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安政丁銀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

安政丁銀(政字丁銀)

安政丁銀(あんせいちょうぎん)とは安政6年12月8日グレゴリオ暦1859年12月31日)から鋳造が始まり、12月27日(グレゴリオ暦1860年1月19日)から通用開始された丁銀の一種である。江戸幕府最後の秤量貨幣であり政字丁銀(せいじちょうぎん)とも呼ばれる。また安政丁銀および安政豆板銀を総称して安政銀(あんせいぎん)あるいは政字銀(せいじぎん)と呼ぶ。

目次

概要

表面には「(大黒像)、常是」および「常是、寳」の文字に加えて「政」字の極印が打たれている。安政小判と異なり「正」の字を避けたのは宝永年間に特鋳された宝永正字丁銀との混同を避けるためである。また、「大黒像」極印を12箇所打った祝儀用の十二面大黒丁銀が存在する[1][2]

略史

嘉永6年(1853年)、浦賀沖の黒船来航により幕府開港を迫られ、日本貨幣と西洋貨幣との交換比率が定められた。ハリスは金貨、銀貨はそれぞれ同種同量をもって交換すべきで、一分銀3枚を持って1ドル銀貨に換えるべきと主張した。一方、幕府側は、一分銀は名目貨幣であり銀含有量が通用価値を示すものではないとして、1ドル銀貨を双替方式で評価し1ドル=1分であると主張した。結局、米国側に押し切られ、1ドル=3分の交換比率を承諾することになる。これは日本国内での金安を意味し、数十万にも及ぶともいう金貨流出を招く結果となった[3][4]。本来一分銀は銀含有量が貨幣価値に満たない名目貨幣であったが、貨幣鋳造により生み出される出目(改鋳利益)が莫大なものであったため、一分銀の鋳造量は飛躍的に増大し、本位貨幣の性質をもつ丁銀に取って代わる存在となり、事実上一分銀の銀含有量が本位貨幣的な尺度となっていたためであった。

この金流出を防ぐ目的で、安政小判および安政二朱銀が鋳造されたが、一分銀より低額面でありながら、より多量の銀を含む安政二朱銀は洋銀の価値を切り下げるものであるため、ハリスの逆鱗に触れ発行は短期間で中止となった。この大型化した安政二朱銀鋳造用の銀地金を捻出するために品位を下げた幕府最後の秤量銀貨である政字銀の鋳造が建議された[2]。しかし実際に政字銀の鋳造が開始されたのは半年後であった。また、政字銀を一両あたりの銀含有量に換算すると、一分銀の一両当りにほぼ等しい[3]

慶應元年5月(1865年)古銀に対する引替の増歩は以下のように定められた[5]

  • 元文銀10貫目につき 政字銀19貫目
  • 文政銀10貫目につき 政字銀15貫目
  • 保字銀10貫目につき 政字銀11貫目
  • 古二朱銀100両につき 160両
  • 文政二朱銀100両につき 115両

しかし市場は一分銀など両、分を単位とする計数銀貨が流通を支配する中、秤量銀貨の地位は既に低下しており、政字銀の鋳造は少量に止まったため、銀建ての価格表示すなわち銀目取引は藩札および手形に役目を譲り、「空位」とまで呼ばれた。従来「銀遣い」と呼ばれた上方においても、秤量銀貨の流通は僅少であったという[5]。この後、量目を大幅に縮小した万延小判が発行され、物価は乱高下しながらも激しく上昇し幕府の崩壊へつながった。 慶應4年5月9日1868年)、銀目廃止により丁銀および豆板銀は貨幣としての役目を終えた。

安政豆板銀

安政豆板銀(政字小玉銀)

安政豆板銀(あんせいまめいたぎん)は安政丁銀と同品位の豆板銀で、「寳」文字および「政」字を中心に抱える大黒像に「政」字が配置された極印のものを基本とし、また両面に大黒印の打たれた「両面大黒」、大文字の「政」字極印である「大字政」、小さな「政」字が集合した「群政」、また大黒像の中心に「寳」字を抱えた「政字寳」なども存在する[1][6]。片面のみに大黒印が打たれた「片面大黒」は現存数が比較的少ない。

安政銀の品位

規定品位は銀13%[1][2][5][6][7]ママ〕(八割四分六厘引ケ[7])、銅87%〔ママ〕である。八割四分六厘引ケならば銀14%と計算される。

明治時代造幣局により江戸時代の貨幣の分析が行われた[8]。安政銀について以下の通りである。

  • 0.02%
  • 13.50%
  • 雑86.48%

雑分はほとんどがであるが、少量のビスマスなどを含む。

名目上は銀であるが、品位の上では銅の銀気を帯たるものに過ぎないといえる。このように銅の含有率の多い銀合金は真鍮色から銅色を呈するため、貨幣製造時に、表面を銀色に見せるための色揚げが行われた。これは焼きなまして表面に酸化銅の皮膜を生じた丁銀を加熱した梅酢につけ、酸化銅および銅を溶解し、表面に銀が残るというイオン化傾向を利用した操作であった。

安政銀の鋳造量

『旧貨幣表』によれば丁銀および豆板銀の合計で102,907(約386トン)である[9]

参考文献

  1. ^ a b c 『新訂 貨幣手帳・日本コインの歴史と収集ガイド』 ボナンザ、1982年
  2. ^ a b c 瀧澤武雄,西脇康 『日本史小百科「貨幣」』 東京堂出版1999年
  3. ^ a b 三上隆三 『江戸の貨幣物語』 東洋経済新報社1996年
  4. ^ 石井孝 『幕末開港期経済史研究』 有隣堂1987年によると、流出額はとかく過大に見積もられがちであり、実際には10万両程度であるという。
  5. ^ a b c 小葉田淳 『日本の貨幣』 至文堂1958年
  6. ^ a b 『日本の貨幣-収集の手引き-』 日本貨幣商協同組合、1998年
  7. ^ a b 田谷博吉 『近世銀座の研究』 吉川弘文館1963年
  8. ^ 甲賀宜政 『古金銀調査明細録』 1930年
  9. ^ 『新旧金銀貨幣鋳造高并流通年度取調書』 大蔵省1875年

関連項目