の人気が揺らぐことはなかった。

この時期からゴールデンタイム復帰を見据えた動きがみられるようになり、1985年6月21日には1977年5月14日開催の「第4回チャンピオン・カーニバル」以来8年ぶりに日本武道館大会を開催。その模様は翌6月22日にレギュラー枠と『土曜トップスペシャル』にて録画中継された[16]。日本テレビは同年8月に本番組を10月19日から土曜19:00 - 19:54枠で6年半ぶりにゴールデンタイムへの復帰させることを発表した。発表記者会見には、全日本勢だけでなく長州力を始めとしたジャパン勢も共に出席。日本人抗争をゴールデン復帰の切り札や売り物にしようとした思惑が窺えた。ゴールデン復活第1回は、1985年10月19日に行われた「ワールド・チャンピオン・カーニバル」第12戦である後楽園ホールからの生中継であった。この時期から本番組は『ワールドプロレスリング』よりも視聴率で上回るようになっていた他、日本テレビ系新局開局などによる放映権移行などで、同時ネット局は土曜20時台時代よりも多くなっていた。

ゴールデンタイムに復帰後は、復帰翌年の1986年輪島大士をデビューさせ、1986年11月1日に石川県七尾市総合市民体育館から生中継された輪島のデビュー戦は17.1%という視聴率を記録した[15]。輪島やジョン・テンタの大相撲出身者が全日本に入団したことが引き金となり、同年11月に日本相撲協会から全日本に対し両国国技館の無期限使用禁止を通告したが、全日本は日本武道館を都内のもう一つのビッグマッチ会場としていたため影響は受けなかった。同年4月にはカルガリーハリケーンズの試合の放送が解禁された。ブッチャーとブロディも1987年に全日本へ復帰したが、同年にはジャパンプロレスも分裂し、長州など一部選手が新日本へ復帰した。

1987年4月以降は『ワールドプロレスリング』が『ギブUPまで待てない!!ワールドプロレスリング』にリニューアルされ、録画中継に移行したことに伴い、本番組が唯一実況生中継されるプロレス中継番組となったが、1988年3月26日の「'88チャンピオン・カーニバル」開幕戦である茨城県古河市立体育館大会の生中継を以って、土曜19時枠の放送並びに生中継も終了した。

ローカル枠・プライムタイムへの移行、そして深夜枠へ[編集]

ジャパンプロレス崩壊後でなおかつ「'88チャンピオン・カーニバル」シリーズ中の1988年4月からは日曜22:30 - 23:26に放送時間が変更されたと同時に、以降は再度ローカル枠での放送と同時に録画中継となり、再度プロ野球中継で放送時間が左右されることも無くなった(プロ野球中継延長の際は放送時間繰り下げ)。同時期に土曜夕方に移行した『ワールドプロレスリング』共々ゴールデンタイムや実況生中継で放送されるプロレス中継は消滅した。しかし、「'90チャンピオン・カーニバル」シリーズ中の1990年4月に、海外ドラマの放送を2年ぶりに再開したため、放送時間も日曜24:30 - 25:25に変更された。

しかしながら馬場をはじめ、三沢、川田利明田上明小橋健太プロレス四天王秋山準高山善廣といった、後年団体を牽引する選手たちをこの番組から育て上げた。また、日本武道館における興行も1989年以降は札止めが続き、1990年には天龍や谷津嘉章などの大量離脱があったものの、巧みなマッチメイクや「プロレスニュース」で番組を乗り切った。

馬場自身は、第一線を退くとともに、解説者として放送席に座ることが多くなった。

放送時間短縮 - 番組終了[編集]

放送時間は長らく1時間枠だったが、「'94チャンピオン・カーニバル」シリーズ中の1994年4月2日からついに土曜26:35 - 27:05の30分枠に短縮された。馬場が亡くなる直前の「'98世界最強タッグ決定リーグ戦」の優勝戦から、日本武道館等でのビッグマッチは通常の30分枠を15分拡大し、45分枠での放送形態をとった(馬場追悼特集や東京ドーム大会は60分枠)。また番組内容も、タイトルマッチへの流れ・闘いの状況等をまとめたVTRを多用したり、画面右上にテロップが表示されたりと工夫が見られてきた。この頃から若林健治竹内宏介等、かつての実況・解説者も復帰し始め、レギュラー45分枠の噂も飛び始めたが、馬場が1999年1月に結腸のため永眠し、番組は次第に衰退の一途をたどることになった。

「2000チャンピオン・カーニバル」シリーズ中の2000年4月には放送時間を日曜24:55 - 25:25から水曜25:45 - 26:15に変更したが、同年に発生した「2000スーパーパワーシリーズ」シリーズ終了直後における全日本プロレスの大量退団騒動を端に、日本テレビは2000年6月19日に本番組の打ち切りを正式発表し、2000年6月21日の放送を以って27年9か月の歴史に幕を閉じた。

なお45分枠で放送された最終回では、番組名は当然『全日本プロレス中継』でありながらも、放送内容は三沢をはじめとする退団選手達の新団体旗揚げ記者会見がメインという前代未聞の放送であり、『全日本プロレス緊急拡大スペシャル』のサブタイトルを加えて放送された[17]。その新団体たるプロレスリング・ノアには、元日本テレビの大八木賢一も専務取締役として在籍しており、このことからもノアと日本テレビが当時から密接な関係だったことが窺い知れる。なお最後の試合中継は大量退団騒動直前の同年6月9日に行われた「2000スーパーパワーシリーズ」の最終戦である日本武道館(世界タッグ王座決定戦〈川田利明&田上明vs大森隆男&高山善廣〉など)からの録画中継であった。

本番組の27年9か月という放送期間は、1954年2月から2009年3月まで放送されていた日本テレビのプロレス中継の歴史の中でも最長寿であった。

放送終了後[編集]

日本テレビはその後退団選手達が設立したノア側に付き、ノアが軌道に乗るまでの2000年6月28日から2001年3月までの約9か月間は『コロッセオ』をつなぎ番組とした後、同年4月からは『プロレスリング・ノア中継』に正式に移行した。

日本テレビは打ち切り後も全日本プロレスの試合を『コロッセオ』内でダイジェストの形で放送しようと計画したが、「日本テレビさんとはまだ、解決すべき問題が残っている」と、馬場元子渕正信などの残留派から猛反発を買い、「ジャイアント馬場3回忌興行」まで全日本プロレスから取材拒否を受けることになる。ちなみに日本テレビは本番組打ち切り当時、15%の全日本プロレスの株式を保有していた[18]。離脱してノアに移籍した選手は、本番組終了10日後である2000年7月1日に開幕した「2000サマー・アクション・シリーズ」の一部大会に興行の関係上出場したが[19]、当然日本テレビでは中継されなかった。現在は全日本プロレスの選手は日本テレビ系のバラエティ番組などに問題なく出演している。

本番組終了並びに大量離脱後における全日本プロレスの地上波中継は、テレビ東京2004年4月から2005年3月まで『プロレスLOVE 夜のシャイニング・インパクト』が、千葉テレビ2007年4月から2013年12月まで『全日本プロレス マザー』がそれぞれ放送された。この2番組は本番組とは異なりテレビ東京・千葉テレビは制作には関与せず、映像はGAORAFIGHTING TV サムライから提供を受け、全日本プロレスによる番販(持ち込み)方式を取っていた。

プロレスニュース[編集]

福澤朗が実況を担当した1990年代前半には、中継を行わなかった試合の結果や関連情報を伝える「プロレスニュース」というコーナーがあった。『ニュースプラス1』、『NNN昼のニュース』、『NNNきょうの出来事』などで使われていた報道スタジオから伝えていたが、その後、番組専用の報道セットが完成。後に「プロレスニュースプラス1」とコーナー名を変更し、主に試合会場周辺の屋外で、福澤が自分でデスク(=画板)を持って内容を伝えるロケ方式に変更されている[20]。福澤が事情で担当できない場合は、臨時で若林健治や金子茂など、他のプロレス実況担当アナウンサーが代わりに担当した。デスクにはネームプレートが付いていたが、福澤や金子などは漢字表記だったのに対し、野口敦史だけは平仮名表記となっていた。

「プロレスニュース」は「プ・プ・プ、プロレスにゅ~す」という福澤のタイトルコールで始まり、選手のコメントを福澤がものまねで代読[21]したり、あまり注目を集めていない外国人選手を面白おかしくプッシュする、「どぉ~ですか!?」というくだりから始まるなど、くだけた感じの進行だった。福澤自身は、「プロレスニュース」のことを「前衛的ミニコーナー」と表現していた(「週刊プロレス」リレーコラムより)。

「プロレスニュース」に対し、馳浩(当時新日本プロレス)が「プロレスを馬鹿にしている。許せない」「ぶん殴ってやる。あのアナウンサーあまりにもふざけすぎだよ」と息巻いていた(後に和解した模様。馳が後年全日本に入団した際、その入団後第1戦を実況したのは、他でもない福澤である)。

1994年最初の「プロレスニュースプラス1」では、冒頭部分のみ本家のキャスター(桜田順子真山勇一)と共演した。

「プロレスニュースプラス1」は、1994年3月のの放送時間短縮時に終了する。その最終回は福澤アナが「『プロレスニュース』に否定的な熱烈的プロレスファン」に刺され、「いつか、こんな日が来ると思ってたぁ…」と言うシーンで終了という、前述のような状況を茶化した(当然スタッフとの寸劇で、演技もわざと下手に行っていた)、いかにもプロレスニュース的な幕引きであった。

1997年に「プロレスニュースリターンズ」という形で一時復活したが、数回のみで自然消滅した。

その他エピソード[編集]

  • 番組の制作は一貫してバラエティ部署ではなく、原章運動部長(現・福岡放送会長)率いる日本テレビ運動部(スポーツ部)が担当した。
  • 番組開始当初から十数年程度、CM入り前に「日本テレビの全日本プロレス中継。この放送は(会場名)より全国のプロレスファンの皆さんにお送りしております」(ごく初期「全国のプロレスファンの皆さんに」という部分を「全国31局を結んでお送りしております」としたことがあった)というコメントが必ず放送されていた。
  • 試合後の選手のコメントも字幕で語られており、天龍革命時代の天龍源一郎の「何も言う事はない」(実際はノーコメントと言うだけ)、対超世代軍時代の三沢光晴戦後のジャンボ鶴田の「あいつはもっと良い奴だと思った」など数々の名言語録を残している。
  • 放送時間の変更は、前述の通り春の改編期に当たる「チャンピオン・カーニバル」中に行われることが多かった。
  • 1990年代に入ってから、高速度撮影を活用した「スーパースロー」を番組のひとつの目玉としていた。
  • 1992年頃までのオープニングタイトルは、『(日本テレビ または NTV)全日本プロレス中継』となっていたが、その後は、星マークと一緒に「ALL JAPAN PRO WRESTLING」の文字に加え、中央で「プロレス」という文字が回転されるデザインになっていた。
  • 1990年代前半の番組内ではSWSに移籍した選手やジャパンプロレス絡みの映像を封印していた。そのため長州力や天龍源一郎の映像はオンエアはおろかソフト化もされなかった。しかし特例としてタイガーマスクがマスクを脱いだ試合での谷津嘉章サムソン冬木の映像は何度となく流れている。また、第1回あすなろ杯の冬木や高野俊二の映像は顔隠しで「プロレスニュース」内で放送されたが、顔隠しだけでなく、テロップの冬木や高野の名前の部分を禁マークで隠していた他[22]、実況の部分でも効果音で伏せていた。1998年、番組内コーナー「王道リスペクト」(過去の名勝負紹介)で鶴田vs長州の映像を解禁した事を皮切りに、天龍、ザ・グレート・カブキ小林邦昭等の映像を次々と解禁した。
  • 本番組が放送された27年9か月の間にも、放送上のハプニングやトラブルが発生したり、収録中止となったケースもあった。
    • 「'80チャンピオン・カーニバル」では、1980年4月18日大阪府立体育館大会で行われたテリー・ファンクVSアブドーラ・ザ・ブッチャーはブッチャーがテリーの胸元にビール瓶を突き刺し、ディック・スレーターが救援に入った。5月2日後楽園ホール大会で行われたブッチャーVSザ・シーク戦でも、実況を担当していた倉持隆夫がシークの襲撃に遭い、倉持は額を割られて病院送りとなってしまった。土曜夕方枠時代は録画中継だったため、日本テレビは局の自主判断でテリーVSブッチャーを途中から静止画映像に切り替え、ブッチャーVSシーク戦を未放送とした[23]
    • 1984年10月22日に行われた「'84ジャイアント・シリーズ」第16戦長崎国際体育館大会では、同大会のプロモーターが宣伝活動やチケット販売、各方面への興行許可を行わずに蒸発していたことが当日になって判明。同大会は録画中継が予定されていたため興行や録画中継が危ぶまれたが、すでにファンが集まっていたため、馬場は当日に各方面へ興行許可を申請した上で興行並びに番組収録は予定通り行った上で録画放送された。
    • 1986年9月20日相模原市立総合体育館ジャパンプロレス主催興行)で行われ、実況生中継された長州vsスーパー・ストロング・マシンでは、試合後にマシンはマスクを脱ぎ捨てたが、マスク脱ぎのシーンは試合後にCMに入ったため放映されず、EDクレジット中に脱ぎ捨てられたマシンのマスクが映し出された。
    • 1995年1月19日に行われた「'95新春ジャイアントシリーズ」大阪府立体育会館大会は、阪神・淡路大震災発生から2日後の興行でなおかつ録画中継が予定されていたため、全日本プロレスは阪神・淡路大震災の被災地における唯一の開催である大阪大会を開催するか対応を迫られた。馬場と日本テレビは予定していた録画中継を中止にした上(後に大阪大会を収録したVHSを発売)で入場無料で興行を開催した。
  • 2000年6月19日に番組打ち切りが発表された際、発表当日の『ニュースプラス1』や翌6月20日の『ズームイン!!朝!』でも番組打ち切り決定が報じられた。その際実況も担当し、なおかつ当時『ズームイン!』を担当していた福澤朗は、『ズームイン!』で番組打ち切り決定のニュースを自ら伝えた直後に、この件に関するコメントを寄せた他、後に同じく実況も担当した徳光和夫も『THE・サンデー』において番組打ち切り決定に関するコメントを寄せている。この件はプロレスファンばかりでなく、日本プロレス中継からプロレス中継を放送してきた日本テレビ関係者にも衝撃を与えたことが窺い知れる。

主な実況アナウンサー[編集]

ローカル局アナウンサーは、主としてその地域で行われた興行の実況を担当する。ただし、山本純也・佐藤啓は、関東地区や札幌など、他地区の試合でも実況を担当した。
※川尻(現・益子なお美)は、日本武道館大会で同番組初めての女性実況アナウンサーとして参加した。

主な解説者[編集]

登場ゲスト[編集]

 等

スタッフ[編集]

  • プロデューサー:石尾栄二、森田貴之、今泉富夫ほか
  • 制作:原章
  • ディレクター:梅垣進、桜井純一、長尾泰希、村上和彦、岩崎泰治ほか
  • 制作協力:NTV映像センター(地方大会の場合、札幌テレビ、中京テレビ、読売テレビ、テレビ新潟、福岡放送など、番組を放送するネット局(独立UHF以外の番組販売ネットを含む)も協力としてクレジットされていた)
  • 製作著作:日本テレビ

ネット局[編集]

  • 系列はネット終了時(打ち切り時は放送打ち切り時)のもの。
  • ◎は『日本プロレス中継』からネットを継続した局。
  • ○は『日本プロレス中継』からネット局が変更となった局。
  • ●は『プロレスリング・ノア中継』も継続して日本テレビ系プロレス番組を放送した局。
放送対象地域 放送局 系列 備考
関東広域圏 日本テレビ 日本テレビ系列 制作局
北海道 札幌テレビ ◎●
青森県 青森放送
岩手県 テレビ岩手
宮城県 ミヤギテレビ
秋田県 秋田放送
山形県 山形放送
福島県 福島中央テレビ
山梨県 山梨放送
新潟県 新潟総合テレビ フジテレビ系列
日本テレビ系列
テレビ朝日系列
◎1980年3月まで[24]
テレビ新潟 日本テレビ系列 ●サービス放送開始直後の1981年3月28日から
長野県 信越放送 TBS系列 ◎1986年3月まで[25]
テレビ信州 日本テレビ系列 ●1986年4月から[25]
静岡県 テレビ静岡 フジテレビ系列 ○1974年4月から1978年6月まで
静岡けんみんテレビ
テレビ朝日系列
日本テレビ系列
現:静岡朝日テレビ
1978年7月開局から1979年3月まで[26]
静岡第一テレビ 日本テレビ系列 ●1979年7月開局から[26]
富山県 北日本放送 ◎●
石川県 北陸放送 TBS系列 ◎1990年3月まで[27]
テレビ金沢 日本テレビ系列 ●1990年4月開局から
福井県 福井放送 日本テレビ系列
テレビ朝日系列
◎1989年3月までは日本テレビ系単独加盟局
中京広域圏 中京テレビ 日本テレビ系列 ○●[7]
近畿広域圏 読売テレビ ◎●
鳥取県島根県 日本海テレビ
広島県 広島テレビ
山口県 山口放送
徳島県 四国放送
香川県
香川県・岡山県
西日本放送 ◎●1983年までの放送エリアは香川県のみ
1983年4月から電波相互乗り入れに伴い岡山県でも放送
愛媛県 南海放送 ◎●
高知県 高知放送
福岡県 福岡放送
長崎県 長崎放送 TBS系列 ◎1984年3月まで[28]
テレビ長崎 フジテレビ系列 1984年4月から1991年3月まで
1990年9月までは日本テレビ系とのクロスネット局
長崎国際テレビ 日本テレビ系列 ●1991年4月開局から
熊本県 熊本放送 TBS系列 ◎1982年3月まで[29]
くまもと県民テレビ 日本テレビ系列 ●1982年4月開局から
大分県 テレビ大分 フジテレビ系列
日本テレビ系列
◎1970年代後半までと、1985年10月から[30]
大分放送 TBS系列 1980年代初期-中期にネット[24]
宮崎県 宮崎放送 ◎1998年3月打ち切り[31]
鹿児島県 南日本放送 ◎1975年3月までと、1992年4月から1994年3月まで[32]
鹿児島テレビ フジテレビ系列
日本テレビ系列
1975年4月から1992年3月まで
鹿児島読売テレビ 日本テレビ系列 ●1994年4月開局から
沖縄県 琉球放送 TBS系列 ◎1970年代初期から1990年代中期にかけての一時期のみ[24]
  • この他にも、1990年代の30分短縮以後に、テレビ埼玉千葉テレビといった、関東の独立局が時差ネット(実質には日本テレビの再放送)をしていたこともある[33]

ネット局に関する備考[編集]

  • ゴールデンタイム(土曜20時台や土曜19時台)に放送されていた頃はほとんどの日本テレビ系列局(クロスネット局含む)が同時ネットで放送していたが、1979年4月から1985年9月までとゴールデンタイムを再度外された1988年4月以降は同時ネット局が減少した。特に土曜17:30枠や日曜22:30枠時代は、現在と違ってほとんどの系列局が当該時間帯に自社制作番組や他系列番組を組んでいたため[34]、週末午後のローカル枠や深夜ローカル枠に変更された地域がほとんどだった他、日曜深夜に放送されていたころは日本テレビでは『NNNドキュメント』の直後枠に組まれていた(『プロレスリング・ノア中継』も同様)。広島テレビでは土曜夕方枠時代、プロ野球広島東洋カープ中継が19:00から編成された際には、プロレス中継を返上して17:30 - 18:00まで穴埋め番組を放送した後、18:00 - 18:30まで『プレイボールナイター』を放送することがあった(読売ジャイアンツ主催ゲームも対広島戦に限り日本テレビから裏送り)。
  • ゴールデンタイムで放送されていた頃、プロ野球ナイター中継(1973年は20:00 - 21:25。1974年から1978年は19:30 - 20:55→20:54、1986年・1987年は19:00 - 20:54)が編成された際は、本番組は雨傘番組扱いとなり(雨天中止の際は通常通り放送)、土曜20時台放送の時は同日の23:45 - 24:39枠で録画放送を行い、その際は同枠で放送されている海外ドラマ[35]は休止となった他、土曜19時台の放送になった時は、ローカルセールス枠の土曜15時台か16時台の録画放送に変更されるなど、編成面でプロ野球ナイター中継との兼ね合いがあったようである。なお当時はNNS非マストバイ局やクロスネット局が多く、なおかつ他系列局で放送していた地域もあったため、地域によっては振替放送が実施されない場合があった。
  • テレビ中継される大会も、日本テレビ系列局(クロスネット局も含む)で放送されていた地域で行われた大会はもちろんのこと、他系列局で放送されていた地域で行われた大会でも、タイトル戦が行われていた関係で行われていた。土曜19時台で放送されていたころは、生中継が行われる大会に関しては、通常18:30試合開始のところを、17:00試合開始や18:00試合開始に繰り上げて対応していた。
  • またクロスネット局がある一部地域でも、放送枠の関係や『日本プロレス中継』をネットしていた局が本番組も続けて日本テレビ系プロレス番組枠を編成し続けたために、同一地域の他系列局(主にTBS系列局)で放送されるケースもあったが、他系列局で放送された場合は、ゴールデンタイムの放送においても本来の系列番組(『8時だョ!全員集合』・『クイズダービー』など)の優先ネットだったため、本番組は『日本プロレス中継』と異なり遅れネットとなった。但し、長崎放送(TBS系列)では土曜20時台の時代は『日本プロレス中継』から引き続き同時ネットで放送していた[28]。なお、レギュラー放送における実況生中継が一度も行われなかった県は、ゴールデンタイム当時TBS系列局で遅れネットしていた石川・宮崎・沖縄の3県[36]だった。
  • 当番組を放送していたNNS非マストバイ局やクロスネット局、そして他系列局の中には、当番組の他にもテレビ朝日系『ワールドプロレスリング』やTBS系『TWWAプロレス中継』も放送していた放送局もあった他、『ワールドプロレスリング』が未放送だった地域もあったため、本番組のネット局だけが『ワールドプロレスリング』や『TWWAプロレス中継』とのセットもしくは本番組のみで、プロレス中継を放送していた地域もあった。
  • 当番組の打ち切り後の後枠は『コロッセオ』だが、ほとんどの地域は打ち切り翌週から開始したものの、ミヤギテレビでは2000年7月2日に当番組の最終回を放送し、最終回放送直後に『コロッセオ』の初回を放送した(同年7月9日以降は当番組が放送されていた時間に移動)。
  • 島根・岡山の2県では日本海テレビ・西日本放送の電波相互乗り入れに伴い、本番組から日本テレビ系プロレス番組のネットを開始した一方で、日本テレビ系列局の山梨放送・四国放送、クロスネット局の福井放送・テレビ大分、TBS系列局の宮崎放送・琉球放送の6局は、本番組を以って『日本プロレス中継』から続いていた日本テレビ系プロレス番組のネットを打ち切ったと同時に、山梨・福井・徳島・宮崎の4県では地上波における全国ネットのプロレス中継が視聴できなくなってしまった[37]

一時期他局に移行していた地域[編集]

地域によっては、一時期他局へ放映権移行が行われ、ネットを開始した放送局に放映権が復帰した地域もあった(太字は一時期ネットした放送局)。大分放送は『ワールドプロレスリング』もネットしていた他、鹿児島テレビは1982年10月の鹿児島放送(テレビ朝日系列)開局まで『ワールドプロレスリング』もネットしていた。

  • テレビ大分→大分放送→テレビ大分
    • テレビ大分は『日本プロレス中継』から継続して本番組をネットしていたが、編成の都合で1980年代前半に大分放送へ放映権したものの、1985年10月のゴールデンタイム復帰に伴い、土曜19時台が日本テレビ系同時ネット枠であるテレビ大分へ再移行。
  • 南日本放送→鹿児島テレビ→南日本放送
    • 南日本放送は『日本プロレス中継』から継続して本番組をネットしていたが(本番組は遅れネット)、1975年4月、鹿児島テレビへ移行されたものの(1988年4月以降は遅れネット化)、1992年4月の鹿児島テレビの編成見直しに伴い南日本放送へ再移行され、放送時間が30分に短縮された1994年4月に鹿児島読売テレビへ再々移行。

番組スポンサーに関する特筆事項[編集]

日本プロレス時代のプロレス中継(定期番組)は「三菱ダイヤモンド・アワー」の放送枠(当初はディズニーランドとの隔週)で放送されており、長らく三菱電機一社提供だった。元々三菱電機は力道山のスポンサーであり、日本プロレス自体のスポンサーでもあった。テレビマッチのメインイベントの前に、三菱電機製の掃除機(「風神」など)でリング上を掃き清めるというスタイルの生コマーシャルが見られたり、実況の合間に「この放送は、皆様ご覧のテレビジョンを始め、数々の電化(家電)製品でおなじみの三菱電機が、全国の皆様にお送りしています」といった旨のアナウンスが入ったのは、この頃の事である。しかし番組の末期には、三菱電機を筆頭スポンサーとしながら、鈴木自動車、さらに久保田鉄工も提供スポンサーに加わっていた。

馬場は日本プロレスからの独立にあたり、日本テレビだけでなく、『日本プロレス中継』の提供スポンサーで日本プロレスのスポンサーだった三菱電機との縁も強く主張したが、新たに始まった『全日本プロレス中継』では、三菱電機が提供に付くことはなかった(金曜8時の三菱アワー枠に残り、後継番組である『太陽にほえろ!』のメインスポンサー<複数スポンサーとの共同協賛>となった)。ただし馬場との個人的な縁、全日本プロレスとの縁は継続され、リング上で渡される花束の提供元が三菱電機だったことも多かった(同じ三菱グループに属する三菱自動車工業は、後年、番組提供スポンサーに付いている)。番組は日鐵サッシをはじめとする複数社による提供(当初は主に金属・工業の企業である太平洋金属高田工業所、大阪精工などがスポンサーに携わっていた[38])となり、それも時代の推移と共に目まぐるしく入れ替わった。

主に1970年代の全日本プロレスでは、「オロナミンC」(大塚製薬)、「酒は黄桜」(黄桜酒造)「ヰセキ」(井関農機)など番組スポンサーをあしらった横幕がリングに張られていた。また、初期のころはダイヤモンドアワーからの名残でメインイベントやオープン選手権(現・チャンピオンカーニバル相当)、世界オープンタッグ選手権(現・世界最強タッグ決定リーグ戦相当)の開会式における選手への花束贈呈の協賛もしており、リングアナウンサーや実況席の解説者・アナウンサーが「この番組の提供スポンサー(1社ずつ読み上げ)より花束が贈呈されます」とアナウンスしていた。スポンサー付き横幕は1979年3月まで張られていたが[38]、同年4月の土曜17:30枠のローカルセールス枠移動と同時に横幕は「全日本プロレス中継 日本テレビ」→「ALL JAPAN PRO WRESTLING 日本テレビ」に変更された(2000年6月の当番組終了まで)と同時に解説者・アナウンサーによる読み上げも廃止された。但し、17:30からの放送となった時のごく一時期に日本テレビ(関東圏のみ)では録画中継である場合に限り当時の実況アナウンサーがスポンサーの提供読みとその日の放送カードの紹介をしていたものもあった。尚1979年4月以降のマットは、一時期赤青の2色を三角形状に分けたテレビ中継用マットと、青一色の未中継用マットに使い分けていたこともあった。

余談だが、三菱電機・鈴木・久保田(金8)・三菱自工[39]・大塚(土8)とも、プロレス撤退以後の後継番組でも協賛を続けていた。

アーカイブ放送[編集]

アーカイブ放送は、かつて本番組で放送されたNWA戦などのビッグマッチを、CS放送の日テレジータスにて放送されている。2016年12月までは『プロレスクラシック』として放送されていたが、2017年1月から本番組のアーカイブ放送の他にも、『プロレスリング・ノア中継』のアーカイブ放送も放送する『プロレス激闘の歴史』としてリニューアルされた。『プロレスクラシック』時代は、2009年3月まで1か月1回更新だったが、諸事情により、4月からしばらくは更新を途絶えていた。しかし、7月からしばらくの間は原則として奇数月に最新作、偶数月に過去放送の番組のアンコール放送を実施していたが、その後1か月1回更新に戻っていた。また全日本プロレスからプロレスリング・ノアに移籍したベテラン選手を特集したもの、日本プロレス中継時代の試合、『NOAH di コロッセオ』の再放送が放送されることもあった。共通事項として、1980年代までは一部の試合で生中継や当日録画(日本テレビなど一部の同時ネット局)があるため、部分的に無音になっている個所もある。

CS放送のFIGHTING TV サムライにおいても、『全日本プロレス王道史』→『ボクら全日王道クラブ[1]が放送された。これは週ごとに年代をおって全日本プロレスの40年を振り返っている番組で、そのため2000年の大量離脱後の試合も放送される場合があった。

備考[編集]

  1. ^ a b 『日本プロレス事件史 Vol.2』、P20
  2. ^ 『日本プロレス事件史 Vol.12』、P15
  3. ^ a b 高木マニア堂東スポweb 2012年12月14日
  4. ^ AERA1998年3月23日号
  5. ^ 『日本プロレス事件史 Vol.2』、P21
  6. ^ 18年とは前身の「三菱ダイヤモンドアワー・日本プロレスリング中継」の時代も含む
  7. ^ a b 中京広域圏での放映は中京テレビが12月まで2日遅れ(10月9日)の19:00から行った(翌年1月以降は日本テレビと同時ネット)。なお、この3か月間中京テレビの土曜20時枠では『大江戸捜査網』(東京12チャンネル)が日産自動車のスポンサードネットで放送されていた。理由については名古屋テレビ放送の沿革の項を参照のこと。尚、中京テレビにおけるジャイアント馬場の試合中継は、1972年4月3日放送の『NETワールドプロレスリング』新潟市体育館大会から放送されていた。
  8. ^ 『日本プロレス事件史 Vol.18』、P27
  9. ^ 『日本プロレス事件史 Vol.18』、P26
  10. ^ a b 『日本プロレス事件史 Vol.18』、P29
  11. ^ 『日本プロレス事件史 Vol.8』、P64 - P65
  12. ^ a b c d 『日本プロレス事件史 Vol.2』、P60
  13. ^ a b c 『日本プロレス事件史 Vol.3』、P56 - P58
  14. ^ 日本プロレス崩壊後もインターナショナル・ヘビー級王座を保持していた大木金太郎がNWA非加盟団体であった国際プロレスでインターナショナル・ヘビー級選手権試合を行ったため、大木がNWAの勧告を受け入れて返上した。
  15. ^ a b 『日本プロレス事件史 Vol.2』、P61
  16. ^ 『日本プロレス事件史 Vol.18』、P32
  17. ^ 旗揚げ戦よりも先に発進した全日本プロレス中継東京スポーツ 2010年6月16日
  18. ^ その後、日本テレビは保有していた全日本プロレスの全株式を、全て当時全日本プロレスの筆頭株主だった馬場元子(本番組打ち切り当時は85%保有)に売却した。
  19. ^ 2000年7月13日の愛媛国際貿易センター大会、7月15日の石川県七尾市総合市民体育館大会、7月17日の富山テクノホール大会、7月20日の博多スターレーン大会の4大会(4大会とも全日本主催ではない、いわゆる売り興行)にノアに移籍した選手が出場したが、カードは退団組だけで組まれ、退団組と残留派・外人選手・他団体所属選手とはカードを一切組まなかった。
  20. ^ 前述のセットは、この変更を機に処分されたことを福澤自身が嘆くようにこのコーナーで伝えていた。
  21. ^ ジャイアント馬場が喋ったところは、文字テロップのみでなぜか無音ということが多かった。
  22. ^ 福澤が紹介する際は「(禁)です」と紹介し高野や冬木の名前は一切伏せていた他、テロップの処理は高野は苗字の部分のみ隠していた(〈禁〉俊二)のに対して、冬木は全て禁マークで隠されていた。
  23. ^ 『日本プロレス事件史 Vol.2』、P63 - P65
  24. ^ a b c 時差ネット。
  25. ^ a b 信越放送は1985年10月のゴールデン復帰後も半年間継続し、期間中におけるテレビ信州の土曜19時台は別番組を放送していた。土曜19時時代は1986年4月のテレビ信州への放映権移行から同時ネット。
  26. ^ a b 静岡けんみんテレビでは1979年4月のローカル枠への変更と同時に打ち切り。静岡第一テレビでは、開局当初の1979年7月から9月は、『カックラキン大放送!!』がスポンサーの関係上10月改編まで静岡放送(TBS系列)に残存した穴埋めとして、一足早く静岡けんみんテレビから移行していた前半枠の『歌まね振りまね 新・スターに挑戦!!』を遅れネットとした上で、金曜19:00 - 20:00に放送していた。
  27. ^ 1972年10月18日より、時差ネットながらも番組第1回から放映。当初の放送時間は水曜22:35 - 23:30(11日遅れ)。なお北陸放送は、輪島大士のプロレス国内デビュー戦(1986年11月1日、石川県七尾市総合市民体育館)の生中継に制作協力を行ったが、同局では当時の定時枠だった火曜23:55 - 0:55にて、キー局より10日遅れの1986年11月11日に放映した。
  28. ^ a b 土曜20時台の時代は本来の系列番組である『8時だョ!全員集合』ではなく本番組を同時ネットし、なおかつ土曜20時台における後番組の『土曜スペシャル』→『土曜トップスペシャル』も1984年3月まで同時ネットで放送した。なお本番組はローカルセールスとなった1979年4月からテレビ長崎への放映権移行までは火曜深夜の遅れネットとなった。
  29. ^ 土曜日 16:00枠で7日遅れネット
  30. ^ 1975年ごろは日曜午後に時差ネット。
  31. ^ 日曜17:30 - 18:25などの遅れネット
  32. ^ 南日本放送はの日曜18時台は、ライバル団体である国際プロレスの中継番組であった『TWWAプロレス中継』ではなく本番組をネットしていたが、1973年4月の番組改編で『JNNニュースコープ』が日曜日の放送時間を17:30から18:30に移動することになった。南日本放送は『JNNニュースコープ』移動の際、日本テレビに対する信義を重視する一方、TBSからはニュース協定に基づいてのネット受けを迫られ、両者の板ばさみに遭ったものの、結局は当番組の放送時間を動かさなかった代わりに、『ニュースコープ』は日曜日のみ当日の19:30から録画放映する措置をとり解決した(本番組は後に時間移動)。
  33. ^ 関東の独立局は、当時NNSにオブサーバー参加していた。
  34. ^ 土曜17:30 - 18:30枠と日曜22:30 - 23:30枠は現在はいずれもネットセールス枠。
  35. ^ ただし1973年は『土曜イレブン』(『11PM』の土曜版)。また1976年10月から1977年3月の間は23:45 - 24:45に『シャボン玉ホリデー』(第2期)が編成されたので、海外ドラマ枠は36分繰下げた24:20 - 25:14で放送した。
  36. ^ 石川県は北陸放送からテレビ金沢への移行と同時に日本テレビにおける放送時間が日曜深夜へ移行。宮崎県は1979年4月にNNNに正式加盟したテレビ宮崎がゴールデンタイム時代の当該時間帯がフジテレビ系ネット枠だったため実況生中継が行われなかった。沖縄県は日本テレビ系列局が現在もない。
  37. ^ 但し、大分県では大分朝日放送が、沖縄県では琉球朝日放送がそれぞれ『ワールドプロレスリング』をネットしており、2県における地上波の全国ネットのプロレス中継は残っている。反対に山梨・福井・徳島・宮崎の4県では本番組打ち切りにより、『日本プロレス中継』から続いてきた地上波の全国ネットのプロレス中継自体が消滅した。ただし山梨では2012年1月11日の特番1回のみであるが『全日本プロレス マザー』がテレビ山梨で放送され全日本プロレスの番組が復活している。
  38. ^ a b ワールドプロレスリング』も開始当初は金属・工業系メーカーの小松製作所(コマツ)・小松フォークリフト三協アルミニウム(現・三協立山)などがスポンサーにつき、1982年ごろまでスポンサー付き横幕が張られていた。
  39. ^ 三菱自動車は土8枠を2009年9月まで続いた。

参考文献[編集]

  • 『週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史 Vol.2』 ベースボール・マガジン社2014年。ISBN 9784583621876。
  • 『週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史 Vol.3』 ベースボール・マガジン社2014年。ISBN 9784583622026。
  • 『週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史 Vol.8』 ベースボール・マガジン社、2015年。ISBN 9784583622699。
  • 『週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史 Vol.12』 ベースボール・マガジン社2015年。ISBN 9784583623252。
  • 『週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史 Vol.18』 ベースボール・マガジン社、2016年。ISBN 9784583624181。
日本テレビ 土曜20時枠
前番組 番組名 次番組
黒帯風雲録 柔
(20:00 - 20:56)
【ここまでドラマ枠
全日本プロレス中継
(1972年10月 - 1979年3月)
土曜スペシャル
(19:30 - 20:54)
日本テレビ系 土曜20:54-20:55枠
黒帯風雲録 柔
(20:00 - 20:56)
全日本プロレス中継
(1972年10月 - 1975年9月)
【1分縮小して継続】
NNNニューススポット
(20:54 - 21:00)
【1分拡大して継続】
日本テレビ系 土曜17:30-18:24枠
時間だヨ!アイドル登場
(17:30 - 18:00)
ヒット'79
(18:00 - 18:30)
全日本プロレス中継
(1979年4月 - 1985年9月)
日本テレビ系 土曜19時枠
ルパン三世 PartIII
(19:00 - 19:30)
※ここまでアニメおよび
読売テレビ制作枠
土曜トップスペシャル
(19:30 - 20:54)
全日本プロレス中継
(1985年10月 - 1988年3月)
日本テレビ系 日曜22:30 - 23:26枠
全日本プロレス中継
(1988年4月 - 1990年3月)
V・宇宙からの侵略者
(海外ドラマ再開)
日本テレビ プロレス番組
日本プロレス中継
(1958年8月 - 1972年5月)

日本プロレス選手権特集
(1972年5月 - 1972年7月)
全日本プロレス中継
(1972年10月 - 2000年6月)
コロッセオ
(2000年6月 - 2001年3月)