矢野燿大

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矢野 燿大 (矢野 輝弘)
阪神タイガース コーチ #88
HT-Akihiro-Yano2.jpg
現役時代(阪神甲子園球場にて)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府大阪市東住吉区(現:平野区
生年月日 (1968-12-06) 1968年12月6日(48歳)
身長
体重
181 cm
81 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手外野手
プロ入り 1990年 ドラフト2位
初出場 1991年8月3日
最終出場 2010年5月8日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 阪神タイガース (2016 - )
国際大会
代表チーム 日本の旗 日本代表
五輪 2008年

矢野 燿大(やの あきひろ、本名:矢野 輝弘/読み同じ、1968年12月6日 - )は、 大阪府大阪市東住吉区(現在の平野区瓜破出身の元プロ野球選手捕手外野手)。

2010年阪神タイガースで現役を引退してからは、朝日放送サンテレビ野球解説者スポーツニッポン大阪本社野球評論家として活動。その一方で、2013年11月からは、野球日本代表のバッテリーコーチを務めた。2016年からは、阪神の一軍作戦兼バッテリーコーチを担当[1]

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

小学2年生から地元の少年野球チームで野球を始め、当初は遊撃手だったが、チームの捕手がケガをして以降は捕手を務めた。大阪市立瓜破中学校では当時野球部がなく、バスケットボール部に所属していた。

大阪市立桜宮高等学校へ進学してからは、同級生の河本栄得高山知浩とともに硬式野球部へ入部。矢野は、少年野球時代の活躍を知る当時の監督・伊藤義博によって、1年生からレギュラーに抜擢された。伊藤が1年後に東北福祉大学の硬式野球部監督へ転じてからは、投手以外の全ポジションを経験しつつ、1年後輩の土井善和とバッテリー、高山とクリーンナップを組むまでに成長(後述)。4番打者だった3年生の時には、主将も務めた。高校通算で3本塁打を記録したものの春・夏とも甲子園出場を果たせなかった。

桜宮高校を卒業後に、伊藤のいる東北福祉大学へ進学。高校時代と同じく捕手以外のポジションもこなしていた関係で、1989年には三塁手として大学日本代表に選出された。第18回日米大学野球選手権のメンバーにも入っている[2]。後に阪神でも同僚となる同年齢の金本知憲は、1年浪人の後に矢野の下級生として同大学に入学している。

1990年のドラフト会議で、読売ジャイアンツ中日ドラゴンズが2位指名で競合し抽選の結果中日が交渉権を獲得し、同級生で4位指名を受けた吉田太とともに入団。この会議では、同大学から矢野・吉田以外にも、内野手の宮川一彦横浜大洋ホエールズ、投手の小坂勝仁ヤクルトスワローズからそれぞれ指名され、同一大学・学年から4人のプロ野球選手が誕生している。もっとも、矢野は当時、レギュラー捕手が高齢で捕手の層も薄かった地元・阪神タイガースや読売ジャイアンツへの入団を希望。それだけに、2歳年上の中村武志がレギュラー捕手として全盛期を迎えていた中日から指名されたことには不安を感じていた[3]。後に中日時代の思い出を振り返り「(中村の)存在が大き過ぎて、勝てるとは思えなかった」と、ラジオ番組『スポーツにぴたっと。』で語っている。

プロ入り後[編集]

中日時代[編集]

1年目の1991年から一軍出場し、この年は22試合に出場し、プロ初本塁打も放った。

1992年は72試合に出場し、打率.259と一定の成績を残した。

1993年は出番が減り、24試合の出場に終わってしまったが、39打席に立ち、10安打を放つなど打撃ではいいところを見せた。

1994年も35試合の出場に留まってしまい、打撃面でも成績を残せなかった。

1995年は57試合に出場した。同年オフ、ドラフト1位ルーキーの荒木雅博に譲る形で背番号を2から38に変更。

1996年8月11日の対巨人戦では、野口茂樹バッテリーを組んでノーヒットノーランを達成した。また、捕手として一軍に帯同しながら、打撃力の高さを買われて公式戦に外野手として出場することもあった。また、巨人が逆転優勝を決めたナゴヤ球場での最終戦には、1番・中堅手で出場。中日の選手としては同球場の公式戦で最後となる本塁打を放った。同年は56試合の出場で、もちろん規定打席不足ではあったものの、打率.346、7本塁打をマークしたが、本塁打数の割りに打点が19と少なかった。

1997年は中日では最多の83試合に出場したが、前年のような打棒を発揮することはできなかった。オフに大豊泰昭と共に、関川浩一久慈照嘉との交換トレードで阪神へ移籍。当時の監督であった吉田義男にリード面を評価され、山田勝彦に代わってすぐに正捕手の座を勝ち取る。

阪神時代[編集]

1998年5月26日の中日戦で川尻哲郎をリードして2度目のノーヒットノーランを記録。この年、7月7日の横浜戦でこの日まで無敗で連続セーブ記録を続けていた、当時全盛期(この年のシーズンMVP)の“大魔神”こと佐々木主浩(東北福祉大の1年先輩)から、佐々木のその年唯一の敗戦となる逆転サヨナラヒットを放つ勝負強さを見せている。同年はプロ入り初のシーズン100試合出場を果たし、最終的に打率.211と低調だったが110試合に出場した。

1999年、プロ入り9年目にして初の打率3割を記録した。阪神の捕手で規定打席に達した上での打率3割を記録したのは1979年の若菜嘉晴(打率.301)以来20年ぶりのことであった。

2000年、打率こそ前年を下回ったが完全に正捕手に定着、こちらも若菜以来20年ぶりに2年連続捕手として規定打席に到達した。

2001年、オフ、このシーズン限りで監督を辞任した野村克也の後任として、かつて自らをトレードで放出した星野仙一が阪神監督に就任したことで、「また星野監督に捨てられてしまう」と失望したと後に語っている。

2002年4月13日横浜戦での本塁上のクロスプレイ相川亮二のタックルを受けて左肩脱臼。その後も骨折で戦線離脱するなど怪我が多く、好調だったチームも矢野の離脱と共に失速した。

2003年、前年オフに日本ハムファイターズの正捕手だった野口寿浩がトレードで入団。自身のポジションを危ぶまれたが、大学時代のチームメイトで広島東洋カープから移籍してきた金本知憲の影響を受け、強い体作りに着手。シーズンを通してほぼマスクを被り、8番の藤本敦士とともに「恐怖の下位打線」と呼ばれた。MVPは4点差で井川慶に譲ったものの、チーム防御率セントラル・リーグトップの3.53、打撃でも打率.328を記録し、初のベストナインゴールデングラブ賞を獲得。ゴールデングラブ賞は捕手として史上最年長での初受賞であった。同年6月17日の対横浜戦では矢野の打撃直後、一塁走者のジョージ・アリアスが若干遅れてスタートしたため、アリアスの生還よりも早く矢野が三塁に到達し、珍しいサヨナラ三塁打を記録した。

2004年には36歳にして自身初となる全試合出場を達成。しかし、シーズン終盤には捕逸などミスも目立った。また、辻恭彦以来球団史上2人目となる全試合マスクを目指したが、代打出場のみだった試合が1試合あり達成できなかった。

2005年には三振を減らすべく宮本慎也を参考にした打撃フォームに改造。自己最多の19本塁打を放ち、盗塁阻止率も自己最高記録を残す。自身2度目のベストナインとゴールデングラブ賞、日本シリーズ敢闘賞を獲得。同年、自身2回目となるFA権を取得し、オフに行使して残留。

2006年には17本塁打を放ち、通算100本塁打を達成。チーム2位の78打点も評価され、2年連続3度目のベストナインにも選出された。

北京五輪での矢野(2008年)

2007年は週に1試合ほど野口寿浩狩野恵輔にスタメンマスクを譲ることが多く、セ・パ交流戦時に右のふくらはぎを痛めたこともあり、一時登録を抹消。打率.236, 6本塁打と打撃不振に終わった。同年オフには北京五輪の野球日本代表に招集され、アジア予選で試合の終盤を任される「抑え捕手」として活躍した。

2008年は野口が岩田稔上園啓史ら若手とバッテリーを組み、矢野は主に安藤優也下柳剛福原忍らと組む併用でスタート。スタメン出場しなかった試合では終盤に代打で出場し、その後抑え藤川球児とバッテリーを組むような起用が多く、2年ぶりに規定打席に到達。夏場には藤川、新井貴浩と共に北京五輪代表に招集された。

2009年は前年オフに手術した右ひじの回復が遅れたため開幕から二軍での調整が続き、7月に一軍昇格した後もスタメン出場は安藤・下柳が先発する試合に限られた。8月16日には41歳の下柳と組んでプロ野球史上初の40代バッテリーでの勝利を達成したが、シーズン終盤に右足首を骨折して再び戦線離脱し30試合の出場に終わった。打撃では100打席未満ながら打率3割、得点圏打率4割超を記録。オフに心機一転の意味を込め、登録名を本名の矢野輝弘から矢野燿大へ変更した。

2010年城島健司の加入もあり、8試合の出場のみだった。6月に右肘の故障で一軍登録を抹消されていたが回復の目処が立たず、9月2日にこのシーズン限りの現役引退を球団に申し入れ、了承された[4]。9月25日の中日との二軍最終戦が引退試合となり、同級生の下柳とバッテリーを組み、1イニングを無失点に抑えた。試合後に引退セレモニーが行われ、阪神と古巣・中日の双方の選手から胴上げされた。中日のコーチに就任していた中村武志からも労われ「中日時代はどうしても超えられなかった人なので嬉しい」と語り、「幸せな野球人生を送れた」と20年の現役生活を振り返った[5]。9月30日には横浜戦終了後の甲子園球場(同年レギュラーシーズンの甲子園最終戦でもあった)でも引退セレモニーが行われた。なお、この試合では9回二死から出場する予定で出場選手登録もされていたが、二死になる前に抑え投手の藤川が村田修一に逆転3ランを浴びたため、勝利を優先した球団の判断により出場機会はなかった。

引退後[編集]

2010年11月、スポーツニッポン大阪本社専属野球評論家への就任を発表。2011年1月からは、朝日放送サンテレビ野球解説者としても活動を始め、2月13日にABCテレビが関西ローカルで放送した阪神対ヤクルトの練習試合中継で、事実上の解説者デビューを果たした。朝日放送では、現役時代の2004年から、オフシーズンに同局のラジオ番組『矢野輝弘のどーんと来い!!』のパーソナリティを担当。解説者に転じてからも、『スポーツにぴたっと。』などのラジオ番組で、大阪弁による自由闊達な話術をたびたび展開している。他方、阪神関連の番組・中継に出演する場合には、「声を出せばプレーに良い影響を与える」との考えから選手が練習・試合中にベンチやグラウンドで声を出すことの必要性を述べることがある。

現役引退後も矢野燿大の名義を使用。『おはよう朝日です』『NEWSゆう+』『キャスト』(いずれもABCテレビ)で月曜日のスポーツキャスターを務めるかたわら、同局で制作する野球以外のスポーツ中継(ゴルフラグビーなど)や『熱血!タイガース党』(サンテレビのプロ野球シーズンオフ番組)へ不定期で出演。ABCテレビの全国高等学校野球選手権大会中継でも、試合前後に放送される甲子園球場内特設スタジオからの中継に不定期で登場している。

2012年の日本プロ野球公式戦期間中に開催されたロンドンオリンピックでは、競技種目に野球が入っていないにもかかわらず、朝日放送を代表して岩本計介アナウンサーとともに現地取材を敢行。金本が現役引退を発表した同年9月12日には、ABCラジオの『ABCフレッシュアップベースボール』で甲子園のナイトゲーム・阪神対ヤクルト中継の解説を担当する一方で、試合前に開かれた金本の引退発表記者会見の取材にも携わった。

2011年3月には、ベースボール・マガジン社から自身初の著書『考える虎』が発売された。同書については、発売直前に東日本大震災が発生したことを受けて、同書の印税の全額を(大学時代を過ごした仙台市を含む)被災地域への義援金として寄付することを表明している。さらに、同年6月には、初の自叙伝として朝日新聞出版から『阪神の女房』を出した。2012年にも、3月に講談社から『捕手目線のリーダー論~六つの要~』を刊行している。

2013年には、阪神の捕手時代に「同級生バッテリー」を組んだ下柳との共著『気を込める 虎の成功プロセス』を、10月9日にベースボール・マガジン社から発売。2014年には、11月23日開催の第4回神戸マラソンで、自身初のフルマラソンに挑戦した。2004年アテネオリンピック女子マラソン7位入賞で、阪神タイガースの本拠地・兵庫県西宮市出身で熱烈な阪神ファンでもある坂本直子天満屋所属元選手・現アドバイザー)からマラソン指導を受けた結果、3時間55分37秒で完走を果たした。

指導者としての活動[編集]

解説者時代の2013年には、26歳以下の選手で構成される「野球日本代表」と台湾代表の国際強化試合(同年11月8日から同月10日台湾で開催)では、野球日本代表の新監督・小久保裕紀の下でバッテリーコーチを務めた[6]。背番号は、自身の好きな数字(8)や妻の誕生日(8月8日)にちなんだ88[7]。矢野がコーチに就任するのは、プロ・アマを通じてこの時が初めてであった。さらに、2014年11月に日本で開催された日米野球2014でも、日本代表チームのバッテリーコーチを務めた[8]

2015年には、シーズン開幕前の「GLOBAL BASEBALL MATCH 2015 侍ジャパン 対 欧州代表」で、日本代表のバッテリーコーチを担当[9]。シーズン中の7月16日には、11月開催の第1回WBSCプレミア12で日本代表バッテリーコーチを務めることが発表された[10]。しかし、阪神球団では10月27日に、矢野との間で一軍作戦兼バッテリーコーチの契約を結んだ。大学および阪神でのチームメイトだった金本の一軍監督就任(同月17日)を受けての本格的な現場復帰で、背番号は日本代表コーチと同じ88[1][7]。ただし、第1回プレミア12の開催期間中は、日本代表コーチとしての活動を優先していた[11]

人物[編集]

愛称は「テル」、「アキちゃん」、「矢野プー」など。

読書家で、愛読書は「夢をかなえるゾウ」(水野敬也)など。大のスイーツ(甘い菓子)好きでもある。

創価学会員としても名高い。

阪神の選手時代には、「優しい」と形容する解説者が多い一方で、「阪神で一番短気」と言われることもあった。事実、年に一度のペースで乱闘寸前になることがあり、投手を叱咤することもたまに見られた。また、審判の判定に不服を示す素振りもたまに見られ、1998年と2006年に審判に対する暴力行為で退場処分を受けている。

ドラフト会議では、司会者だった伊東一雄から名前を「てるひろ」と読み間違えられ、当時中日の監督であった星野仙一から「テル」と呼ばれるようになった。中日では星野から打撃力を評価されていたが、入団4年目(1994年)まで一軍で目立った実績を残せなかった。しかし、東北福祉大から一緒に入団した吉田太が、その年のシーズン終了後に戦力外通告を受けてひっそりと退団したことから一念発起。「自分が辞める時に後悔だけはしたくない」という危機感を抱きながら、正捕手の中村のリードを本格的に研究するなど、自ら率先して練習に励むようになった。さらに、外野手として公式戦に出場する機会を重ねるうちに、捕手というポジションへの思いを強めた。「ボールがいつ飛んでくるか分からない外野手では、一球ごとにサインを考えたり投手にボールを返したりする捕手に比べて、どこか試合に参加してないような気持ちになる」という吉田の退団をきっかけに日頃からの準備の重要性に気付いたことが、捕手としての転機になった[3]。解説者に転じてからは、このような下積みの経験を基に、(捕手を含めた)若手野手のプレーや野球へ取り組む姿勢に苦言を呈することが多い。

阪神で現役を引退してからは、野球解説者・評論家として活動するかたわら、現役時代からの趣味であるゴルフ関連の番組にもたびたび出演。朝日放送が毎年11月に主催するマイナビABCチャンピオンシップゴルフトーナメントでは、ABCテレビの中継でラウンドリポーターを務めたり、アマチュアのゴルファーとして「マンデートーナメント」に参加したりしている(#関連情報に詳述)。しかし、他のゴルフトーナメントへの出場に向けた練習中に左肘を痛めたことから、2014年5月20日に患部を手術。手術の直後には、左腕を大きなギプスで固定しながら、同局のレギュラー番組への出演を続けている[12]

阪神時代、打てそうで打てなかった(苦手にしていた)投手に、元中日小笠原孝の名前を挙げていた。

選手・著名人との交流[編集]

桜宮高校の野球部では、高山が3番、矢野が4番を打っていた。高山の前に走者が出ると勝負強い矢野に打席が回るよう、ほぼ毎回高山にバントのサインが出されたと高山が語っている。阪神に在籍していた2005年のシーズンオフには、リーグ優勝記念旅行の模様を放送する特別番組で、高山と2人で漫才に挑んだ。ちなみに、高山からは「アキちゃん」と呼ばれている。

阪神での現役時代には、当時の主力投手陣(藤川、福原、安藤、下柳など)からは絶大な信頼を受けていた。ニューヨーク・ヤンキースへ移籍した井川からも「ヤンキースに来て下さい」と言われたことがある。巨人時代の上原浩治からも、オールスターでバッテリーを組んだ際にブログで「阪神で矢野さんがみんなに好かれる訳がわかった。すごく話しやすいいい人」と評され、2007年12月のアジア予選韓国戦でバッテリーを組み9回裏を三者凡退で抑え勝利した際は、ウイニングボールを上原から直接手渡され、自らのブログで「一生の宝物」と書いた。

阪神時代のチームメイトで奈良県出身の関本賢太郎とも仲が良く、矢野の現役時代には、「必死のパッチ」(「必死で頑張った」という意味の大阪弁)という発言をめぐる丁々発止のやり取りが人気を博した。矢野は、「自分がヒーローインタビューで最初に発した『必死のパッチ』を、翌日のヒーローインタビューで関本が勝手に真似たせいで、いつの間にか球団公認で関本の『必死のパッチ』グッズまで作られた」と主張。ヒーローインタビューや出演番組では、関本に向けて冗談交じりで「『必死のパッチ』を返せ」と迫る一幕もあった。実際には、関本が「必死のパッチ」を使用することを容認しており、矢野が現役を退いた後は、現役後期の関本にとどまらず、自身より後で阪神に入団した西岡剛藤浪晋太郎原口文仁もヒーローインタビューで使用している。その一方で、『おはよう朝日です』では「“必死のパッチ”を(関本に)貸した覚えはない」と応酬している(その前日の試合で、関本はヒーローインタビューにて西岡に対して「“必死のパッチ”は矢野さんに借りている」と発言したため)。また、『キャスト』のスポーツキャスターを務めていた時期には、自身が担当するコーナー「ヤノスポ」で「必死のパッチ賞」を創設。公式ブログで阪神のコーチ就任を報告する際にも、「必死のパッチで頑張って来ます!」という言葉で記事を結んでいる[13]

また、阪神での現役時代には、オフシーズンを中心に関本や福原忍と趣味の釣りに興じていた。日本を代表するバスプロ今江克隆とも親しく、今江が経営している会社IMAKATSUの工場へ足を運んでルアーを作るほどである。なお、そのルアーは、同社ホームページ内のブログなどでたびたび紹介。解説者時代には、スポーツキャスターやラジオパーソナリティとして、野球・釣り以外のスポーツも積極的に取材していた。

矢野のファンであることを公言している声優水樹奈々が2006年1月21日に行った日本武道館ライブ(NANA MIZUKI LIVEDOM-BIRTH- at BUDOKAN)でビデオメッセージとサインボールを送り、2009年に水樹がナビゲーターとして出演していたGAORAの『ぷちトラ!』にて、お礼としてそのライブのDVDをプレゼントされた。また、矢野の地元・関西では、ラジオパーソナリティ桜井一枝も矢野公認のファンとして知られている。

プロデュース・社会貢献活動[編集]

2006年から2008年シーズンには、本人プロデュースのオリジナルスイーツ「Yano Chou(矢野シュー)」を甲子園球場の内野席売店で販売。夏季には、シューの中身をアイスに変えていた。2008年9月から現役最終年の2010年シーズンまでは、プロデュースメニューの第2弾「矢野輝弘(燿大)のヘルシーミックスジュース」と、繰り返し使える専用のタンブラーを同様の方法で販売。2006年8月末には、公式サイト限定でオリジナルTシャツを発売した。解説者時代にも、2014年に「矢野燿大のタイガースワッフルボウル」、2015年に「矢野の中華風牛肉弁当」を期間限定で発売している。

2003年からは、筋ジストロフィーを患うファンとも交流。現役最終年の2010年には、筋ジストロフィー患者や児童養護施設で暮らす子供たちへの支援を目的に、社会福祉法人・大阪府社会福祉協議会からの協力で「39(サンキュウ)矢野基金」を設立した。

2011年3月には、あきんどスシローの「応援部長」に就任。同月9日から31日までは、売上の一部を「39矢野基金」への寄付に充てることを目的に、自身のプロデュースによる2種類の寿司メニュー「必死のパッチまき」を近畿2府4県および徳島県の店舗(全103店)で発売していた[14]。同様の趣旨で、同年5月には「39矢野ネクタイ」、2012年3月には「Tシャツ」を公式サイトで販売している。

2015年には、「プロ野球の世界で、20年にわたり一線で活躍してきた矢野燿大だからこそできる恩返し」と称して、矢野が関西各地の少年野球チームを直々に指導する「39ベースボールプロジェクト」を4月から実施。軟式・硬式を問わず、指導を希望するチームを公式サイトで募った後に、抽選で決まったチームを月に2回のペースで訪れていた。

ちなみに関本は、2015年の現役引退表明を機に、矢野と同じくスポーツビズとの間でマネジメント契約を締結。引退後の2016年からは、矢野と入れ替わる格好で朝日放送の野球解説者・スポーツニッポンの野球評論家を務めるほか、矢野から「39ベースボールプロジェクト」を引き継いでいる。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1991 中日 22 30 27 2 3 0 0 1 6 4 0 0 1 0 2 0 0 15 0 .111 .172 .222 .395
1992 72 118 108 10 28 6 0 0 34 8 0 1 0 1 8 0 1 20 3 .259 .314 .315 .628
1993 24 39 31 5 10 0 0 1 13 3 0 0 1 0 6 2 1 4 1 .323 .447 .419 .867
1994 35 53 46 5 10 2 0 1 15 2 0 1 3 0 3 1 1 9 2 .217 .280 .326 .606
1995 57 123 115 14 28 2 2 1 37 5 1 0 0 0 7 1 1 31 5 .243 .293 .322 .614
1996 56 124 104 26 36 3 0 7 60 19 1 0 2 2 13 0 3 16 2 .346 .426 .577 1.003
1997 83 244 214 24 54 8 0 3 71 19 1 0 5 0 22 1 3 32 3 .252 .331 .332 .662
1998 阪神 110 340 285 27 60 18 0 3 87 20 1 2 24 0 27 3 4 63 9 .211 .288 .305 .593
1999 113 418 369 39 112 13 2 3 138 27 5 2 6 2 36 2 5 74 14 .304 .371 .374 .745
2000 114 428 376 41 101 12 1 5 130 26 1 2 9 4 35 4 4 87 9 .269 .334 .346 .680
2001 119 364 327 26 79 10 1 8 115 30 1 1 5 3 28 0 1 72 10 .242 .301 .352 .653
2002 66 253 221 31 71 18 2 6 111 27 1 1 5 0 24 4 3 51 6 .321 .395 .502 .897
2003 126 484 433 65 142 25 5 14 219 79 1 0 4 1 38 6 8 84 8 .328 .392 .506 .897
2004 138 551 502 38 143 23 3 11 205 65 1 3 4 3 35 7 7 110 19 .285 .338 .408 .747
2005 138 550 499 53 135 26 0 19 218 71 1 1 9 2 32 1 8 113 12 .271 .323 .437 .760
2006 133 501 453 42 124 20 3 17 201 78 0 0 8 5 32 1 3 94 12 .274 .323 .444 .766
2007 106 401 356 25 84 14 1 6 118 42 0 0 7 1 34 0 3 92 9 .236 .307 .331 .639
2008 119 404 371 20 102 17 1 4 133 36 0 1 10 5 16 1 2 100 13 .275 .305 .358 .663
2009 30 83 75 9 23 1 1 2 32 8 1 0 0 0 8 1 0 17 1 .307 .373 .427 .800
2010 8 9 9 1 2 0 0 0 2 1 0 0 0 0 0 0 0 5 0 .222 .222 .222 .444
通算:20年 1669 5517 4921 503 1347 218 22 112 1945 570 16 15 103 29 406 35 58 1089 138 .274 .335 .395 .730

年度別守備成績[編集]


捕手 外野
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 捕逸 守備率 企図数 許盗塁 盗塁刺 阻止率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
1991 14 34 3 0 0 2 1.000 3 0 3 1.000 -
1992 65 210 16 2 2 2 .991 22 18 4 .182 -
1993 21 56 7 0 1 3 1.000 8 5 3 .375 1 0 0 0 0 ----
1994 26 76 7 0 1 1 1.000 8 5 3 .375 -
1995 41 191 21 1 3 0 .995 16 10 6 .375 -
1996 38 157 13 1 0 3 .994 13 9 4 .308 12 14 1 1 0 .938
1997 60 307 28 2 3 4 .994 41 34 7 .171 22 34 0 0 0 1.000
1998 109 521 49 2 8 7 .997 80 54 26 .325 -
1999 111 693 52 5 8 6 .993 79 53 26 .329 -
2000 113 752 62 6 9 6 .993 69 45 24 .348 -
2001 108 556 72 3 14 2 .995 81 49 32 .395 4 4 0 0 0 1.000
2002 66 528 30 1 7 4 .998 31 19 12 .387 -
2003 123 932 66 2 11 14 .998 100 65 35 .350 -
2004 137 1126 56 3 16 5 .997 87 57 30 .345 -
2005 138 1130 76 3 11 8 .998 76 43 33 .434 -
2006 132 1001 75 6 7 5 .994 67 39 28 .418 -
2007 101 720 56 3 8 3 .996 67 47 20 .299 -
2008 116 748 63 2 7 4 .998 71 45 26 .366 -
2009 26 144 14 2 1 0 .988 18 13 5 .278 -
2010 1 0 0 0 0 0 ---- 0 0 0 ---- -
通算 1546 9882 766 44 117 79 .996 937 610 327 .349 39 52 1 1 0 .981

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
その他の記録
  • オールスターゲーム出場:7回 (1999年、2002年 - 2006年、2008年)
  • 通算サヨナラ安打10本(阪神タイガース球団タイ記録)

背番号[編集]

  • 2 (1991年 - 1995年)
  • 38 (1996年 - 1997年)
  • 39 (1998年 - 2010年)
  • 88 (2016年 - )

登録名[編集]

  • 矢野 輝弘 (やの あきひろ、1991年 - 2009年)
  • 矢野 燿大 (やの あきひろ、2010年)

登場曲[編集]

指導歴[編集]

関連情報[編集]

解説者時代の出演番組[編集]

2011年から2015年まで、朝日放送の解説者として、テレビ・ラジオで放送されるプロ野球中継(主に阪神戦)に登場。同局からの出向扱いで、『サンテレビボックス席』の阪神戦中継にも解説者として出演している。さらに中日OBでもあることから、CBCラジオの中日対阪神戦中継(ABCラジオと相互ネットの場合)に出演することがあった。

レギュラー番組[編集]

  • 虎バンABCテレビ)- 阪神での現役時代から、インタビューやドキュメンタリー企画などにたびたび登場。2011年以降は、レギュラーコメンテーターとして出演。
  • おはよう朝日です月曜日(ABCテレビ)- 2011年3月7日放送分から、スポーツキャスターとしてレギュラー出演。
  • キャスト(ABCテレビ)- 『NEWSゆう+』の後番組で、2011年10月の放送開始から2015年3月まで、月曜日に編成されていた「ヤノスポ」でキャスターを担当。番組リニューアルで同コーナーが終了した2015年4月以降は、阪神時代のチームメイトだった下柳や桧山進次郎と交互に、水曜日の「週刊 浦川スポーツ」へ出演している。
  • スポーツにぴたっと。(ABCラジオ、オフシーズン番組)- 現役引退後初のレギュラー番組で、2010年度の途中(2011年1月5日放送分)から水曜日に出演(2011年度も続投)。2012年1月6日からは金曜日にも登場していた。2012年度は金曜日、『武田和歌子のぴたっと。』第2部として放送される2013年度以降は火曜日にのみ出演。
  • 金谷多一郎・矢野燿大の考えるゴルフSky・A sports+、2011年~)
  • 虎魂(sky・A sports+、2011年10月から月1回のペースで放送)
  • NEWSゆう+月曜日(ABCテレビ) - 2011年3月28日放送分から番組終了の同年9月まで、スポーツコーナー「週刊YANO+」にレギュラー出演。
  • 見知らぬ関西新発見!みしらん(ABCテレビ) - 2013年1月5日放送分からスポーツコーナー「スポーツみしらん」を新設したことを機に、スポーツキャスターとして同年9月21日の最終回まで出演。

不定期放送・出演[編集]

  • 矢野輝弘のどーんと来い!!(ABCラジオ、2004年度から、オフシーズンのレギュラー番組→スペシャル番組)- 阪神での現役時代からメインパーソナリティを担当。2009年度以降は『矢野燿大のどーんと来い!!』というタイトルで放送。
  • 矢野燿大の「アスリートの舞台裏」(ABCラジオ)- 2011年5月16日から月1回のペースで放送。メインパーソナリティを担当。
  • 熱血!タイガース党サンテレビ)- 阪神での現役時代にゲストやVTRで出演。2011年度以降はABC野球解説者として不定期出演。
  • CBCドラゴンズナイターCBCラジオ) - 中日主管の阪神戦(ABCラジオが同時ネットで放送する火曜 - 木曜の試合)中継にのみ、ゲスト解説者として出演。
  • 全国高等学校野球選手権大会中継(ABCテレビ)- 2011年から、試合前後に甲子園スタジオから放送される中継に、ゲストとして随時出演。ただし、試合の解説まで担当するわけではない。
  • マイナビABCチャンピオンシップゴルフトーナメント(ABCテレビ制作、テレビ朝日系列で放送)- 2011年以降のテレビ中継で、金谷とともにラウンドリポートを担当。2013年には、アマチュアのゴルフプレイヤーとして、本選への出場を目指して「マンデートーナメント(主催者推薦の予選会)」に初めて挑戦した(結果は6オーバーの59位で本選出場ならず)[16]

以下はゲストで出演した主な番組。

出演映画[編集]

  • ミスター・ルーキー(2002年) - 阪神を舞台にした作品だったことから、当時の現役選手を代表して、本人役で最終決戦のシーンに捕手として出演。

出演CM[編集]

ABCラジオでは、矢野を起用した他社のスポットCMも随時流している。
以下はいずれも、阪神での現役選手時代に出演したテレビCM。

著書[編集]

  • 『考える虎:最強タイガースを作り上げた攻守のカナメ』(ベースボール・マガジン社、2011年3月、ISBN 9784583103440)
  • 『阪神の女房』(朝日新聞出版、2011年6月、ISBN 9784022508553)
  • 『捕手目線のリーダー論:六つの要』(講談社、2012年3月、ISBN 978-4062169189)
  • 『気を込める:虎の成功プロセス』(下柳剛共著、ベースボール・マガジン社、2013年10月、ISBN 9784583106212)
  • 『左手の記憶:20年間受け止めた「投手の決め球」と「男の気持ち」』(竹書房、2014年10月、ISBN 9784801900387)

脚注[編集]

  1. ^ a b 矢野氏 作戦兼バッテリーコーチに就任デイリースポーツ 2015年10月27日閲覧
  2. ^ 第18回日米大学野球選手権日本代表選手 全日本大学野球連盟公式サイト
  3. ^ a b 『阪神の女房』
  4. ^ 阪神・矢野捕手、今季限りで引退 右ひじ痛治らず 朝日新聞、2010年9月3日閲覧
  5. ^ 矢野2軍戦で引退セレモニー「幸せな野球人生」 スポーツニッポン、2010年9月26日閲覧
  6. ^ 侍ジャパン コーチ決定に関して野球日本代表 侍ジャパンオフィシャルサイト(2013年10月15日)2015年10月27日閲覧
  7. ^ a b 阪神・矢野コーチの背番は『88』「たまたま嫁さんの誕生日」サンケイスポーツ 2015年10月29日閲覧
  8. ^ 侍ジャパン「2014 SUZUKI 日米野球」出場選手発表野球日本代表 侍ジャパンオフィシャルサイト(2014年10月9日)2015年10月27日閲覧
  9. ^ 「GLOBAL BASEBALL MATCH 2015 侍ジャパン 対 欧州代表」コーチングスタッフについて 野球日本代表 侍ジャパンオフィシャルサイト (2015年2月6日) 2016年3月10日閲覧
  10. ^ トップチーム、WBSC世界野球プレミア12へ向けて、コーチ陣を発表! 野球日本代表 侍ジャパンオフィシャルサイト (2015年7月16日) 2015年8月4日閲覧
  11. ^ 阪神矢野コーチが就任会見、金本監督のご意見番襲名日刊スポーツ 2015年10月27日閲覧
  12. ^ 矢野燿大オフィシャルブログ2014年5月21日付記事「実は!」
  13. ^ コーチ矢野燿大オフィシャルブログ(2015年10月28日)同月29日閲覧
  14. ^ 阪神OB矢野氏がスシロー応援部長に就任日刊スポーツ(2011年3月8日)2015年10月29日閲覧
  15. ^ 月刊タイガース2000年5月号45p
  16. ^ 元阪神矢野氏 ゴルフツアー本戦出場ならずも「ホッとしました」 (『スポーツニッポン2013年10月29日付記事)

関連項目[編集]