塚越孝

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塚越 孝
プロフィール
愛称 つかちゃん、塚たんくろう
出身地 日本の旗 日本 神奈川県川崎市中原区
生年月日 (1955-03-20) 1955年3月20日
没年月日 (2012-06-26) 2012年6月26日(満57歳没)
最終学歴 日本大学藝術学部放送学科
部署 フジテレビ クリエイティブ事業局
職歴 ニッポン放送アナウンサー(1977年4月1日 - 2006年3月31日)→ フジテレビアナウンサー(2006年4月1日~2011年6月28日)→フジテレビ クリエイティブ事業局
活動期間 1977年 - 2012年
ジャンル 情報・音楽番組
公式サイト フジテレビジョン
出演番組・活動
過去 朝からたいへん!つかちゃんでーす(1986年4月―1993年4月)
塚越孝の土曜ニュースアドベンチャー(1998年4月―2002年6月)
塚越孝 朝刊フジ(2004年8月 - 2005年3月)
わかってちょーだい!
知的冒険 ハッケン!!
アナ☆ログ(不定期出演)
アナウンサー: テンプレート - カテゴリ

塚越 孝(つかごし たかし、1955年3月20日 - 2012年6月26日)は、フジテレビニッポン放送に所属していた元アナウンサー。晩年は千葉大学国際教育センター客員教授専修大学経済学部兼任講師を務めた。

来歴[編集]

  • 神奈川県川崎市中原区出身。川崎市立橘高等学校を経て、日本大学藝術学部放送学科卒業。1977年ニッポン放送入社(同期は栗村智)。
  • 2002年にニッポン放送を一旦休職するが、その後報道部記者の扱いで復帰。のちに制作部アナウンサールーム所属に戻った(休職の経緯については諸説あるが明らかになっていない)。
  • 2006年4月ニッポン放送再編に伴い、フジテレビジョン編成制作局アナウンス室に転籍、同年アナウンス室専任部長に就任。この再編はライブドアによる買収騒動が発端となっており、イベント等の自己紹介において「ライブドア問題で移籍した」ことを話すのが恒例になっていた。
  • 千葉大学や専修大学でマスメディア論やジャーナリズム論などを教えた。
  • 2011年6月29日付でクリエイティブ事業局クリエイティブ事業推進センタークリエイティブ事業営業部プロデューサー(部長職)へ異動になったが、フジテレビの動画配信サイト「見参楽」で配信している番組には、引き続き進行役として出演した。
  • 神奈川県横浜市経営諮問委員を務めた。
  • 2012年6月26日、フジテレビ内の男子トイレ個室で首吊り自殺[1]。57歳没。

人物[編集]

  • 1991年度には『朝からたいへん!つかちゃんでーす』が日本民間放送連盟賞ラジオ生ワイド部門優秀賞を、2000年度には『塚越孝の土曜ニュースアドベンチャー母の日スペシャル「この母ありてこの子あり〜ツッパリから雑草魂まで」』がラジオ教養部門優秀賞を受賞した。
  • 1997年3月23日、ニッポン放送社屋移転特別番組『有楽町からお台場へ 1242人夢のマイクリレー』では、有楽町の旧本社ビル6階にあったレッドスカイスタジオ(第7スタジオ)から最後に放送したのは塚越であった。
  • 2001年9月11日、『西川貴教のallnightnippon SUPER! 』放送中に、アメリカ同時多発テロ事件が発生。番組内でニュース速報を担当する。
  • 2004年9月6日に台場から有楽町の新本社ビルに再移転した際に、最初に放送したのも塚越であった。
  • 少年時代は放送をスタートして間もなかった頃の「オールナイトニッポン」のリスナーでもあり、中学生の頃には漠然とアナウンサーを志望するようになっていた。オールナイトニッポンの会報「ビバヤング会報」も取って読み、同番組のイベント「ビバヤング例会」にも顔を出していた[2]
  • 愛称は「つかちゃん」であり、多くの聴取者から親しまれた。「くるくるダイヤル ザ・ゴリラ」など夜の番組を担当していた時期はパーソナリティネームを公募して付けてもらい、「塚たんくろう」と称していた。女子中高生ウケする名前を付けようということと、「塚越孝」だと画数が多すぎるからはがきに書く時に書きにくいのではないかということなどがこの理由だった。なお、他に候補には「塚越パセリ」「つかバナナ」があり、これらのマイクネームも試しで使っていたこともあった[2][3]
  • 丸くてほがらか塚越孝、つかでございます」という挨拶は有名で、晩年まで番組の冒頭の「塚越孝、つかでございます」という挨拶を続けた[4]
  • 古今亭志ん生が究極の目標。高校時代には落語研究部に入っていた(その時の高座名は『粗忽家助平(そこつや すけべい)』)。高田文夫新宿末廣亭の高座に上がったこともある[4]
  • 大学に進学してしばらくは高校時代と同じく落語研究会に籍を置いていたが、間もなくして放送研究会と学内紙日本大学新聞社の編集部に転部。日本大学新聞社においては漫画やイラストの多用を行い、それまで固かったイメージの内容を変えたといわれる。また、大学の同級生に伊藤蘭(当時、キャンディーズ)がいたことから、キャンディーズ解散直後にスタートした『塚越孝のオールナイトニッポン』ではキャンディーズ復活を呼びかけるコーナーを行っていた[4]
  • コラムニストの石井英夫と長年にわたり交流があるほか[5]、幅広いジャンルの著名人と交流があった。
  • 薬師丸ひろ子主演、森田芳光監督脚本角川映画メイン・テーマ』に出演していた。
  • 1960年に大洋ホエールズが優勝したことがきっかけで「ホエールズ子供会」に入会、それ以来の熱狂的な横浜DeNAベイスターズファン。草野球チーム「ツカーズ」を結成していた時期もある[4]
  • ニッポン放送で平日午前9時からの生ワイド番組『玉置宏の笑顔でこんにちは』を長期に亘って担当した玉置宏とは、同じく熱狂的なベイスターズファンにして落語好きであり、玉置シートと呼ばれた横浜スタジアム1塁側ベンチ上の移動席エリアで、仲良く野球観戦をしていた[6]
  • かつて、畑を借りて野菜作りをしていたこともあって、野菜の美味しさに目覚め、毎朝、糠床をかき回して、美味しい糠漬作りに励んだ[4]
  • 『朝からたいへん!つかちゃんです』放送当時、ゴムバンド健康法や飲尿健康法等を自ら率先して試し、健康には人一倍気を使っていた[4]
  • 毎年、クリスマスイヴの正午から放送されているラジオチャリティー・ミュージックソンで知り合った、筑波大学附属盲学校の少年に目をかける[4]
  • その日の番組終了時には「今日(今週)もお聴きいただき、ありがとうございました」と御礼を述べ、リスナーをたいへん大事にしていた[7]
  • 災害訃報ニュース原稿を読みながら、人憚らず涙を流す情にもろい優しい性格で人格者であった[8]

つかちゃんのハガキのコーナー[編集]

  • かつて塚越の担当していた各番組で行われていた名物コーナー。「ハガキ重視」という塚越のポリシーがある。
  • フジテレビジョン移籍後も、「フジテレビ アナウンス室 塚越孝」で送って欲しいと、「塚越孝のおはよう有楽町」の最終回で述べていた。

出演番組[編集]

以下はフジテレビ制作の番組

死去直前まで出演していた番組[編集]

著作物[編集]

  • 権太楼の大落語論(彩流社柳家権太楼との共著)
  • まむちゃんつかちゃんの 落語にラジオ(彩流社毒蝮三太夫との共著)
  • メディアとジャーナリズムの理論 基礎理論から実践的なジャーナリズム論へ(同友館、仲川秀樹との共著)

音楽[編集]

塚越が『オールナイトニッポン』木曜2部のパーソナリティを務めていた当時、同じ木曜の1部担当が南こうせつであり、1部終了後にスタジオに入って来て共演していたなどの縁があって生まれたという曲。

出典[編集]

  1. ^ 「塚越元アナウンサー、自殺か 2012.6.27」(MSN産経ニュース)より。2012年6月27日閲覧。
  2. ^ a b ラジオ・カタログJOLF(サンケイ出版、1982年)p.60 - 61
  3. ^ 月刊ラジオパラダイス 1988年8月号 メイン特集「全国4大エリア 夜ワイド合戦絵巻」(p.30)
  4. ^ a b c d e f g 月刊ラジオパラダイス 1986年12月号「DJプライベートヒストリー・第7回 ニッポン放送「朝からたいへん!つかちゃんでーす」より
  5. ^ まむちゃんつかちゃんの落語にラジオ(彩流社)にて、石井英夫は「まえがき」を寄せている。
  6. ^ 月刊ラジオパラダイス 1990年7月号「ラジパラタイムス」p.62
  7. ^ 月刊ラジオパラダイス 1986年8月号 12-15ページ 特集「モーニング・ラジオ・NOW」より。
  8. ^ 「いつかまたラジオに戻ると……」フジテレビ局内で自殺の“つかちゃん”塚越孝アナを偲ぶ声”. exciteニュース (2012年7月10日). 2015年6月27日閲覧。
  9. ^ つか金フライデーDOUGA
  10. ^ お台場寄席DOUGA
  11. ^ シルク姉さんの美人学院!
  12. ^ つかちゃんの酔いの口ワイド
  13. ^ シルク姉さんの美人サロン