改元

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改元(かいげん)とは、元号を変更すること。

概説[編集]

中国日本など東アジアでは、紀年は、60年周期の干支の外に、君主皇帝天皇)の在位期間を基準に定められ、治世途中で再び元年から始めることを改元と呼んだ。元号を使うようになってからは、元号も同時に改められた。このため、改元が元号を変えること(改号)と同一視されることもある。

元号使用以前について、正史では便宜上、「中元年」「後元年」など、「中」や「後」をつけて記録している。なお、帝王の退位により新帝王が即位すると、再び元年から始められ、一般的にこれも改元と呼ぶことがあるが、専門的には、治世途中の改元だけを改元とし、新帝王の即位による元年は称元(しょうげん)と呼んで区別することがある。

種類[編集]

改元はその理由を基準として主に

  1. 君主の交代による代始改元
  2. 吉事を理由とする祥瑞改元
  3. 凶事に際してその影響を断ち切るための災異改元
  4. 三革を区切りと見なして行われる革年改元(三革とは、革令(甲子の年)・革運(戊辰の年)・革命(辛酉の年))

に分類される。

改元する際、新元号の始点をどこに置くかが問題となるが

  1. 改元が布告された時点で、布告された年の元日に遡って新元号の元年と見なす場合(立年改元
  2. 改元が布告された日から後を(布告された日の始まりに遡って)新元号の元年とする場合(即日改元
  3. 布告の翌日から後を新元号の元年とする場合(翌日改元
  4. 布告の年の末日までを旧元号とし、翌年の元日から新元号を用いる場合(踰年改元、越年改元

に分けられる。時代によって時間の観念が異なる(特に時刻レベルで改元時点を確定する必要が生じたのは日本の「大正」改元以降のみである)ので確定は難しい。日本の改元は概ね1か2か3のいずれかのパターンであり、「明治」改元は1、「大正」「昭和」改元は2、「平成」改元は3である。一方、一世一元の制を布いた朝以降の中国では原則4を採っていた。国土の大きい中国の場合、布告の周知徹底には時間が長引くため、新元号の発表と同時に全土で改元を実施することは困難であり、4が現実に即していた。唯一の例外は明の光宗の場合である。光宗は父の神宗の死去に伴って7月に即位したものの、8月には急死してしまったため、越年改元だと神宗の元号である「万暦」の次は、光宗の後を継いだ熹宗の元号である「天啓」になってしまい、光宗の元号である「泰昌」が消滅してしまうため8月以降を「泰昌元年」とし、翌年に「天啓」へ改元した。

改元を即位の年に行う即日改元ならびに翌日改元(布告日が12月31日以外)では、1年間に複数の元号が並立する。又、立年改元の場合にも、改元の年に発行された書籍などの元号の書き換えも必要となる。逆に、越年改元は、1年間に一つの元号のみであり、新帝即位の年は先帝に遠慮して旧元号を用い、即位の翌年元日に改元する。越年改元は、儒教的な服喪の理念に基づいており、中国でも日本でも平時にはこの方式が採られていた。一方、王朝の交代や先帝の廃位などによる改元の場合には、むしろ先代の権威を否定するために立年改元が行われた。明治以降の日本で立年改元や即日改元が実施された要因は、「孝」の理念よりは、国家元首である天皇の交代を速やかに国民に印象づけることが優先されたためである。

なお、中世後期(室町時代後期)から近世初期にかけての東国では、改元の報が知らされてもその年の内は旧年号を用い、年が明けてから2年の別名として「元年」と称したとする"元二年"と呼ばれる慣習があったとする説がある[1][2]

江戸時代後期の日本では中井竹山藤田幽谷石原正明広瀬淡窓らが、改元と天災地変との関連性がなく、却って社会に混乱を招いているとしてこれを批判した。

明治から第二次世界大戦までの日本では、一世一元の制が施行された。

第二次世界大戦後、日本国憲法施行と皇室典範改正により、元号の法的根拠は一旦消失したが、昭和54年(1979年)施行の元号法によって、皇位の継承があった場合に限り元号を変更することが定められた。

脚注[編集]

  1. ^ 勝俣鎮夫「戦国時代東国の地域年号について」『戦国時代論』(岩波書店、1996年)
  2. ^ 丸島和洋「岩松持国の改元認識」(初出:『戦国史研究』58号(2009年)/所収:黒田基樹 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一五巻 上野岩松氏』(戒光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-164-6)

関連項目[編集]