川島芳子

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かわしま よしこ
川島芳子
Yoshiko Kawashima.jpg
生誕 1907年5月24日
死没 1948年3月25日
  

川島 芳子(かわしま よしこ、1907年5月24日 - 1948年3月25日?)とは清朝皇族粛親王の第十四王女である。

本名は愛新覺羅 顯◆(あいしんかくら けんし ◆は王偏に子と書く。玗や玕とは別の字であるので注意)、字は東珍、漢名は金璧輝俳名和子。他に芳麿良輔と名乗っていた時期もある。

粛親王の顧問だった川島浪速の養女となり日本で教育を受けた。1927年にパプチャップ将軍の二男で蒙古族のカンジュルジャップと結婚したが3年ほどで離婚した。その後上海へ渡り同地の駐在武官だった田中隆吉と交際して日本軍工作員として諜報活動に従事し、第一次上海事変を勃発させたといわれているが(田中隆吉の回想による)、実際に諜報工作をやったのかなど、その実態は謎に包まれている。

戦後間もなく中華民国政府によって漢奸として逮捕され、銃殺刑となったが、日中双方での根強い人気を反映して現在でも生存説が流布されている。

目次

粛親王善耆第十四王女として

川島芳子こと愛新覺羅顯シは粛親王善耆の第十四王女として光緒33年4月12日(西暦1907年5月24日)、北京の粛親王府に生まれた。生母は粛親王の第四側妃。粛親王家は清朝太宗ホンタイジの第一子武粛親王豪格を祖とし、建国の功績により親王の位を世襲することが認められた親王家だった(一般の皇族の爵位は一代ごとに親王 →郡王 → 貝勒と降格してゆく)。

の「東珍」は、日本へ養女にだす際に、東洋の珍客として可愛がられるようにとの願いをこめて粛親王がつけたもの。また漢名の金璧輝は兄金壁東からとったもので、当初は壁だったが、後に芳子本人が璧を用いるようになった。(金壁東の「壁」は「東方の防塁」となれという意味を込めて粛親王がつけたもの)。

1911年10月に辛亥革命が起こると、翌1912年2月には宣統帝が退位、袁世凱を臨時大総統とする共和制国家・中華民国が建国された。袁世凱の政敵で宣統帝の退位に強く反対していた粛親王は、皇帝退位直前に川島浪速(かわしまなにわ)の手引きで北京を脱出し、日本の租借地だった関東州旅順に渡り、家族も引き続いて旅順へ亡命した。

旅順では粛親王一家は関東都督府の好意により、日露戦争で接収した旧ロシア軍官舎を屋敷として提供され、幼い顯シも日本に養女に行く前の一時期をそこで過ごした。

粛親王は川島浪速を通じて日本軍・政府の支援を受けて、反袁世凱・清朝復辟を掲げる宗主党の中心人物となり、1912年と1916年の2度にわたり挙兵を計画したが(第一次・第二次満蒙独立運動)、いずれも日本側の方針転換で中止され、失敗に終わっている。

川島浪速は信州松本藩士の子として生まれ、外国語学校支那語科で中国語を学び、1900年の義和団事件で陸軍通訳官として従軍。日本軍の占領地域における警察機構の創設を評価され、日本軍の撤退後も清朝から雇用され、中国初の近代的警察官養成学校である北京警務学堂の総監督に就任した。 [1] これが縁となり、川島は警察行政を管轄する工巡局管理大臣(後に民政部尚書)粛親王善耆と親交を結んでいた。

川島芳子として

粛親王が復辟運動のために日本政府との交渉人として川島を指定すると、川島の身分を補完し両者の密接な関係を示す目的で、顯シは川島浪速の養女とされ芳子という日本名が付けられた。

1915年に来日した芳子は当初東京赤羽の川島家から豊島師範付属小学校に通い、卒業後は跡見女学校に進学した。やがて川島の転居にともない長野県松本市の浅間温泉に移住し、松本高等女学校(現在の長野県松本蟻ヶ崎高等学校)に聴講生として通学した。松本高等女学校へは毎日自宅から馬に乗って通学したという。

1922年に実父粛親王が死去し、葬儀参列のために長期休学したが、復学は認められず松本高女を中退した。

17歳で自殺未遂事件を起こした後、断髪し男装するようになった。 断髪の原因は山家亨少尉との恋愛問題とも、養父浪速に関係を迫られたためともいわれているが、その詳細は明らかではない。

断髪した直後に、女を捨てるという決意文書をしたため、それが新聞に掲載された。芳子の断髪・男装はマスコミに広く取り上げられ、本人のもとへ取材記者なども訪れるようになり、この時期のマスコミへの露出が、後に“男装の麗人”像が昭和初期の大衆文化の中で形成される大きな要因となった。

芳子の端正な顔立ちや、清朝皇室出身という血筋といった属性は高い関心を呼び、芳子の真似をして断髪する女性が現れたり、ファンになった女子が押しかけてくるなど、マスコミが産んだ新しいタイプのアイドルとして、ちょっとした社会現象を巻き起こした。

満洲国建国の影で

女を捨てた決意文書と断髪・男装から2年が経った1927年に、芳子は関東軍参謀総長だった斎藤恒の仲人で、旅順ヤマトホテル蒙古族の巴布扎布(パプチャップ)将軍の二男カンジュルジャップと結婚するが、夫の親族となじめず家出し、3年ほどで離婚した [2]

離婚後に上海に渡った芳子は、1930年に上海駐在武官田中隆吉少佐と出会い交際するようになる。田中の回想によると、当時田中が上海で行っていた諜報活動に関わるようになったという。また田中の回想によれば、芳子は後に国民党行政院長だった孫科孫文の長男)とダンスホールで接触し国民党内部の情報を入手し、この件で孫科は失脚したという。

1931年9月に関東軍の石原莞爾が日本政府の承認を得ないまま張学良軍を独断で攻撃した満洲事変を引き起こし、11月には清朝最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀が、関東軍の要請を受けて天津から満洲へ脱出する。

芳子はこの時、溥儀の皇后である婉容を天津から連れ出すことを関東軍から依頼され、婉容を天津から旅順へ護送する任務に携わった。

田中の回想によれば、同年末に関東軍参謀板垣征四郎からの依頼を受けて、第一次上海事変のきっかけとなった上海日本人僧侶襲撃事件を田中が立案しており、関東軍から提供された2万円を使って中国人を雇って日本人僧侶を襲わせたが、この際に実行役を集め、報酬と引き換えに襲撃を実行させたのが芳子だった、とされている。

ただし、田中隆吉は戦後東京裁判で連合国側の証人として出廷しており、自己の責任を他者に転嫁するなど、その発言の信憑性には疑問が多い。芳子との関係や芳子が諜報活動に携わったというのもどこまでが真実かは不明である。しつこくつきまとう田中に芳子がうんざりしていたという証言もある。上海事変のきっかけに芳子が関わったというのも田中隆吉の回想以外の記録には見られない。

1932年3月に、関東軍が溥儀を執政として満洲国を樹立させると、川島芳子は新京に置かれた宮廷での女官長に任命されるが、実際に就任することはなかった。

1932年年に川島芳子をモデルにした村松梢風の小説である『男装の麗人』が発表され、芳子は「日本軍に協力する清朝王女」としてマスコミの注目を浴びるようになる。

1933年2月になり、関東軍熱河省進出のため熱河自警団(安国軍または定国軍と呼ばれた)が組織され、川島芳子が総司令に就任した [3]。 このニュースは日本や満州国の新聞で大きくとりあげられ、芳子は「東洋マタ・ハリ」、「満洲のジャンヌ・ダルク」などと呼ばれた。 断髪時のエピソードや小説の影響から既に知名度が高かった事もあり、芳子は一躍マスコミの寵児となった。

当時はラジオ番組に出演し、余った時間に即興で歌を披露すると、それがきっかけでレコードの依頼があり、『十五夜の娘』『蒙古の唄』などのレコードが発売されるなど、非常に人気があった事が知られている[4]

作詞者としても1933年に『キャラバンの鈴』(作曲:杉山長谷夫、唄:東海林太郎)というレコードを出している。

同年には、小説『男装の麗人』が連載されていた『婦人公論』誌に「僕は祖國を愛す」と題された独占手記も掲載された

私生活においては、伊東ハンニ(「昭和の天一坊」と騒がれた相場師)と交際したと言われている[5]。また、水谷八重子など当時の芸能人とも親交をむすんだ。

転機

1934年当時から、芳子は講演会などで関東軍の満洲国での振る舞いや、日本の対中国政策などを批判したため、軍部や警察に監視 [6] されるようになっていた。 鎮痛薬のフスカミン(Fuscamin)を常習 [7] するようになったのもこの時期で、自ら注射器で足に注射している様子が目撃されており、この時期に負った何らかの負傷の鎮痛のため、当時の多くの軍人達と同様に鎮痛剤へ依存するようになった可能性が示唆されている。

1937年7月末に天津が日本軍に占領されると、芳子は同地で料亭「東興楼」を経営し、料亭の女将になった。またこの頃は国粋大衆党総裁で外務省・海軍と協力関係にあった笹川良一と交際していたと言われている。 [8]

また、この頃から芳子は孤独感に満ちた短歌 [9] を書くようになったという。

逮捕・処刑

1945年8月の日本敗戦以降、各地に潜伏していた芳子は、10月になって北平中国国民党軍に逮捕され、漢奸(中国語で「国賊」「売国奴」の意)として訴追され [10] [11]1947年10月に死刑判決が下された。

当時の国民党は、芳子の諜報活動の詳細が明らかになる事で、党内の醜聞が暴露され、急下降していた国民党への評価が決定的に傷付けられてしまう事を恐れ、また1947年時点での国共内戦の戦局は北平周囲の華北一帯が既に中共軍の攻撃にさらされるなど国民党側に不利となりつつあり、愛新覺羅家の一員である芳子を中共が利用する事を恐れ、死刑を急いだと伝えられている。

日本では本多まつ江などが助命嘆願運動を展開したが間に合わず、1948年3月25日に北平第一監獄の刑場で芳子は銃殺刑に処された。

川島芳子の遺骨は日本人僧侶の古川大航によって引き取られ、火葬とされた後に信州の川島浪速のもとへ届けられた。1949年に川島浪速が死去すると、芳子の遺骨はともに松本市の正鱗寺にある川島家の墓に葬られた。

辞世の句

家あれども帰り得ず
涙あれども語り得ず
法あれども正しきを得ず
冤あれども誰にか訴えん

この句は銃殺執行後の獄衣のポケットに残されていた川島芳子の辞世の句だという。「家あれども帰り得ず 涙あれども語り得ず」という上の二句は芳子が生前好んで揮毫していた句であり、彼女の孤独な心情を表している。

家族

川島芳子の実父粛親王善耆には5人の夫人との間に38人の子女がいた。粛親王家の子女は清朝復辟に望みをかける善耆の意向により、日本語教育を受け、多くが日本留学をしている。満蒙独立運動に父の名代として参加し、満洲事変で東北交通委員会副委員長、満洲国時代に新京特別市長、黒竜江省長、満州映画協会理事長などを歴任した金壁東は善耆の第七子である。

善耆の第十七女愛新覚羅顕琦(あいしんかくら けんき)は、自伝『清朝の王女に生れて』(中央公論社、1986年、中公文庫新版 2002年)を出版している。また、善耆の長子憲章の娘で川島芳子の姪にあたる廉鋁(日本名川島廉子)の娘川島尚子が母の伝記『望郷 日中歴史の波間に生きた清朝王女・川島廉子の生涯』(集英社 2002年)を出している。

現代中国の画家愛新覚羅連経は善耆の第十六子憲方の子で川島芳子の甥にあたる。『愛新美術館』(広島県竹原市田万里町)には連経氏をはじめ一族の作品が所蔵されている。

溥傑自伝』(河出書房新社、1995年)を翻訳した翻訳家金若静は善耆の第十二女顕珴の娘である。

記念室

1998年、川島芳子の没後50周年に芳子が少女時代を過ごした長野県松本市の日本司法博物館内に川島芳子の書や遺品などを展示した資料室「川島芳子記念室」が開設され、芳子の女学生時代の友人や関係者が芳子のゆかりの品などを寄贈した。記念室は毎年川島芳子が銃殺された3月25日頃の週末に「川島芳子を偲ぶ会」を開催し、長野県内外から多数の人が集っている。また、記念室は2001年に川島芳子が私的に書き残していた和歌を歌集『真実の川島芳子』として出版するなどの活動を行っている。

日本司法博物館は2002年以降松本市に引き継がれ「たてもの野外博物館松本市歴史の里」と改称、2007年4月末に改装を終えてリニューアルオープンした。川島芳子記念室は歴史の里内の展示棟にある。

川島芳子生存説

川島芳子は銃殺執行直後から替え玉説が報じられ、その後も長く生存説がささやかれてきた。近年では、中国の民間団体や日本の報道検証番組などが1970年代まで生存していたという説を唱えているが、科学的証拠を欠いており風説の域を出ていない。

生存説の源流

処刑直後から芳子の生存説が流れたのは、処刑から遺体公開までに以下の不審点があったためとされる。

  1. 漢奸の処刑は通常なら公開で行われるが、芳子の場合には早朝非公開で行われた。
  2. 執行後に公開された遺体は銃弾が頭部を貫通、顔面を激しく損傷しており容貌の正確な判別は困難だった。
  3. 処刑数日前に面談したジャーナリストによると芳子の髪型は短髪だったが、処刑後の写真に写っている遺体の髪は肩ほどまでの長さがあった。
  4. 処刑直後に中国の新聞各紙が報じたところによると、監獄に芳子と同年代で、重病で余命いくばくもない女性がおり、女性の母親が監獄関係者から娘を身代わりに差し出すことを持ちかけられ、母親は金の延べ棒10本で娘を身代わりにすることを承諾した。しかし実際には4本しか受け取ることができなかったため遺族がマスコミに告発したという。国民党政府はこの報道をデマだと否定する声明を発表したが、国共内戦に敗れた国民党が台湾に逃れる過程でうやむやになった。
  5. 生存説を重視したGHQは、各地に調査員を派遣して関係者に聞き取りをするなどの調査を行ったが結論は出ず、国共内戦で調査は打ち切られた。GHQの調査報告書はアメリカ国立公文書館に保管されている。
  6. 芳子の実妹愛新覚羅顕琦(あいしんかくら けんき)は、自伝『清朝の王女に生れて』で、処刑直後の写真を見たが、本人に間違いないと主張。替え玉報道が出たことについては、処刑現場にはアメリカ人記者のみが入ることを許され、中国人記者が閉め出されたため、腹いせに替え玉説を書いたという見方を示している。

“1950年代に死亡”説

2003年放送のクイズ番組「世界痛快伝説!!運命のダダダダーン!」(朝日放送)には中華人民共和国在住の芳子の娘と自称する女性が出演した。女性によると、監獄から脱出した芳子は日本人男性と再婚して娘を出産したが、1950年代に暴漢に襲われて両親が殺害され孤児になったという。

“周恩来の○”説

また、陸軍特務機関員だった吉薗周蔵の手記によると、戦後周恩来に面会する日本人に、周恩来に会ったら川島芳子の生死を尋ねてほしいと頼んだ。その日本人が周恩来に尋ねたところ、周恩来は「そんな事は答えられるわけはないでしょう」と言いながら、指先で○を描き、「このとおりですよ」とだけ言ったという。

“方おばあさん”説

2008年11月に、川島芳子は旧満州国警察学校関係者に匿われ、「方おばあさん」と名乗って中国吉林省長春市に住み、1978年に死去したと証言する女性が現れ、調査が開始された[12][13]。中国メディアも注目している[14]

2009年3月4日のテレビ信州による報道では、芳子が生存していたと証言する女性が、2009年3月に中国の民間調査団と共に長野県松本市にある松本市歴史の里(川島芳子記念館)を訪れ、芳子の生前の写真を見て「幼少期に教育を受けた「方おばあさん」(川島芳子と教わった人物)と芳子の目と鼻はよく似ているが、断定できるかと言われると言い切れない」と話している。

2009年4月13日放送の『報道発 ドキュメンタリ宣言 昭和史最大のスクープ 男装の麗人・川島芳子は生きていた! 2時間スペシャル』(テレビ朝日放送) [15] によると、死刑の前日に買収された軍人から「拳銃は空砲です、銃声がしたら倒れる振りをして下さい」と芳子に説明があり、死刑は通常どおりの公開処刑ではなく非公開で行われ、アメリカ人記者2人だけが立ち入りを許可されたがカメラを取り上げられ、芳子の処刑直後に遺体は毛布に包まれ、検死室に送られた、との事である。

数時間後に肩まで髪が伸びた女性の遺体が芳子の遺体とされ、公にさらされた。 余命いくばくもなく、芳子の身代わりとなった女性の遺族には金の延べ棒10本が渡され、役人や軍隊にも贈賄されたという [16]

この記録はアメリカ国立公文書館に保存されていたと報道され、金の延べ棒は「おそらく愛新覚羅家が用意した」と芳子の遠縁にあたる愛新覚羅家の人物が答えているとされる。

1948年、旧満州国警察学校関係者に連れられた老婆に変装した芳子は、ゆかりのあった元満鉄幹部の日本語通訳の男性の家を突然訪れ、以後はその男性に匿われ、夏の数ヶ月を長春市の新立城という小さな村で過ごし、冬になると浙江省にある天台宗国清寺で隠れるように生活していたという。

芳子は村の人たちから『方姥』(方おばあさん)と呼ばれており、この女性に幼い頃育てられたという、1967年生まれの女性画家が登場した。

この女性は「方おばあちゃんは李香蘭のレコードが擦り切れるほど聞いていた」と証言し、「このレコードをいつか李香蘭に届けてほしい」と遺言されていたとコメントした。

女性は実際に来日して山口淑子に面会し、遺言のレコードを手渡した。その際、山口淑子は方おばあちゃんの肖像画を見て「高くスッとした鼻筋は、お兄ちゃん(川島芳子)に間違いない」と証言した。 [17]

証言女性によると、方おばあさんは殆ど家から出ることもなく、家で写経をしたりお経を読んで過ごしていた。訪ねてくる人も殆ど居なかったが、誰かからの援助を受けていたらしく、生活に困っていた様子はなく、決して贅沢な暮らしではないが常に身奇麗にしていたという。

方おばあさんは1978年に死去し、遺言どおり葬式では『蘇州夜曲』を匿った男性と養育された女性が歌って見送られ、三回忌の後、国清寺に葬られた。国清寺では「帰依証」も授けられており、お寺の人たちからは方居士とよばれていた。

鑑定の内容と結果

処刑された時に公表された写真と芳子の生前の写真との比較
テレビ朝日の番組内では、芳子の処刑直後の遺体写真から骨格を再現し、生前の芳子の写真からも骨格を再現し、処刑時の写真と比較した。
芳子はなで肩であるのに対し、遺体の再現骨格はいかつい肩をしており、他にも二の腕の長さの違いや骨盤が遺体写真のものは大きく経産婦だと思われることなどから、「公開された遺体の骨格と生前の川島芳子の骨格が同一人物である確率は1%以下であり、別人である」という結論を出した。
方おばあさんの遺品
方おばあさんの遺品から指紋採取を試みたが、方おばあさんの指紋は検出されず鑑定できなかった。
国清寺の遺骨
国清寺の納骨堂には、方おばあさんのものと思われる「方覚香」と書かれた箱に収められた遺骨があり、この遺骨を用いて芳子の親族のDNA型との比較が試みられたが、遺骨の状態が悪かったため鑑定できなかった。ただし国清寺の「方覚香」の遺骨が方おばあさんのものであるという根拠はなく、単に方姓の別人の遺骨である可能性もあり、その場合最初から意味の無い鑑定だった事になる。

上記のように、現時点では方おばあさんの指紋、DNAのいずれも採取されておらず、川島芳子=方おばあさんという科学的な証拠は何もない。

長春市地方志編纂委員会による調査結果

2009年10月1日、長春市政府の設立した地方志編纂委員会による調査結果が公表され、川島芳子=方おばあさん説を明確に否定した。[3][4][5] 同委員会が方おばあさんに卵を届けていた農民陳良を探して調査したところ、陳良は方おばあさんの名前は「方麗蓉」で張鈺の祖母庄桂賢と同一人物であると証言した。[18]また、陳良は方おばあさんの名前について、「段家の人間なら誰でも知っているはずだ」とし、張鈺が方おばあさんの名前を知らないと言っていることに対して、「自分の実のおばあさんの名前を知らないわけはない」と証言した。これは張鈺らがこれまで主張してきたことと大きく矛盾する。[19] 同委員会の調査ではさらに、「方麗蓉」は段連祥の妻庄桂賢が仏教に帰依した際の仮名で、仏教徒の庄桂賢は長春の般若寺の仏教活動に参加し、夏の間は新立城に住んでいたが、川島芳子とは全く関係がないと結論付けた。[20]

これに対して張鈺側は長春市地方志編纂委員会の発表は事実無根の中傷であるという反論を出している。[6][7][8]

台湾で公表された処刑関係文書

2009年12月、台湾の国史館が所蔵する文書のなかに国民政府による川島芳子の処刑に関する調査資料があることが明らかになった。そのなかで監獄関係者は、刑は確かに執行され、川島芳子に間違いはないと証言している。 [9] [10]

史料

自伝及び自作の詩
  • 川島芳子『動乱の蔭に 私の半生記』時代社  1940年
「獄中記」と併せて、伝記叢書259/大空社で復刻 1997年
  • 川島芳子記念室/穂苅甲子男編著 歌集『真実の川島芳子 秘められたる二百首の詩歌』プラルト 2001年
関係者の証言など
  • 林杢兵衛編『川島芳子獄中記 川島芳子手記』東京一陽社 1949年
川島芳子記念室編で復刻版が出た。1998年
  • 西沢教夫『上海へ渡った女たち』新人物往来社 1996年
  • 園本琴音『孤独の王女 川島芳子』智書房 2004年

川島芳子を題材とした作品

伝記文学

  • 渡辺龍策『川島芳子その生涯 見果てぬ滄海(うみ)』徳間文庫、1985年
  • 楳本捨三  『妖花川島芳子伝 銃殺こそわが誇り』(秀英書房 1984年ほか)
  • 上坂冬子 『男装の麗人・川島芳子伝』 (文藝春秋 1984年、文春文庫 1988年) 
新版で『女たちが経験したこと 昭和女性史三部作』 (中央公論新社、2000年)
リバイバル<外地>文学選集第3巻で復刻、大空社 、1998年
『清朝十四王女 川島芳子の生涯』 (ウェッジ文庫 2007年)
  • 岸田理生 『戯曲 終の栖 仮の宿・川島芳子伝』 (而立書房、2002年)

小説

  • 『乱の王女・1932愛と悲しみの魔都上海』(生島治郎、集英社、1991年)
  • 『夕日よ止まれ』(胡桃沢耕史、徳間書店、1993年)
  • 『あじあ号、吼えろ!』(辻真先、徳間書店、2000年)
  • 『満洲国妖艶・川島芳子』(李碧華 、人民文学出版社編、1999年、香港映画『川島芳子』のノベライズ)

川島芳子を演じた女優

川島芳子の伝奇的な生涯はしばしば映画、演劇などの題材となっている。

日本

舞台
  • 初代水谷八重子:『男装の麗人』(1932年)
  • 松あきら:『見果てぬ蒼海』
  • 保坂知寿:(劇団四季)『ミュージカル李香蘭
  • 山崎佳美:(劇団四季)『ミュージカル李香蘭』
  • 濱田めぐみ:(劇団四季)『ミュージカル李香蘭』
  • 椿真由美:(劇団青年座)『MANCHURIA-贋・川島芳子伝』(2000年)
  • 野口員代:(月蝕歌劇団)『怪盗ルパンー満州奇岩城篇ー』(2001年、高取英演出)
  • 酒井悠三子:(あんがいおまる一座)『薔薇の仮面―川島芳子―』(2003年)
  • 紫城るい:(宝塚歌劇団)『愛しき人よ』(2004年)
  • 美咲蘭:(オフィス蘭)『王女伝説―川島芳子の生涯―』(2006年)
  • 永吉雅代:(あんがいおまる一座)『薔薇の仮面―川島芳子―』(2006年)
  • 堀江真理子(アリストパネス・カンパニー)『男装の麗人伝説』(2006年)
  • 中路美也子:(グループ演劇工房)『満洲國の黄金の都市―幻影の王道楽土―』(2007年、木内稔演出)
  • 紫乃原実加:(月蝕歌劇団)『怪盗ルパン・満洲奇岩城篇~川島芳子と少年探偵団~』(2009年、高取英演出)
  • 貴城けい:(Planning Office GS)『貴城けいオンステージ2009』第一部劇中劇にて(2009年、高平哲郎演出)
映画
テレビドラマ

中国

関連項目

注釈

  1. ^ 粛親王の顧問だった川島浪速の名前は、陸軍省・外務省の公文書中にも記録されている。
    陸軍省大日記 明治37年 臨密書類 陸軍省』
    清国駐屯軍司令官仙波太郎 明治36年9月20日
    『陸軍省受領臨密受第九一号 清国駐屯軍司令部普参発第一〇〇号
    兵器払下ニ関スル件ニ付伺
    別紙之兵器今般北京警務学堂用トシテ購買致度旨粛親王ノ内命ヲ含ミテ警務顧問川島浪速氏ヨリ本官迄相談有之候尤モ警務学堂ニ在テハ目下之処右兵器費ノ全額ヲ一時ニ支払フ可キ余裕無之候得共本年乃至明年ニ於テ数回ニ渉リ之ヲ調弁スルハ成シ得ルノ境涯ニ有之趣ニ候就テハ警務学堂ノ照会通リ御許諾相成儀ニ候哉若シ御認可相成候ハ兵器価格ノ点ハ勉メテ低廉ニ又其授受ニ際シテハ可成@ケ請雑費ヲ減少スルタメ商人ノ手ヲ煩ハサザル様特ニ御詮議相成度此段及伺候也
    明治三十六年九月二十日 清国駐屯軍司令官仙波太郎 陸軍大臣寺内正毅殿
    外務省記録 北京情報/機密ノ部』 在清国帝国公使館 明治42年01月19日
    『明治四十二年二月一日接受 主管政務局 第一課 第七号 (明治四十二年一月十九日)
    北京情報 機密ノ部 在清国 帝国公使館 機密受第323号 北京機密情報 第七号
    袁世凱免官ニ関スル粛親王ノ談話
    袁世凱ノ免官一件ニ関シ粛親王カ川島警務学堂監督ニ語リタル所ナリトテ同人ノ報ゼル事項ノ要領ハ当時電報ニ及ヒタルガ其詳細左ノ如シ 袁世凱ガ今回ノ処分ニ逢ヒタルハ全ク兼テ摂政王ノ感情ヲ害シ居ルコト甚シカリシニ因ルモノナリ即チ康有為事変ニ於テ袁ノ一挙両宮ノ不和ヲ醸シ先帝ヲ憂鬱ノ間ニ幽居セシムルニ至リタル
  2. ^ 少年倶楽部誌上で1926年1月から翌年11月まで連載された「太陽は勝てり」(阿武天風著)は、甘珠爾札布と川島芳子をモデルとした冒険小説であり、現実の結婚と小説がシンクロする展開となった
  3. ^ 昭和8年2月22日付朝日新聞に「男装の麗人川島芳子嬢、熱河自警団の総司令に推さる 雄々しくも兵匪討伐の陣頭に」という記事が掲載された。
    川島芳子本人は「婦人公論」の手記の中で「熱河省の隅々を駆け廻つたのですが、僕が動いたより以上の、何十倍かの宣伝が行われてゐるので、全く面はゆい次第です」とのべている。
    『男装の麗人・川島芳子伝』(文春文庫)(1988-05)
    上坂冬子著/文藝春秋 ISBN 4-16-729805-8
  4. ^ 『蒙古の唄』にはモンゴル語で歌っている部分があるが、意味が通じないところもある。これは一時期蒙古人の夫と結婚して草原で暮らしていたので、その時に聞き覚えたものではないかと思われる。
  5. ^ 河西善吉『昭和の天一坊 伊東ハンニ伝』(論創社、2003年) ISBN 4-8460-0335-3 第六章 新東洋の夢 p167~p200
  6. ^ 満州では関東軍の庇護を受けていた川島芳子だったが、日本国内では要注意人物と頻繁に接触する人物として、長期に渡り警察の監視対象とされていた記録が残されている。
    外務省記録 要視察人関係雑纂/本邦人ノ部 第九巻
    警視総監大野緑一郎 昭和7年3月22日
    内務大臣犬養毅 外務大臣芳澤謙吉
    「三二、 外秘第七〇六号 昭和七年三月二十二日 警視総監 大野緑一郎 内務大臣 犬養毅殿 外務大臣芳澤謙吉殿 大阪、兵庫、山口、長崎、 各府県知事殿 関東、朝鮮各警務局長殿 満州帰来容疑邦人ノ入京ニ関スル件 本籍長崎県東彼杵群萱瀬村三二八 住所府下杉並町高円寺九四一 無職(元政友会代議士)今里準太郎 当四十七年 右者首題ニ関シ外第三月十二日特一五九八号、山口県通報アリタル処本名ハ途中大阪ニ下車同地梅田ホテルニ滞在、資金調達ノ為メ同地ニ於テ小石川区表町一〇九小田切喜代治等ト共ニ交渉シ居リタリト称シ三月十九日入京帰来セルカ同人ハ昭和二年中全亜細亜連盟ヲ組織シタルコトアリ又客年四月十六日外秘第九九〇号、既報ノ通リ故粛親王ニ女川島芳子事顕子ト神田錦町芳千閣ホテルヘ同宿シテ~」
    外務省記録 要視察人関係雑纂/本邦人ノ部 第十四巻
    京都府知事 鈴木敬一 昭和12年3月9日 外務省 京都府 「四三、 二特収秘第一五九号 昭和十二年三月九日 京都府知事 鈴木敬一 内務大臣河原田稼吉殿 外務大臣佐藤尚武殿 関東局警務部長殿 関東州庁警察部長殿 各庁府県長官殿(警視庁、大阪、兵庫、福岡山口) 在上海内務書記官殿 外事関係容疑者身元調査ニ関スル件 本籍 京都市東山区問屋町五条下ル 住所 同左京区下鴨宮河町 自称満鉄上海北洋魚業重役 大塚博国コト大塚久三 右者昭和八年五月肩書地ニ来住シ一定ノ職ナク常ニ満、支方面ニ旅行シ又曩ニ来邦セル満州国龍江省長金壁東ノ入洛ニ際シテハ何等関係ナキニ不拘種ク世話ヲナシ或ハ川島浪速、及川島芳子等ノ入洛ノ際モ之等ヲ自宅ニ宿泊セシメ之等ノ者ト親交アル如キ態度ヲ取ル処近隣ノ者ニ対シ自分ハ支那沿岸ニ~
  7. ^ 「当時病気療養と称して芳子はときどき松本を訪ねている。病名ははっきりしないが、このころから芳子は自ら股に鎮痛のための注射を盛んにうったようだ。麻薬中毒であったとの噂もあるのだが、これに対しては小方八郎(芳子の個人秘書)が真っ向から否定しており、『麻薬ではなく市販のフスカミンという注射薬です。私が薬局に買いに行きましたからまちがいありません』と証言している。」
    昭和12年6月11日付毎日新聞南信版には『九日止宿先の温泉ホテルに同君を訪問すると、小さな注射器を片手に持って足部に葡萄糖の注射をしているところ』と記されている。
    「男装の麗人・川島芳子伝」(文春文庫) (1988-05)
    上坂冬子著/文藝春秋 ISBN/ASIN:4167298058
  8. ^ 当時、芳子と交流のあった李香蘭(山口淑子)は、芳子から『笹川良一と新しい政治団体を作った。松岡洋右や頭山満も協力してくれる。キミも入会したまえ』と勧誘された事を自著に記している。
    「李香蘭 私の半生」(新潮文庫)
    山口淑子, 藤原作弥(著)/新潮社 ISBN-10: 4101186111
  9. ^ 芳子は1939年頃に療養のため福岡に滞在したが、この際に交流のあった人達との間で交わした和歌が残されている。
    私的に書かれたもので長く公表されなかったが、没後50年以上を経て歌集『真実の川島芳子』として発表された。
    また、福岡滞在時代に交流した女性が芳子との思い出をつづった『孤独の王女川島芳子』を2004年に出版している。
  10. ^ 芳子に日本国籍があれば漢奸罪は適用されない可能性もあったが、養父の川島浪速は芳子の帰化手続きを行っていなかった。 しかし、当時の中国国籍は血統主義であり、父親が中国人であれば日本国籍の有無にかかわらずその者は中国人とみなされ、漢奸罪を適用することも可能だった。
  11. ^ 李香蘭も同様に漢奸裁判にかけられたが、彼女の場合は両親ともに日本人でありかつ日本国籍があったったために釈放されている。一方血統的に日本人でも日本国籍から離脱し中国籍になっていた伊達順之助は処刑されている。
  12. ^ 東洋のマタ・ハリ」は生きていた?=処刑逃れ、78年まで長春で-中国紙 2008年11月15日
  13. ^ 我方姥就是川岛芳子新文化網 2008年11月5日 (中国語)
  14. ^ 最新证据表明川岛芳子诈死隐居长春30年 (川島芳子特設ページ) 2009年4月20日 新文化網 (中国語)
  15. ^ 報道発 ドキュメンタリ宣言・川島芳子特集ページ
  16. ^ これは生存説2番目の「末期癌の女性の身体が身代わりにされた説」と共通する部分が多いが、仔細では異なっている。
    空砲を用いた拳銃で周囲の人間の目をごまかしたとされるが、この際に使用された拳銃の種類(自動式 or 回転式)や、処刑の方法(犯罪者としての処刑 or 軍人としての銃殺刑)についての情報が欠如しているため、トリックの可否を以って同説の信憑性の判断ができないため、現状ではディテールの検証にたえない風説のレベルに止まっている。
  17. ^ 川島芳子の写真は、現在の中国で大量に出回っており、その写真を基に似顔絵を書けばいくらでも似たものが作れる。
  18. ^ 張鈺の祖母庄桂賢の写真[1]段家集合写真の前列の老婦人が庄桂賢
  19. ^ また、陳良は方おばあさんについて、身長は1.67メートルだったと証言している。(新文化報2008年11月7日記事)[2]川島芳子の身長はそれほど高くなく、そこからも芳子と方おばあさんが別人であったことが示されている。
  20. ^ これにより、戸籍や名前がない人間が中国共産党政権下で隠れ住むのはおかしいという疑問も解消されることになる。張鈺が方おばあさんと呼んでいた老婦人は川島芳子と無関係の一般婦人であったならば矛盾はなくなる。

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