干鰯

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干鰯(ほしか)とは、を干して乾燥させた後に固めて作った肥料のこと。

概要[編集]

干鰯の出現時期については一説には戦国時代にまで遡ると言われている。農業を兼業していた漁民が余った魚類、特に当時の日本近海で獲れる代表的な魚であった鰯を乾燥させ、肥料として自己の農地に播いたのが干鰯の始まりと言われている。

やがて江戸時代17世紀後半に入ると、商品作物の生産が盛んになった。それに伴い農村における肥料の需要が高まり、草木灰人糞などと比較して軽くて肥料としての効果の高い干鰯が注目され、商品として生産・流通されるようになった。

干鰯の利用が急速に普及したのは、干鰯との相性が良い綿花を栽培していた上方及びその周辺地域であった。上方の中心都市・大坂においては、干鰯の集積・流通を扱う干鰯問屋が成立した。1714年(正徳4年)の統計では日本各地から大坂に集められた干鰯の量は銀に換算して1万7千貫目相当に達したとされている。

当初は、上方の干鰯は多くは紀州などの周辺沿岸部や、九州や北陸など比較的近い地域の産品が多かった。ところが、18世紀に入り江戸を中心とした関東を始め各地で干鰯が用いられるようになると、需要に生産が追い付かなくなっていった。更に供給不足による干鰯相場の高騰が農民の不満を呼び、農民と干鰯問屋の対立が国訴に発展する事態も生じた。そのため、干鰯問屋は紀州など各地の網元と連携して新たなる漁場開拓に乗り出すことになった。その中でも房総を中心とする「東国物」や蝦夷地を中心とする「松前物」が干鰯市場における代表的な存在として浮上することとなった。

房総(千葉県)は近代に至るまで鰯の漁獲地として知られ、かつ広大な農地を持つ関東平野に近かったことから、紀州などの上方漁民が旅網や移住などの形で房総半島九十九里浜沿岸に進出してきた。鰯などの近海魚を江戸に供給するとともに長く干鰯の産地として知られてきた(地引網などの漁法も上方から伝えられたと言われている)。

一方、蝦夷地では鰯のみではなくかずのこを含む)やが肥料に加工されて流通した。更に幕末以後には鰯や鰊を原料にした魚油の大量生産が行われるようになり、油を絞った後の搾りかすが高級肥料の鰊粕として流通するようになった。

上方落語の『牛の丸薬』(うしのがんじ)では、大阪・の干鰯商人を装い、郊外の農家にあやしげな薬を売りに行く男が登場する。

参考文献[編集]

  • 二野瓶徳夫「干鰯」(『国史大辞典 12』(吉川弘文館、1991年)ISBN 978-4-642-00512-8)
  • 小林茂「干鰯」(『日本史大事典 6』(平凡社、1994年) ISBN 978-4-582-13106-2)
  • 山口徹「干鰯」(『歴史学事典 14 ものとわざ』(弘文堂、2006年) ISBN 978-4-335-21044-0)