皇后

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皇后(こうごう、: Empress)は、天皇皇帝の正妃(正妻)、およびその人物に与えられる称号[1]

一夫多妻制のもとでは、天皇や皇帝の複数の妻のうち最上位の者となる。

日本の皇后位[編集]

現代における概要[編集]

皇后
Japan Kou(tai)gou Flag.svg
皇后旗
現当主
皇后美智子
1989年(昭和64年)1月7日より
詳細
敬称 皇后陛下
宮殿 皇居御所宮殿
ウェブサイト 宮内庁

皇室典範に定められた敬称は陛下(23条)、崩御後はに葬られる(27条)。立后には皇室会議の議を経ることが必要である(10条)が、すでに皇位継承者の妃である場合、夫の即位に伴って皇后となる。崩御した際には、「○○皇后」と追号されるのが慣例となっている[2]

式典、儀式においては、常に天皇の左側(向かって右)に位置する。古来、向かって右側が上位であったが、近代になって、西洋式に向かって左側が上位に改められたことによる。この並び順は、ひな人形の飾り方にも影響を与えている。

皇后のつとめの一つとして、養蚕が挙げられる。『日本書紀』にも、皇后が養蚕を行ったという記述があり、皇后美子が明治時代になって復活させた。以後、歴代皇后に引き継がれている。[3]

1914年(大正3年)以降は紅葉山御養蚕所にて行われている。

語源[編集]

古事記・日本書紀に従えば、古くは大王の妻妾を「キサキ」(后)と呼び、そのうちで最高位にあるものを「オオキサキ」(歴史的仮名遣いで「オホキサキ」)と呼び、単なる「キサキ」である他の妻妾と区別した。『古事記』では「大后」、『日本書紀』では「皇后」の漢字を当てている。「キサキ」とは元は“君幸”という意味があったとする説などがあるが、語源は定かではない。

後世「きさき」が皇后の意味を表すようになり、皇后を「皇后宮」(きさいのみや)とも呼んだ。これにちなみ、皇后を母とする皇子女を后腹(きさいばら)という。別称(唐名)として、後漢書になぞらえて「長秋宮」、あるいは漢代の例をもって「椒房」(しょぼう)「椒庭」(しょうてい)と称し、和名では八雲御抄後拾遺和歌集にみえる「紫の雲」などがある。「おうごう」とも読んだ。

皇室典範のもとでの敬称は「陛下」であるが、大宝律令のもとでの敬称は「殿下」であった。また、正式には「太皇太后宮」「皇太后宮」とともに「皇后宮」と呼ばれ、総称して三宮(さんぐう)という。三宮は天皇に准ずる存在とされため、さらにそれに准ずる存在、つまり天皇と三宮を除く皇族の最高位として、「准后」(または准三宮)という待遇・称号が生まれた。

現在の皇后[編集]

読み 生年月日 現年齢 結婚 皇后即位 出自 子女
Empress Michiko cropped 20140424.jpg
美智子 みちこ 1934年(昭和9年)10月20日 82歳 1959年(昭和34年)4月10日
/ 57年284日
1989年(昭和64年)1月7日
/ 28年12日
正田英三郎長女

皇太子徳仁親王
文仁親王
黒田清子

歴代皇后一覧[編集]

歴史[編集]

古代[編集]

「皇后」という称号が明文により規定されたのは、大宝律令の制定以後である。したがって厳密に言えば、日本最初の皇后は天平元年(729年)に第45代聖武天皇の皇后となった光明皇后(藤原安宿媛)ということになる。ただし『日本書紀』が初代・神武天皇の正妃・媛蹈韃五十鈴媛命以後すべての「オオキサキ」に対して「皇后」の字を当てたことから、光明皇后以前の天皇正妃も「皇后」と呼ぶことが慣行として定着した。

大宝律令に皇后になれる資格を規定した条文はないが、皇后より一段下位の妻であるの資格が「四品以上の内親王」と規定されていることから、皇后も当然内親王でなければなれないものと観念されていたとする考え方がある。『日本書紀』においても、仁徳天皇の「皇后」磐之媛を唯一の例外として「皇后」の父はすべて神または天皇・皇族である。(但し、磐之媛も血筋の上では孝元天皇の男系来孫であり、逆に細媛命春日娘子にはそのような記述が無い。)もっとも、『日本書紀』の記事には後世における天皇の生母に対する顕彰によって贈られた「皇后」号も存在するとの考えがある。しかし、光明皇后が磐之媛の例を先例として皇后に冊立されてから、このような制約はなくなり、むしろ皇族よりも藤原氏のほうが皇后の出身氏族として多く見られるようになった。

また、皇后の夫天皇が崩御して新天皇が即位しても必ず皇太后となるとは限らず、そのまま皇后位にとどまる例も少なくない。

初婚でない例もあり、伊香色謎命中磯皇女寶女王の3名は、いずれも元々別の天皇・皇族の妃であり、いずれも子があった。

逆に媛蹈鞴五十鈴媛命・穴穂部間人皇女藤原多子の3名は、夫天皇の崩御後別の天皇・皇族と再縁し、中でも穴穂部間人皇女は子も儲けた。

延喜23年(923年)、醍醐天皇藤原穏子を皇后に冊立したとき、皇后宮職ではなく中宮職が設置されて穏子に付置されることになった。中宮職が皇后に付置された最初の例である。このとき初めて、皇后の呼称とした「中宮」が用いられることになった。

本来、皇后の定員は1名であったが、永祚2年(990年)、一条天皇藤原定子を皇后に冊立するにあたり、すでに円融天皇(既に退位して太上天皇)の皇后(中宮)として藤原遵子が在位していたにかかわらず、先帝の皇后と今上の皇后は併存しうるものとして、2人の皇后の並立が強行されて以来、皇后は同時に2人まで冊立することができるようになった。両者を区別するため、遵子には中宮職から皇后宮職を付置して遵子を「皇后宮」と称し、定子には中宮職を付置して定子を「中宮」と称した。さらに長保2年(1000年)、藤原彰子が皇后とされるに及んで1人の天皇が同時に2人の皇后を立てることができる例が開かれた。このときは定子を「皇后宮」と改め、彰子を「中宮」とした。「皇后宮」も「中宮」もともに皇后であり、互いに優劣はないが、「中宮」のほうが実質的に天皇の正妻としての地位を占めている例が多い。

後冷泉天皇には既に中宮章子内親王と皇后藤原寛子がいたが、治暦4年(1068年)更に藤原歓子が立后されることになり、中宮章子が皇太后、皇后寛子が中宮とされ、歓子は皇后とされた。章子は皇太后位の皇后ともいうべき立場になり、僅か2日後に後冷泉天皇が崩御したものの、この3日間だけ1人の天皇が同時に3人の皇后を立てた唯一の例となった。なお、皇后宮から中宮となったのは、寛子ただ一人である。

その後、皇后のあり方は次第に多様化した。天皇の母がすでに死去している場合、または生母の身分が低すぎる場合などに、母に擬して准母を定めることが行われた。その初例は、寛治5年(1091年)に堀河天皇の准母となった媞子内親王であるが、彼女が同時に皇后とされたことから、天皇の妻ではない女性が皇后に立てられる例が開かれた。このような皇后を、学術的には「非妻后の皇后」と呼び、あわせて11例ある。宮内庁の行政用語では「尊称皇后」と呼んでいる。媞子は「中宮」であったが、その後の非妻后の皇后はすべて「皇后宮」であった。のちには、准母の経歴がなくても、単に未婚の内親王を優遇する目的で「皇后宮」の称号が与えられた例も生じた。准母の尊称皇后の中で唯一、姈子内親王はのちに入内した。また、長承3年(1134年)には、鳥羽天皇が譲位して上皇となったあとに入内させた妻である藤原泰子を、治天の正妻であることを明示する目的で皇后(皇后宮)に立てた。さらに鳥羽は、永治元年(1141年)、同年に即位した自分の末子近衛天皇の生母藤原得子を、天皇の生母であることを根拠に皇后(皇后宮)に立てている。そのほか、死後に皇后を追贈された者が3名いる。

中世・近世[編集]

南北朝時代以降、元弘3年(1333年)に後醍醐天皇の皇后(中宮)に立てられた珣子内親王を最後として(長慶天皇建徳2年(1371年)以降中宮を立てたが、詳細不明)、皇后の冊立は途絶えた。再興されるのは、寛永元年(1624年)冊立の後水尾天皇の皇后(中宮)源和子のときである。以後、皇后が同時に2人立てられることはなくなり、また皇后はすべて「中宮」とされた。

近現代[編集]

養蚕する香淳皇后
昭和30年(1955年)6月

明治元年(1868年)に皇后(中宮)となった明治天皇の皇后一条美子が翌年に「皇后宮」とされて以来、「中宮」の称号は絶え、明治22年(1889年)の皇室典範の制定で、皇后の定員が1名となるとともに、正式に「中宮」の称号は廃止され、皇后に統一された。准母の制度も廃止された。また、皇族の父親を持たない皇后が、皇族身分を認められたのもこの時以来のものである。

明治19年(1887年)1月、昭憲皇太后による「婦女服制の思召書」の布告によって、洋服着用が奨励され、宮中においても日常着から洋服を着用することとなった。このため、戦前、皇后の和服(着物)姿の写真が公開されることはなかった。ただし香淳皇后は、和服を所有しており、私的な写真は撮影されていた。大戦中には、倹約の奨励から「宮中服」が考案されるが、実際には皇后しか着用しなかったため「皇后服」の異称もある。昭和27年(1952年)になって、香淳皇后がはじめて和服(訪問着)を着用して公の場に現れた。以後、今日に至るまで、日本の伝統衣装として皇后および女性皇族が和服を着用する機会も多い。

なお、皇后・皇太后・太皇太后の3つの身位の序列は、大宝律令では1.太皇太后、2.皇太后、3.皇后の順と定められていたが、皇族身位令制定によって1.皇后、2.太皇太后、3.皇太后の順に改められ、諡号・追号には生前帯びていた身位のうち最高のものである「皇后」をつけることになった。

中国の皇后位[編集]

中国における君主号は、時代は王、代以降は皇帝であるが、それ以前の古い称号として「后」が存在した。王・皇帝に君主号が変遷して後、后はそれに次ぐ称号とされた。王、皇帝に次ぐ存在は王・皇帝の正妃ないし母親である事から、皇帝の正妃を皇后、皇帝の母親を皇太后と称するようになった。

陰陽五行説ではとされ、それぞれの頂点に皇帝、皇后がいるということになった。そのため、皇帝が三公九卿以下の官僚組織を擁するのと同様、後宮制度において皇后も三夫人、九嬪、二十七世婦、八十一御妻の3倍ずつ増加するヒエラルキーを擁していた。

日本の皇室には、そもそもがなく、名字も当然ないが、中国の歴代王朝の君主は姓を持ち、皇后には原則として異姓の者がなった。中国の皇后は従って、皇后が出身した一族の姓で呼ばれ、朝第3代の皇帝である高宗の皇后は「武」の姓を持つ一族出身であったので、「武皇后」が正式名であった。しかし後に、皇帝位を簒奪してみずから皇帝を名乗り、新王朝を開くと共に王朝名を周とした(武周と称する)。武照は皇帝としては武則天と呼ばれる。中国歴代王朝のなかで唯一の女帝である。

日本・中国以外の皇后位[編集]

「皇后」の称号はもともと、中国の歴代王朝が掲げた政治的世界観の下での世界全体の支配者天子(皇帝)の正妃の呼称であった。従って、漢字文化圏の国家においては、最高位の君主の称号が皇帝あるいはそれと同等なものである場合、皇后も存在することになる。「」(国王・郡王など)は、皇帝の下で一地域・一民族の君主であるにとどまる存在であった。

漢字文化圏以外の国家であっても、一地域・一民族の君主であるにとどまるの上位に位置し、複数の地域・民族を支配する君主が存在する場合、このような君主を、日本語で「皇帝」と訳す慣習がある。これにともなって「皇帝」と訳される称号を持つ君主の妻の称号も「皇后」と訳される。

皇帝と皇后の訳語[編集]

ローマ帝国の君主の称号のひとつである Imperator は、通常「皇帝」と訳され、また Caesar という家名も君主の称号となって、東西ローマ帝国の歴史を継承する社会(神聖ローマ帝国ドイツ帝国オーストリア帝国のカイザー、ロシア帝国ツァーリなど)の統治者・君主の称号として使われ、これも「皇帝」と訳される。サーサーン朝ペルシアパフラヴィー朝イランの「諸王の王(シャーハンシャー)」、オスマン帝国の「スルタン」あるいは「パーディシャー」、北アフリカエチオピアの「諸王の王(ネグサ・ナガスト)」、インドムガル帝国の「パーディシャー」、南アメリカインカ帝国の「サパ・インカ」なども「皇帝」と訳される。これらの君主が一夫一婦制の婚姻形態を採っていれば、妻の称号は「皇后」となるはずであるが、実際には、世間に通用している通称や研究者による慣用などが優先し、一様ではない。

西欧キリスト教社会などの一夫一婦制度を採る世界では、皇帝の妻は正式には一人しか存在せず「皇后」または「皇妃」と訳されることが一般的である。一例として東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌス1世の妻テオドラがある。彼女の地位は「皇后」または「皇妃」と訳される。

皇后と女帝[編集]

ヨーロッパ諸国の言語では、日本語の「皇后」に当たる称号は「皇帝」と訳される称号の女性形なのが一般的である(というより、ほとんどの君主称号・爵位がそうである)。この場合、称号だけでは、単に皇帝の妻であるのか、自らが帝位にある女性の皇帝であるのかは、区別できない。日本語に訳す場合は、前者は「皇后」、後者は「女帝」と訳し分ける必要がある。上記のテオドラはあくまでも「皇后」である。

ロシア帝国のエカチェリーナ2世は、もとは皇帝ピョートル3世の妻であり、その後クーデターにより自ら帝位についたものであるから、同一人物であり、ロシア語での称号は同じ単語でありながら、即位以前と以後とで「皇后」と「女帝」の使い分けが行われている。また神聖ローマ皇帝フランツ1世の妃マリア・テレジアは本来「皇后」であるが、これは女性に神聖ローマ皇帝位継承者資格が無いための措置であり、ハプスブルク家の支配下の領域においては、彼女がオーストリア大公ハンガリー王・ボヘミア王を兼ねる君主であり、フランツ1世は君主の配偶者に過ぎない。そのため日本語でも「女帝」と表されることが多い。

脚注[編集]

  1. ^ 新村出広辞苑 第六版』(岩波書店2011年)936頁および松村明編『大辞林 第三版』(三省堂2006年)844頁参照。
  2. ^ 昭憲皇太后については事情により「皇太后」と追号されている。詳細は昭憲皇太后#追号についてを参照。
  3. ^ この段落の出典。「蚕-皇室のご養蚕と古代裂,日仏絹の交流」展の開催について(2014年)、宮内庁、2016年1月6日閲覧。

参照文献[編集]

文献資料[編集]

  • 新村出編『広辞苑 第六版』(岩波書店、2011年)ISBN 400080121X
  • 松村明編『大辞林 第三版』(三省堂、2006年)ISBN 4385139059

関連項目[編集]