河内王朝

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河内王朝(かわちおうちょう)は、大阪市の上町台地に本拠地を置いた倭国の王朝。またその王朝に対する呼称のひとつ。当時、律令制以前の為、律令制以後の摂津国、河内国、和泉国、全ては河内であった。また、河内王朝の範囲は律令制以後の摂津国の範囲である。

概要[編集]

万世一系皇統神武天皇による建国以来、連綿と続いてきたとする『日本書紀』の記述に対し、倭国時代に複数の王朝が興亡したとするのは、歴史学上のひとつの立場表明である(王朝交替説)。

難波宮に拠点をおいた大王たちをひとつの王朝と見なす主張の中にも、始祖をだれとみなすか、王朝の名称をなんと称するかなどの点で、さまざまな諸説がある。

この王朝の名称を河内王朝と称する研究者としては、東洋史学者の岡田英弘、日本史学者の塚口義信などがいる。難波王朝と称する研究者には考古学者の山根徳太郎[1]がいる。

岡田英弘による学説[編集]

岡田英弘は、日本書紀にいう神武天皇から応神天皇までの歴代を、『日本書紀』の編纂を命じた現政権(天武天皇とその子孫たち)の都合によって創出された架空の存在とし、日本書紀の歴代天皇たちのうち、歴史上存在したのが確実なのは仁徳天皇からであるとし、禰とその子孫たちの王統を河内王朝と称する[2]

岡田は、雄略天皇に比定される倭王が487年に中国の南朝に送った上表文にいう「祖禰(そでい)」を「「祖父である禰」の意味」だと解釈、(でい)を倭王武の祖父の名だと解釈した。

岡田は、この解釈にもとづき、宋書にみえる倭の五王と『日本書紀』の歴代天皇を次のように比定している[3]

禰(仁徳天皇)┬賛(履中天皇)
       ├珍(反正天皇)
       └済(允恭天皇)┬興(安康天皇)
               └武(雄略天皇

塚口義信による見解[編集]

4世紀末のヤマト政権の内部分裂により誉田別皇子(のちの応神天皇)が忍熊王を打倒して成立[4]

注釈[編集]

  1. ^ 難波宮発掘に尽力。『難波王朝』という題の著書がある
  2. ^ 岡田, 2008
  3. ^ 岡田, 1977, 第四章 (pp.106-146)・第五章 (pp.147-183)。
  4. ^ 古代日向の謎 「神武東征」伝説の背景 : こだわり歴史考 : 教育 文化 : 九州発 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

参考文献[編集]

  • 岡田英弘 『倭国―東アジア世界の中で』 中央公論社、1977年。ISBN 4121004825。
  • 岡田英弘 『日本史の誕生―千三百年前の外圧が日本を作った』 筑摩書房、2008年。ISBN 4480424490。

関連項目[編集]