孝元天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

移動先: 案内検索
この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字が含まれています詳細
孝元天皇

在位期間
孝元天皇元年1月14日 - 孝元天皇57年9月2日
先代 孝霊天皇
次代 開化天皇

誕生 孝霊天皇18年
崩御 孝元天皇57年9月2日 116歳
陵所 剣池嶋上陵
異称 大日本根子彦国牽天皇(紀)
大倭根子日子国玖琉命(記)
父親 孝霊天皇
母親 細媛命
皇后 欝色謎命
夫人 伊香色謎命
埴安媛
子女 稚日本根子彦大日日尊(開化天皇
大彦命
少彦男心命
倭迹迹姫命
彦太忍信命
武埴安彦命
皇居 軽境原宮(軽之堺原宮)

欠史八代の1人。
テンプレートを表示

孝元天皇(こうげんてんのう、孝霊天皇18年 - 孝元天皇57年9月2日)は、日本の第8代天皇(在位:孝元天皇元年1月14日 - 孝元天皇57年9月2日)。

和風諡号は、『日本書紀』では「大日本根子彦国牽天皇(おおやまとねこひこくにくるのすめらみこと)」、『古事記』では「大倭根子日子国玖琉命」。

『日本書紀』『古事記』とも系譜の記載はあるが事績の記述はなく、いわゆる「欠史八代」の1人に数えられる。

名称[編集]

漢風諡号である「孝元」は、8世紀後半に淡海三船によって撰進された名称とされる[1]

和風諡号である「おおやまとねこひこ-くにくる」のうち、「おおやまとねこひこ」は後世に付加された美称(持統文武元明元正の諡号に類例[2])、「くにくる」は国土(くに)に綱をかけてたぐり寄せる(くる)様子を表すと見て、孝元天皇の原像は「くにくる(国牽/国玖琉)」という名の国引きの神であって、これが天皇に作り変えられたと推測する説がある[3]

系譜[編集]

(名称は『日本書紀』を第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載)

父は第7代孝霊天皇、母は皇后で磯城県主(または十市県主)大目の娘の細媛命(細比売命)。

同母兄弟はいないが、異母兄弟に倭迹迹日百襲姫命彦五十狭芹彦命(吉備津彦命)稚武彦命らがいる。

妻子は次の通り。

  • 皇后:欝色謎命(うつしこめのみこと、内色許売命) - 穂積臣遠祖の欝色雄命(内色許男命)の妹。
    • 第一皇子:大彦命(おおひこのみこと、大毘古命) - 四道将軍の1人。阿倍臣・膳臣・阿閉臣・狹々城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣ら7族の祖(紀)。
    • 皇子:少彦男心命(すくなおこころのみこと:日本書紀一書、少名日子建猪心命) - 日本書紀本文なし。古事記では次男とする。
    • 第二皇子:稚日本根子彦大日日尊(わかやまとねこひこおおひひのみこと、若倭根子日子大毘毘命) - 第9代開化天皇
    • 皇女:倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと) - 古事記なし。
  • 妃:伊香色謎命(いかがしこめのみこと、伊賀迦色許売) - のち開化天皇の皇后で崇神天皇の母。
    • 皇子:彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと、比古布都押之信命) - 武内宿禰の祖父(古事記では父)。
  • 妃:埴安媛(はにやすひめ) - 河内青玉繋の娘。
    • 皇子:武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと、建波邇夜須毘古命)

系図[編集]

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天火明命
 
尾張氏族]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
火闌降命
 
 
 
 
天照大神
 
天忍穂耳尊
 
 
瓊瓊杵尊
 
 
彦火火出見尊
 
盧茲草葺不合尊
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天穂日命
 
出雲氏族]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
神八井耳命
 
多氏族]
 
 
 
 
 
1 神武天皇
 
 
2 綏靖天皇
 
3 安寧天皇
 
4 懿徳天皇
 
5 孝昭天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天足彦国押人命
 
和珥氏族]
 
 
 
 
 
 
大彦命
 
阿倍氏族]
 
 
 
 
 
 
 
6 孝安天皇
 
7 孝霊天皇
 
8 孝元天皇
 
 
9 開化天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
倭迹迹日百襲姫命
 
 
 
 
 
 
武内宿禰
 
葛城氏族]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
吉備津彦命
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
稚武彦命
 
吉備氏族]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


事績[編集]

日本書紀』『古事記』とも事績に関する記載はない。

『日本書紀』によると、孝霊天皇36年1月1日に立太子。孝霊天皇76年2月8日の父天皇の崩御を受け、崩御の翌年(孝元天皇元年)1月14日に即位した。そして孝元天皇4年3月12日に宮を軽境原宮に遷した。

その後、孝元天皇57年9月2日に在位57年にして崩御した。時に『日本書紀』では116歳、『古事記』では57歳という[3]。開化天皇5年2月6日、遺骸は「剣池嶋上陵」に葬られた。

[編集]

孝元天皇 軽境原宮阯碑
奈良県橿原市

宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では軽境原宮(かるのさかいはらのみや)、『古事記』では軽之堺原宮[4]

宮の伝説地は、現在の奈良県橿原市大軽町・見瀬町周辺と伝承される[4]。見瀬町では、牟佐坐神社(古くは「境原天神」とも)境内が宮跡にあたるとして参道に「軽境原宮阯」碑が建てられている(位置[5]

陵・霊廟[編集]

孝元天皇 劔池嶋上陵
(奈良県橿原市)

(みささぎ)は、奈良県橿原市石川町にある劔池嶋上陵(剣池島上陵、つるぎのいけのしまのえのみささぎ、位置)に治定されている[6][7][8]。公式形式は山形。考古学名は中山塚1-3号墳(円墳2基、前方後円墳1基)。

陵について『日本書紀』では前述のように「劔池嶋上陵」、『古事記』では「剣池之中岡上」の所在とあるほか、『延喜式』諸陵寮では「劔池嶋上陵」として兆域は東西2町・南北1町、守戸5烟で遠陵としている[8]。しかし後世に所伝は失われ、元禄の探陵で現陵に治定された[8]

また皇居では、宮中三殿の1つの皇霊殿において他の歴代天皇・皇族とともに孝元天皇の霊が祀られている。

在位年と西暦との対照[編集]

孝元天皇の在位年について、実態は明らかでない。『日本書紀』に記述される在位を機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。

考証[編集]

孝元天皇を含む綏靖天皇(第2代)から開化天皇(第9代)までの8代の天皇は、『日本書紀』『古事記』に事績の記載が極めて少ないため「欠史八代」と称される。これらの天皇は、治世の長さが不自然であること、7世紀以後に一般的になるはずの父子間の直系相続であること、宮・陵の所在地が前期古墳の分布と一致しないこと等から、極めて創作性が強いとされる。一方で宮号に関する原典の存在、年数の嵩上げに天皇代数の尊重が見られること、磯城県主や十市県主との関わりが系譜に見られること等から、全てを虚構とすることには否定する見解もある[2](詳細は「欠史八代」を参照)。

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 上田正昭 「諡」『日本古代史大辞典』 大和書房、2006年。
  2. ^ a b 上田正昭 「欠史八代」『日本古代史大辞典』 大和書房、2006年。
  3. ^ a b 孝元天皇(古代氏族) 2010年.
  4. ^ a b 軽境原宮(国史).
  5. ^ 軽境原宮(陵墓探訪記<個人サイト>)。
  6. ^ 天皇陵(宮内庁)。
  7. ^ 宮内省諸陵寮編『陵墓要覧』(1934年、国立国会図書館デジタルコレクション)8コマ。
  8. ^ a b c 劔池島上陵(国史).

参考文献[編集]

  • 国史大辞典吉川弘文館
    • 関晃「孝元天皇」中村一郎「劔池島上陵」(孝元天皇項目内)岡田隆夫「軽境原宮」
  • 「孝元天皇」『日本古代氏族人名辞典 普及版』 吉川弘文館2010年。ISBN 9784642014588。

関連項目[編集]