田沼時代

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田沼時代(たぬまじだい)とは、江戸時代中後期に田沼意次側用人老中として幕政の実権を握っていた明和4年(1767年)から天明6年(1786年)の時期をいう[1]。伝統的な緊縮財政策を捨て、それまで見られなかった商業資本の利用など積極的な政策が取られた一方で、当時から賄賂政治の代名詞としても有名[1]。単に「田沼期」や「田沼の改革」、「宝暦・天明期」といった呼ばれ方もある。

一般にはその名を冠するように意次が世相を主導した時代区分と思われているが、当初より意次個人が絶大な権勢を奮ったわけではなく、今日にイメージされる幕政の専横は安永8年(1779年)とされ[2][3]、特に天明元年を契機とする[2]。また、古くは辻善之助享保の改革期に連なる時代区分として宝暦-天明期の歴史的意義を評価し、この期間の代表的人物として意次を挙げて田沼時代と称する[4]。戦後においては林基佐々木潤之介ら以降に宝暦-天明期を1つの時代区分として見ることが通説化しており、特に近年においては化政文化に先立つものとして宝暦・天明文化が定義されている。

本稿では田沼意次が幕政に参与した期間の幕府の諸政策を中心としつつ、広く時代区分としての宝暦-天明期の歴史的位置づけについても解説する。

概要[編集]

第9代将軍徳川家重、続く第10代将軍家治の寵愛を受けた田沼意次側用人老中として絶大な権勢を誇った期間であり、また、商業資本を重視した経済政策が実行されたことで知られる。

一般に意次が側用人となった明和4年(1767年)から天明6年(1786年)の時期とされる。ただし、意次は側用人に任命される以前から老中を辞職に追い込むなどの一定の影響力は有しており、また、専横と呼べるほどの力を持ったのは安永8年(1779年)と見られている。このため、田沼時代を意次が権勢を握った時期と定義する場合にその開始時期については諸説ある。

当時の時代背景として商業資本、高利貸などが発達し、それまでの米を中心とする重農主義的政策から重商主義的政策への転換の時代にあたる。江戸時代の三大改革(享保の改革寛政の改革天保の改革)が復古的理想主義、重農主義を特徴とするのに対して、田沼は商業資本を重視した経済政策を行った。

一方で汚職政治の時代としても知られており、当時から世相を風刺されていた。意次は賄賂政治家の代名詞として扱われることもあるが、これらについては近年の研究で異論などが出ている。

田沼時代の期間と意次が権力を握った時期[編集]

一般に田沼時代という場合、田沼意次が第10代将軍徳川家治側用人になった明和4年(1767年)から、彼が失脚した天明6年(1786年)の期間を指す。しかし、この定義には様々な前提認識が必要である。

通俗的な認識では意次が幕政を専横し、当時の世相を主導した時代とされ、その専横の始まりが側用人への昇格だったと認識される。しかし、史実として、そもそも意次が本格的に幕政に参加したのは側用人になる約10年前の宝暦8年(1758年)の郡上一揆の裁定である。これは単純に幕政の中枢に加わったことを意味するにとどまらず、一揆の結果として旧来の幕府中枢の重臣らが失脚したことも含まれる。また、側用人になる前から元々徳川家重御側御用取次で、続く家治に重用されており、明和元年(1764年)には老中秋元凉朝が意次との対立で辞職する一件が起こるなど、側用人昇格を期に幕政に強い影響力を持ったわけではない。また、側用人となった後も、時の老中首座・松平武元と協調して幕府の諸政策を行っており、「専横」したと呼べるのは武元が亡くなった安永8年(1779年)以降のことである。さらに、それも5年後の天明4年(1784年)に起こった嫡子・田沼意知の暗殺事件を契機に権勢が衰えたとされ、失脚までの全期間を通して万全の権力を持っていたわけではない。このため、意次の幕政への影響力を基準に田沼時代の期間を定める場合には、その開始時期に関して幅があるし、また、その全期間において一般にイメージされるような意次による幕政の専横が行われていたことも意味しない。

そもそもこうした意次の権勢の期間を基準とすること自体に異論があり、古くは辻善之助が意次が時代の中心としつつも、彼が当時の風潮をすべて作ったわけではないとして、宝暦から天明までの30余年間を田沼時代とする。特に辻の観点は、従来より田沼時代の特徴とされる風潮は享保期の末期には既に生じたものであって、意次の歴史の表舞台への登場によって唐突に到来したかのような認識を否定し、享保期と連続性があったものと見なす。中でも民権発達の時期として郡上一揆から天命の打ちこわしに至る民衆の反抗や、後の化政文化に至る江戸の町人文化の萌芽だったことを挙げ、田沼時代を論ずる。

戦後においては1960年代より林基佐々木潤之介が宝暦-天明という時代区分でこの時代を論じ、近年は化政文化に先立つものとして宝暦・天明文化が定義されるなど、田沼時代という言葉を使わずとも「宝暦-天明」という名称で同時代を表す場合が多い。いずれにしても、この時代の情勢や歴史的な位置付けを、単純に意次が権勢を誇った時期や、彼の政策と効果に限定することに無理がある。このため、特に意次の政策に限定して論ずる場合には、江戸の三大改革にならって「田沼の改革」などと呼称されることもある。

下記、開始時期と見られることがある出来事とその年を記述する[2]

宝暦元年(1751年
意次が徳川家重御側御用取次御側衆)に昇格。
宝暦8年(1758年
旗本から1万石の大名に取り立て(1762年に1万5000石)。ここから本格的に幕政に参加した。また一揆の沙汰において旧来の幕閣中枢が失脚したことも意次の躍進の契機とみなされる。
宝暦11年(1761年
家重が亡くなり、遺言より徳川家治に重用される。
明和4年(1767年
徳川家治の側用人となる。一般的な開始時点。
安永8年(1779年
老中首座・松平武元の死去。これ以降、幕政を専横するようになったと見なされている。

終わりに関しては意次の失脚時期(及び寛政の改革の前年)である天明6年(1786年)でまず統一されているが、これは必ずしも翌1787年天明の打ちこわしを含まないという意味ではない。あくまで1786年は意次個人が失脚した年であって、幕府中枢に残っていた田沼派を放逐して幕政が改まった決定打は天明の打ちこわしであったし、また、上記のように民権発達の時期と考える辻はこれも田沼時代の重要な要素と見る。

主な改革[編集]

経済政策[編集]

同業者組合である株仲間を奨励、真鍮座などの組織を結成させ、商人に専売制などの特権を与えて保護、運上金冥加金を税として徴収した。財政支出補填のための五匁銀南鐐二朱銀といった新貨の鋳造、貨幣の統一などを行い、これまで不安定だった通貨制度を安定させた。また、殖産興業として町人資本の出資による印旛沼手賀沼開拓、農地開発を行う。貸金会所は寺社・農民・町人から金を出資させ、困窮する藩に貸付け、後に利子を付けて返すというものであったが、反発により挫折した。

外交政策[編集]

海舶互市新例を緩和するなど鎖国政策を緩めて長崎貿易を奨励、俵物などの商品作物を育成し、海外物産、新技術の導入を図る。また、『赤蝦夷風説考』を著した工藤平助らの意見を登用し、蝦夷地(北海道)の直轄を計画、幕府による北方探査団を派遣し、ロシアとの交易も企画した。

学問・思想[編集]

蘭学を手厚く保護し、足軽身分の平賀源内などとも親交を持った。田沼時代の自由な気風のなか、江戸では大槻玄沢が蘭学塾を開き、安永3年(1774年)には杉田玄白前野良沢らがオランダ語医学書の『ターヘル・アナトミア』を翻訳した『解体新書』を刊行、市井では庶民文化が興隆する。

その他[編集]

士農工商の枠組にとらわれない実力主義に基づく人材登用も試みた。

結果[編集]

諸藩が天明3年(1783年)の浅間山噴火などを契機とする天災による不作にもかかわらず、自家の財政維持のために米を大坂市場へ飢餓輸出をしたことによる、全国的飢饉への対応の失敗や、商品経済の発展に伴う賄賂の増加などの反面、幕府の財政基盤の確立には成功した。明和7年(1770年)には、幕府の備蓄金は171万7529両という、5代将軍綱吉以来の最高値を記録している。

天明の大飢饉や、それに伴う米価高騰、地方での百姓一揆の増加などの政情不安の中、天明4年(1784年)には田沼の実子で若年寄田沼意知江戸城内で佐野政言に暗殺される事件が起こり、世直しの風潮もあり田沼の名声は失墜する。10代将軍家治死後の天明7年(1787年)には、御三卿一橋家から養子に入った徳川家斉が11代将軍に就任し、御三卿田安家から白河藩主となった松平定信が老中首座となる。幕閣では定信が主導する反田沼派が井伊直幸水野忠友松平康福らの田沼派の老中や大老を一掃する政変が起こる。定信は吉宗の孫であり、将軍後継にもなりえたが、家斉の父の一橋治済や田沼が裏工作を行い白河藩の養子となっていた事情などがあり、田沼を敵視していたとされる。定信は田沼路線を否定し、風紀粛清、重農主義に回帰する寛政の改革に乗り出すが、改革は財政的には失敗し、田沼時代の資産を食いつぶす形になった。また「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋ひしき」という狂歌が出たように、良くも悪くも田沼時代を懐かしむ声も聞こえた。

貨幣経済、商品経済の発展により多くの商人が発展した。その一方で、農村は荒廃し、多くの農民は没落した。

評価・研究史[編集]

田沼時代の評価は、一般に汚職政治の風潮という面と、幕府の諸政策という2面があり、また、しばしば時代風潮と田沼意次個人の評価が混同され、意次個人が国政を壟断したことで時代風潮が成されたものかという点がある。

一般的な歴史認識[編集]

一般には田沼意次とその時代は賄賂・汚職のイメージで語られてきたものであり、これは、そもそも意次がそのような時代風潮を作り出した首魁と見なすことも含まれる[5]。そのような印象が先行して、戦後の学術レベルでの再評価の流れが一般にも流布するまで意次の諸政策すら顧みられることはほぼ無かった。

通俗的な歴史認識として、江戸期の政治や社会は善政と悪政の交代論というものがある[5]。すなわち、元禄文化(悪政)→享保の改革(善政)→田沼時代(悪政)→寛政の改革(善政)→大御所時代(悪政)→天保の改革(善政)である。いわゆる「江戸の三大改革」が殊更に評価されるのは、その前に悪政が存在したから、それを改める「改革」が起こったという観点が存在し、ゆえに悪政期に行われた諸政策が個々に検討されることはなく、それがたとえ新規性を持っていたとしも「革新」や「改革」とも見なされなかった[5]。そうした中でも特に田沼時代は、唯一成功を収めたとされる前代の享保の改革と比較され、徳川吉宗の治世を善政の見本とするに対し、田沼時代は悪政の見本と見なされた[6]。そのため、汚職が蔓延ったとされるのは元禄文化期や大御所時代も同じだったにも関わらず、田沼時代に限って賄賂政治の代名詞として扱われる有様で、江戸史の暗黒期としてその次代風潮すべてがネガティブな印象を持たれ、近年、宝暦・天明文化として扱われる文化的側面などもこの時期特有のものとしては評価されず、化政文化の一部として認識されるのが一般的であった。

例えば大正期の1914年に起こったシーメンス事件においては、ある貴族院議員がこの収賄事件を田沼時代に見立てて当時の第1次山本内閣を批判したと辻は述べている。こうした時代認識は当然のことながら文芸作品にも見られ紫頭巾などがあるが、例外的に辻の『田沼時代』に依った山本周五郎の『栄花物語』(1953年)では、意次を主人公として肯定的に描く。

後述するように1960年代から始まった学術レベルでの田沼時代の再評価の流れに従って、一般レベルでの認識にも変化が見られるようになっていく。例えば高校教育では、汚職はともかく、意次の政策の革新性が扱われるようになる[5]。文芸においては、先の山本の『栄花物語』を例外として、1970年代から変化が見られ、例えば池波正太郎の『剣客商売』では意次が卓越した政治家として登場する上に、当時の時代風潮を肯定的に描写し、少年向け漫画でも、みなもと太郎風雲児たち』で肯定的に描かれた。

近年においては後述のように大石慎三郎の研究以降、意次の汚職政治家という評価も一般レベルで改められつつある。また、田沼時代の肯定的な側面は、意次個人が作り出したという風潮がある。竹内は「(当時が)こうした田沼の功利的経済政策の仕組みから必然化された風潮であり、田沼意次の個性とか個人的好みに、その原因を求めるべきではなかろう」と述べている。

当時の認識・評価[編集]

汚職政治の時代という認識は当時から存在し、判じ絵狂歌、落首といった形で民衆にも風刺されてきた[3]側用人が幕政を主導するということについても、それ自体が柳沢吉保以来の奸臣のイメージであり、譜代門閥層の反発があった[7][8]。また、幕府の諸政策に関しても、町人から幕府が、換言すれば市民から政府が継続的に税収を得ることは、近代以降としては当然の政策であるが、農民からの年貢が基本であった当時の政治の認識からは異例の政策であり、特に遊女屋などの賎職からも運上金を集めたことは批判があった。現在では肯定的に評価される南鐐二朱銀も、非常に町人や商人から不満を持たれた。また、意次が例えば平賀源内工藤平助などの下級身分や町人を能力次第で重用したり、場合によっては帯刀を許したことも、当時からすれば身分秩序の破壊であったし、ロシアとの外交政策も旧来の幕法を犯すものとして批判された。加えて、度重なる天災は、それ自体が悪政に対する天罰であると見なされた。

田沼時代の悪政評価は、後述するように寛政の改革期に松平定信ら反田沼派が実態以上に強調した側面も大きいが、このように当時から存在していた。ただし、少なくとも当時においては単に汚職政治だけを指したのではなく、当時の常識からして異例の諸政策や風潮も批判されたという側面を含んでいる。

一方で田沼時代を肯定的に見るのは、むしろ寛政の改革によってそれが終わりを迎えた後、懐かしむ形で生じた。「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋ひしき」の狂歌は現代でもよく知られる。また、幕末の混乱期には長崎奉行を務めた内藤忠明が意次がいれば先例に拘泥せず傑出した策を講じただろうと評し、川路聖謨が「よほどの豪傑」「正直の豪傑」と評すように、一部に田沼時代や意次を肯定的に評価するものもあったが、全般としては従前の通り悪政の見本とされ、汚職といった面のみならず、その諸政策も否定的に見られた[6]

学術的な評価[編集]

戦前の潮流と辻善之助の指摘[編集]

戦前においては、官学派史学の大御所的存在であった三上参次松平定信を肯定的に評価する観点から、田沼時代を否定的に評するなど、学術面においても同時代には否定的評価が主流であった[5][9]。そうした史学の潮流の中で登場したのが、大正デモクラシーの時代背景を受けて著述された辻善之助の『田沼時代』(1915年)であり、戦後の同時代の再評価の流れの中でも重要な研究書として扱われている[9]

辻は、この期間が従来の印象通り政治腐敗の時代だったとしつつ、行われた幕府の政策が非常に先駆的なものであったと評した[6]。また、意次の従来の身分制度を無視した登用と共に、幕政を批判した判じ絵や狂歌といった町人文化、また致命打となった天明の打ちこわしそのものが、民権発達の新気運の潮流だったと評する[10][9]。文化面においても、後に化政文化として興隆する江戸の町人文化(庶民文化)の萌芽は田沼時代にあったとし、国学・蘭学を代表とする思想の自由と学問芸術の発達や、途絶えたとはいえ開明的な政策が後の幕末にも影響を与えたことを挙げ、この時期の歴史上の価値を論じた[6]

また、辻は貨幣制度を伴う商業の発達にせよ、汚職政治にせよ、あるいは身分制度の綻びや町人文化の興隆も、享保期の末期から見られた漸次的な潮流であって、幕政における意次の価値を認めつつも、彼はあくまでこの時代の代表者に過ぎないとした[6]。特に辻は意次の賄賂政治家という評価に関しては、当時の史料を引いてこれを間違いないものとしつつ、それ自体が当時の風潮であって[11]、これを持って意次の思想や政策が否定されるべきではないとした[6]

こうした意次を部分的にも肯定的に評価する意見は、他にも竹越與三郎の著作にも見られ、辻個人だけの意見ではなかったが、しかし、戦前においてはそのまま再評価の流れは立ち消えてしまい、むしろ辻の『田沼時代』を本来の主旨などに反して引用する形で学術的に意次の賄賂政治家という面が強調されてしまった[9][12]

戦後の再評価[編集]

戦後になると再び田沼時代及び田沼意次の再評価の流れができ始める。ジョン・ホイットニー・ホールは『Tanuma Okitsugu』(1955年)において、意次の政策を日本における資本主義の萌芽として評価した。1960年代に入って林基佐々木潤之介が、日本史における同時代(宝暦-天明)の位置づけを論議し、画期的な社会変動期として、史学的に日本近世史における重要な時代と見なされるようになる[9]

まず、近世史において近世の終わりの始まり、すなわち幕府体制の崩壊はどこから始まったかという論点がある[5]。1950年代においては本庄栄治郎や津田秀夫による江戸の三大改革を強調する観点から享保の改革を起点する見方が一般的となり、現代においても中高教育において、享保期から幕藩体制が揺るぎ始めたという説を取る(幕府体制に危機が生じたので享保の改革が起こったとする)[5]。ただし、こうした津田の観点は辻達也北島正元山口啓二の批判があり、特に山口はむしろ幕府体制の確立が享保期にあったとする。いずれにしても、竹内誠が辻の業績を評する中で、享保の改革と田沼時代の連続性が今日では通説化していると述べるなど、現代において田沼時代(宝暦-天明)は、まず享保期からの連続性の中で論ずるのが通説となっている[9][13]。一方で、藤田覚は、江戸の三大改革を重視する論説(三大改革論)を嫌疑する立場から、享保の改革と、寛政の改革以降はまったく種別が違うとし、田沼時代を幕府体制に綻びが生じた、すなわち明治維新の起点、あるいは近世の社会解体の始まりの時期として重視する[5]

そうした前提を踏まえた上で戦前に辻が指摘した通り、同時代を混濁腐敗の暗黒時代と見るのではなく、①民意の伸長、②因襲主義の破壊、③思想の自由と学問芸術の発達、加えて④開国思想、が起こった社会変革期と見なすことが通説となっている[9][14]

また、大石慎三郎は、辻以来、確定的であった意次自身の汚職に関して、これらを彼の失脚後などに政敵の松平定信などが作り出した話だとし、辻の汚職政治に関する論拠は史料批判に乏しかったとする[12][7][注釈 1]。特に大石は同時代の別人、それこそ松平武元や松平定信といった清廉なイメージがあった政治家には贈収賄があった史料が残っているのに対し、むしろ意次の方にはそれが皆無だったと指摘する。ただし、大石はだからと言って意次が清廉潔白な政治家だったとは断定できないし、当時の政治の常道としての賄賂や、特に現代で言うお歳暮程度の贈収賄はよくあったとも述べている[12][15]

年表[編集]

以下、宝暦-天明期を中心とした田沼時代の年表を表す。田沼時代の理解のため、一部に同時期の他藩の専売制や、寛政の改革期も一部含める。

西暦 和暦 田沼意次史 政治史 経済史 農政・民衆史 外交史 学問史 文芸史 死没
1751年 宝暦元年 御側御用取次になる 徳川吉宗死去 松代強訴(田村騒動)
1752年 宝暦2年 琉球使節、将軍に謁する
1753年 宝暦3年
1754年 宝暦4年 酒勝手造許可 郡上一揆 玄語』起稿
1755年 宝暦5年 農民一揆鎮圧令
1756年 宝暦6年 5000石に加増
1757年 宝暦7年 平賀源内による初の物産会
1758年 宝暦8年
1759年 宝暦9年 1万石で遠江相良藩主となる
評定所へ出座
宝暦事件 金札・銀札の通用禁止
1760年 宝暦10年 (会津藩)塩専売開始
1761年 宝暦11年
1762年 宝暦12年 徳川家重死去 農民闘争鎮圧令 山脇東洋
1763年 宝暦13年 1万5000石に加増 鉱山調査の命令(特に銅山)
(長州藩)綿の運上銀仕法施行
第11次朝鮮通信使[注釈 2]
1764年 明和元年 老中秋元凉朝辞職 長崎貿易不振により俵物生産奨励 中山道伝馬騒動 古事記伝』起稿
1765年 明和2年 銭座の設置
五匁銀
誹風柳多留』刊行
錦絵の創製・絵暦交換会
1766年 明和3年 (阿波藩)藍玉売買所設置 円山応挙が応挙を名乗る
1767年 明和4年 側用人になる
2万石に加増
明和事件 関東八カ国綿実買受問屋設置 『寝惚先生文集』刊行
1768年 明和5年 蓑虫騒動
1769年 明和6年 側用人兼務で老中格になる
2万5000石に加増
徒党・強訴に対する出兵鎮圧令 初の狂歌会 賀茂真淵
1770年 明和7年 油稼株の公認 五代目市川團十郎襲名 鈴木春信
1771年 明和8年 千住小塚原刑場での死体腑分け お蔭参り流行
1772年 安永元年 老中に昇格
3万石に加増
南鐐二朱銀
樽廻船問屋株公認
1773年 安永2年 菱垣廻船問屋株公認
(阿波藩)砂専売
1774年 安永3年 解体新書』刊行 蔦屋重三郎が『一目千本』刊行
1775年 安永4年 玄語』刊行 喜多川歌麿登場
『金々先生栄花夢』刊行
1776年 安永5年 エレキテル復元 雨月物語』刊行 池大雅
1777年 安永6年 農民の江戸奉公稼ぎ禁止令
徒党・強訴禁止
1778年 安永7年 備蓄金が綱吉以来の最高値 輸出品の俵物奨励 ロシアが松前藩に通商要求
1779年 安永8年 松平武元死去
1780年 天明元年 4万7000石に加増
奏者番になる
鉄座・真鍮座結成(鉄と真鍮の専売)
絹糸貫目改所設置許可
赤蝦夷風説考』刊行 平賀源内
1781年 天明2年 絹一揆
天明の大飢饉(-1788年)
印旛沼干拓開始
1782年 天明3年 米その他商品の買占厳禁令 浅間山噴火 与謝蕪村
1783年 天明4年 田沼意知暗殺
1784年 天明5年 5万7000石に加増 江戸積問屋株仲間公認
1785年 天明6年 失脚、老中辞任。2万石没収。 徳川家治死去 蝦夷地調査
1786年 天明7年 貸付会所計画 手賀沼干拓 最上徳内の千島探検
1787年 天明8年 蟄居 寛政の改革 天明の打ちこわし 海国兵談』刊行 『通言総籬』刊行
1788年 天明9年 死去(享年70)
1789年 寛政元年 棄捐令 国後のアイヌ反乱 芝蘭堂開講 三浦梅園
恋川春町
1790年 寛政2年 寛政異学の禁
1791年 寛政3年 山東京伝が手鎖を受ける
1792年 寛政4年 ラックスマン根室来航
『海国兵談』発禁(林子平蟄居)

大石学の年表(1709年-1804年)[16]藤田覚の年表[17]を基に、文化史面は『江戸文化の見方』(竹内誠編)で補足。

関連文献[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

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  1. ^ 田沼時代や田沼意次が汚職政治のイメージで語られたのは辻が始まりではない。上述のように三上の論考があったり、辻自身が引用している通り、シーメンス事件に関わる貴族院議員の発言がある。辻の論考は佐々木の指摘のように、その意図に反して意次=汚職政治家と学術的に、あるいは中高の教育に引用された経緯がある。また、辻の論旨は民権発達の潮流として当時の民衆が時代や意次をどう認識していたかという部分があり、辻が意次の汚職の根拠として民衆の噂話程度のものすら挙げたという大石の批判は注意が必要である。
  2. ^ 当時の日本を風聞した金仁謙の『日東壮遊歌』が有名。

出典[編集]

  1. ^ a b デジタル大辞泉「田沼時代」 「田沼時代」コトバンク
  2. ^ a b c 山田忠雄「田沼意次の失脚と天明末年の政治状況」1970年5月(『史学43(1/2)』慶應義塾大学)
  3. ^ a b 辻 1980, pp. 11-61, 「意次の専権」
  4. ^ 辻 1980, p. 3, 「例言」
  5. ^ a b c d e f g h 藤田 2002, pp. 6-16, 「善政悪政交代史観と三大改革」
  6. ^ a b c d e f 辻 1980, pp. 328-342, 「結論」
  7. ^ a b 大石 1977, pp. 212-215, 「幕府政治の支配システム」
  8. ^ 藤田 2002, pp. 83-99, 「悪政の政治構造」
  9. ^ a b c d e f g 『田沼時代』解説 佐々木潤之介 p345-357
  10. ^ 辻 1980, pp. 256-283, 「新気運の潮流」
  11. ^ 辻 1980, pp. 62-67, 「役人の不正」
  12. ^ a b c 大石 1977, pp. 203-208, 「誤られた田沼像」
  13. ^ 藤田 2002, pp. 17-29, 「享保の改革」
  14. ^ 『日本史の舞台9』時代史概説「甍にゆれる太平の華 江戸時代中期」竹内誠 p14-28
  15. ^ 大石 1977, pp. 208-212, 「"顔をつなぐ"社会」
  16. ^ 『日本史の舞台9』「年表(1709-1804)」大石学 p164
  17. ^ 藤田 2002, p. 5

参考文献[編集]

関連項目[編集]