悟り

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悟り(さとり)とは、知らなかったことを知ること、気がつくこと、感づくことを言う。覚りとも書く。宗教上の悟りは迷妄を去った真理やその取得をいう。

サンスクリットでは日本語の「理解」「気づき」「通達」などの意味に相当する単語はあるが、日本の仏教用語として多用される動詞の「悟る」、もしくはその連用形である「悟り」に相応する単語は存在しない。インドの仏教では、彼岸行とされる波羅蜜の用法を含めれば、類語を集約しても20種類以上の<さとり>に相当する語が駆使された[1]。そうした豊富な宗教用語に対して、漢訳では音写を優先する訳語を以って対応する一方、ひとつの漢語を複数以上のサンスクリットに対応させたことも珍しくない。

例えば、「正覚」という漢語は、語頭に"無上"や"等"など何らかの形容語がついたものを含めれば、日本で編纂された三蔵経である大正新脩大藏經に1万5700余みられるが[2]、意味の異なる数種類以上のサンスクリットの単語・複合語の訳として用いられている[3]。元となるサンスクリットの原意はその種類によって幅広く、初転法輪にかかわる意味から成仏に近似した意味、智波羅蜜に類した意味にまでに及ぶ[3]。当然のことながら、漢訳仏典では前後の文脈や語頭の形容語、訳の新旧や傾向から意味を推量するしかない[注 1]

また、釈迦降魔成道に付随して表現される「悟りを開く」[4]の元となった「開悟」という漢語についてみてみると、「開悟」は大正新脩大藏經に約1700余みられ[5]、数種類のサンスクリットの訳として当てられている[注 2]。ただし、その原意は「正覚」の場合と違って狭量であり、いずれのサンスクリットも「仏地を熱望する」など、彼岸行の始まりを示唆する婉曲な表現の複合語(熟語)である[6]漢訳の「開悟」はこれに倣った意訳である。[要出典]

大正新脩大藏經に出現する3万数千の「悟」という漢字の多くは「開悟」のように二字熟語の一部として用いられているものである[7]。また、「悟」が単独の訳語として用いられる数種類のサンスクリットのうち、日本の仏教で多用される「悟る」もしくはその連用形「悟り」に最も近いサンスクリットの原意は、「目覚めたるもの(avabodha)」という名詞と、「覚された/学ばれた(avabuddha)」という形容詞である[8]。これらとは逆に、一つのサンスクリットが複数種類以上の漢訳語を持つケースも珍しくない。

菩提」を悟りとするのも日本の仏教だけで、漢訳ではサンスクリットの「बोधि bodhi (ボーディ) 」を「悟」と訳した例は知られていない。bodhi の漢訳はもっぱら「菩提」であって、新訳で「覚」などと漢訳される場合がある程度である[9]。では、日本の仏教では、何故「悟る」や「悟り」という言葉が多用されるようになったのかと言う問題が生じるが、それは中国の宗が「悟」という用語を多用したことが要因の一つとして推定される[要出典]南宗も参照)。

少なくとも、中国南宗禅の鼓吹派が喧伝した「頓悟」が誤解を交えながら日本にまで伝播し、これが日本仏教の「悟り」や「悟る」という表現の混乱に拍車をかけたことは間違いない。中国の禅宗は「悟」をもっぱら「廓然と大悟した」などの表現で用いるが、これは修道の証得を示すものである[要出典]。中国禅の六祖とされる慧能も頓漸の別は修行の遅速の問題に過ぎないとしていることから[10]慧能以降に禅風鼓吹の標語「(頓)悟」が混乱を引き起こしていったと考えられる。[要出典]

日本の仏教に限らず漢訳仏教圏やその影響を受ける地域では、釈迦は「悟」もしくは解脱を求めて出家したとするのが通説的な教えとなっているが[要出典]阿含部長阿含経[11]やそれに相応するパーリ語仏典大般涅槃経(大パリニッバーナ経)[12]には、釈迦はなるものを求めて出家した(出家求善道)と釈迦自らが語る詩句形式で説かれている。

各宗教における悟り[編集]

仏教[編集]

サンスクリットの「बोधिसत्त्व bodhisattva ボーディ・サットヴァ 」の漢訳である「菩提薩埵(通常は菩薩と表記される)」[注 3] であることを止揚した者を「buddha ブッダ」と呼び、漢字で音写し「仏陀」「」としたり、「覚者」と意訳したりする。ただし大乗仏教では、(三途の)川を渡って冥界に趣き、冥府の審判を許されて峠越えなどのさらなる難行を無事に終え、安楽の地にたどりつくというオリエント起源の神話宗教[13]と同様、その地をもって仏地(浄土)とした。また、遍歴を経て出立の地に再び戻るという点も類似している[要出典]。生きながらにして成仏を遂げるとする密教的な思想に対して、空海即身成仏を果たしたとされるが[14]、大乗仏教は仏乗[15]に変えて如来[16]を説いて死地の意味のある仏(乗)を執らないことがある(如来不求一仏乗)[17][注 4] (詳細は如来十界を参照)。

成仏や悟りに関わる考え方の違いが教派・宗派の違いであるということもできるが[要出典]、日本の密教は大乗仏教の一形態であり大日如来などの如来を奉じる[18]また、南無阿弥陀仏を唱えて極楽往生を願う浄土教も成仏の思想と誤解されがちだが[要出典]、本来は波羅蜜に至って施・持戒行や忍・精勤行を易して静慮到へと往相を果たし、そこ(彼の土)で止観を整えて方便力を成就し、還相して済度すること[19]信仰的には餓鬼道畜生道地獄に留め置かれることなく精進をもって容易に浄土へと往生を遂げ、阿弥陀仏国土でゆっくりと骨休めしながら浄心・浄行にも務めて、仏の教えを愛楽する世界へと転生を果たすこと[20][疑問点 ])が、浄土宗が浄土5祖の第1祖とする曇鸞浄土真宗の開祖親鸞の教えである[19][21] (詳細は転生往生を参照)。

浄土「Kṣetra」は、阿弥陀や西方などの形容がない限り本来は仏地・仏土を意味するもので[22]、こうした輪廻転生思想は仏教に共通のものである[23]日本仏教が時代が下るにつれて成仏や悟りを眼目としていった背景には[要出典]、成仏までが難行なのであって、その後は楽変化するといった考え方が[24]、庶民にまで仏教が浸透した鎌倉期に誤って/もしくは都合主義的に布教されたこと[注 5] (詳細は極楽楽変化天を参照)、仏教そのものが般涅槃輪廻解脱の言辞を先行させながら、それらの概念や教説を錯綜・矛盾させたことなどがあげられる[要出典] (詳細は涅槃輪廻解脱を参照)。日本の仏教界では曹洞宗の開祖道元が、阿羅漢果が仏地である可能性に言及するなど[25]、宗派によっては成仏の概念も錯綜した。

涅槃に対する教説は大乗仏教も一定ではないうえ[要出典]、悟りや成仏の概念の混乱と無知は悲劇ももたらした。13世紀初頭には、仏法歴劫修行をよくよく説いて行うべき見道の行を受戒を経ない在家信者に対して行っていた法然の門弟らが、仏法の律儀に反し[注 6]、無知不善の巣窟となっているとして仏教界から糾弾され、法然らの「七箇条制誡」の自戒表明にも関わらず、門弟2人が処刑された事件がある(承元の法難[26]朝廷側は当初は門弟の浅知として穏便に済ませていたところ、薄暗がりの僧堂で夜通し行われる懺悔・滅罪・本願成就という現代の自己啓発セミナーのような礼讃行によってもたらされる法悦に、宮中の側女までがのめりこんで破廉恥に及んだため、後鳥羽上皇の怒りをかって厳しい処断となったとされる[26][27]

菩提「bodhi」については、草冠の漢字があてられているとおり、その原意は神聖なイチジクとか目覚し草といったものだが[28]、古くは「道(どう)」「意」「覚意」などとも意訳された[要出典]。大乗経典では「bodhi」を「菩提」と音意訳せず「覚」と意訳した新訳があるが、「覚」の訳が当てられたサンスクリットは十種類以上に及ぶため[29]、漢訳仏典だけからは判別しづらい。大乗経典が多用する「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい」は[30]、「最も優れた-正しい-知識」「最も勝った-完全な-理解」といった意味あいで[31]、すでに部派仏典に見られる述語だが[32]大乗仏典では還相(還如)の意味でも用いられる。大乗特有の生死即涅槃煩悩即菩提の教説はそこから生じたとみられる[要出典] (詳細は生死即涅槃煩悩即菩提正覚を参照)。

釈迦(しゃか)の辿った道筋から見てみると、釈迦は出家前にすでに阿羅漢果を得ていたとされるが[33]出家後も含めて多くの哲学者や宗教家の教えを受け、苦行にも専念したが悟りを得られなかった[注 7]。そこで今までの修行法をすてて、尼連禅河(にれんぜんが)で沐浴し身を清め、村娘スジャータから乳粥(ちちがゆ)の供養(くよう)を受けて河を渡り[要出典]、対岸のピッパラ樹(菩提樹)の下で降魔成道を果たし[注 8][34]梵天勧請を受けて鹿野苑(ろくやおん)で初転法輪を巡らしたとする[35]。釈迦が降魔成道を遂げて悟りを開いたとされる蠟月(十二月)八日は、今日でも降魔成道会として仏教寺院の年中行事の一つとなっている[4]。釈迦は梵天勧請から7年を経てなお、神々や悪魔と対話したとされる[36] (詳細は声聞を参照)。

初期仏教から部派仏教あたりまでは、悟るためにさまざまな修行が説かれ実践された。仏教の悟りは智慧を体としており、凡夫(ぼんぶ)が煩悩(ぼんのう)に左右されて迷いの生存を繰り返し、輪廻(りんね)を続けているのは、それは何事にも分別(ふんべつ)の心をもってし、分析的に納得しようとする結果であるとし、輪廻の迷いから智慧の力によって解脱(げだつ)しなければならない、その方法は事物を如実(にょじつ)に観察(かんざつ)することで実現するとされる。[要出典] 小乗という蔑称は、大乗が宣揚された後に説一切有部の一部派への批判として用いられたことがほぼ論証されているとされる[37]

この悟りの境地を「涅槃(ねはん)」といい、それは「寂静(じゃくじょう)」であるとされる。煩悩が制御されているので、とらわれのない心の静けさがあるということである。パーリ語本の大般涅槃経(大パリニッバーナ経)には、釈迦は沙羅樹林で入滅し涅槃に入ったと説かれている。悟りを求める心を菩提心といい、小乗も大乗も共通であるが、声聞(しょうもん)は四諦(したい)・八正道を成就し[要出典]縁覚(えんがく)へと化すものは十二因縁を説いてさらに解脱果の有るものがおり[38]菩薩(ぼさつ)は精進波羅蜜を離れることなく得証し終えるとされる[39] (詳細は菩薩を参照)。

大乗仏教では自分の悟りは他人のさとりを前提に成立するという立場から、六波羅蜜(ろくはらみつ)のうち精進を実践する菩薩行(ぼさつぎょう)を強調する。悟りは固定した状態ではなく、悟りの行は、自利と利他の両面を願って行動し続けることであり、自らの悟りに安住することなく、悟りを求める人々に実践を指導するために活動し続けた釈迦の姿が想定されており、活動していくことに悟りの意味を求めているのが、大乗以降の仏教の特徴である。[要出典]

他言語における日本仏教の Satori[編集]

日本仏教固有の述語である Satori は、禅宗系の仏教学者や僧侶を中心とした仏教や禅(Zen)の欧米への紹介・布教活動によって、海外でも知られる用語となり、[要出典] ウィキペディアでは23言語で Satori のページが立ち上がっている。

中国仏教[編集]

中国撰述とされる論書、『大乗起信論 』では、阿頼耶識(あらやしき)に不覚と覚の二義があるとし、覚をさらに始覚(しかく)と本覚(ほんがく)とに分けて説明する。我々の心性(しんしょう)は、現実には無明(むみょう)に覆われ、妄念にとらわれているから不覚であるが、この無明が止滅して妄念を離れた状態が「覚」であるという。ところで、無明は無始以来のものであるから、それに依拠する不覚に対しては「始覚」といわれるが、われわれの心性の根源は本来清浄な覚りそのもの(「本覚」)であって、それがたまたま無明に覆われているから、始覚といってもそれは本覚と別のものではなく、始覚によって本覚に帰一するに過ぎない、と説明する。つまり、誰にでも覚りに至る道は開けており、それに向かっての修行が必要なことを説いているのである。さらに、覚りは清浄なものであることも説明されており、この論書の特長である。[独自研究?]

ジャイナ教[編集]

ジャイナ教のシンボル

ジャイナ教では、修行によっての束縛が滅せられ、微細な物質が霊魂から払い落とされることを「止滅」(ニルジャラー)と称する。その止滅の結果、罪悪や汚れを滅し去って完全な悟りの智慧を得た人は、「完全者」(ケーヴァリン)となり、「生をも望ます、死をも欲せず」という境地に至り、さらに「現世をも来世をも願うことなし」という境地に到達する。この境地に達すると、生死を超越し、また現世をも来世をも超越する。煩悩を離れて生きることを欲しない、と同時に死をも欲しないのは、死を願うこともまた一つの執着とみるからである。ここに到達した者は、まったく愛欲を去り、苦しみを離脱して迫害に会ったとしても少しも動揺することなく、一切の苦痛を堪え忍ぶ。この境地をモークシャ・やすらぎ(寂静)・ニルヴァーナ(涅槃)、とジャイナ教では称する。

モークシャに到達したならば、ただ死を待つのみである。身体の壊滅とともに最期の完全な解脱に到達する。完全な解脱によって向かう場所を、特に空間的に限定して、この世とは異なったところであるとしている。「賢者はモークシャ(複数)なるものを順次に体得して、豊かで、智慧がある。彼は無比なるすべてを知って[身体と精神の]二種の[障礙を]克服して、順次に思索して業を超越する『アーラヤンガ』」。モークシャは生前において、この世において得られるものと考えられている。このモークシャをウッタマーンタ(最高の真理)と呼んで、ただ“否定的”にのみ表現ができるとしている。

このモークシャを得るために、徹底した苦行瞑想、不殺生(アヒンサー)、無所有の修行を行う。ジャイナ教では、次の「七つの真実」(タットヴァ)を、正しく知り(正知)それを信頼し(正見)実践する(正行)することが真理に至る道であると考えられている。1. 霊魂(ジーヴァ)2. 非霊魂(アジーヴァ)3. 業の流入(アースラヴァ)4. 束縛(バンダ)5. 防ぎ守ること(サンヴァラ)6. 止滅(ニルジャラー)7. 解脱(モークシャ)

ジャイナ教では、宇宙は多くの要素から構成され、それらを大別して霊魂(ジーヴァ)と非霊魂(アジーヴァ)の二種とする。霊魂は多数存在する。非霊魂は、運動の条件(ダルマ)と静止の条件(アダルマ)と虚空(アーカーシャ)と物質(プドガラ)の四つであり、霊魂と合わせて数える時は「五つの実在体」(アスティカーヤ)と称する。これらはみな“実体”であり、点(パエーサ)の集まりであると考えられている。宇宙は永遠の昔からこれらの実在体によって構成されているとして、宇宙を創造し支配している主宰神のようなものは“存在しない”とする。

霊魂(ジーヴァ)とは、その本質は意志を含めた知と生命性であるといえる。インド哲学でいう我(アートマン)と同じであり、個々の物質の内部に想定される生命力を実体的に考えたものであるが、唯一の常住して遍在する我(ブラフマン)を“認めず”、多数の実体的な個我のみを認める「多我説」に立っていると見なされている。霊魂は、地・水・火・風・動物・植物の六種に存在する。つまり“元素”にまで霊魂の存在を認める。霊魂は“上昇性”を持つが、それに対して物質は“下降性”を有する。その下降性の故に霊魂を身体の内にとどめ、上昇性を発揮することができないようにしていると考えられている。この世では人間は迷いに支配されて行動している。人間が活動(身・口・意)をするとその行為のために微細な物質(ボッガラ)が霊魂を取り巻いて付着する。これを「流入」(アースラヴァ)と称する。霊魂に付着した物質はそのままでは業ではないが、さらにそれが霊魂に浸透した時、その物質が「」となる。そのため「業物質」とも呼ばれる。霊魂が業(カルマン)の作用によって曇り、迷いにさらされることを「束縛」(バンダ)という。そして「業の身体」(カンマ・サリーラガ)という特別の身体を形成して、霊魂の本性をくらまし束縛しているとする。霊魂はこのように物質と結び付き、そして業に縛られて輪廻するという。

霊魂に業が浸透し付着して、人間が苦しみに悩まされる根源は「執着」があるからであると考える。そのため外界の対象に執着してはならないと教える。あらゆるところから業の流れ(ソータ)は侵入してくるので、五つの感覚器官(感官)を制御して全ての感覚が快くとも悪しくとも愛着や執着を起こさなければ、業はせき止められる。それを、「防ぎ守ること・制御」(サンヴァラ)と呼び、新規に流入する業物質の防止とする。それに対し、既に霊魂の中に蓄積された業物質を、苦行などによって霊魂から払い落とすことを「止滅」(ニルジャラー)と呼ぶ。

霊魂は業に縛られて、過去から未来へ生存を変えながら流転する存在の輪すなわち輪廻(サンサーラ)の中にいる。輪廻は、迷い迷って生存を繰り返すことだという。ジャイナ教は、その原因となる業物質を、制御(サンヴァラ)と止滅(ニルジャラー)によって消滅させるために、人は“修行”すべきであると説く。そのために出家して、「五つの大誓戒」(マハーヴラタ、mahaavrata)である、不殺生、不妄語、不盗、不淫、無所有を守りながら、苦行を実践する。身体の壊滅によって完全な解脱が完成すると「業の身体」を捨てて、自身の固有の浮力によって一サマヤ(短い時間)の間に上昇し、まっすぐにイーシーパッバーラーという天界の上に存在する完成者(シッダ)たちの住処に達し、霊魂は過去の完成者たちの仲間に入るとしている[40]

ヒンドゥー教(バラモン教)[編集]

ヒンドゥー教は非常に雑多な宗教であるが、そこにはヴェーダの時代から続く悟りの探求の長い歴史がある。

仏教に対峙するヴェーダの宗教系で使われる悟り意識の状態で、人が到達することの出来る最高の状態のいくつかを言う。サンスクリットニルヴァーナ涅槃)に相当する。光明または大悟と呼ばれることもある。悟りを得る時に強烈な光に包まれる場合があることから、光明と呼ばれる。

インドではヴェーダの時代から、「悟りを得るための科学」というものが求められた。それらは特に哲学的な表現でウパニシャッドなどに記述されている。古代の時代の悟りを得た存在は特にリシと呼ばれている。

ニルヴァーナには3つの段階が存在するといわれ、マハパリ・ニルヴァーナが最高のものとされる。悟りと呼ぶ場合はこのどれも指すようである。どの段階のニルヴァーナに到達しても、その意識状態は失われることはないとされる。また、マハパリ・ニルヴァーナは肉体を持ったまま得るのは難しいとされ、悟りを得た存在が肉体を離れる場合にマハパリ・ニルヴァーナに入ると言われる。

悟りを得た存在が肉体を離れるときには、「死んだ」とは言われず、「肉体を離れる」、「入滅する」、「涅槃に入る」などと言われる。

悟りという場合、ニルヴァーナの世界をかいま見る神秘体験を指す場合がある。この場合はニルヴァーナには含まれないとされ、偽のニルヴァーナと呼ばれる。偽のニルヴァーナであっても、人生が変わる体験となるので、偽のニルヴァーナを含めて、ニルヴァーナには4つあるとする場合もある。

現在でも、ゴータマ・ブッダの時代と同じように山野で修行を行う行者が多い。どんな時代にでも多くの場所に沢山の数の悟りを得た(と自称している)存在に事欠かない。

通常、悟りを得たとする存在もヒンドゥー教、またはその前段階のバラモン教の伝統の内にとどまっていた。しかし、特にゴータマ・ブッダの時代はバラモン教が司祭の血統であるブラフミン(バラモン)を特別な存在と主張した時で、それに反対してバラモン教の範囲から飛び出している。同時代にはジャイナ教のマハーヴィーラも悟りを得た存在としており、やはり階級制であるカーストに反対してこれを認めず、バラモン教から独立している。

キリスト教[編集]

ギリシャ哲学等と融合し、異端とされたグノーシス派では、真に神を知ることをグノーシスと呼ぶ。[要出典]

仏教者鈴木大拙はイエスを妙好人と考証している[41]

イスラム教[編集]

一般のイスラム教には悟りの伝統は含まれていないが、特にイスラム教神秘主義とも呼ばれるスーフィーは、内なる神との合一を目的としており、そのプロセスは悟りのプロセスのいずれかに近い。しかし、神との合一を成し遂げたスーフィの中にはハッラージュ英語版のように「我は真理なり」と宣言して時の為政者に処刑された例がある[42]

悟りと似た意味の言葉[編集]

  • モークシャ (ジャイナ教) (解脱) - モークシャには自由の意味があり、最終的な自由を得ることをさす。また、天国地獄を超越した場所として、モークシャを指す場合もある。モークシャは、天国に入るという事ではなく、天国と地獄を超越した場所にはいることを示す。

注釈[編集]

  1. ^ 般若波羅蜜の場合は「等正覚」が摘要されることが多いなど。
  2. ^ 「開悟」が仏教伝来以前から中国に存在していた漢語かどうかは不明である。
  3. ^ 大正新脩大藏經では、阿含部を除く全ての経・論・律部のいずれかのテキストに「菩提薩埵」の語が出現する。しかし、「菩薩」が三十数万例みられるのに対して、「菩提薩埵」は約千二百例みられるに過ぎない。漢訳の際に菩薩と簡略されたケース、底本がすでに「bot-sat」と簡略されているケースなども含めて、その使い分けについては今後の研究対象と成り得よう。[独自研究?]
  4. ^ 衆生(または山川草木)すべてに仏性が備わっているとする天台宗本覚思想と、衆生すべてに如来性が備わっているとする如来蔵思想は本来的には異なるものである。[要出典]
  5. ^ 黒谷上人(法然)は、浄土門は仏乗までの開悟・難行を経ずに安楽不退国に至る道であるとした。大正新脩大蔵経テキストデータベース 『黒谷上人語燈録』 (T2611_.83.0153b15: ~): 初聖道門者。謂於此娑婆世界斷惑開悟至果之道也。就此總分有二。…(中略)… 謂聲聞乘・縁覺乘・菩薩乘・佛乘也。次淨土門者。願求出此娑婆穢惡境生彼安樂不退國之道也。※宗門内でも大きな論争となった。
  6. ^ 興福寺が朝廷に奏状した九ヶ条では「念儀誤失」、「浄土暗失」に加えて「万善防失」、「釈衆損失」などがあげられた(出典参照)。
  7. ^ 出家後はアーラーラ・カーラーマウッダカ・ラーマ・プッタに師事したとされる。
  8. ^ 通教的には滅受想定という。

脚注[編集]

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  1. ^ 荻原雲来, 鈴木学術財団 『梵和大辞典』 山喜房仏書林。
  2. ^ 『正覚』 大正新脩大蔵経テキストデータベース
  3. ^ a b 『仏教漢梵大辞典』 平川彰編纂 (霊友会) 687頁「正覚」、及びその対照逐訳。
  4. ^ a b 清水寺成道会12/8 ※記述内容は各寺共通 - 京都・観光旅行。
  5. ^ 『開語』 大正新脩大蔵経テキストデータベース。
  6. ^ 「広説佛教語大辞典 中村元著(東京書籍)」等ならびに「梵和大辞典(鈴木学術財団)」を比較参照。
  7. ^ 『悟』 大正新脩大蔵経テキストデータベース。
  8. ^ 『仏教漢梵大辞典』 平川彰編纂 (霊友会) 「悟」、及びその対照逐訳。
  9. ^ 「広説佛教語大辞典 中村元著(東京書籍)」、「禅学大辞典(大修館書店)」等を参照。
  10. ^ 大正新脩大蔵経テキストデータベース 『六祖大師法寶壇經/附』 (T2008_.48.0353a07 ~): 師示衆云。善知識。本來正教無有頓漸。人性自有利鈍。迷人漸修悟人頓契。自識本心自見本性。即無差別。所以立頓漸之假名。
  11. ^ 大正新脩大藏經 『佛説長阿含經卷』第四。
  12. ^ 中村元訳(岩波文庫) 『ブッダ最後の旅』第五章。
  13. ^ 古代メソポタミアにおける死生観と死者儀礼. 月本昭男. 西アジア考古学 第8号 2007年。
  14. ^ 悠誘 高野山 高野山の歴史 - 一般社団法人 高野町観光協会。
  15. ^ 一仏乗と表記されることがある。一仏乗 - 大正新脩大蔵経テキストデータベース。
  16. ^ 如来乗の表現は大乗仏典で出現した。 如来乗 - 大正新脩大蔵経テキストデータベース。
  17. ^ 大正新脩大蔵経テキストデータベース 『妙法蓮華經文句(智顗説)』 (T1718_.34.0071a10: ~): (説無量佛法 三十六又云。三解脱法出聲聞乘 無諍法出縁覺乘 六度四攝出大乘 知一切法出佛乘。) 又第九地説聲聞乘相(辟)支佛乘相菩薩乘相如來乘相。
  18. ^ 『望月 佛教大辞典 4 増訂版』(世界聖典刊行協会) 3343-3344頁。
  19. ^ a b 大正新脩大蔵経テキストデータベース 『無量寿経優婆提舎願生偈註(曇鸞註解)』 (T1819_.40.0836a21 ~): 迴向有二種相 一者往相二者還相。往相者 以己功徳迴施一切衆生 作願共往生彼阿彌陀如來安樂淨土。還相者 生彼土已得奢摩他毘婆舍那方便力成就。
  20. ^ 大正新脩大蔵経テキストデータベース 『不空羂索神變眞言經』 (T1092_.20.0340b03: ~): 當如佩佛舍利制多 當觀世音手摩其頭 滅諸憂悲八難大怖 當於淨土蓮花化生 次得轉生愛樂世界。※仏典の記述から様々に語られる。
  21. ^ 大正新脩大蔵経テキストデータベース 『顯淨土眞實教行證文類親鸞撰』 (T2646_.83.0606a09: ~): 迴向有二種相 一者往相二者還相。往相者 以己功徳迴施一切衆生 作願共往生彼阿彌陀如來安樂淨土。還相者 生彼土已得奢摩他毘婆舍那方便力成就。※曇鸞の偈註からとっている。
  22. ^ बुद्धक्षेत्र(buddhakSetra) - Spoken Sanskrit Dictionary.
  23. ^ バラモン教の苛酷な輪廻思想と仏教の六道輪廻の違い - NHKテキスト View。
  24. ^ 大正新脩大蔵経テキストデータベース 『佛地經論』 (T1530_.26.0325c19: ~): 居純淨土任運湛然 盡未來際自受法樂 現種種形説種種法 令大菩薩亦受法樂 變化身者。
  25. ^ 大正新脩大蔵経テキストデータベース 『正法眼藏』 (T1819_.40.0836a24 ~): 聲聞經ノ中ニハ 稱シテ阿羅漢ヲ 名ケテ爲(ス)佛地ト。…(中略)… 阿羅漢ヲ稱シテ佛地トスル道理ヲモ參學スヘシ。
  26. ^ a b 『日本仏教史辞典 第1版6刷』(吉川弘文館) 「承元の法難」480-481頁、「安楽」16頁、「住蓮」456頁。
  27. ^ 『望月 佛教大辞典 3 増訂版』(世界聖典刊行協会) 「遵西」2520頁。
  28. ^ बोधि (bodhi) - Spoken Sanskrit Dictionary.
  29. ^ >『仏教漢梵大辞典』 平川彰編纂 (霊友会) 「覺」。
  30. ^ 阿耨多羅三藐三菩提 は大正新脩大蔵経に1万3500余回出現するが、阿含部は45回に過ぎない。
  31. ^ 『anuttarāṃ』, 『samyak』. 『sambodhiṃ』(漢訳対照梵和大辞典) 参照。
  32. ^ 阿耨多羅三藐三菩提 (阿含部) - 大正新脩大蔵経テキストデータベース。
  33. ^ 『四禅‐定』 (禅学大辞典)参照: 釈迦族の農耕祭のときに四禅定を得たとする。同辞典の旧版では農耕祭での相撲のときに四禅の相を現したとしている。
  34. ^ 大正新脩大蔵経テキストデータベース 『大日經疏演奧鈔(杲寶譯)』 (T2216_.59.0414a08: ~): 疏如佛初欲成道等者 按西域記 菩提樹垣正中金剛座。…(中略)… 若不以金剛爲座 則無地堪發金剛之定 今欲降魔成道 必居於此。
  35. ^ 大正新脩大蔵経テキストデータベース 『釋迦譜』 (T2040_.50.0064a08: ~): 佛成道已 梵天勸請轉妙法輪 至波羅捺鹿野苑中爲拘隣五人轉四眞諦。
  36. ^ 『ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤⅡ』 第Ⅳ篇 悪魔についての集成 第三章(さらに五つの経)第四節. 中村元訳. 岩波文庫。
  37. ^ 『バウッダ』 中村元・三枝充悳著. 小学館. 337-338頁。
  38. ^ 大正新脩大蔵経テキストデータベース 『佛説如來興顯經(竺法護譯)』 (T0291_.10.0604a16: ~): 化縁覺乘 信樂中行 爲衆現説十二因縁之所 或超有解脱果。
  39. ^ 大正新脩大蔵経テキストデータベース 『佛説佛母寶徳藏般若波羅蜜經』 (T0229_.08.0683c07: ~): 菩薩愛樂爲衆生 修治佛刹清淨行 恒行精進波羅蜜 無如微塵心退倦 大智菩薩倶胝劫 久修苦行爲菩提 不離精進波羅蜜 無懈怠心終得證。
  40. ^ 渡辺研二 2006.
  41. ^ 鈴木大拙全集第十巻[要追加記述]
  42. ^ イスラム史におけるスーフィズムの意義について(Webpage archive、2012年8月5日) - http://www4.ocn.ne.jp/~kimuraso/ronbun3.html

参考文献[編集]

  • 『漢訳対照梵和大辞典』 鈴木学術財団、山喜房佛書林、2012年5月、新訂版。ISBN 9784796308687。
  • 中村元 『広説佛教語大辞典』 東京書籍、2001年6月NCID BA52204175
  • 大蔵経テキストデータベース研究会 『大正新脩大藏經テキストデータベース』、2012年、2012版。
  • 『禅学大辞典』 禪學大辭典編纂所、大修館書店、1985年11月、新版。ISBN 4469091081。
  • 渡辺研二 『ジャイナ教入門』 現代図書、2006年。ISBN 4-434-08207-8。

関連項目(仏教)[編集]