安寧天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

移動先: 案内検索
安寧天皇

在位期間
綏靖天皇33年7月15日 - 安寧天皇38年12月6日
先代 綏靖天皇
次代 懿徳天皇

誕生 綏靖天皇5年
崩御 安寧天皇38年12月6日 57歳[1]
陵所 畝傍山西南御陰井上陵
異称 磯城津彦玉手看天皇(紀)
師木津日子玉手見命(記)
父親 綏靖天皇
母親 五十鈴依媛命(紀)
河俣毘売(記)
皇后 渟名底仲媛命(紀)
阿久斗比売(記)
子女 息石耳命
大日本彦耜友尊(懿徳天皇
磯城津彦命
皇居 片塩浮孔宮(片塩浮穴宮)

欠史八代の1人。
テンプレートを表示

安寧天皇(あんねいてんのう、綏靖天皇5年 - 安寧天皇38年12月6日)は、日本の第3代天皇(在位:綏靖天皇33年7月15日 - 安寧天皇38年12月6日)。

和風諡号は、『日本書紀』では「磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)」、『古事記』では「師木津日子玉手見命」。

神武天皇(初代天皇)の孫。『日本書紀』『古事記』とも系譜の記載はあるが事績の記述はなく、いわゆる「欠史八代」の1人に数えられる。

名称[編集]

漢風諡号である「安寧」は、8世紀後半に淡海三船によって撰進された名称とされる[2]

和風諡号である「しきつひこ-たまてみ」のうち、「しきつひこ」は後世に付加された美称、末尾の「み」は神名の末尾に付く「み」と同義と見て、安寧天皇の原像は「たまてみ(玉手看/玉手見)」という名の古い神であって、これが天皇に作り変えられたと推測する説がある[3]

系譜[編集]

(名称は『日本書紀』を第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載)

父は第2代綏靖天皇。母の記載は記紀で異なり、『日本書紀』では事代主神の娘の五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと)、『古事記』では師木県主の祖の河俣毘売(かわまたびめ)とする[3]

兄弟に関する記載は『日本書紀』『古事記』ともにない。

妻子は次の通り。

  • 皇后:渟名底仲媛命(ぬなそこなかつひめのみこと、渟名襲媛)
    『日本書紀』本文による。鴨王事代主神の孫)の娘。
    ただし、同書第1の一書では磯城県主葉江の娘の川津媛、第2の一書では大間宿禰の娘の糸井媛とし、『古事記』では師木県主波延(河俣毘売の兄)の娘の阿久斗比売(あくとひめ)とする[3]
    • 第一皇子:息石耳命(おきそみみのみこと)
      『紀』一書・『記』では、息石耳命に代えて常津彦某兄(常根津日子伊呂泥命)を入れる。
    • 第二皇子:大日本彦耜友尊(おおやまとひこすきとものみこと、大倭日子鉏友命) - 第4代懿徳天皇
    • 皇子:磯城津彦命(しきつひこのみこと、師木津日子命) - 猪使連の祖(紀)。子に和知都美命(蠅伊呂泥・蠅伊呂杼姉妹の父)(記)。

『日本書紀』本文では子を息石耳命・大日本彦耜友尊の2人とするが、同書一書や『古事記』では常津彦某兄・大日本彦耜友天皇・磯城津彦命の3人とする。

系図[編集]

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天火明命
 
尾張氏族]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
火闌降命
 
 
 
 
天照大神
 
天忍穂耳尊
 
 
瓊瓊杵尊
 
 
彦火火出見尊
 
盧茲草葺不合尊
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天穂日命
 
出雲氏族]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
神八井耳命
 
多氏族]
 
 
 
 
 
1 神武天皇
 
 
2 綏靖天皇
 
3 安寧天皇
 
4 懿徳天皇
 
5 孝昭天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天足彦国押人命
 
和珥氏族]
 
 
 
 
 
 
大彦命
 
阿倍氏族]
 
 
 
 
 
 
 
6 孝安天皇
 
7 孝霊天皇
 
8 孝元天皇
 
 
9 開化天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
倭迹迹日百襲姫命
 
 
 
 
 
 
武内宿禰
 
葛城氏族]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
吉備津彦命
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
稚武彦命
 
吉備氏族]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


事績[編集]

日本書紀』『古事記』とも事績に関する記載はない。

『日本書紀』によると、綏靖天皇25年1月7日に立太子。綏靖天皇33年5月10日の父天皇の崩御を受け、同年7月3日に即位。そして翌々年の安寧天皇2年に宮を片塩浮孔宮に遷した。

その後、安寧天皇38年12月6日に在位38年にして崩御した。時に『日本書紀』では57歳[1]、『古事記』では49歳という[3]。懿徳天皇元年8月1日、遺骸は「畝傍山南御陰井上陵」に葬られた。

[編集]

安寧天皇 片塩浮孔宮阯碑
奈良県大和高田市

宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では片塩浮孔宮(かたしおのうきあなのみや)、『古事記』では片塩浮穴宮[4]

宮の伝説地については、次の3説がある[4]

  1. 奈良県橿原市四条町付近 (『帝王編年記』『和州旧跡幽考』)
  2. 奈良県大和高田市三倉堂・片塩町 (『大和志』『古都略紀図』)
  3. 大阪府柏原市 (『古事記伝』『大日本地名辞書』)

安寧天皇前後の諸宮が全て奈良盆地の中に位置することから、候補としては第1・2説が有力視されるが明らかでない。大和高田市では石園座多久虫玉神社境内に「片塩浮孔宮阯」碑が建てられている(位置[5]。なお、現在の大和高田市に残る「片塩」「浮孔」といった町名・施設名(例:浮孔駅)は、全て第2説を基にした近代以降の復古地名になる。

陵・霊廟[編集]

安寧天皇 畝傍山西南御陰井上陵
(奈良県橿原市

(みささぎ)は、奈良県橿原市吉田町にある畝傍山西南御陰井上陵(うねびやまのひつじさるのみほどのいのえのみささぎ、位置)に治定されている[6][7][8]。公式形式は山形。俗称「アネイ山」(山形墳)。

陵について『日本書紀』では前述のように「畝傍山西南御陰井上陵」、『古事記』では「畝火山の美富登(みほと)」の所在とあるほか、『延喜式』諸陵寮では「畝傍山西南御陰井上陵」として兆域は東西3町・南北2町、守戸5烟で遠陵としている[8]。しかし後世に所伝は失われ、元禄修陵では所在を誤ったが、幕末修陵に際して現陵に治定された。陵号の由来になったとされる古井戸の「御陰井」が陵南の集落中にあり、陵と共に宮内庁によって管理されている[8]

また皇居では、宮中三殿の1つの皇霊殿において他の歴代天皇・皇族とともに安寧天皇の霊が祀られている。

在位年と西暦との対照[編集]

安寧天皇の在位年について、実態は明らかでない。『日本書紀』に記述される在位を機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。

考証[編集]

安寧天皇を含む綏靖天皇(第2代)から開化天皇(第9代)までの8代の天皇は、『日本書紀』『古事記』に事績の記載が極めて少ないため「欠史八代」と称される。これらの天皇は、治世の長さが不自然であること、7世紀以後に一般的になるはずの父子間の直系相続であること、宮・陵の所在地が前期古墳の分布と一致しないこと等から、極めて創作性が強いとされる。一方で宮号に関する原典の存在、年数の嵩上げに天皇代数の尊重が見られること、磯城県主や十市県主との関わりが系譜に見られること等から、全てを虚構とすることには否定する見解もある[9](詳細は「欠史八代」を参照)。

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ a b 『日本書紀』本文では57歳とするが、立太子時で21歳とする記載では67歳となる。
  2. ^ 上田正昭 「諡」『日本古代史大辞典』 大和書房、2006年。
  3. ^ a b c d 安寧天皇(古代氏族) 2010年.
  4. ^ a b 片塩浮孔宮(国史).
  5. ^ 片塩浮孔宮(陵墓探訪記<個人サイト>)。
  6. ^ 天皇陵(宮内庁)。
  7. ^ 宮内省諸陵寮編『陵墓要覧』(1934年、国立国会図書館デジタルコレクション)8コマ。
  8. ^ a b c 畝傍山西南御陰井上陵(国史).
  9. ^ 上田正昭 「欠史八代」『日本古代史大辞典』 大和書房、2006年。

参考文献[編集]

  • 国史大辞典吉川弘文館
    • 川副武胤「安寧天皇」中村一郎「畝傍山西南御陰井上陵」(安寧天皇項目内)岡田隆夫「片塩浮孔宮」
  • 「安寧天皇」『日本古代氏族人名辞典 普及版』 吉川弘文館2010年。ISBN 9784642014588。

関連項目[編集]