志摩八郎・辰巳柳子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

移動先: 案内検索

志摩八郎・辰巳柳子(しまはちろう・たつみりゅうこ)は、戦中から戦後期にかけての漫才師夫婦漫才)である。目立った活躍がなかったが志摩八郎は漫才作家になり秋田實の右腕として活躍。

戦前から地方を回って活動していたがわらわし隊に憧れ大阪で本格的に漫才の道に、1951年より宝塚新芸座に入る。八郎の洋服ヴァイオリン片手に演歌師のノンキ節を唸らせる音曲漫才、時折柳子はギターを持っていた。また秋田Aスケ・Bスケ夢路いとし・喜味こいしらとともに青春ブラザーズという音楽ショウの一員でもあった。1958年に秋田實が「上方演芸」(後の松竹芸能)の設立に招かれ文芸部の課長からチーフに就任。亡くなるまで多くの漫才の台本を手がける。特にミスワカサ・島ひろしに多くの台本を提供。人生幸朗・生恵幸子も信頼を寄せており幸朗曰く「志摩はんのは一番やりやすかった」。

メンバー[編集]

志摩八郎(しまはちろう、1903年8月13日 - 1974年8月2日、本名:梨本繁雄)大阪の生まれ。

楽団員から島陽之助一座(島田洋之介・今喜多代の島田洋之介やミスワカサ・島ひろしの島ひろしとは兄弟弟子)の出身。島田洋之介と長らく組んでいた事もある。著書の「昭和の爆笑漫才集」。漫才作家協会(会長は丹田重雄)では副会長を務めた。芸人仲間の愛称は「志摩八ちゃん」。ヴァイオリン弾けたこともあり譜面も読めた。

辰巳柳子(たつみりゅうこ、 - 、本名:)

エピソード[編集]

  • 秋田實の片腕として活躍していた八郎だったが、ある日「秋田實」の名前を使って台本を書いた。八郎いわく、「秋田はんの名前使うだけでギャラが三倍ぐらいちゃうんでっせ。」秋田實の名前がブランド化していた証拠である。
  • 紙切り師として戦後活躍していた香見喜利平は本名で出ていたが、ある日八郎が「今日から香見喜利平に変えなはれ。」と言ったため、それ以来その名を使うようになったという。

出典[編集]