日高晤郎

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日高 晤郎
本名 細谷 新吾
ほそたに しんご
生年月日 (1944-02-28) 1944年2月28日(73歳)
出身地 日本の旗 日本大阪府大阪市
血液型 A型
師匠 市川雷蔵
勝新太郎
事務所 日高エージェンシー
活動時期 1961年 -
現在の代表番組 ウイークエンドバラエティ 日高晤郎ショー
他の活動 ラジオ パーソナリティ

日高 晤郎(ひだか ごろう、1944年2月28日 - )は、日本芸人ラジオ パーソナリティ歌手俳優。本名、細谷 新吾(ほそたに しんご)。旧芸名は飛鷹一日高吾郎[1]

大阪府大阪市西成区出身。日高エージェンシー所属。東京都在住。

略歴[編集]

1960年、16歳。コックの見習いをしながら高校に通っていた時、スポーツ新聞で見た、大映主催の「第1回ミス・ミスターフレッシュフェイスコンテスト」に応募。中学校で演劇部だった経歴を活かし、優勝を飾る。大映京都撮影所演技研究所に入所(第2期生)。

1961年、17歳の時、新人俳優「細谷新吾」を名乗り、市川雷蔵の相手役として、映画『江戸へ百七十里』でデビュー。雷蔵に才能を認められ、彼の推薦で、一時期は劇団くるみ座毛利菊枝の下で、「特待生」として、座員と共に、演技や台詞の基礎を学んでいた[注 1]。その後、勝新太郎にも目をかけられ、二人の師匠の下で、数々の映画に出演。

1965年、「もっと活動の場を広げて修行したい」との志で、大映を退社。上京を決意。活動の場を既に斜陽となっていた映画界から、テレビ ドラマに移す。芸名を「飛鷹 一」(ひだか はじめ)に改名[2]。日高の固い意志を理解し、上京に猛反対する日高の養父に土下座し、説得したのは他でもない勝だった。雷蔵も、自分の映画に準主役級の役を用意していたところでの報せで、残念がる一方、「確かに、お前にここは狭すぎる」と理解を示した。こうして上京を果たすが、当然、満足に仕事にはありつけず、この頃から弾き語りやクラブのボーイなどで日銭を稼ぎ、食い繋ぐ生活となる。後年、現在でもディナーショーなどで披露しているフラメンコ ギターはこの頃に学んだものである。雷蔵を安心させようと「某局のプロデューサーから目をかけてもらった」などと嘘の手紙を書いていたが、当の雷蔵は周囲の後輩俳優に「新吾は偉いやっちゃなぁ。毎月、こうして手紙をくれるが、喰えていない事くらい俺にもわかる、しかし喰えない時に、こうして見栄を貼れるというのは立派なもんや。見栄があるから保っていられるんや」と話し、しっかり見抜きながら、その姿勢を褒めていたという。

1967年、23歳。クラウンレコードから『流れ者小唄 (B面:東京阿呆鳥)』で、歌手デビュー。「飛鷹だと読みにくい」との理由で付けられた芸名が「日高吾郎」で、現在の芸名となる(のちに晤郎と改名)。以後、3年間で、LPを含め、10枚のレコードを発売。

1969年7月17日、役者としての日高を認め、支えた師匠 市川雷蔵が死去。その訃報を「歌手」として、地方のキャンペーン先で知らされる。「役者」でなく「歌手」として、師匠の死を知ることとなった事に大きな衝撃を受け、これを契機に、レコード歌手から挫折。その後は俳優としてテレビドラマの出演、ワイドショーのレポーター。声優として、洋画吹き替えラジオ ドラマの出演などの活動を続ける。1974年4月7日、NETテレビ(現・テレビ朝日)の「日曜洋画劇場」で、映画『007シリーズ』がテレビ初放映された際(作品は『007 ゴールドフィンガー』)、主演のショーン・コネリーの吹き替えを担当[3]

1977年、かつての役者仲間が、札幌琴似キャバレーで「箱入屋」[注 2]をしており、「1週間でも、3日間でもいいから・・・」と懇願され、ステージを務める。その話芸の巧みさ、誠実な仕事ぶり、人柄が、キャバレーのオーナーに気に入られ、3日間のステージを務め上げたあとは「オーナーの遊興仲間」として、1ヶ月間滞在。オーナーからは「すっかり長居をさせて申し訳なかった。来月も来い」と再び、札幌に呼ばれたものの、仕事のあてもない日々を過ごしていた。そんな時「本当のところ、何をやりたいのか」と問われ、「今までやったことが無い、自分のラジオ番組がやってみたい」と話したところ、紹介されたのが、STVラジオのディレクター(当時)、岩本芳修[注 3]だった。これをきっかけに、1978年から1983年にかけ、STVラジオの『おくさま広場』。『日高晤郎の朝からなんですが』。STVテレビの主婦向け情報番組のレポーター等を担当。現在に至る基盤となっている[4]

人物[編集]

  • 自身の意思転換や善し悪しの判断を曖昧にせず明確にし、貫徹するため「激しい気性」とも誤解される。しばしば鋭い舌鋒で、相手が何(誰)であれ「良い物は絶賛し、駄目なものは駄目」と良くも悪くも躊躇なく批評し、「筋を通す」ことを徹底している。本人はそれを承知の上で「8割の人に嫌われてもいい。残りの2割の人を大事にしていきたい」と度々『日高晤郎ショー』の番組内で語っている。人気俳優・タレントにも対しても「芸があること、実力があることと人気があるとは違う」と再三、発言している。
  • 「ひとり語り」公演、ディナーショーについて、「毎年、命を削るような思いで、『今年で最後』というつもりでやっている」とコメントしている。
  • 舞台やショーに限らず、テレビやラジオの視聴者を「お客様」と表現し、自らを「話芸人(わげいにん)」と称している。
  • 「芸人とお客様の間は一線を引くべき」との考えを強く持ち、プライベートを明かすことは少ない。自身は大の野球ファンであり、大阪出身ながら、巨人ファンである。
  • 「北海道は新しい物に対して、何にでも飛びつくが育てる事が出来ない」。「YOSAKOI ソーランはダンスコンクールのようなもので、『祭』ではない」と発言している[5]。*水道橋博士からは「北海道のたかじん」[6]と呼ばれ、小倉智昭からは『情報プレゼンター とくダネ!』で、やしきたかじんともに紹介された[7]
  • 70歳を越えた現在でも、自宅のある東京都内と北海道を、飛行機で毎週往復している。航空会社は日本航空を愛用している。

出演作品[編集]

テレビドラマ[編集]

ラジオ[編集]

現在[編集]

過去[編集]

STVラジオ

その他の放送局

映画[編集]

  • 江戸へ百七十里(1962年、大映) - 中橋茂太郎
  • 座頭市物語(1962年、大映)
  • 駿河遊侠伝 賭場荒し(1964年、大映)
  • 哀愁のサーキット(1972年、日活) - 哲也

テレビ番組[編集]

STV

その他の局

  • 小川宏ショー(リポーター)[9]
  • 単発ドキュメンタリー番組(HTB、1983年頃)
  • 日高晤郎のスーパーマンDAY(BBほっかいどう)
  • 「いくぞー北の出会い旅」北海道新幹線各駅停車の旅〜津軽編〜(NHK札幌放送局) 吉幾三出演の回にゲスト出演 2016年6月26日放送

ビデオ・DVD[編集]

  • 日高劇場 晤郎七色八面体(1989年/VHSビデオ)
  • 日高晤郎・語りの世界(二)(1994年/VHSビデオ)
  • 日高晤郎 語り芸の世界 紺屋高尾 -こうやたかお-(2005年2月28日/DVD 番組公式サイト内で、通信販売を実施)
  • 日高晤郎DVD2012「上方寄席芸人伝 桂文京」(2012年12月14日/DVD)

テレビ アニメ[編集]

吹き替え[編集]

俳優[編集]

洋画[編集]

CM(テレビ・ラジオ)[編集]

ひとり語り「芸談」これまでの演目[編集]

  • 紺屋高尾(こうやたかお/1990年初公演作品。2004年再演)
  • 高瀬舟
  • 桂文京(1990年)…作:日高晤郎
  • 忠臣蔵別伝 芸談・澤村淀五郎(2002年
  • 釣忍(つりしのぶ)
  • エディットピアフ
  • 松風の門

ディスコ グラフィ[編集]

シングル[編集]

アルバム[編集]

著書[編集]

  • 日々幸せ感じ上手 - 日高晤郎のトーク・グラフィティ(中西出版) ISBN 4-931204-08-2
  • こころによりくもりのちはれ(日刊スポーツ出版社) ISBN 4-8172-0104-5
  • こころ折々つづれ織り(日刊スポーツ出版社) ISBN 4-8172-0120-7
  • こころ日めくり人ごよみ-人生来楽夢(日刊スポーツ出版社) ISBN 4-8172-0127-4
  • 日高晤郎名言集 言葉のビタミン(中西出版) ISBN 4-89115-125-0

脚注・出典[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ その際の「レッスン料」を陰で負担していたのは雷蔵だった。一時期、さぼりがちになった際、毛利の口からこの事実を聞かされ、自分の心根を大いに恥じたという。
  2. ^ はこいれや。ショーステージのための出演契約など、ブッキング担当者。
  3. ^ その後、STVラジオの制作プロデューサーとなり、同局で、日高の番組を担当。定年退職後は、フリーのラジオ プロデューサーとして活動する一方、日高の主宰する語り手、表現者養成のための私塾「志塾 日高塾」の運営に携わっている。
  4. ^ 月-金曜にHBCラジオで放送していたが、火曜はニッポン放送の裏送りで、はたえ金次郎の担当に差し替えられた。

出典[編集]

関連人物[編集]

  • 市川雷蔵 - 映画界入りした際の最初の師匠。
  • 勝新太郎 - 雷蔵同様、日高を高く評価し、雷蔵亡き後は、自分の弟子として励まし続けた。大映退社や歌手転向の際も、温かく激励した。