王 (皇族)

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(おう、みこ、古くはおおきみ)は、皇族身位または称号の一つ。または、王の身位を授けられた皇族のこと。現行の皇室典範では天皇からみて直系で嫡男系嫡出の三親等以遠の男性に与えられる。皇室典範で定められた敬称は殿下[1]

現在の王[編集]

皇室典範第五条  
皇后太皇太后皇太后親王親王妃内親王王妃及び女王を皇族とする。
同第六条  
嫡出皇子及び嫡男系嫡出の皇孫は、男を親王、女を内親王とし、三世以下の嫡男系嫡出の子孫は、男を、女を女王とする。
同第七条  
が皇位を継承したときは、その兄弟姉妹たる及び女王は、特にこれを親王及び内親王とする。

現行の皇室典範では、天皇の嫡男系嫡出で三親等以上離れた皇族男子を指す(傍系でなく直系尊属の天皇から数える)。これに対して同様の皇族女子の場合には、女王と称する。ちなみに、王の妃を王妃という。

現在、日本には女王は存在するものの、王は現行皇室典範以降一人も出生していない。旧皇室典範時代には多数存在したが(昭和史の重要人物である伏見宮博恭王東久邇宮稔彦王など)、みな第二次世界大戦終戦直後の1947年昭和22年)10月14日皇籍を離脱した。

王は皇族身位令に準じ、成年となったときに桐花大綬章を授与される(2003年平成15年)11月2日までに成年に達した場合は勲一等旭日桐花大綬章であった)。

身位の変更[編集]

現行の皇室典範では、王は次のいずれかに当てはまる場合、王から親王に身位が変更される。

  1. 皇位の継承によって天皇嫡出の皇子または嫡男系嫡出の皇孫となった場合。(皇室典範第6条)
  2. 王の兄弟たる王が皇位を継承した場合。(皇室典範第7条)

近代の王一覧[編集]

歴史[編集]

古代 - 近世の王[編集]

皇親としての王[編集]

明治時代以前の律令制下では皇族のことを皇親と称し、天皇の四世孫(あくまで天皇を父系とする子孫)までをその範囲とした[要出典]。皇親としての王とは親王宣下を受けていない皇子や皇孫(皇胤)のうち、皇籍にある男子を指し、それらを総称して諸王と称して臣下同様、正一位から従五位下までの位階を授けられた[要出典]

なお、幕末以後日本が西洋と国交を開いた直後には、西洋の皇帝国王の関係を日本や中国と同様の非対等な関係(の皇帝と朝鮮の王のような)と誤解をして、帝国の国家と王国の国家宛ての国書に格差を付けてしまったために、紛糾したと言われている[誰?]これは「王」という漢語には皇帝の国(帝国)の属国の国の首長の意味を含んでいたためである[独自研究?]皇帝を参照)

王氏としての王[編集]

また、皇親の範囲外にある天皇の五世孫については臣籍にありながら王号の使用のみを許された。後に皇親の範囲は天皇の五世孫まで拡大されたが、臣籍に移行しながら姓を持たず、なおも王号の使用が認められた者を総称して王氏といった。通常、臣下には賜姓されるべきところ、王氏たる王は源氏平氏など賜姓の伴う臣籍降下を経ず、代が下ったことで自動的に皇親の範囲から外れた者であり、また、王号の使用が許されたこともあって特定の氏を有さなかった。このため、皇親から外れた王の集団を氏族に擬して王氏と呼び、他氏同様に氏爵を通じて叙位任官を受けた。つまり、皇親たる王が皇位継承権を有する皇族だとすれば、王氏たる王は皇位継承権を喪失した旧皇族だといえる。但し、皇室や皇族・旧皇族とはあくまで明治時代以降に皇室典範で規定された近代以降の概念であり、また、旧皇族とは王号を返上した存在であることから、厳密には王氏としての王と旧皇族は完全に比等する関係にないことも留意を要する。

なお、平安時代には天皇の庶出の皇子や傍系の皇孫が臣籍降下する例または出家し仏門に入る例が増えたことで、王氏たる王の数は自然に減少していったとされる。ところが、伊勢神宮奉幣使は王氏の中から選ばなければならないなど朝廷の祭祀には王号を有する者の存在が必要であった。そのため、花山天皇の皇胤たる花山源氏の当主について神祇伯官職にある間、王氏に復し、王号の使用を認めるなどの特例が定着し、同氏が鎌倉時代以降、白川姓を名乗ったことから、白川家または神祇伯を世襲したことに因んで白川伯王家、伯家などと称した。この白川伯王家は基本的に源氏に連なる公卿いわば貴族として存続したが、神祇伯に任官している間は王氏であり続けた[2]。同家の地位は基本的に花山源氏の血筋で世襲されたが、後に村上天皇の皇胤である村上源氏たる公家の中院家梅渓家から養子を招くようになり、後に皇胤でない藤原氏の流れを汲む公家 高倉家冷泉家からも養子を招いて王号を名乗らせるなど、天皇を父系の祖先としない藤原氏出身の王も登場することもあった[3]。しかし、明治時代以降、白川伯王家は王号を返上し、華族に編入、子爵爵位を授かったことで、王氏たる王の地位を失った。後に旧皇族の上野正雄の子が白川資長の養子となったものの後に養子縁組を解消し、白川家は断絶。制度としてのみならず血脈としても王氏たる王の存在は消滅した[4]

その他の王[編集]

李王家
韓国併合ニ関スル条約及び関連する詔書により、「韓国皇帝陛下太皇帝陛下皇太子殿下並其ノ后妃及後裔」に該当する者を王公族とし、李王家の当主もというが、皇族のと王族のは全く違うものである。
聖徳太子
推古天皇摂政であった聖徳太子を後世、法王と称することがあったが、そもそも太子の正式な名は厩戸皇子であり王ではなく正式な身位でない。
道鏡
766年(天平神護2年)には称徳天皇太政大臣禅師だった道鏡に法王の称号を授け百官に拝礼されたが、皇族の身位ではない上、道鏡の失脚後は称号自体が廃止されている。
尚泰王
1872年(明治5年)、政府琉球王国の日本への編入にあたり、琉球国王たる尚泰王に対し琉球藩王の称号を授けたが、華族令の制定とともに侯爵爵位が授けられ、藩王の称号は廃止されている。

法王であった道鏡は物部氏の傍系 弓削氏の出身であり、皇室どころか皇室から分かれた皇別氏族ですらない。また、琉球藩王の尚泰は第二尚氏という他国の王室であった。一時的であれ、王の字を含む称号が国から非皇族に贈られた例は、王氏や朝鮮王公族を除けばこの2例だけである。

脚注[編集]

  1. ^ 新村出広辞苑 第六版』(岩波書店2011年)342頁および松村明編『大辞林 第三版』(三省堂2006年)304頁参照。
  2. ^ 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典第11巻』(吉川弘文館1983年)617頁参照。
  3. ^ 野島寿三郎編『公卿人名大事典』(日外アソシエーツ1994年) 386 - 388頁参照。
  4. ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会編『平成新修旧華族家系大成 上巻』(霞会館、1996年) 763頁参照。

参照文献[編集]

  • 霞会館華族家系大成編輯委員会編『平成新修旧華族家系大成 上巻』(霞会館、1996年) ISBN 4642036709
  • 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典第11巻』(吉川弘文館、1983年)ISBN 4642005110
  • 新村出編『広辞苑 第六版』(岩波書店、2011年)ISBN 400080121X
  • 野島寿三郎編『公卿人名大事典』(日外アソシエーツ、1994年) ISBN 4816912444
  • 松村明編『大辞林 第三版』(三省堂、2006年)ISBN 4385139059

関連項目[編集]