石原慎太郎

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日本の旗 日本の政治家
石原 慎太郎
いしはら しんたろう
Shintaro Ishihara 2009828.JPG
2009年8月28日、都知事執務室にて
生年月日 1932年9月30日(84歳)
出生地 日本の旗 日本 兵庫県神戸市須磨区
出身校 一橋大学法学部卒業
所属政党 自由民主党→)
無所属→)
(自由民主党→)
(無所属→)
太陽の党→)
日本維新の会→)
次世代の党
称号 法学士(一橋大学・1956年
旭日大綬章
配偶者 石原典子
子女 長男・石原伸晃
次男・石原良純
三男・石原宏高
四男・石原延啓
親族 父・石原潔
母・石原光子
弟・石原裕次郎
公式サイト 宣戦布告

選挙区 旧東京2区→)
比例東京ブロック
当選回数 9回
在任期間 1972年12月10日 - 1995年4月14日
2012年12月21日[1] - 2014年11月21日

日本の旗 第59代 運輸大臣
内閣 竹下内閣
在任期間 1987年11月6日 - 1988年12月27日

内閣 福田赳夫内閣
在任期間 1976年12月24日 - 1977年11月28日

東京都の旗 第14-17代 東京都知事
当選回数 4回
在任期間 1999年4月23日 - 2012年10月31日

その他の職歴
日本の旗 参議院議員
1968年7月8日 - 1972年11月25日
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石原 慎太郎(いしはら しんたろう、旧字体石原 愼太郎1932年昭和7年) 9月30日 - )は、日本の元政治家作家

参議院議員(1期)、環境庁長官第8代)、運輸大臣第59代)、東京都知事(第14代・第15代・第16代・第17代)、衆議院議員(9期)、日本維新の会代表、共同代表、次世代の党最高顧問を歴任した。

概要[編集]

三島由紀夫と。奥にいるのが石原。1956年千代田区紀尾井町文春ビルにて

兵庫県神戸市生まれ[注釈 1]神奈川県立湘南高等学校一橋大学法学部卒業[3]

一橋大学では社会心理学の南博ゼミに所属。大学在学中の1956年(昭和31年) に文壇デビュー作である『太陽の季節』が第34回芥川賞を受賞、「太陽族」が生まれる契機となる。また、同作品の映画化では弟・裕次郎をデビューさせた。作家としては他に芸術選奨文部大臣賞平林たい子文学賞などを受賞。『「NO」と言える日本 -新日米関係の方策-』(盛田昭夫との共著)、裕次郎を題材にした『弟』はミリオンセラーとなった[4]

1968年(昭和43年)に参議院議員となり、政治家に転ずる。福田赳夫内閣環境庁長官を、1987年(昭和62年) に竹下内閣運輸大臣を歴任。1995年(平成7年)議員辞職。

1999年東京都知事選挙に出馬。立候補の表明は有力候補中最も遅かったが、舛添要一鳩山邦夫明石康柿澤弘治といった有力候補を抑え初当選する。2003年東京都知事選挙では都知事選史上最高の得票率で再選、2007年東京都知事選挙では浅野史郎らを破り3選。2011年東京都知事選挙では当初不出馬が取り沙汰されたものの、東国原英夫らを破り4選。2012年(平成24年)、後継に猪瀬直樹副知事を指名し、次期衆議院選挙に出馬するため東京都知事を辞職。同年の第46回衆議院議員総選挙日本維新の会の候補として比例東京ブロックで当選し17年ぶりに国政に復帰。その後同党の分裂と次世代の党の結党に参加。2014年第47回衆議院議員総選挙では党の熱意により落選覚悟で出馬、落選の確定を受けて政界引退。

趣味サッカーヨットテニススキューバダイビング射撃[5]。実弟は俳優の石原裕次郎。長男は自由民主党衆議院議員の石原伸晃。次男は俳優・タレント・気象予報士の石原良純。三男は自由民主党衆議院議員の石原宏高。四男は画家の石原延啓

経歴[編集]

学生時代[編集]

湘南高校サッカー部、一橋大学柔道部、サッカー部と体育会系の一面も持つ。サッカーに関しては高校大学ともにレギュラーで試合に出場している。文芸評論家の江藤淳とは同級生であり、ともに高校の先輩である歴史学者江口朴郎宅に訪問したりしていた[6]。江藤とは作家となってから共著を出版[7]するなど、1999年に江藤が自死するまで交流があった。文学では、ジャン・コクトーレイモン・ラディゲアーネスト・ヘミングウェイを読んでいたという[8][9]

公認会計士になるために一橋大学に入学したものの、会計士には向かないことを自覚した慎太郎は、休刊していた一橋大学の同人誌『一橋文藝』の復刊に尽力する。ある日、神田の一橋講堂で「如水会」(一橋大学のOB会)主催の公開講座にOBの伊藤整が来た際、受付にいた慎太郎は伊藤の講演記録をとり、それを『一橋文藝』に掲載してもよいか伊藤に訊ねた[10]。その翌年、同人誌は刷れたが金が足りずに困り、慎太郎は友人と久我山に住む伊藤に資金援助を頼みに行った。その時のことを伊藤は以下のように述懐している[10]

石原君が西原君だったかもう一人の学生とやって来て、その雑誌が出来たのだが、金が足りなくて印刷所から引きとれないと言って、七千円だったか八千円だったかの金がほしいと言った。そのときも私は石原という名前を知らず、背の高い学生だな、と思っただけである。だが、そのもらい方がとてもよかったことが印象に残っている。押しつけがましくもなく、しつこく説明するのでもなく、冗談のようでもなく、素直さと大胆さが一緒になっている、特殊の印象だった。すぐ私は出してやる気になった。そのあとで私は、妙な学生だな、あれは何をやっても成功する人間かもしれない、と考えた。 — 伊藤整「石原慎太郎君のこと」[10]

慎太郎はこの同人誌に処女作である『灰色の教室』を発表し、文芸評論家の浅見淵に激賞されて自信をつけたのをきっかけに、第2作目の『太陽の季節』を執筆することになる[9]

『太陽の季節』を引っ提げて華々しくデビューしたとき、マスコミは慎太郎をこぞってとりあげた。以下はそのうちの一つ。

慎太郎が高校一年の時だった。学生運動が盛んになろうとしていた昭和23年に、民主学生同盟にいち早く入り、学内に社会研究会を作った。日本共産党へのヒロイックな気持にかられていた時、母は“大衆のために両親や弟を、そして地位も財産も捨て、獄につながれても後悔しない自信があるなら、私は反対しないが、その覚悟をしてほしい。それならお父さんが、どんなに反対しても、私は賛成する” この言葉にそのあくる日から彼は学生運動を離れている。 — サンデー毎日1956年9月9日号「五つの道をゆく“石原慎太郎”批判」

石原は後にこの点について、『芸術生活』編集長・御木白日との対談の中で「女親っていうのはバカだから。主義主張が母親の意見で変わるなんてウソですよ。精神風俗としてそういうものに興味をもったから、親が心配したというだけの話です」と否定的に語っている[11]

作家として[編集]

石原 慎太郎
(いしはら しんたろう)
職業 作家
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
活動期間 1955年 -
ジャンル 小説随筆評論
主題 不可知なもの、暴力、生と死
文学活動 怒れる若者たち
代表作 太陽の季節』(1955年)
処刑の部屋』(1956年)
『亀裂』(1958年)
『化石の森』(1970年)
わが人生の時の時』(1989年)
『弟』(1996年)
主な受賞歴 文學界新人賞(1955年)
芥川龍之介賞(1956年)
芸術選奨(1971年)
平林たい子文学賞(1988年)
毎日出版文化賞特別賞(1996年)
デビュー作 『灰色の教室』(1954年)
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一橋大学在学中に、『太陽の季節』で、第1回(1955年度)文學界新人賞と、第34回(1955年下半期)芥川賞を受賞した。作品にみなぎる若々しい情熱や生々しい風俗描写、反倫理的な内容が賛否両論を巻き起こした[12][13]。同作が映画化された際には、“太陽族”という流行語が生まれた[14]

その後『処刑の部屋』 (映画原作)、『聖餐』といった現代の世相を鋭くえぐり出すのが特徴の同種の作品を多数発表した。1970年 (昭和45年) に『化石の森』で芸術選奨文部大臣賞、1988年 (昭和63年) 『生還』で平林たい子文学賞を受賞。弟裕次郎を描いた1996年 (平成8年) の『弟』は120万部を売り上げ、毎日出版文化賞特別賞を受賞。2001年『わが人生の時の人々』で文藝春秋読者賞受賞。

1995年から2012年まで芥川賞の選考委員を務めた。辛口の批評も多かったが、又吉栄喜辻仁成花村萬月町田康青来有一中村文則青山七恵西村賢太など強く推して受賞に至った作家もいる。また1992年から1999年まで三島由紀夫賞選考委員を務めた。

創作以外にも多くの著作があり、『スパルタ教育』 (1969年、70万部) 『「NO」と言える日本』 (1989年、125万部)、『法華経を生きる』 (1998年、33万部) 『老いてこそ人生』 (2002年、82万部)、『新・堕落論』(2011年、25万部)、『天才』(2016年、67万部) などがベストセラーとなっている。

映像作家としては、弟の裕次郎を世に送り出すことになった自作の映画化『狂った果実』で脚本を担当して以降、映画やテレビで自作小説の脚色を多く手がけている他、1958年 (昭和33年)、東宝映画『若い獣』で初監督を務める。2007年 (平成19年) 5月には“特攻の母”と呼ばれた鳥濱トメと特攻隊員の交流にスポットを当てた映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』を発表。制作・指揮・脚本を手がけた。石原は、首相だった宮澤喜一に、鳥濱トメに国民栄誉賞を贈るよう進言したことがある[15]。映画公開同年、鹿児島の「知覧特攻平和記念会館」内に自らデザインした鳥濱への顕彰碑を建てた[16]。顕彰碑には、石原による文言、「トメさんは、人々を救う菩薩でした」などが刻まれている[17]

俳句については、日本人の感性ならではの定型詩とする見解である。数学者岡潔の「芭蕉の俳句研究で数学の難問を解けた」とする述懐を紹介しながら日本の俳句について度々話している[18][注釈 2]

政界進出以降、発表する作品数は減ったものの、一貫して創作活動を行った。

評価[編集]

  • 作家としての石原は、田原総一朗[19]水道橋博士[20]豊崎由美栗原裕一郎[21]などのような国家観の異なる者からも高く評価されている。
  • 1957年10月『新潮』に発表した『完全な遊戯』について、高見順宅へ行った際、『群像』編集長の大久保房男と口論になり、『群像』には一度も執筆していない[22]
  • 1959年(昭和34年)に文芸雑誌『文學界』8月号に発表した実験的ジャズ短編小説『ファンキー・ジャンプ』を三島由紀夫は見事な傑作と述べ、「現実の脱落してゆくありさまを、言葉のこのやうな脱落でとらへようとする(石原)氏の態度には、小説家といふよりは一人の逆説的な詩人があらはれてゐる」と評した[23][24]
  • 文芸評論家福田和也は、日本の現役小説家を採点した自著『作家の値うち』(2000年)の中で『わが人生の時の時』に100点満点中96点と最高点を付け、情景の鮮烈さが特に魅力的で、「数世紀後に、20世紀日本文学をふり返った時に名前が挙がるのはこの作品ではないだろうか」と評した[25][26][注釈 3]
  • 季刊文芸誌「en-taxi」2013年11月号のインタビューで集英社の文芸誌『すばる』の女性編集長に、三国人発言を理由に、作品の掲載を拒否されたエピソードを明かしている[27]

国会議員時代[編集]

ベトナム戦争を取材した経験から政治家を志し、田中角栄の金権選挙を批判。1968年(昭和43年)に第8回参議院議員通常選挙全国区から自由民主党公認で出馬、史上最高の301万票を集めて初当選。1972年(昭和47年)、第33回衆議院議員総選挙に当選、衆議院に鞍替えする。1973年田中角栄による日中国交正常化に反対し、反共を旗印に政策集団「青嵐会」を結成する。1975年(昭和50年)、東京都知事選挙に出馬、美濃部亮吉革新都政に挑戦するも、僅差で敗れる。翌1976年(昭和51年)、第34回衆議院議員総選挙で国政復帰。選挙後に発足した福田赳夫内閣環境庁長官にとして初入閣。在任中は水俣病補償問題に取り組み国として謝意を表明し話題になった。一方で「ニセ患者もいる。」「患者団体が政治組織に利用されている。」と発言を行い胎児性水俣病患者の上村智子に土下座して陳謝する一幕もあった。1979年(昭和54年)、青嵐会の後継団体として自由革新同友会を結成するも勢いが振るわず、1984年(昭和59年)、清和政策研究会に合流する。

1987年(昭和62年)、竹下内閣運輸大臣に就任。1988年(昭和63年)5月に成田空港を視察する。その際、成田新幹線用に造られ、放置されたままになっている成田空港駅を見学した。成田新幹線は、沿線住民の建設反対運動や、日本国有鉄道財政悪化の影響で建設工事が殆ど進まず、前年の国鉄分割民営化で、工事計画そのものが失効したが、成田線と交差する位置から成田空港駅までは、ほぼ工事が完成していた。その出来上がっている成田空港駅を見学した石原は、法規制に縛られている成田空港関係者の懸念をよそに「既存の鉄道を入れろ」と発言し、その年の10月には上下分離方式成田空港高速鉄道が設立され、2年半後の1991年(平成3年)3月にはJR東日本京成電鉄が成田空港駅に乗り入れを開始した[28]

1989年(平成元年)、亀井静香平沼赳夫園田博之らに推される形で党総裁選に出馬するも経世会が推す河本派海部俊樹に敗れる。1990年(平成2年)の第39回衆議院議員総選挙旧東京4区で長男の伸晃が初当選し、父子揃って衆議院議員となる。1995年(平成7年)4月14日、議員在職25年表彰を受けての衆議院での演説中、「日本の政治は駄目だ。失望した」という趣旨の発言を行ない辞職を表明(最初の地盤継承者は栗本慎一郎)。

東京都知事時代[編集]

都知事時代(2006年9月1日

議員辞職から4年後の1999年4月、東京都知事選挙に立候補。先に立候補を表明していた並み居る政治家を尻目に圧勝する。以降、4期14年の長期政権を築き、様々な政策を推し進める。2011年に4期目に入ったころから国政の政権与党である民主党の混乱の中で「次の首相」候補として名前が取りざたされる。2012年10月、石原は4期目途中で知事職を辞任し、国政へ復帰した。

衆議院議員復帰後[編集]

国会質疑[編集]

衆院選当選時に80歳と高齢でありながら、党を代表して国会での質疑に立っている。 国政復帰初の2013年2月12日の国会質疑を「国民への遺言」とした[29]。 同年4月17日と12月4日には安倍首相との党首討論に臨んでおり、10月16日には衆議院本会議において代表質問を行った。

憲法[編集]

国政復帰後は、主に自主憲法の制定を強く訴えている[30]。現行憲法は、前文は極めて醜い日本語で、歴史的正当性がなくアメリカが日本の解体統治のために一方的に速成したものだとして、衆議院本会議で質問に立った際に変更を促した[31]

脳梗塞発症[編集]

石原は、議員当選後に「体調不良」から入院し、姿を見せない時期がしばらく続いていた。これに対し、2013年3月28日に『週刊新潮』が「菅直人の周辺が石原の脳梗塞発症説を漏らしている」と報じた[32]。その後、3月30日に退院した石原は、復帰に伴う記者会見において「軽い脳梗塞」を発症していたことを認めた[33]

経済・財政[編集]

アベノミクスに関して
2013年2月12日、石原慎太郎は衆院予算委員会において「何としてもアベノミクスを成功させて欲しい」と応援する発言をした[34][35][36]

国家の会計制度[編集]

2013年2月12日、石原は衆院予算委員会において「日本の国家の会計制度に懸念を持っている。これを合理化して企業並みにしないと、アベノミクスのバリアになる。この国には健全なバランスシート財務諸表がない。国は何で外部監査を入れないのか。アベノミクスを成功させるためにも会計制度を一新させる必要がある。会計制度を変えると税金の使途がハッキリ分かる」と安倍総理および麻生副総理に、石原が都知事時代に東京都の会計に採用した複式簿記・発生主義会計制度を国家の会計制度にも導入するよう提言を行った[37][38]

維新の会分党、次世代の党結党へ[編集]

日本維新の会では大阪系の議員らと政策や党運営で対立する局面がたびたびあったが、原子力政策を巡っては2014年3月に石原が会長を務める党エネルギー調査会の初会合で講演中、当時会期中の第186回国会で採決予定だったトルコなどへの原発輸出を可能にする原子力協定について、党が昨年12月の両院議員総会で多数決で原子力協定反対を決めたことを「ばかばかしい。高校の生徒会のやり方だ」と批判。その上で「私は採決のとき賛成する」と明言した。党の方針に背いて独自に行動することを宣言したことに反発した大阪系の浦野靖人衆院議員(当選1回)が「(党の決定に)反対なら党から出ていったらよろしい」と発言、他の複数の大阪系議員も同調した[39]

さらに結いの党との合併協議に際しては「結いの党は護憲政党だ」などとして否定的なスタンスをつらぬき、新党の綱領に自主憲法制定を目指すなどの文言を入れることに固執。あくまで意見の隔たりの大きい結いと合流し政界再編を目指す橋下共同代表や松野頼久国会議員団幹事長らとの決裂が決定的となった[40]

2014年5月28日付で日本維新の会からの分党を表明[41]、同6月5日付で「新党準備会」を発足[42]。石原グループの離党ではなく一度解散したうえでの分党(政党助成法上の分割)という手続きを取ることで、維新が受け取るはずだった政党助成金は議員数に比例して橋下グループの新党「日本維新の会」と石原グループ「次世代の党」の両者に按分される。

7月30日までに、両者間で政党助成金の分配額など、分党に必要な手続きに関する協議を終え、7月31日総務省への解散届出をもって正式に分党。翌8月1日に平沼赳夫を党首として新党「次世代の党」を発足・総務省へ届け出、石原は党最高顧問に就任した。

2014年11月に衆議院解散が確定的となると、石原は高齢を理由とした自らの体調不安から選挙前の引退を示唆した。しかし、党内からの強い希望もあり、比例単独候補(東京ブロック)として出馬を決断。石原本人の希望により「後輩を一人でも多く当選させたい」として比例順位は最下位にあたる9位だった[43]。結果として次世代の党は石原が出馬した東京ブロックを含む全ての比例ブロックで議席を獲得するには至らず、石原は落選。選挙後の2014年12月16日に記者会見を開き、政界引退を表明した[44]。会見で「歴史の十字路に何度か自分の身をさらして立つことができたことは政治家としても物書きとしてもありがたい経験だった」と述べ、わりと晴れ晴れとした気持ちで政界を去れるとの見解を述べた[44]

2015年春の褒章で旭日大綬章受章。

略年譜[編集]

政治姿勢・発言[編集]

政治的には、歯に衣着せぬ発言が支持を得る一方、政治問題化されるケースもある。批判に対しては安易な謝罪や訂正を拒否し、臆することなく堂々と反論を表明するという強気のスタンスを貫き、失言によって辞職に追い込まれたことは一度もなかった。

尖閣・島嶼について[編集]

沖ノ鳥島に視察上陸しへシマアジの稚魚を放流[65]等、島嶼防衛・尖閣防衛について度々言及している[29]
尖閣について、江藤淳との共著(2004年)[66]において次のように記している。「尖閣列島周辺の海底に油田があるという話が持ち上がって以来次々と妙なことが起こった。返還前のことですが、米国の石油メジャー会社が、時の佐藤首相に、外相がらみで自分たちによる試掘を持ちかけてきた。佐藤首相は自国日本のことだからといってそれを退けた。すると彼らは同じ話を台湾と北京に持ち込み、「あの島々は本来なら中国の領土の筈だ」とそそのかした。」[66]
2009年、石原は、日中科学技術文化センター会報に掲載された対談にて、尖閣について日本の主権を棚上げにした上で共同開発すべきとの見解を示した[67]
2010年5月27日の全国知事会には、米国が尖閣防衛に消極的である例を示した上で「日本の領土を守らないなら、何のため沖縄に膨大な基地を構えるのか。抑止力を現政府がアメリカに問いたださない限り、訓練分散を論じる足場がない」と当時の政府を糾弾した。関連して同会合に出席していた、当時首相だった鳩山由紀夫に対し「総理は外国人参政権の問題で、『日本列島は日本人のためだけのものではない』と述べたが衝撃だ」と発言し、それら石原の問いに対し、鳩山は「日中の間で衝突があったとき、アメリカは安保条約の立場で行動する。しかし(尖閣諸島の)帰属問題は日中当事者同士で議論して結論を出す、と私は理解をしている」との見解を示したため報道陣に、「日中間で尖閣諸島の帰属を協議しようって、こんなバカをいう総理大臣いるのか?正式に(米国から)返還されたんだ。ばかな会合だよ。ナンセンス!」と怒りをあらわにしている[68]
尖閣諸島魚釣島に「日本青年社」が本格的な灯台を造ったことに対し謝礼を述べている[69]2010年11月に起きた尖閣沖での中国漁船衝突事件ビデオ流出後の記者会見では「なんで政府が発表しないのか。国民の目に実態を見てもらいたいと思って、流出した。結構なことじゃないか」と述べ海上保安官のビデオ流出行為を肯定した[70]
2012年4月には、東京都による尖閣諸島購入計画を発表[71]

日本国憲法について[編集]

自主憲法制定論を持論としている。現在の日本国憲法は勝者が敗者を統治するための占領基本法で戦勝国が押し付けた占領憲法であるとしている。占領憲法は勝者の敗者に対する統治の方法としてしか使われてなかったという事で否定したら誰も反対する法的な根拠はないとして、議会で現行憲法の廃棄決議をした上で自主憲法を制定すべきとしている[72][73][74]
天皇を日本国の元首と表現し、憲法に天皇を元首と明記すべきとの見解である[75][76]。2002年12月11日の都議会で日本国憲法について「改憲手続きなんていう面倒なことはせず、衆議院で破棄決議をすればいい」と発言した。インタビューなどでも、目標を「憲法を変えること」と明言している。

軍事について[編集]

自主防衛推進[編集]
三木武夫がつくった武器輸出三原則防衛費1%枠などの政策は変えるべきだ」とする、核武装・自主国防確立論者である[77]
1971年7月19日付の朝日新聞で「(核兵器が)なけりゃ、日本の外交はいよいよ貧弱なものになってね。発言権はなくなる」「だから、一発だけ持ってたっていい。日本人が何するかわからんという不安感があれば、世界は日本のいい分をきくと思いますよ」との発言が紹介された。[78]2011年6月20日の記者会見では、「日本は核(兵器)を持たなきゃだめですよ。持たない限り一人前には絶対扱われない」「日本が生きていく道は軍事政権を作ること。そうでなければどこかの属国になる[79]徴兵制もやったらいい」と発言した。[80]2011年8月5日にも記者会見[81]で、また2013年4月5日にも朝日新聞とのインタビューで「日本は強力な軍事国家にならなかったら絶対に存在感を失う」と主張している[82]

靖国神社参拝[編集]

毎年、8月15日靖国神社に参拝している。衆議院議員当選・都知事就任以後も、日本維新の会共同代表就任・国政復帰以後も参拝している。
2013年の8月15日にも日本維新の会共同代表として参拝している[83]

佐野眞一について[編集]

佐野眞一橋下徹・大阪市長の出自をめぐる週刊朝日の連載記事で問題となった際に「橋下さんにも子供がおり、その子供にまで影響する。文筆を借りて、他人の家族までおとしめるという物書きは許せない」「同和や被差別部落の問題について強い偏見を持っている」「私も被害者の一人。父親の本籍地に出かけ、石原一族は同和、部落ではないか、と誘導尋問をしていたと報告があり、あきれた」「出自や親族の職業をあげつらい、それがDNAとして受け継がれて危険だというのは、中傷誹謗の域を出ない卑劣な作業だ。」と述べている[84]

慰安婦について[編集]

日本の慰安婦について、「日本人が彼女たちを強制連行した証拠はない。生活が苦しい時期、女性が売春をすることは金をもうけるための仕事のひとつだった。彼女たちは自らこの仕事を選んだ」と発言した[85]。また野村秋介について「通夜の席で“なぜ朝日新聞社に乗り込んだ時に相手(時の社長中江利忠)と刺し違えなかった”と言ってやった」、「彼は朝日新聞に対して、命がけで決着をつけるべきだったのです。そうすれば、彼らはもう少しまともな会社になっていたのではないか。朝日が国を売った慰安婦報道をひっくり返した今、なおさらそう思います」、河野一郎邸焼き討ち事件を引いて「野村はそれで12年間、刑務所に入りました。もちろん放火という行為は推奨できないが、命懸けだった。少なくとも昔の言論人は命懸け、最近、そういう志の高い右翼はまったくいなくなりました。今(2014年現在)は、朝日が何をしようと安穏と過ごせる、結局うやむやにして過ごせる時代です」と発言[86]

東京消防庁のハイパーレスキュー隊員に涙ながら感謝[編集]

東日本大震災の際に福島第1原発事故で放水活動を行った東京消防庁ハイパーレスキュー隊員らを前に涙ながらに「ありがとうございました。」と頭を下げた[87]

諸外国に対する見解[編集]

国際連合[編集]

国際連合に対して、「国際連合憲章の精神って何ですか。金科玉条なんですか。国連てそんなに大したものなんですか。神様みたいな存在ですか。冗談じゃないですよ」「今ごろ国連憲章なんて、まともに信じている馬鹿いませんよ」[88]

中華民国・台湾[編集]

中国共産党一党独裁国家である中華人民共和国への批判的な姿勢(詳細は下記を参照)とは対照的に、同国と対立関係にある議会制民主主義国家である台湾中華民国)に対しては、事実上の青嵐会の創設者だったため非常に友好的な姿勢を取っている事で知られている(但しその中華民国も、台湾で1948年に再建されてから1987年まで中国国民党戒厳を布告していた独裁だった史実には沈黙)。都知事就任後も数回に渡り同国への渡航を行う他、各種行事に参加している。また、中華人民共和国との間に国交を樹立し中華民国との国交を断絶した日本国政府の姿勢(「一つの中国」論)に対しても批判的である。なお、2008年中華民国総統選挙において国民党の馬英九は、台北市長時代の風俗街の取り締まりの厳しさや、パフォーマンス的な言動から「台湾の石原慎太郎」と民主進歩党支持者から揶揄された[89]

中華人民共和国[編集]

2005年の中国における反日活動では「民度が低い」と非難し、中華人民共和国を「支那」と呼んでいるが、本人は「蔑称ではなく、尊敬して昔の呼び名で呼んでいる」「中国の人が屈辱に感じていることを知らなかった」と主張している。北京オリンピックについて「ヒトラーの非常に政治的なベルリンオリンピックに、ある意味似ているような気がする」[90]と発言した。その反中姿勢が東京でのオリンピック開催の実現を困難にする(中華人民共和国は、ODAを元にアジアアフリカの一部の発展途上国に影響力を持つ)という指摘もあったが[91]、2016年夏季五輪招致に北京市の協力を要請し、中華人民共和国の招待に応じて当時の福田康夫首相とともに北京オリンピックの開会式には出席した。「大国の度量を見せるもの」として中国のネットも支持した。感想として「13億の人口のすごさってのはね、ひしひしと感じましたね。」「一番感じたのはね、ボランティアの大学生ですね、みんな。とってもね、いいね。アメリカのボディーチェックするような空港の役人なんかと違ってね、本当に横柄で何様だっていう感じだけど、(大学生は)とっても親切で礼儀正しくてね。」「やっぱり、それはね、いろいろ(政治)体制に対する批判はあるでしょうけど、私もいろいろ異論はあるけども、国家社会の前途にね、あの世代の若者が明らかに日本の大学生と違って期待を持っているということに、青春の生き甲斐を感じているということは、聞いてみてもうらやましく感じましたね。」「(中国の若者と比較して)日本の若者はある意味でかわいそうだな。青春にある者としてアイデンティティーがないから。やっぱり『2ちゃんねる』の書き込みとかそんなもんで本当のコミュニケーションができるもんじゃないし。全部現実から逃避しているし[92]」さらには「日本と中国が組めば技術でヨーロッパと対抗できるんだからいろいろやりましょう。」とまで述べた。これを中国メディアは「右翼の発言と思い難い中国の代弁者のようだ」と取り上げた[93]。2009年(平成21年)に北京副市長・黄衛が訪日の際に石原は「東京の技術は進んでおり、見たいものは全部見ていってください」と述べ、黄副市長は「これからも交流を活発にしていきたい」と応じた。日中間の領土問題において、東京都の沖ノ鳥島は岩である旨主張し続ける中国共産党政府の態度、また事前通知無しで調査船を派遣していることに対し反発している。そのため、都知事の立場から「日本の経済水域であることを実証する」として、沖ノ鳥島に上陸して日章旗を掲げる等のパフォーマンスを行っている。在日中国人による犯罪について「民族的DNAを表示するような犯罪が蔓延することでやがて日本社会全体の資質が変えられていく恐れが無しとはしまい」と発言した[94]。2008年1月、中華人民共和国から輸入された冷凍餃子に毒が混入していた事件(毒入り餃子事件)に関して「独裁統制国家なんだから、しっかりしてもらわないと困りますな」と、中華人民共和国当局を批判した[95]。2月には「中国の領土拡張姿勢に日本が賢明に対処しなければ、五星紅旗の"六番目の星"になるだろう」と発言している[96]。2010年、石原は「反中国ではなく、反中国の共産主義」「僕は中国の歴史や文化が好きだ。しかし、中国の共産主義が嫌い」「中国は反対しないが、共産党支配下にある中国は、日本にとって脅威となる」などと述べた。共産党や共産主義を中国とは分けて考えている石原氏の論点は素晴らしいと、ラジオ自由アジア(RFA)は四川省作家・冉雲飛氏の言葉を引用して評価した。辞任会見では共産主義は嫌いとしつつ学生時代に読んだ毛沢東矛盾論は「その通り」と思ったとしている[97]。また、インタビューで、人間にとって「自由」が最も大事と述べた。そのため、自由のない独裁国家は嫌いで、戦時中の日本も嫌いだと語った。また、アメリカと中国の高圧的な態度に嫌悪感を抱いていることを表明し、尖閣諸島問題で中国が5回にわたって日本の駐在大使を呼びつけることは、日本に対する侮辱行為だと批判した[98]。2013年に石原が脳梗塞で入院した際、掲示板では“ハッピーニュース”として喜ぶ声が殺到した一方で「石原氏はかなりの中国通で、中国政府は嫌いだが中国文化は好きだと言っている。中国に対する理解は並みの中国人以上だし、多芸多才な民族主義者だよ」と一定の評価をするコメントも見られた[99]。2014年6月22日、日本維新の会解党を正式決定した同党臨時党大会にテレビ中継で参加した際には、「日本という国家は下手をすると隣の中国の属国になりかねない危機的な状況にあり、これを防ぐために私たちは行動してきた。」と発言、憲法改正や集団的自衛権行使容認等の政策が対中国戦略である旨を明言した[100]

北朝鮮[編集]

北朝鮮による日本人拉致問題が公になって以降は強硬な姿勢を貫いている。Webキャスターの草薙厚子によれば、1998年(平成10年)に「朝鮮民主主義人民共和国がノドン何号かを京都へ撃ち込んでくれれば、この社会もちっとはピリッとするんだろうけどね」との発言を行ったという[101]2002年には『ニューズウィーク』のインタビューに応じ、映画『風とライオン』の内容(モロッコのリフ族に拉致されたアメリカ人教師をセオドア・ルーズベルト大統領が軍艦を送って取り戻したエピソード)について語り、「国家の国民に対する責任を示している」「私が総理であったら、北朝鮮と戦争してでも(拉致被害者を)取り戻す」「アメリカがそれに協力しないとしたら、日米安保条約は意味がなくなる」と述べている[102]。2009年には、北朝鮮による拉致被害者を救出する知事の会を泉田裕彦新潟県知事上田清司埼玉県知事らと共に設立し、会長に就任。47都道府県の知事のうち達増拓也岩手県知事ただ一人が参加しなかったため、会見では「民主党代表小沢一郎さんの出身地である岩手の知事を除いて……何でかは知りませんよ私は」と皮肉った(後に達増知事は一転、参加を表明)。また会見で、北朝鮮は中国に併合されたほうが良いと発言した[103]。これに対して韓国の政治家や北朝鮮政府は反発を見せた[104][105]
在日北朝鮮人の代表なる男たちから脅迫を受ける[編集]
石原の自宅に突然押しかけてきた在日北朝鮮人から、「息子を殺す」と脅迫を受けた事がある。政治家になってから、テレビ発言が元になり、石原の自宅に在日北朝鮮人の代表なる男たちが突然押しかけてきて、「お前が謝らなければ、そこにいる息子を殺してやるから覚悟しろ」と「テレビでの発言が元になって思いがけぬ脅迫に遭った」と自著で述べている。脅迫の元になったテレビ発言は、北朝鮮が実質的に国家・政府と一体である労働党の規約に、「日本軍国主義」を打倒するなどといった大時代的な文言を掲げ、なおかつ中共とも手を組んだ執拗な日本攻撃を繰り返していたとして「こうした国との友好はその限りで不可能だし、彼等が日本に何かを望むならばまず、すみやかに日本を敵国視することをいわば国是としているような異常な状態を改めるべきだ」といったものだったという[106]
朝鮮総連施設・朝鮮学校への対応[編集]
朝鮮総連施設
在日本朝鮮人総聯合会施設は、1972年(昭和47年)に当時の都知事だった美濃部亮吉が「外交機関に準ずる機関」として認定して以来、多くの自治体が朝鮮総聯の施設を事実上の外交機関や公共施設に準ずるものとみなして、固定資産税や不動産取得税の減免措置を行ってきた。査証旅券発行代理業務を行うなど、朝鮮民主主義人民共和国の窓口機能があったため、「外交機関に準ずる機関」又は「公民館的施設」という名目の下に課税減免措置がとられていたが、2002年(平成14年)9月の小泉純一郎首相(当時)訪朝で北朝鮮が拉致問題への関与を認めたことを境に、国内の北朝鮮関連組織や施設への優遇措置が見直されるようになった。
2003年(平成15年)、東京都は、朝鮮総連の関連施設について「所有者の大半が関連企業(朝鮮総連が法人ではないため)であったり、外交とは無関係なものがある」などとして方針を変更、これらの一部について固定資産税を課すこととした。他の自治体にもこれに追随して固定資産税の減免を解除する動きがあったが、この時点では従来通り減免措置を継続する自治体が多かった。
こうした措置に対して朝鮮総連や北野弘久など一部の法学者は反発し、行政訴訟や民事訴訟で争われた。東京都にある朝鮮総連中央本部の不動産への固定資産税などの課税処分をめぐり、登記上の不動産所有者である合資会社「朝鮮中央会館管理会」が、東京都に課税処分取り消しなどを求めた民事訴訟では一審、二審とも請求を棄却。2009年8月12日、最高裁も上告を退け総連側の敗訴が確定した。
この固定資産税などの減免措置を巡っては、「北朝鮮に拉致された日本人を救出する熊本の会」の加納良寛会長が熊本市長を相手取り、朝鮮総連施設への課税減免措置の無効確認を求めた訴訟を起こした。2005年(平成17年)4月21日、熊本地方裁判所永松健幹裁判長)は「公益性を備えた公民館類似施設と評価でき、減免に違法性はない」熊本市の主張をほぼ全面的に認め、原告の訴えを退けた。これを不服として原告側は控訴し、2006年(平成18年)2月2日に福岡高等裁判所(中山弘幸裁判長)が、「朝鮮総聯の活動に公益性はなく税の減免措置は違法である」とする判決を出した。熊本市長はこれを不服として上告したが、2007年(平成19年)11月30日最高裁判所第二小法廷(中川了滋裁判長)は、熊本市長の上告を棄却し減免措置は違法とした高裁判決が確定した。
この最高裁判決により朝鮮総連施設に対する税減免措置の見直しは急速に進んだ。2013年(平成25年)現在、朝鮮総聯関連施設があるとみられる自治体が全国で128。通常課税の自治体が114。全額免除の自治体は0。一部減免の自治体が10。施設なしと回答した自治体が4である(在日本朝鮮人総聯合会#課税減免措置撤廃の流れ)。
朝鮮学校
朝鮮学校に対しては、学校運営や教育内容などについて調査をし、2012年の東京都の予算から朝鮮学校への補助金を除外し停止した。石原は、「反日教育をしてわれわれの同胞を拉致する手助けをしていた、そういう組織がそれに連脈のある教育をこれからもするなら、援助するいわれはない」と明言していた[107]。2012年当時、東京都議会議員で尖閣諸島を守る為に行動する議員連盟」)の会長でもあった 野田数は「私は以前に都議会で、拉致問題が解決していないのだから朝鮮学校への補助金は凍結すべきと主張しました。その際も自民党から妨害を受けました。」証言している[108]

米国(アメリカ)[編集]

日米安保に反対する「若い日本の会」に大江健三郎江藤淳らと共に参加し、反安保集会に日活俳優を総動員するよう指示するなどした[109]。政治家となって以降は、日米安保安全保障上容認するものの、日米安保破棄について時折触れている[110]。日米両国で話題を呼びベストセラーとなった『「NO」と言える日本』を出版するなど、常に第二次世界大戦以降のアメリカの覇権主義的な態度には疑問を呈し続けている。1980年代ジャパンバッシングの際には「何の努力もせずに文句だけつけて来る」として批判した。
都知事として米国横田基地を求め続け、石原の要求は2005年に見通しがついた2006年10月27日の横田空域航空交通管制権の一部返還日米合意により部分的に実現する[111]2007年5月17日、ニューヨークを訪問中に講演会で日米安保条約について触れ、「台湾や尖閣諸島での有事の際に、米国が日本の防衛にどれだけ責任を持つかは極めて疑問だ」「米国が日本を守らないのなら、自分で何とかする。それは、米国が懸念する核保有につながるかもしれない」と核武装を示唆した。
トヨタ自動車の大規模リコール (2009年-2010年)が起こった時には「アメリカのメンタリティとして自分たちの作り出した自動車を日本に抜かれた、腹立たしい気分はあるだろうね。これがフォードやGMの問題だったら、ちょっとこんな騒ぎにはならなかった気がするけどね。アメリカはそういうところはしたたか、ずるいんですよ」と発言した[112]
TPP反対[編集]
2011年(平成23年)10月28日の記者会見で、TPPについて「あんなものはアメリカの策略で、みんなもうちょっと頭を冷やして考えたほうがいい」「国民皆保険や日本の寿命の高度化はおそらく基本的にぐらついてくる」と主張、TPP参加反対の姿勢を示した[113]

南アフリカ共和国[編集]

1984年(昭和59年)6月に結成された日本南ア友好議員連盟の副長であった[114]。同議連には40人が参加し、南アフリカ共和国で実施されていたアパルトヘイト政策に対する国際的非難が強まっていた状況下で、レアメタルなどの希少金属の確保を目的とした活動をおこなっていた。

外国人参政権[編集]

民主党や公明党などが成立を目指す外国人地方参政権については「危ない試み」「発想そのものがおかしい」「絶対反対」「日本に永住する方なら日本の国籍取ったらいい、問題起こしてないんだったら」等々、反対意見をはっきり述べている[115][116][117][118]2010年(平成22年)3月3日、都議会で、永住外国人に対する地方参政権付与問題について見解を問われ、「絶対反対だ」と答弁、外国人参政権について改めて反対の意思表示をした[119]

話題にされた発言[編集]

石原発言捏造テロップ事件
2003年(平成15年)11月2日TBSサンデーモーニング』が「日韓合併を100%正当化するつもりはない」という石原が述べた発言の語尾を編集して「日韓合併を100%正当化するつもりだ」とテロップ入りで事実とは異なる放送をした。石原側はこの放送内容に抗議を行ったもののTBSから誠意ある回答が得られないとして刑事告訴した。その結果、名誉棄損容疑で TBSの社員ら4人が東京地検に書類送検されたが[120]、東京地検は証拠不十分による不起訴処分とした。TBSは「ミス」として番組で謝罪した。
在日外国人・諸文化
在日韓国・朝鮮人等の日本の外国人及び外国文化に関する発言が政治問題化することがあるが、一方、賛同意見もある。2000年(平成12年)4月9日陸自記念式典において「不法入国した多くの三国人、外国人が凶悪な犯罪を繰り返しており、大きな災害が起きた時には騒擾(そうじょう)すら想定される」[121]と発言し、三国人という言葉が取り上げられ問題とされた[122]。石原は自身のウェブサイトでこの発言について、単に外国人犯罪について言及した発言であり朝日新聞や特定組織に三国人という語の差別性だけを拡大解釈された、との考えを示している[123]。また「謝罪の必要はない」とも述べた[124]2001年(平成13年)5月には、中国人犯罪について「民族的DNAを表示するような犯罪が蔓延することでやがて日本社会全体の資質が変えられていく恐れが無しとはしまい」と主張した[125]2004年(平成16年)10月、都庁内であった首都大学東京の支援組織設立総会でフランス文学が好きでフランス語を勉強したと述べた上で「フランス語は数を勘定できない言葉だから国際語として失格しているのも、むべなるかなという気がする」「都立大はフランス語の講師が8人いて、受講者は1人もいない」との主旨の発言をした。これに対し東京都立大学人文学部フランス文学専攻教員らが「石原東京都知事に発言の撤回を求める」と声明を発表した[126]。後にフランス語教育関係者らによる訴訟に発展した[127]。韓国人については「韓国に対する差別意識はない。私がもっとも尊敬する政治家は朴正煕大統領だ」との認識をインタビューで語っている[128]。また金田正一の項目に引退時のエピソードが詳述されているように帰化人の金田や在日コリアンのつかこうへいとも親交がある。また思想的に正反対でありながらも柳美里を作家として評価する発言をした事もある。他方で、オリンピックの福岡誘致を応援した姜尚中を「怪しげな外国人が出てきてね。生意気だ、あいつは」と発言した[129]
日本人
「日本人には携帯電話を使って売春する子供が、小学生でもざらにいる。300万円、1000万円も貯めて、それをコインロッカーに隠している。こんな風俗は他の国にはまずない[130]」と主張している。石原はその主張の根拠として読売新聞社会部が著した「親は知らない―ネットの闇に吸い込まれる子どもたち」という書籍を挙げている[131]
東日本大震災について
2007年(平成19年)4月8日の都知事選の当選確定直後、会見で「阪神大震災では首長の判断が遅くて2000人が死んだ」と発言。震災当時の兵庫県知事・貝原俊民が「見当違い」と反論した。反論を受けた石原は4月27日の定例会見で、「ちょっと数字は違ったかもしれない」「佐々さんの受け売りなので、彼に聞いてほしい」と発言[132]2011年(平成23年)3月14日には、東日本大震災により日本の東北地方で広範囲が津波の被害を受けたことに関して、「被災者の方々はかわいそう」としながらも、「アメリカのアイデンティティーは自由。フランスは自由と博愛と平等。日本はそんなものはない。日本人のアイデンティティーは我欲。物欲、金銭欲。この津波をうまく利用して我欲を1回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」とコメントした[133]。同日、記者会見で「天罰」発言について「意味がどうあれ、被災された方にとっては非常に不謹慎な発言だと思いますが、撤回されるお考えはありませんでしょうか」と追及されると、「『被災された人は非常に耳障りな言葉に聞こえるかもしれないが』と言葉を添えた」と釈明して撤回をしなかったが、実際にはそのような言葉は添えていなかった[134]。この発言に対し、津波被害を受けた宮城県の村井嘉浩知事が不快感を示したほか、長渕剛も、自身のラジオ番組『長渕剛 RUN FOR TOMORROW 〜明日に向かって〜』で「ふざけるな石原。東北の人たちが何をした」と非難。果てはメールや電話による批判が東京都庁に多数殺到したため、石原は翌3月15日の会見で「天罰」発言を撤回して謝罪をするに至った[135]。この石原の「天罰」発言は、日本だけでなく韓国でも大きく取り上げられた。韓国メディアは、「日本の韓国併合は韓国人が望んだことだ」とする石原の過去の発言にも触れつつ、「韓国人が望んで日本人が韓国を併合したとの妄言で悪名高い石原知事が今度は自国民に大きな傷を負わせた」「石原知事が自国民にまで毒舌」などと批判的な報道を繰り広げた。さらに、石原が折しも自らの4期目当選を狙って都知事選への出馬表明をした直後に「天罰」発言を行ったことについて、韓国メディアは「苦しみや悲しみに耐えながら頑張っている国民に慰めるどころか大きな傷を与えた石原知事に対し、東京の有権者が(今回の都知事選で)どのような判断を下すのか注目される」とコメントしている[136]。また、三宅久之が支持をする一方、桂ざこばからは「共感できない」と苦言、泉谷しげるなどは激怒しながら批判をした。
原子力発電所事故について
石原は自らを「原発推進論者」であると公言している。東京都知事に就任した翌年の2000年(平成12年)4月26日、東京国際フォーラムで開かれた日本原子力産業会議の第33回年次大会の場において、石原は「完璧な管理技術を前提とすれば、東京湾に原子力発電所(原発)を造っても良いと思っている」などと発言していた[137]。ただし石原の構想は、東京都の電力依存を軽減するために、(津波や巨大地震をやり過ごせる)フローティングシステムの上に、東芝製の4S炉のような5万キロワットクラスの超小型原発を必要数東京湾に浮かばせるという具体的なものであった[138]。その後、2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震の影響で福島第一原子力発電所が爆発事故を起こし、大規模な放射能汚染が福島県のみならず東京都民の生活にも深刻な悪影響を及ぼしている状況の中で、石原は同年3月25日に福島県災害対策本部を訪問した際、報道陣の前で「私は原発推進論者です、今でも。日本のような資源のない国で原発を欠かしてしまったら経済は立っていかないと思う」などと発言した[139]2011年東京都知事選挙において、東国原英夫渡邉美樹小池晃など他の立候補者が原発の危険性を強く指摘し、原発の廃止や見直しを訴えていた中、原発の増設・推進に賛成の意を表していた立候補者は石原だけである。ただし東京の臨海地帯に東京風ぐるまの建設を許可するなど、再生エネルギーを否定しているというわけではない[140]
首相への暴行呼びかけ
2010年(平成22年)6月19日札幌市内で開かれたたちあがれ日本の集会で、菅直人内閣総理大臣について、「もし、自衛隊の観閲式の国旗入場で立たなかったら、構わないから殴れ。殴られてもしょうがない」と発言した[141]
女性専用車両
2012年2月24日の都庁定例記者会見で、記者から「女性専用車両は差別では」との質問に際に、「混雑差はそんなにあるのか」「女性は弱者ではない」「今度俺が女性専用車両乗ってみるが痴漢扱いされたら問題提起する」と、女性専用車両にある数々の問題を厳しく指摘する見解を示された。しかし、その一方で、知事をしていた当時、東京都交通局では都営地下鉄に女性専用車両を設置している。記者会見の中継動画
東京中央郵便局建替問題
2009年(平成21年)、当時の総務大臣鳩山邦夫東京中央郵便局建物の文化財的価値に鑑み、建替えに反対の立場をとっている問題に関して、石原都知事は、計画前後までに文化財的価値を指摘すれば計画自体に大きな変化があったのであり、そのため建物を残すことには無理があり、大きな計画そのものを棄損しかねないとして、建物の一部を保存した現行の建替え案への容認を示し、鳩山総務相に苦言を呈した。併せて都は同日中に建替えを認める都市計画決定であるJPタワー計画を行った[142]。この建て替え工事は2012年5月31日に終了し、2013年3月21日にグランドオープンを迎えた。
賃貸住宅の所有者と賃借人の法的権限
2012年(平成24年)3月に、立川市の都営アパートで住民が孤立死した事件に関し、記者会見で「住んでいる人たちは権利者じゃなく使用者。管理人が合鍵で入って、元気ならああ失礼しました、お元気でって帰ればいいじゃないですか」と、管理者の都住宅供給公社の姿勢を批判した[143]
「ニート」・フリーター 
ニート・フリーターについて、「ニートなんて格好いいように聞こえるけど、みっともない。無気力・無能力な人間のことです」[144]「今、ニートなんて、ふざけたやつがほとんどだよ」[145]フリーターとかニートとか、何か気のきいた外国語使っているけどね、私にいわせりゃ穀つぶしだ、こんなものは」[146]との見解を示している。田中良都議から、石原が (働いている) フリーターも穀つぶしと非難したことはワーキングプアに対しての無理解であるとの指摘を受け、「私の言葉を勝手に引用されまして歪曲されていますが、私が穀つぶしといったのは、これはフリーターじゃありませんよ。ニートのことはそう申しました。こういう歪曲した引用というのは非常に卑劣だと思います」と反論した[147]ネットカフェ難民について、2008年10月3日の定例会見では、「山谷に行けば1泊200円、300円で泊まれる宿がいっぱいあるのに、ファッションみたいな形で1泊1500円払いながら『オレは大変だ』なんて言うのはねえ」と述べ、彼らが苦境に陥っているとするのはマスコミの偏向だと主張した[148]。この発言は台東区長から猛抗議を受け、1週間後の定例会見で「数字が異なった」と撤回したが、同時に「1500円より安いとこ行ったらいいじゃないですか」とも述べている[149]年越し派遣村問題については、2009年(平成21年)1月5日、年頭の挨拶において厚生労働省の対応を批判した[150]
天皇 
2006年、「祭司たる天皇」というタイトルのエッセイの中で、天皇について、「天皇こそ、今日の世界に稀有となったプリースト・キング(聖職者王)だと思っている。」「天皇は本質的に宗教というよりも、宗教的しきたりも含めて日本の文化の根源的な資質を保証する祭司に他ならない」という見解を示している[151]。そして、神道が日本人の感性の表象であるとし、過去の歴史の中で天皇が政治に様々な形で組み込まれ利用されてきた一面にも触れながら、「それらの時代を通じて天皇に関わる事柄として日本人が一貫して継承してきたものは、神道が表象する日本という風土に培われた日本人の感性に他なるまい。そして天皇がその最大最高の祭司であり保証者であったはずである。私がこの現代に改めて天皇、皇室に期待することは、日本人の感性の祭司としてどうか奥まっていただきたいということだ。」と書き綴っている[151]。石原の天皇に対する態度は複雑である。天皇を元首とし、君主としての行為を称えたり、天皇の靖国神社親拝を期待[152]する時もあれば興味が無いと言ったりもする。東日本大震災の発生から少し経った2011年(平成23年)3月30日、天皇に対し皇太子徳仁親王夫妻と秋篠宮夫妻を名代として被災地への見舞いに差し向けることを建言するも、天皇は「東北へは私が自分でいきます」と答えた。のちに天皇は被災した各地を慰問したが、2012年(平成24年)2月に天皇が狭心症と診断されたことから、石原は「私の建言なんぞの前に陛下はとうにご自分で心に決めておられていたのだと思う」としつつも「しかし陛下にじかに、余計だったかも知れぬ建言を申し立てた私としては、陛下が心臓の病で倒れられたと聞いた時密かな自責の念に囚われぬ訳にはいかなかった」と記し、「(東日本大震災一周年追悼式にて)式辞を述べられ退席される陛下に出来れば私は、二階正面から陛下の御健勝を祈って天皇陛下万歳を叫びたかった」「陛下はその身の危うさを顧みることなく見事な君主として、そして見事な男として、その責を果たされたものだと思う」と天皇を称えたり[153]、「神道の祭司である天皇陛下に、国民を代表してぜひぜひ参拝して頂く事をお願いして欲しい」と天皇の靖国神社親拝を切望したり[154][155]、運輸相だった1989年9月22日の記者会見で「天皇陛下は元首でもあるが、それ以上に、国民のおとうさんみたいなものだ」と述べて、天皇を元首とし憲法に明記すべきとの見解であるが[75][156]、27歳頃には『文藝春秋』1959年8月号で「天皇が国家の象徴などという言い分は、もう半世紀すれば、彼が現人神だという言い分と同じ程度笑止千万で理の通らぬたわごとだということになる、というより問題にもされなくなる、と僕は信じる」[157]、28歳頃には深沢七郎の小説『風流夢譚』が皇室への不敬とされる描写で物議をかもした折、『週刊文春』1960年12月12日号で「とても面白かった。皇室は無責任きわまるものだったし、日本に何の役にも、立たなかったのだ。そういう、皇室に対するフラストレーション(欲求不満)を、われわれ庶民は持っている。この作品の感覚は、庶民の意識としては、ぜんぜんポピュラーだ、読んでいてショックもなかった」[158]との発言が見られ、文學界2014年3月号のインタビューで、聞き手の中森明夫から皇室について考えを尋ねられた時には「いや、皇室にはあまり興味ないね」と答え、小学生の時に、皇居の前で父親に「頭下げろ」と小突かれ、「姿も見えないのに遠くからみんなお辞儀する。バカじゃないか、と思ったね」と当時を回想している[159]。月刊ペン 1969年11月号に掲載された三島由紀夫と石原慎太郎の対談内では、三島が戦後のパーソナルな人間天皇制が一番いけないとの見解を述べて天皇の話題を切り出し、それに対し石原は「そうです。昔みたいにちっとも神秘的ではないもの。」と応じている。三島は再度、天皇をパーソナルなものにするということは天皇制に対する反逆だとの見解を述べ、石原は「僕もまったくそう思う。」と応じ、その後に三島は「石原さんみたいな、つまり非常に無垢ではあるけれども、天皇制廃止論者をつくっちゃった」と述べ、石原は「僕は反対じゃない。幻滅したの」と応じている。その時に、三島は「幻滅論者というのはつまりパーソナルにしちゃったから幻滅したんですよ。」と結論づけた[160][161][162]オリンピック誘致活動においては、皇族の協力を求めている。今上天皇へ皇居のライトアップを奏上したことを公表し、宮内庁に咎められたこともある[163]。これに対して石原は「宮内庁ごときが決める問題ではない」と宮内庁を批判し皇族の協力を要求した[164]2008年(平成20年)2月には「あそこで装備を見せることで国民の自覚、危機感が出てくる」として弾道ミサイルを地上から迎撃する航空自衛隊の地対空誘導弾ペトリオットPAC-3皇居前広場で展開すべきとの見解を示している。
日の丸・君が代
毎日新聞1999年(平成11年)3月13日付)のインタビューにて「日の丸君が代を学校の行事に強制しますか?」という質問に対し「日の丸は好きだけれど、君が代って歌は嫌いなんだ、個人的には。歌詞だってあれは一種の滅私奉公みたいな内容だ。新しい国歌を作ったらいいじゃないか。好きな方、歌いやいいんだよ。」と答えている。一方で、都知事就任後は文部省の決定に則して都立学校の公式行事における君が代の斉唱と国旗掲揚の徹底をし、君が代を起立して斉唱しなかった教師に対し懲戒処分を行った。この処分に対し東京都立学校の教職員173人が、都に処分の取り消しと1人あたり55万円の賠償を求める訴訟を東京地裁に起こしている[165]文學界の2014年3月号で、中森明夫からインタビューを受けた時に「僕、国歌歌わないもん。国歌を歌うときはね、僕は自分の文句で歌うんです。『わがひのもとは』って歌うの」。そして、こう歌うと周りの人たちが驚いて振り返るのだと明かしている[166]
靖国
靖国神社には毎年8月15日に参拝し、総理大臣には「もし首相が靖国に行かなければ、この国は芯からガラガラと崩れていく」[167]と参拝を求め、天皇の靖国神社親拝を期待する発言を行い、小谷喜美との対談の中で「日本が行った戦争がすべて侵略だから靖国に参拝するななんていう進歩的文化人の連中はおかしい。」と述べている。一方で[168]A級戦犯の靖国合祀に関しては異議を唱えたこともある[169]。「靖国が日本の興亡のために身を挺して努め戦って亡くなった功ある犠牲者を祭り鎮魂するための場であるなら、彼等を無下に死に追いやった科を受けるべき人間が鎮魂の対象とされるのは面妖な話である」「戦争の明らかな責任者を外して合掌している」と述べている。拳銃が決して致命に至らぬ最小の22口径で自決しようとした東条英機より、潔く自決した大西滝治郎中将や阿南惟幾陸相を靖国へ合祀しない事に異議を唱えた。石原は東条の「戦陣訓」の中の「生きて虜囚の辱めを受けず」なる文言が当時の日本の社会の中でいかに恐ろしい拘束力を持ち、いかに多くの犠牲者を生み出したか、と述べている。
ジェンダー・性・障害者・同性愛
自著の『真実の性教育』(1972年,光文社)では、「同性愛など、そうした衝動が衝動として異常とは、けっして言いきれない。」「それを日々の性愛の生活のなかにいちいち体現するのは、これはアブノーマルかもしれぬ。しかしある程度のものは、じつは性生活、性愛のスパイスのようなもので、適度に用いられれば、性生活、性愛の高揚につながるはずである」といっている[170]。また、自身の書いた小説に同性愛をテーマにした『待伏せ』という1967年に発表された短編が存在する。現在の石原と国家観が異なる豊崎由美栗原裕一郎は『待伏せ』を「たとえ芥川賞候補作であっても、A評価で推せるくらいの秀作ですよ」と評価し、「コワイ」「ナガイ、ヨル」などと文字を書き合って会話する描写を見た豊崎が「かーわーいーいー!」「セックスよりも濃いっ」とはしゃいだりする一幕もあった[171]。高校教師と生徒との同性愛関係を描いた『バスタオル』(福島次郎著)が1996年(平成8年)、第115回芥川賞候補となった際、石原はこの小説を強く推し、「ここに描かれている高校教師とその生徒との関わりは間違いなく愛であり、しかも哀切である。誰かがこれが男と女の関係ならばただの純愛小説だといっていたが、もしそうとしてもそれがなぜ小説としての瑕瑾となるのか」、「この作品だけが私には官能的なものとして読めた。小説が与える官能こそが小説の原点的な意味に違いない」と賞賛している。因みに著者の福島は、三島由紀夫との赤裸々な同性愛関係を綴った「剣と寒紅」の著者でもある。2000年代に入った頃からは2010年(平成22年)12月3日の記者会見で、「テレビなんかにも同性愛者が平気で出るでしょ。日本は野放図になり過ぎている。」と同性愛者の露出に言及するなど、センセーショナルに報じられるようになる。[172]。同年12月7日、この発言の真意を記者から尋ねられ、「どこかやっぱり足りない感じがする。遺伝とかのせいでしょう。マイノリティーで気の毒ですよ」と答えた。さらに過去に米・サンフランシスコを視察した際の感想を振り返り、「ゲイのパレードを見ましたけど、見てて本当に気の毒だと思った。男のペア、女のペアあるけど、どこかやっぱり足りない感じがする」と話した。同性愛者のテレビ出演についても、「それをことさら売り物にし、ショーアップして、テレビのどうのこうのにするってのは、外国じゃ例がないね」と改めて言及した[173]。この発言は日本国外でも問題になり、国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウォッチは発言を撤回すべきだとする声明文を発表した[174]。またWSJの日系記者は日本国内の一部のメディアしか大きく問題視しなかったことに疑問を呈した[175]。また人権救済申し立てを受けた日本弁護士連合会から2度にわたり警告を受けている[176]。2010年代には、石原の同性愛に関する発言がセンセーショナルな話題になると、同年、同性愛者コミュニティや一般社会の橋渡し役となった個人や団体を表彰する目的で開催されるTokyo SuperStar Awards (TSSA) の「ラズベリー賞」(ゴールデンラズベリー賞オマージュ)を受賞した。TSSA公式サイトよると、反同性愛的な独自の主張を展開しながらも、同性愛者が市長や市議会議長であるパリ市・ベルリン市及びニューヨーク市との姉妹友好都市を提携し、また、都民サービスの一環として東京都庁をTSSAの授賞式に利用させたり、2007年のLGBT パレードに都として後援したりするなど、「私利私欲・主張を傍らに、真摯に東京都民の公益のみに邁進」している点が評価されての受賞となった。副賞として、苺のミルフィーユ味のアイスクリームが送られた[177][178]。障害者についての発言が政治問題化したのは、1999年(平成11年)9月に東京都知事として府中療育センター(重度知的・身体障害者療育施設)を視察した後の記者会見での発言だった。「ああいう人ってのは人格あるのかね。ショックを受けた。ぼくは結論を出していない。みなさんどう思うかなと思って。絶対よくならない、自分がだれだか分からない、人間として生まれてきたけれどああいう障害で、ああいう状態になって」と発言した。次いで「おそらく西洋人なんか切り捨てちゃうんじゃないかと思う。そこは宗教観の違いだと思う。ああいう問題って安楽死につながるんじゃないかという気がする」と発言意図を説明した。上記の発言が一部のメディアで問題発言として報道され、知的障害者団体からも抗議された。石原は「文学者としての表現」と弁明している[179]東京新聞はさらに詳しく発言を取材しており、視察の帰りがけに「入所者は自分がだれだか分からない。(彼らに)人生がない、というくくり方をする人もいるが、それなりの人生があるんだという一つの確信を持って仕事をしているのは、素晴らしいことだ」と発言していることを報じた。石原は自身の発言を差別発言として報道した朝日新聞社に対して、産経新聞紙上で「卑劣なセンセーショナリズムであり、アジテーションであり、社会的には非常に危険なこと」として批判している。ジェンダーフリー問題を巡り、フェミニストとは日常的に応酬し合っている。「女性生殖能力を失っても生きているってのは無駄で罪です [180]」「男は80、90歳でも生殖能力があるけれど、女は閉経してしまったら子供を生む能力はない。そんな人間が、きんさん・ぎんさんの年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害」「文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものはババァ」[181]と識者の話を引用する形で発言をし(ババア発言)、裁判に発展したが、最高裁で石原側の勝訴が確定している。性の問題については『太陽の季節』などの小説で奔放な性を描き、都政でも未成年者の性交を禁止する条例案には疑問を示しており、必ずしも保守派と同じ歩調を取っているわけではない[182]文學界2016年10月号において精神科医の斎藤環との対談で、相模原障害者施設殺傷事件について、「この間の、障害者を十九人殺した相模原の事件。あれは僕、ある意味で分かるんですよ」と発言し[183]、さらに、「昔、僕がドイツに行った時、友人がある中年の医者を紹介してくれた。彼の父親が、ヒトラーのもとで何十万という精神病患者や同性愛者を殺す指揮をとった。それを非常にその男は自負して、『父親はいいことをしたと思います。石原さん、これから向こう二百年の間、ドイツ民族に変質者は出ません』と言った」と肯定する発言を行った[184]
老人の出処進退
1975年(昭和50年)、初の東京都知事選挙出馬の演説で、対立候補の美濃部亮吉(当時71歳)に関し「もう新旧交代の時期じゃありませんか、美濃部さんのように前頭葉の退化した六十、七十の老人に政治を任せる時代は終わったんじゃないですか」と発言し[185]、政治家は遅くとも70歳前に引退すべきとする考えを表明した。しかしながら、石原自身は78歳になってもなお、自らの都知事4期目当選を狙って2011年都知事選に立候補し、当選した。さらに、2012年には都知事を辞任して国会へ復帰し、新たに日本維新の会の代表になるなど、80歳を過ぎても政界から引退する意志は全くない考えを示している。
冒険家堀江謙一の世界一周について
堀江謙一の277日間単独無寄港世界一周成功を全否定した。週刊プレイボーイ1975年11月25日号で「堀江クンの世界一周は、ヨット仲間の常識からいってウソなんだ。絶対にやってないよ。あのときつかったヨットではあんな短期間に世界一周ができるはずはないんだ。彼のほかにも、イギリスのロビン・ノックスが312日間、チャイ・ブロイスチャイ・ブロイス――(以下略)」[186]また、朝日新聞社の取材ヘリが堀江のマーメイド号から航海日誌を吊り上げ回収したことに「国際法違反だ」と指摘した。本多勝一は、『貧困なる精神(121)』において、この石原の行為を「小心者の卑劣な嫉妬心」と批判した。
小池百合子について
自由民主党公明党日本のこころを大切にする党から推薦で2016年東京都知事選挙に立候補した増田寛也の決起集会(2016年7月27日)に長男の伸晃と共に参加、「とにかく岩手県で行政手腕を発揮した増田さんに任せないとね、やっぱり厚化粧の女に任せるわけにはいかないね、これは」と増田に支援を呼びかけると、小池に対しては「大年増の厚化粧がいるんだな、これが。これはね。困ったもんでね。」を小池を罵倒した[187]。小池は当選の翌日の8月1日のテレビ番組で二男の良純から「おそらく小池先生もご存じだとは思いますけど、石原慎太郎というのはああいう人ですので、たぶん謝らないと思いますので、私がかわりに...」は小池に謝罪した[188]
海外メディアの反応
ABCからはフランスの極右政治家に例えて「日本のル・ペン[189]中央日報からは「極右勢力の代表」[190]フィガロリベラシオンからは「国家主義的思想の持ち主」「右翼ポピュリスト[191]エコノミストからは「日本右翼の年老いたゴロツキ(old rogue of the Japanese right)」[192]と呼ばれるなど、各国のマスコミからは極右政治家と認識されている。石原は自らを「真ん中よりちょっと左と思っている」と述べている[193]
諸団体との関わり
1976年、統一協会(統一教会)の「希望の日晩餐会」に出席し、あいさつをした[194]
2000年(平成12年)、犯罪被害者の権利確立を目指す全国犯罪被害者の会代表幹事の岡村勲弁護士が文藝春秋に寄稿した「私は見た『犯罪被害者』の地獄絵」を読み感銘を受けた石原のほか、瀬戸内寂聴(作家)、奥田碩経団連会長、如水会理事長)、樋口廣太郎アサヒビール名誉会長)が代表発起人となり「犯罪被害者の会を支援するフォーラム」が設立された。事務局長には石原と大学同期の高橋宏首都大学東京理事長、如水会副理事長)と、山本千里(如水会理事兼事務局長)が就任した[195]。同フォーラムは全国犯罪被害者の会へ経済的支援を行い、2004年(平成16年)の犯罪被害者等基本法の成立、2007年(平成19年)の刑事訴訟法改正による被害者参加制度創設、2008年(平成20年)の犯罪被害者等給付金の支給等による犯罪被害者等の支援に関する法律改正の実現などに尽力した[196][197]。岡村は2007年(平成19年)4月に開かれた如水会有志による「石原慎太郎東京都知事、激励と懇親の会」に出席、来賓祝辞を述べ、2007年東京都知事選挙で再選を目指す石原を激励した。2010年(平成22年)には全国犯罪被害者の会創立10周年記念シンポジウムが有楽町で開催され、代表幹事の岡村の開会あいさつの後、石原の祝辞があった。
政界進出にあたり、自身の後見人的立場だった当時の産経新聞社主水野成夫を介して霊友会の支持を取りつけ、大量の組織票を獲得する[198]自らも霊友会の信者であり、自らの信仰についての著作(「法華経を生きる」など)も書いており、霊友会の機関誌「あした21」に連載を持っている[199]。霊友会初代会長小谷喜美を師として仰いでおり、霊友会現会長大形市太郎と対談を行っている[200]。また、2002年(平成14年)には霊友会の新年会で挨拶している[201]。石原慎太郎本人は霊友会と深い関係にあるが、子息の石原伸晃崇教真光石原宏高幸福の科学に入信しており、一族で別々の新宗教からの支援を受けている。いずれの三団体はフランスの1995年のフランス議会委員会報告によりセクト宗教として取り扱われている。
公明党自由民主党と並んで事実上石原都政の与党である[202]2003年と2007年の選挙では選挙支援を受けている。2007年参院選では公明党による都知事選支援の見返りとして、東京選挙区から出馬する公明党公認の山口那津男の応援で街頭演説するなどしている[203]1999年(平成11年)の都知事選の直前の週刊文春誌における「あなたの池田大作氏への人物評価をお聞かせ下さい」との質問に対して、「悪しき天才、巨大な俗物」と回答していた。あわせて創価学会に日本の政治が壟断されている現実を「情けない限り」と評していた[204]。かつては創価学会に対する批判はしばしば辛辣を極め、『悪辣にして極めて危険なカルト集団』と表現するなど、長年にわたり『亡国の徒に問う』などの著書類をはじめとして、様々な媒体で批判を行っていた。日本の新興宗教論「巷の神々」を産経新聞に連載中に創価学会を取り上げ学会と争いになる[205]
戸塚ヨットスクールを支援する会」を組織し、戸塚ヨットスクールの教育方針を全面的に支持している。殊に、戸塚ヨットスクール主宰者である戸塚宏の教育方針の支柱をなす「脳幹論」(脳細胞そのものをトレーニングしてその機能を高めることにより、教育問題の解決を目指すと主張する[206])に共鳴し、「今の日本人が弱くなったのは脳幹が弱くなったからだ。これは医学的にも証明されている」とする主張を産経新聞のコラム(『日本よ』)や、自らの公式サイト上で公開している。
石原と同じく日本会議代表委員である「崇教真光」代表者・岡田恵珠と『岡田光玉師御対談集』(崇教真光編集)において、対談を行っている30ページの記事がある[207]。長男の石原伸晃が少年の頃、岡田光玉と岡田恵珠が自宅に訪れたエピソードを伸晃が同宗教団体の42周年秋季大祭(2001年)の祝辞にて披露する[208]。また、伸晃は45周年秋季大祭(2004年)にて自身が信徒であることを明らかにし、信徒としての立場をメインに祝辞を述べている[209]

新党構想[編集]

中央政界の政変の度に石原首相待望論・石原新党構想などが保守系マスコミを中心として頻繁に取り沙汰された。2010年、都知事と並行して「たちあがれ日本」を結党し、国政にも間接的に関わるようになる。民主党政権が末期症状に陥った2012年には、「次の首相」の世論調査で大阪市長を務めていた橋下徹と首位を分け合うまでに至る。同年、石原は都知事を辞任、橋下と「日本維新の会」を結成して国政復帰を果たす[58][59]

交流[編集]

大学同期の高橋宏 (後の日本郵政副社長)、高原須美子 (元経済企画庁長官)、鳥海巌 (元丸紅社長) と親しく、4家族で毎年旅行にいく仲であった[210]。のちに石原都政で、高原は都営地下鉄12号線路線名称選考委員会委員長、鳥海は東京都の外郭団体から民営化された東京国際フォーラムの初代社長、高橋は都立大学を統合して設立された首都大学東京の初代理事長などをそれぞれ務めた。慎太郎は大学2年の終わり頃から、小金井の下宿を出て小平の一橋寮で暮らすようになった。これを機に高橋との交流は深まり、3年になると高橋のいる柔道部に入部した[53]

高倉健藤田まこと立川談志と交流があった。[要出典]

議員連盟[編集]

家族・親族[編集]

石原家[編集]

愛媛県松山市八幡浜市大洲市兵庫県神戸市須磨区北海道小樽市神奈川県逗子市東京都
家系
慎太郎によれば、「私も幼い頃家族しての神奈川県から愛媛、広島への大旅行で父や母の実家を初めて訪れた時に会った、まだ元気でいた父の母親と母の父親の記憶をこの旅で見た他の何よりも強い印象で覚えていますが、何故かそれはその後私が成長していってからの方がますます鮮やかで確かな記憶として心に刻まれてきたような気がする。そして父や母が亡くなった後、父や母への追憶に重ねてそれがますます懐かしく鮮やかに思い出されるようになりました。」という[211]
石原家は (慎太郎の父) の2代前の石原安太夫の時代に絶家となった (理由は不明) [45]。それを再興するため服部家から服部信義の二男の信直が石原家に入った[45]。石原家再興の当主となった1862年 (文久2年) 生まれの信直と、1867年 (慶応3年) 生まれの妻ササヨの間には、潔を含めて6人の子供が生まれた[45]。長男の石原克己、長女の壽万 (すま)、二男の石原静夫、三男の、二女の美壽 (みす)、四男の石原真砂 (まさご) の6人である[45]。信直の職業は警察官だった[45]愛媛県長浜町(現大洲市)に生まれ、幼少期は八幡浜や宇和島など、西宇和、南宇和地区ですごした[212]
石原本家の菩提寺八幡浜市保内町の龍潭(りょうたん)寺である[45]
佐野との対談の中で慎太郎は「うちの本家はそもそも石原ではなく服部なんです。そんな大家でもないけれど、元は、落魄 (らくはく) [213]した士族です。先祖は武田残党でそれが松山に流れて服部姓を名乗った。の名人だったらしく、戦 (いくさ) で七人殺したか、まあ七十人は殺さなかったでしょうが (笑)、それで七つ矢車の家紋を許された。歴代、服部勘助を名乗った服部本家の血筋をひいている親父の親父が石原家に入って、それ以来石原姓を名乗った。」と述べている[45]
AERA誌のインタビューのとき、ノンフィクション作家の吉田司に慎太郎は「うちは士族の出でね[214]。カッコいいんだ[214]。武田の武士でね、弓矢の名人でね、家紋が7つ矢の矢車なんですよ[214]。武田軍団って、戦強かったでしょ[214]。うちの家訓はね、『明日の戦、わが身無念と心得べし』ってんですよ[214]。つまり死ぬだろうと……[214]。だから俺の親父もわりと覚悟して、毎晩接待で飲み続けて、仕事で死んでいった[214]。『今宵の宴、わが身無念と心得べし』じゃないけどね (笑) [214]」と述べている。
1862年文久2年) 生 - 1922年大正11年) 没
服部信義の二男として生まれ石原家に入った[45]
  • 祖母・ササヨ
1867年慶応3年)生 - 没
北海道小樽にて家族写真
(左から父・潔、弟・裕次郎、母・光子、慎太郎)
1899年明治32年)12月生 - 1951年昭和26年)10月没
生い立ち
愛媛県八幡浜に隣接する長浜という港町に生まれた[212]警察官石原信直・ササヨの三男。父・信直の人事異動に伴って、幼い頃は信直の赴任先である愛媛県各地の派出所を随分転々とさせられた[45]1922年大正11年)、父・信直が59歳で亡くなり、子供たちはみんな非常に苦労したという[215]
山下汽船へ
1913年大正2年)3月、宇和島男子尋常高等小学校を卒業し、旧制宇和島中学(現在の宇和島東高校)に進んだが、入学から一年もしないうちに同校を中退している[45]。中退の理由はわからない[45]1914年大正3年)、山下汽船に入社。当時潔はまだ14歳の少年だった[45]。潔の山下汽船入社時の身分は店童 (てんどう)だった[45]
慎太郎によれば、「(潔は)本当は大学へ行きたかったんだけど、家の事情で行けなかったようです[215]。家は落魄 (らくはく) [213]する一方だったようですからね[215]」という。
店童 (てんどう)として入社してから5年目台湾赴任時代の1919年大正8年)12月正式の社員となった[216]
1942年昭和17年)9月山下汽船小樽出張所は小樽支店に格上げされた[216]。この組織改革に伴って潔はそれまでの小樽出張所長から小樽支店長心得に出世し、翌18年1月1日を以って、正式に小樽支店長となった[216]。慎太郎が10歳のときだった[216]。しかし潔が小樽支店長の肩書を使ったのは二ヵ月にも満たなかった[216]。同年2月15日には東京支店副長の辞令が出て、足かけ8年すごした小樽を後にした[216]。同じ年の10月には子会社の山下近海機船(昭和24年山下近海汽船に改組改称)に転出となり、山下汽船のほうは嘱託扱いとなった[216]
店童 (てんどう) あがりだったにもかかわらず、最後は関連会社重役にまで出世した。
人柄
妻光子が書いた『おばあちゃんの教育論』によると、潔は身長百七十五センチ、体重は八十キロもあった大男であだ名は“クマさん”だったという[215]
先妻は元大同海運社長崎山好春の妻のにあたる[215]
佐野眞一によれば、「山下汽船OBたちの間からは潔を絶賛する声が次々とあがった[215]。その評価のなかに仕事に関するものはほとんどなく、や人とのつきあいに関するものばかりだったといってよい[215]。潔が“人間的”魅力にあふれていたことは間違いないようである[215]。」という。
慎太郎によれば、「親父は僕ら兄弟と一緒にいると、いつも相好を崩していた[217]。怒るときは怒ったけど、ああいう偏愛っていうか溺愛っていうか、動物的な愛情の示し方は、おふくろはしなかった[217]。ですから、どこが似てるかっていわれれば、そういうところが似てると思うし、なんか言わなくていいことを言って、平気で相手をコキオロシたりするところは、おふくろに似てるし… (笑) [217]。」という。
晩年
晩年には今まで家になかった仏壇をしつらえて、毎朝出勤する前に必ず合掌してお経を上げるようになったという[218]
慎太郎によれば、「朝など時折、前夜の接待が遅くまでになって、好きではあったが医者に禁じられている酒を毒と知りつつ自らに強いて接待に努め疲れて戻った父が、眠りも足りなかったのだろう、高血圧のせいもあって、舌がもつれてお経を読む声がいつもと違って少し呂律が回らず、自分でもそれがわかるのかいらいらしながら同じ部分を何度も唱えなおしているのを床の中で聞きながら、子供なりに心を痛めたのを覚えています。そして結局父は五十一歳で、当時としても若死にしました」という[219]
  • 母・光子(加藤三之助の娘)
母・石原光子
(神戸第二高女時代)
1909年明治42年)9月生 - 1992年平成4年)6月没。
生い立ち
2002年(平成14年)2月24日テレビ朝日系で放送された『グレートマザー物語』では、光子は広島県の生まれと紹介している。
厳島での生活
加藤家は厳島神社参道土産物屋を開いた。光子がいくつのとき厳島に移ってきたかははっきりしない。光子は大正末期か昭和のはじめ頃に厳島を出ていった。地元の古老によれば「光子が厳島を出ていったのは、継母との折り合いが悪かったからだろう」という。
神戸での生活、結婚
厳島を出た光子が誰を頼って神戸に出たかについてははっきりしていない。慎太郎によれば「神戸ではおばさんの家に寄宿していたんでしょう。その家は三宮にあって、貿易商だったみたいですよ。そこに預けられたけれど、従姉妹にあたる娘となかなかそりがあわなくて、ずいぶん意地悪されたって言ってましたけど。それで(第二高女を卒業後)東京に行ったんだという言い方をしてましたけどね。名前はたしかタケウチさんといったかな。」という[217]
光子の神戸での寄宿先は竹内五一商店という貿易商だった[217]。慎太郎は、潔と光子の見合い芦屋に住む河野という女性が仲介したという話は聞いているが、それ以外は知らない、といった。
1927年(昭和2年)3月に神戸市立第二高等女学校 (現神戸市立須磨高校) を卒業した[217]。第二高女を卒業した光子は絵描きを目指して上京した[217]
1934年昭和9年)12月生 - 1987年(昭和62年)7月没。
  • 妻・典子(石田光治の娘)
1938年(昭和13年) 1月生 -
典子の父親石田光治は落下傘のなどを製造する東洋麻糸という紡績会社に勤めていた[220]。典子は父光治が同社の彦根工場に赴任し召集令状を受け中国戦線に出征した後、母方の実家のある広島市己斐町 (現・西区己斐) で生まれた[220]。光治は典子が生まれて十ヵ月後の1938年 (昭和13年) 秋、中支の攻略戦で敵の弾丸を受け、胸部貫通銃創で戦死した[220]
典子が慎太郎と母同士が知り合いだった関係で出会い、淡い憧れのような感情を抱いたのは12歳の頃だったという[220]
結婚について慎太郎は阿川佐和子との対談で「まあね、面倒臭いからしちゃったんですよねえ[221]。今でいうラブホテルから二人で出てくるのを親戚に見つかって、おっかないおばあさんにいいつけられちゃった (笑) [221]。それで、呼びつけられて"切れるか結婚するか、どっちだ?”って言われて、しょうがないから"結婚します"って決心しちゃったのよ (笑) [221]」と述べている。
  • 長男・伸晃(政治家)
1957年(昭和32年)4月生 -
1962年 (昭和37年) 1月生 -
  • 三男・宏高(銀行員、政治家)
1964年(昭和39年) 6月生 -
1966年(昭和41年) 生 -
  • 末弟(あるいは従兄弟
1940年(昭和15年) 3月生 -
最初、潔の戸籍に入っていたが、のち他家に養子縁組した[222]。この男性によれば、父親は潔ではなく潔の弟の真砂 (まさご) であるという[222]。なおこの男性の"父"という真砂 (まさご) と"母"という女性の間に正式の婚姻関係はない[222]。この男性が養子縁組した祖母の家と、山下亀三郎の生家は直接の血縁関係はないが、遠い縁戚にあたる[222]
  • 異母兄(小河姓
父・潔が先妻との間にもうけた子。
潔の壽万 (すま) 夫婦に子供がなかったため養子に行った。1952年 (昭和27年)、神戸商大を卒業して山下汽船と同じ資本系列にある第一汽船に入社した[215]
  • 伯母・壽万 (すま、教員)
父・潔の姉、異母兄 (小河姓) の養母
慎太郎によれば「壽万 (すま) さんという伯母さんは苦労して資格をとって学校の先生になった」という[215]
慎太郎の異母兄 (小河姓) によれば「(壽万 (すま) の夫は)一時獣医をやっていましたが、すぐにやめて明石市市役所の公吏になりました[215]。仕事は税務関係です[215]。養母も明石小学校の教員をやっとったから、生活的には困ったことはありません[215]」という。
  • 伯父・石原克己石原静夫
父・潔の兄。
1944年昭和19年)から敗戦までは、本家である克己の石原家は八幡浜から今治疎開していた[223]
  • 叔父・石原真砂 (まさご)
1939年昭和14年)没
父・潔の弟。
  • 叔母・美壽(みす)
父・潔の妹。
1996年(平成8年) 3月、慎太郎の愛人問題が発覚[224]。このスキャンダルをスクープした写真週刊誌は、「愛人は銀座の高級クラブの元ホステスで、二人の間には一九八〇年代はじめに生まれた男の子もいる[224]。母子はいま母の故郷の雪深い町でひっそりと暮している。」と報じた[224]
小泉家との関係
妻典子の従兄弟の子にあたる美枝子が政治家の小泉純一郎 (元首相) の実弟・小泉正也と結婚した[225]

系図[編集]

 
 
 
 
小泉又次郎
 
芳江
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
小泉純一郎
 
小泉孝太郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
小泉進次郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
小泉正也
 
 
 
 
 
 
 
 
 
小泉純也
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
石田重蔵
 
石田吉之輔
 
美枝子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
石田光治
 
典子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
石原伸晃
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
石原良純
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
石原宏高
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
石原延啓
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
石原慎太郎
 
 
 
 
 
 
石原信直
 
石原潔
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
加藤三之助
 
光子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
石原裕次郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
まき子
 

著書[編集]

創作[編集]

  • 太陽の季節 新潮社、(1956年芥川賞受賞・1955年文学界新人賞受賞) のち新潮文庫 ISBN 4-10-111901-5
  • 北壁 三笠書房 1956
  • 狂った果実 新潮社、1956 のち角川文庫
  • 日蝕の夏 三笠書房 1956
  • 理由なき復讐 三笠書房 1956
  • 若い獣 新潮社 1957 のち角川文庫
  • 完全な遊戯 新潮社、1958 のち角川文庫
  • 海の地図 角川書店 1958 のち文庫
  • 亀裂 文藝春秋新社、1958 のち角川文庫、新潮文庫 1960, ISBN 4-10-111902-3
  • 月蝕 角川書店、1959 のち文庫
  • 夜を探がせ 光文社 1959 のち角川文庫
  • 男の掟 角川書店 1959
  • 乾いた花 文藝春秋新社 1959
  • 殺人教室 新潮社 1959 のち角川文庫
  • 青年の樹 1-2 角川書店 1959-1960 のち文庫
  • 挑戦 新潮社 1960 のち文庫
  • 見知らぬ顔 新潮社 1960
  • 青い糧 講談社 1961
  • 汚れた夜 新潮社 1961 のち集英社文庫
  • 死んでいく男の肖像 角川書店 1961
  • 雲に向かって起つ 第1-2 集英社 1962
  • 禁断 角川書店 1962 のち文庫
  • 断崖 新潮社 1962
  • 狼生きろ豚は死ね・幻影の城 新潮社 1963[戯曲]
  • 日本零年 文藝春秋新社 1963 のち角川文庫
  • 密航 新潮社 1963
  • てっぺん野郎 青雲編 集英社 1963
  • 死の博物誌 新潮社 1963
  • 石原慎太郎文庫 全8巻 河出書房新社 1964-1965
  • 行為と死 河出書房新社 1964 のち新潮文庫
  • てっぺん野郎 昇竜編 集英社 1964
  • 銀色の牙 講談社 1964 のち角川文庫
  • 傷のある羽根 文藝春秋新社 1964
  • 終幕 集英社 1964 のち文庫
  • 青春とはなんだ 講談社 1965 のち角川文庫
  • 命の森 読売新聞社 1965 のち角川文庫
  • 星と舵 河出書房新社 1965 のち新潮文庫
  • おゝい、雲! サンケイ新聞出版局 1965 のち角川文庫
  • 砂の花 新潮社 1965
  • 人魚と野郎 集英社 1965 のち角川文庫
  • 大いなる海へ 集英社 1965
  • 還らぬ海 講談社 1966
  • 飛べ、狼 講談社 1966
  • 青い殺人者 集英社 1966 のち文庫
  • 野性の庭 河出書房 1967
  • 黒い環 河出書房新社 1967
  • 野蛮人のネクタイ 読売新聞社 1968 のち集英社文庫
  • 鎖のついた椅子 新潮社 1969
  • 化石の森 (芸術選奨文部大臣賞受賞) 新潮社 1970 のち文庫
  • 野蛮人の大学 集英社 1971 のち文庫
  • 信長記 河出書房新社 1972
  • 石原慎太郎短編全集 新潮社 1973
  • 男の海 集英社 1973
  • 風の神との黙約 北洋社 1975[散文詩集]
  • 大いなる手との黙約 文藝春秋 1976
  • 光より速きわれら 新潮社 1976
  • 刃鋼 文藝春秋 1976 のち角川文庫
  • 暗闇の声 光文社 1977
  • 嫌悪の狙撃者 中央公論社 1978 のち文庫
  • 一点鐘 集英社 1979
  • 亡国 日本の突然の死 角川書店 1982 のち文庫
  • 大いなる海へ 舵社 1983 (海洋文庫)
  • 秘祭 新潮社 1984 のち文庫
  • 生還 (平林たい子賞受賞) 新潮社 1988 ISBN 4-10-301505-5
  • 不思議な不思議な航海 白泉社 1990[絵本]
  • わが人生の時の時 新潮社 1990 のち文庫
  • 十代のエスキース 成瀬書房 1991[画集]
  • 遭難者 新潮社 1992
  • 風についての記憶 集英社 1994 のち幻冬舎文庫 ISBN 4-08-774059-5
  • わが人生の時の会話 集英社 1995 のち幻冬舎文庫 ISBN 4-08-774163-X
  • 弟 (毎日出版文化賞特別賞受賞) 幻冬舎 1996 のち文庫 ISBN 4-87728-119-3
  • 肉体の天使 新潮社 1996
  • 聖餐 幻冬舎 1999 のち文庫 ISBN 4-87728-306-4
  • 僕は結婚しない 文藝春秋 2001 のち文庫 ISBN 4-16-320380-X
  • 『石原愼太郎の文学』全10巻 文藝春秋 2007 (以下が収録作品。括弧の数字は収録巻)
    • 刀鋼 (はがね) (1) ISBN 4-16-641580-8
    • 化石の森 (2)
    • 亀裂 (3)
    • 死の博物誌 (3)
    • 星と蛇 (4)
    • 風についての記憶 (4)
    • 行為と死 (5)
    • 暗殺の壁画 (5)
    • 光より速きわれら (6)
    • 秘祭 (6)
    • 生還 (7)
    • 弟 (7)
    • わが人生の時の時 (8)
    • 短編集I『太陽の季節』『完全な遊戯』 (9)
    • 短編集II『遭難者』 (10)
  • 火の島 文藝春秋、2008
  • 生死刻々 文藝春秋、2009
  • 再生 文藝春秋、2010
  • やや暴力的に、文芸春秋、2014

短編作品[編集]

  • 灰色の教室 一橋文芸 復刊第1号、1954年12月
  • 太陽の季節 文學界 1955年7月号
  • 冷たい顔 文學界 1955年9月号
  • 取り返せぬもの 新女苑 11月号
  • 奪われぬもの 文學界 1956年2月号
  • 処刑の部屋 新潮 1956年3月号
  • 日蝕の夏 別冊文藝春秋 50号、1956年3月
  • 失われた女 新女苑 1956年3月号
  • 北壁 新潮 1956年6月号
  • 空港にて 別冊文藝春秋 52号、1956年6月
  • 悪い夢 小説新潮 1956年6月号
  • 透きとおった時間 文學界 1956年7月号
  • 狂った果実 オール讀物 1956年7月号
  • 婚約指輪 小説公園 1956年7月号
  • 青い舷燈 知性 1956年8月号
  • 傷痕 別冊文藝春秋 54号、1956年10月
  • 恋の戯れ 新潮 1956年11月号
  • 男だけ 別冊文藝春秋 55号、1956年11月
  • 舞扇 小説春秋 1956年12月号
  • ヨットと少年 理由なき復讐 (三笠書房、1956年)に書き下ろし
  • 若い獣 文藝春秋 1957年1月号
  • 旅の果て 文藝 1957年1月号
  • 接吻泥棒 オール讀物 1957年2月号
  • 蟷螂の庭 新潮 1957年4月号
  • 白い翼の男 別冊文藝春秋 58号、1957年6月
  • 谷川 知性 1957年8月号
  • 完全な遊戯 新潮 1957年10月号
  • ギンザ・ファンタジア オール讀物 1957年10月号
  • それだけの世界 別冊文藝春秋 61号、1957年12月
  • 栄光を白き腕に 小説新潮 1958年1月号
  • 水中花 宝石 1958年2月号
  • 乾いた花 新潮 1958年6月号
  • 怒りの果実 オール讀物 1958年6月号
  • 男の掟 別冊文藝春秋 65号、1958年8月
  • 鱶女 文學界 1958年10月号
  • 遊戯の終点 小説新潮 1958年10月号
  • 不死鳥 オール讀物増刊 スポーツ読本 1958年10月号
  • 夜の道 新潮 1959年7月号
  • 太陽の餌 聲 4号、1959年7月
  • ファンキー・ジャンプ 文學界 1959年8月号
  • ともだち 新潮 1959年8月号
  • 顔のない男 オール讀物 1959年8月号
  • 男たち 文學界 1959年10月号
  • 殺人キッド 中央公論 文芸特集臨時増刊号、1959年10月
  • 殺人教室 日本 1959年10月号
  • 見知らぬ顔 小説新潮 1959年10月号
  • 題名のないバラード 小説新潮 1959年4月号
  • 十八歳 小説中央公論 臨時増刊号、1960年7月
  • 黒い声 オール讀物 1960年7月号
  • 誰 小説新潮 1960年8月号
  • 神立ち船 小説新潮 1960年10月号
  • ファンキーな出会い 〈恋のもざいく(1)〉 女性自身 1960年9月28日号
  • 最後の接吻 〈恋のもざいく(2)〉 女性自身 1960年10月5日号
  • 海は許す 〈恋のもざいく(3)〉 女性自身 1960年10月12日号
  • ある別れ 〈恋のもざいく(4)〉 女性自身 1960年10月19日号
  • 声 小説中央公論 第2号、1960年10月
  • 密航 別冊文藝春秋 74号、1960年12月
  • 吹きっさらし 小説中央公論 1961年1月号
  • 紅い祭礼 小説新潮 1961年1月号
  • 死んでいく男の肖像 オール讀物 1961年1月号
  • 失われた道標 別冊文藝春秋 1961年3月
  • 鴨 中央公論 1961年4月号
  • 人間 新潮 1961年5月号(死の博物誌 に収録)
  • 花火 小説新潮 1961年8月号
  • 喪われた街 オール讀物 1961年9月号
  • 十年選手 別冊文藝春秋 1961年9月号
  • 腕 小説新潮 1961年11月号(死の博物誌 に収録)
  • フィッシング・ボートの日記 日本 1961年11月号
  • 明日に船出を 別冊文藝春秋 78号、1961年12月
  • 鼓斬り オール讀物 1962年2月号
  • 朝の微笑 新潮 1962年2月号
  • 小さき闘い 文學界 1962年8月号(死の博物誌 に収録)
  • 青い島白い波 別冊文藝春秋 81号、1962年9月
  • 顔のない女 別冊文藝春秋 82号、1962年12月
  • 閉ざされた部屋 文學界 1963年1月号
  • 傷のある羽根 オール讀物 1963年1月号
  • 白い小さな焔 文藝 1963年2月号
  • 雲の上にいた 別冊文藝春秋 83号、1963年3月
  • 狼の王子 小説新潮 1963年4月号
  • 還らぬ海 文學界 1963年5月号
  • 弔鐘 オール讀物 1963年6月号
  • リキとタクとルリ 別冊文藝春秋 84号、1963年6月
  • 屍体 文藝 1963年8月(死の博物誌 に収録)
  • 裸の踊り子 オール讀物 1963年12月号
  • 悪い娘 別冊文藝春秋 86号、1963年12号
  • 鉛の部屋 小説現代 1964年5月号
  • 歴史の外で オール讀物 1964年7月号
  • 飛べ、狼 別冊文藝春秋 89号、1964年9月
  • 聖書 オール讀物 1964年12月号
  • 暴力 小説現代 1964年12月号
  • 虚無と貞操 別冊文藝春秋 90号、1964年12月
  • 一点鐘 風景 1965年1月号
  • 貧しい海 文藝春秋 1965年1月号
  • 大計画 オール讀物 1965年4月号
  • 錆色の塔 小説新潮 1965年5月号
  • 獅子の倒れた夜 日本 1965年7月号
  • 盲目の天使 別冊文藝春秋 93号、1965年9月
  • 灰波 文藝 1965年10月
  • 天使よ、俺を起こしてくれ オール讀物 1965年11月号
  • 水際の塑像 文藝 1966年1月号
  • 聖衣 小説現代 1966年1月号
  • 沈黙 文藝春秋 1966年3月号
  • 野生の庭 文藝 1966年5月号
  • 神の鎖 小説現代 1966年12月号
  • 失踪者 別冊文藝春秋 98号、1966年12月
  • 天使たちの革命 文藝 1967年1月号
  • 癌対策――革命の童話 オール讀物 19661967年1月号*1
  • 死に神と殺し屋 オール讀物 1967年1月号初出不明*2
  • 待伏せ 季刊藝術 1号、1967年4月
  • L・S・D 文學界 1968年2月号
  • 鎖のついた椅子 文學界 1969年2月号
  • 神異 文藝春秋 1969年2月号
  • 機密報告――ニッポンの危機 一九七×年 小説宝石 1969年2月号
  • 明月鏡 文藝 1971年1月号
  • 条約 文藝春秋 1972年1月号
  • 国家についての個人的会話――歴史の備忘ノート 別冊文藝春秋 118号、1971年12月
  • 桃花 文藝 1973年1月号(* 公人 と改題)
  • 甘い毒 新潮 1973年7月号(光より速きわれら に収録)
  • 救済 文學界 1973年7月号
  • 天体 新潮 1973年8月号(光より速きわれら に収録)
  • 院内 文學界 1974年1月号
  • 孤島 新潮 1974年1月号
  • 饗宴 新潮 1974年12月号(光より速きわれら に収録)
  • 視つめている眼 別冊文藝春秋 132号、1975年6月
  • 舞踏 文藝 1975年8月号(光より速きわれら に収録)
  • パティという娼婦 野性時代 1978年6月号
  • ボストンの夜 文藝 1981年8月号
  • きょうだい すばる 1990年8月号
  • ある行為者の回想 新潮 1992年1月号
  • 遭難者 新潮 1992年5月号
  • 風の使途たち すばる 1992年8月号(風についての記憶 に収録)
  • 風の罠 すばる 1993年1月号(風についての記憶 に収録)
  • 風についての記憶 すばる 1993年10月号(風についての記憶 に収録)
  • 山からの声 新潮 1994年10月号
  • 海からの声 新潮 1994年11月号
  • 肉体の天使 新潮 1996年1月号
  • 沢より還る 新潮 1996年9月号
  • 海にはすべて 新潮 1998年1月号
  • 空からの声 すばる 1999年3月号
  • 青木ヶ原 新潮 2000年1月号
  • 生き残りの水兵 新潮 2001年2月号
  • ブラックリング 新潮 2002年1月号
  • 夢のつづき――続 青木ケ原 文學界 2010年7月号
  • 夢々々 文學界 2011年3月
  • 世の中おかしいよ 文學界 2012年4月号
  • 僕らは仲が良かった 文學界 2013年1月号
  • 連作短篇集「やや暴力的に」文藝界 2013年10月号

その他[編集]

  • 青春にあるものとして 河出書房 1956
  • 価値紊乱者の光栄 凡書房 1958
  • これが恋愛だ 講談社 1960
  • 南米横断一万キロ 講談社 1960
  • 孤独なる戴冠 河出書房新社 1966 のち角川文庫
  • 青春との対話 (人生のことば) 番町書房 1967
  • 巷の神々 サンケイ新聞出版局 1967
  • 怒りの像 サンケイ新聞社出版局 1968 のち角川文庫
  • 祖国のための白書 集英社 1968
  • プレイボーイ哲学 集英社 (プレイボーイ・ブックス) 1968
  • スパルタ教育 強い子どもに育てる本 光文社 1969 (カッパ・ホームス)
  • 慎太郎の政治調書 講談社 1970
  • 慎太郎の第二政治調書 講談社 1971
  • 男の世界 集英社 1971
  • 真実の性教育 学校では教えない人間の性 光文社 1972 (カッパ・ホームス)
  • 酒盃と真剣 対話集 参玄社 1973
  • 新和漢朗詠集 現代に息づく日本人の鼓動 いんなあとりっぷ 1973
  • 対極の河へ 河出書房新社 1974
  • 息子をサラリーマンにしない法 わが子よオレを越えて行け 光文社 1975 (カッパ・ホームス)
  • 真の革新とはなにか 対論集 読売新聞社 1976
  • 伯爵夫人物語 ヨットと海を愛する歓び 集英社 1976
  • 情熱のための航海 大和出版 1976 (わが人生観)
  • 戦士の羽飾り 男の博物誌 角川書店 1979
  • バカでスウェルな男たち 男の美学 プレジデント社 1984
  • 暗殺の壁画 河出書房新社 1984[ノンフィクション]
  • 流砂の世紀に 新潮社 1985
  • 現代史の分水嶺 文藝春秋 1987 のち文庫
  • 拝啓息子たちへ 父から四人の子へ人生の手紙 光文社 1987 (カッパ・ホームス)
  • 時の潮騒 日本と世界をめぐる父と子の14の対話 PHP研究所 1990 のち文庫
  • 光速の時代に PHP研究所 1991
  • 来世紀の余韻 中央公論社 1991
  • 三島由紀夫の日蝕 新潮社 1991 ISBN 4-10-301507-1
  • 禁断の島へ 加納典明、大津善彦写真 集英社 1992
  • かくあれ祖国 誇れる日本国創造のために 光文社 1994
  • 亡国の徒に問う 文藝春秋 1996 のち文庫
  • "父"なくして国立たず 光文社 1997 ISBN 4-334-97150-4
  • 法華経を生きる 幻冬舎 1998 のち文庫 ISBN 4-87728-271-8
  • 国家なる幻影 わが政治への反回想 文藝春秋 1999 のち文庫
  • この日本をどうする 再生のための10の対話 文藝春秋 2001 のち文庫
  • いま魂の教育 光文社 2001 ISBN 4-334-97225-X
  • 生きるという航海 海竜社 2001 のち幻冬舎文庫
  • 東京の窓から日本を 1-3 文春ネスコ 2001-2003
  • わが人生の時の人々 文藝春秋 2002 のち文庫 ISBN 4-16-712809-8
  • 老いてこそ人生 幻冬舎 2002 のち文庫 ISBN 4-344-40382-7
  • 日本よ 扶桑社 2002 のち文庫
  • 惰眠を貪る国へ 東京をテコに国を変える挑戦 扶桑社 2004
  • 息子たちと私-子供あっての親 幻冬舎 2005 のち文庫 ISBN 4-344-01064-7
  • 人の心を動かす「名言」 新装版 ロングセラーズ 2005 ISBN 978-4845404483
  • 日本よ、再び 産経新聞出版 2006
  • 東京の窓から世界を 対談集 PHP研究所 2007 ISBN 4-569-64656-5
  • オンリー・イエスタディ 幻冬舎 2008
  • 私の好きな日本人 幻冬舎 2008 のち新書
  • 新・堕落論-我欲と天罰 2011 新潮新書 ISBN 978-4106104268
  • 私の海 2014 幻冬舎 ISBN 978-4344026001

共著[編集]

  • 新旧の対決か調和か 賀屋興宣 経済往来社 1969
  • 人間の原点 対話 小谷喜美 サンケイ新聞社出版局 1969
  • いかに国を守るか 羽仁進藤原弘達 日新報道 1970
  • エベレスト 日本エベレスト・スキー探検隊の記録 三浦雄一郎共著 文藝春秋 1970
  • 闘論 君は日本をどうするか 野坂昭如 文藝春秋 1975
  • 「NO」と言える日本 (共著: 盛田昭夫) 光文社カッパ・ホームス 1989 ISBN 4-334-05158-8
  • それでも「NO」と言える日本 -日米間の根本問題- (共著: 渡部昇一小川和久) 光文社 1990 ISBN 4-334-05174-X
  • 断固「NO」と言える日本 (共著: 江藤淳) 光文社 1991 ISBN 4-334-05184-7
  • 「No」と言えるアジア 対欧米への方策 マハティール 光文社 1994
  • 宣戦布告「NO」と言える日本経済 アメリカの金融奴隷からの解放 市川周共著 光文社 1998 ISBN 4-334-97190-3
  • 「アメリカ信仰」を捨てよ 二〇〇一年からの日本戦略 一橋総合研究所共著 光文社 2000
  • 勝つ日本 田原総一朗 文藝春秋 2000 のち文庫
  • 永遠なれ、日本 元総理と都知事の語り合い 中曽根康弘 PHP研究所 2001 のち文庫
  • 人生への恋文-往復随筆 瀬戸内寂聴 世界文化社 2003 文春文庫 2008
  • 日本の力 田原総一朗 文藝春秋 2005 のち文庫
  • 生きる自信 健康の秘密 石原結實対談 海竜社 2008
  • 鍛える! 嫌われても憎まれても果たすべき大人の役割 松平康隆対談 小学館 2009 ISBN 978-4093878449

随筆・対談・評論選集[編集]

  • 石原慎太郎の思想と行為 第1巻 政治との格闘 産経新聞出版 (平成24年10月)
  • 石原慎太郎の思想と行為 第2巻 「NO」と言える日本 産経新聞出版 (平成24年10月)
  • 石原慎太郎の思想と行為 第3巻 教育の本質 産経新聞出版 (平成25年1月)
  • 石原慎太郎の思想と行為 第4巻 精神と肉体の哲学 産経新聞出版 (平成25年2月)
  • 石原慎太郎の思想と行為 第5巻 新宗教の黎明 産経新聞出版 (平成25年3月)
  • 石原慎太郎の思想と行為 第6巻 文士の肖像 産経新聞出版 (平成25年4月)
  • 石原慎太郎の思想と行為 第7巻 同時代の群像 産経新聞出版 (平成25年5月)
  • 石原慎太郎の思想と行為 第8巻 孤独なる戴冠 産経新聞出版 (平成25年6月)

作詞曲[編集]

翻訳[編集]

  • ロバート・J.リンガー『型破りで勝つ!』三笠書房 1978

外国語訳[編集]

  • Season of Violence. The Punishment Room. The Yacht and the Boy. John G. Mills, Toshie Takahama & Ken Tremayne. Rutland, Vt. : C. E. Tuttle Co., 1966 (太陽の季節、処刑の部屋、ヨットと少年)
  • Undercurrents: Episodes from a Life on the Edge(わが人生の時の時)Wayne P. Lammers 2006
  • The Japan That Can Say NO 『NOといえる日本』
  • Le Japon sans Complexe 『NOといえる日本』フランス語

関連作品[編集]

映画[編集]

  • 太陽の季節 (1956年、原作・出演)
  • 処刑の部屋 (1956年、原作)
  • 狂った果実 (1956年、脚本・原作・出演)
  • 日蝕の夏 (1956年、脚本・原作・出演)
  • 婚約指輪 (1956年、脚本・原作・出演)
  • 月蝕 (1956年、原作)
  • 危険な英雄 (1957年、出演)
  • 穴 (1957年、唄・出演)
  • 俺は待ってるぜ (1957年、脚本)
  • 錆びたナイフ (1958年、脚本・原作)
  • 霧の中の男 (1958年、脚本・原作)
  • 死の壁の脱出 (1958年、脚本)
  • 若い獣 (1958年、監督・脚本・原作)
  • 完全な遊戯 (1958年、原作)
  • 海は狂っている (1959年、脚本・原作)
  • 海の地図 (1959年、原作)
  • 海底から来た女 (1959年、脚本・原作)
  • 夜を探がせ (1959年、原作)
  • 青年の樹 (1960年、原作)
  • 接吻泥棒 (1960年、原作・出演)
  • トップ屋を殺せ (1960年、脚本)
  • 愛と炎と (1961年、原作)
  • 青い狩人 (1961年、原作)
  • 雲に向かって起つ (1962年、原作)
  • 禁断 (1962年、原作)
  • 二十歳の恋 (1962年、監督・脚本)
  • 素晴らしい悪女 (1963年、原作)
  • 狼の王子 (1963年、原作)
  • 小さな冒険旅行 (1963年、原作)
  • 乾いた花 (1964年、原作)
  • 敗れざるもの (1964年、原作)
  • おゝい雲! (1965年、原作)
  • 青春とはなんだ (1965年、原作)
  • 処刑の島 (1966年、製作・脚本)
  • これが青春だ! (1966年、脚本監修)
  • 男なら振りむくな (1967年、原作)
  • 復讐の歌が聞える (1968年、脚本・原作)
  • 狂戀詩 Summer Heat (1968年、原作)
  • 野蛮人のネクタイ (1969年、原作)
  • スパルタ教育 くたばれ親父 (1970年、原作)
  • 化石の森 (1973年、原作)
  • 青年の樹 (1977年、原作)
  • 秘祭 (1998年、脚本・原作)
  • 俺は、君のためにこそ死ににいく (2007年、製作総指揮・脚本)
  • 宇宙戦艦ヤマト 復活篇 (2009年、原案)
  • 青木ヶ原 (2012年、製作総指揮・企画・原作・脚本・出演)

テレビドラマ[編集]

  • 深夜のメス (1957年、日本テレビ、原作)
  • 幽霊と宝石と恋 (1958年、NHK、原作)
  • 慎太郎ミステリー 暗闇の声 (1959年 - 1960年、ラジオ東京テレビ、企画・監修)
    • 見知らぬ顔 (1959年、原作)
    • 分身 (1960年、脚本)
  • この情報を買ってくれ (1959年、フジテレビ、脚本)
  • 降霊 (1960年、東海テレビ夜の十時劇場」、脚本)
  • 怒りの果実 (1960年、TBSグリーン劇場」、原作)
  • これが恋愛だ (1961年、TBS「日立劇場」、原作)
  • 密航 (1961年、TBS「グリーン劇場」、原作)
  • 殺人キッド (1961年、TBS「日立劇場」、原作)
  • 青年の樹 (1961年、TBS「ナショナルゴールデンアワー」、原作)
  • 死んでゆく男の物語 (1961年、NHK教育テレビ、脚本)
  • 喪われた街 (1962年、NHK「テレビ指定席」、原作)
  • 夜を探せ (1962年、フジテレビ、原作)
  • 闇から来る (1962年、NET、原作)
  • アラスカ物語 (1962年、NHK、脚本)
  • 青い糧 (1963年、NET「銀行8時劇場」、原作)

舞台[編集]

  • 若きハイデルベルヒ(1977年、日生劇場、潤色)

楽曲の作詞等[編集]

  • 「夏の終わり」、作詞:石原慎太郎、歌:ペギー葉山。
  • 「お早う僕の町」、唱:マイク眞木、作詞:石原慎太郎、作曲:湯浅譲二
  • 「リコール ツー マイ メモリー」、唱:石原慎太郎。
  • 「さあ太陽をよんでこい」、作詞:石原慎太郎、作編曲:山本直純。
  • 「焔のカーブ」、唱:ジャニーズ、作詞:石原慎太郎、作曲:三保敬太郎
  • 「DREAM」、唱:石原慎太郎。
  • 「母の声」、唱:二葉百合子、作詞:石原慎太郎、作曲:玉置和郎
  • 「青年の樹」、唱:三浦洸一、作詞:石原慎太郎、作曲:山本直純。

演じた俳優[編集]

逸話[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 園田学園女子大学名誉教授田辺眞人によれば、「私の祖母が、そのあたり一帯のかつての地主につながる家柄だったんですが、その祖母が、石原慎太郎さんが作家デビューして有名になった頃、こんなふうにいっていたのを記憶しています。"あの人は昔、大手に住んでいたんや。大手で慎太郎も裕次郎も生まれたんよ。あのへんは明治くらいまで一本松という大きな立派なの木があって、石原一家はその松の木の南側の家に住んでいたんよ。山陽電鉄東須磨駅と板宿駅の間に、昔は大手という駅があって、そのすぐそばやった。" (父親の潔さんは) そこから電車で会社に行ってはったようですよ。家は山下汽船の社員寮で、一見長屋風だったらしい。あの辺は比較的階層が高い人が住んでいて、いわゆる中産階級より少し上のクラスの人が住むところでした。だから社員寮もかなり立派で、造りは長屋風といっても、それぞれ独立した一軒家だったようです。もうその家はとっくにとりこわされていますし、当時のことを知る人もまずいないでしょうね」という[2]
  2. ^ 「数学の世界で世界的な業績を残した岡潔氏が、ハルトークスの残した数学での難問の多くをわずかな時間で解いてしまったのは、岡氏自身の述懐だと芭蕉の俳句の研究に没頭し、芭蕉が名句をものしたとほぼ同じ季節を選んで『奥の細道』を旅して、芭蕉が眺めたと同じ風物を同じ季節同じ時刻に眺め彼の名句を観賞したことによるそうな」と石原は紹介している
  3. ^ 同点の最高点96点は他に、村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』と、古井由吉の『仮往生伝試文』を福田和也は挙げている。それぞれ216頁と199頁[25]
  4. ^ 店童(てんどう)とは、海運会社独特の制度で、商店でいえば丁稚に相当し、宿舎と食事は確保してくれる代わりに、給料は一切なかった。便所掃除、社員磨き、使い走り。店童(てんどう)は上司から命じられれば何でもやらなければならなかった。時には、入れや、なじみの遊郭女郎菓子を届けることまでやらされた[45]
  5. ^ 母・光子が広島県人であるのは古くから知られていた。1971年に出版された『日本人研究 <第2巻>』 (板坂康弘著、流動) 広島県人の項、259-260頁に「石原慎太郎は父の勤務につれてあちこちで育ったが、血脈は広島である。石原も躁鬱気質の典型的な広島県人」と論じている。
  6. ^ 佐野眞一は、「ちなみに一橋大には商学部経済学部、法学部、社会学部の四学部があり、入学試験は第二志望まで希望することができた。慎太郎は公認会計士を目指していたので、おそらく商学部を志望していたはずである。だが入学試験の成績が第一志望の商学部の水準に達しなかったのか、実際に入ったのは法学部だった」としている[53]。なお新制大学への移行当時は、商学部・経済学部・法学社会学部の3学部であったが、慎太郎が入学する前年の1951年(昭和26年)に学部改組が行われ、法学社会学部が法学部と社会学部に分離した[54]

出典[編集]

  1. ^ 平成24年(2012年)12月21日中央選挙管理会告示第37号(平成二十四年十二月十六日執行の衆議院比例代表選出議員の選挙における衆議院名簿届出政党等に係る得票数、当選人の数並びに当選人の住所及び氏名に関する件)
  2. ^ 佐野眞一著『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』45-46頁
  3. ^ 知事の部屋/知事のプロフィール|東京都によると、最終学歴は「一橋大学法学部卒業」となっている
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参考文献[編集]

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  • 佐野眞一『てっぺん野郎 ―本人も知らなかった石原慎太郎―』 (講談社 2003年) ISBN 4-06-211906-4
    • 増補改題され、『誰も書けなかった石原慎太郎』 講談社文庫、2009年
  • 斎藤貴男『空疎な小皇帝 「石原慎太郎」という問題』 (岩波書店 2003年、ちくま文庫 2006年)
  • 江藤淳『石原慎太郎論』 (作品社 2004年)
  • 鈴木斌『作家・石原慎太郎 価値紊乱者の軌跡』 (菁柿堂 2008年)
  • 前野徹『救世主石原慎太郎』 (扶桑社文庫、2004年)
  • 別冊宝島編集部『石原慎太郎の値打ち』 (宝島社文庫 2003年)
  • 嶋田昭浩『解剖・石原慎太郎』 (講談社文庫 2003年)
  • 浅野史郎ほか8名『石原慎太郎の東京発日本改造計画』 (人物文庫・学陽書房、2002年)
  • 上杉隆『石原慎太郎「5人の参謀」』 (小学館文庫、2000年)
  • 『特集石原慎太郎研究 ポリティーク08号』<労働法律旬報別冊> (旬報社 2004年)
  • 一ノ宮美成+グループK21『黒い都知事 石原慎太郎』 (宝島社) ISBN 978-4796676328
  • 栗原裕一郎豊崎由美『石原慎太郎を読んでみた』(原書房、2013年)

関連項目[編集]


公職
先代:
青島幸男
東京都の旗 東京都知事
公選第14 - 17代:1999年 - 2012年
次代:
猪瀬直樹
先代:
橋本龍太郎
日本の旗 運輸大臣
第59代:1987年 - 1988年
次代:
佐藤信二
先代:
丸茂重貞
日本の旗 環境庁長官
第8代:1976年 - 1977年
次代:
山田久就
党職
先代:
創設
次世代の党最高顧問
初代:2014年
次代:
空席
先代:
新設
日本維新の会共同代表
橋下徹と共同
初代:2013年 - 2014年
次代:
廃止
先代:
橋下徹
日本維新の会代表
第2代:2012年 - 2013年
次代:
共同代表制へ
先代:
結成
太陽の党共同代表
平沼赳夫と共同
初代:2012年
次代:
日本維新の会へ合流
名誉職
先代:
沓掛哲男
最年長衆議院議員
2012年 - 2014年
次代:
亀井静香