立太子の礼

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昭和27年11月10日、明仁親王の立太子礼

立太子の礼(りったいしのれい)は、日本皇室の儀式の一つ。立太子礼とも。

概要[編集]

少なくとも奈良時代には、天皇によって皇太子が指名されていた。平安時代前期の『貞観儀式』にて立皇太子儀として定められ、確立された。10世紀醍醐天皇からは、壷切御剣(つぼきりのぎょけん/みつるぎ)が皇太子の証として伝えられるようになった。かつては天皇が複数の候補者の中から皇太子を決めていたため、立太子の礼を行って皇太子を正式に定めること(立太子)は極めて重要な意義を持っていた。

しかし南北朝時代崇光天皇北朝)から江戸時代後西天皇までの300年余り途絶え、復興されたものの、すでに立太子に先立って儲君治定(後継者指名)が行われるため、立太子の礼の後継者指名としての意味合いは低下していた。さらに明治以降は、皇室典範制定により、同法で定められた皇位継承順位に従って皇太子が決まるため、立太子の礼は完全に儀礼的なものとなった。

明治以降、立太子の礼が行われたのは、以下の4例である。

明治42年(1909年2月11日に、立太子にまつわる詳細を定めた立儲令が施行された[3]が、昭和22年(1947年5月2日付けで廃止された[4]

立太子および立太子の礼については、皇室典範にも規定は無い。そのため、政教分離を定めた日本国憲法下では、そのつど天皇の国事行為(=国の儀式)として行われることが閣議決定され、また国事行為として行われる儀式と宮中三殿への拝礼が分離されるよう配慮している。

近代における立太子の礼[編集]

嘉仁親王の立太子の礼[編集]

裕仁親王の立太子の礼[編集]

大正5年(1916年)11月3日、大正天皇即位礼(前年11月)以来最初となる明治節の日に行われた。

11月1日
勅使発遣の儀(宮殿:鳳凰ノ間)
伊勢神宮へは掌典河鰭公篤[5]、神武天皇陵及び明治天皇陵へは掌典久我通保[6]をそれぞれ派遣。両者は5日帰京。
11月3日
賢所皇霊殿神殿に奉告の儀(宮中三殿)
大正天皇が立太子礼を行うことを神前に奉告(代拝:侍従清水谷実英)。
賢所大前の儀(宮中三殿:賢所)
9時、天皇が賢所内陣の御座に出御、拝礼、告文、外陣の御座に移動。9時25分、皇太子が外陣に参入、内陣に拝礼、天皇に一拝。天皇より壺切御剣を拝受された。同時に立太子の詔書渙発、陸軍礼砲。9時35分、天皇入御、皇太子退出。
賢所皇霊殿神殿に謁するの儀(宮中三殿)
10時20分より、三殿に拝礼。侍従土屋正直が壺切御剣捧持。
参内朝見の儀(宮中正殿)
天皇・皇后に拝謝。

明仁親王の立太子の礼[編集]

「立太子禮記念」24円切手

昭和27年(1952年11月10日継宮明仁親王成年式と同時に行われた[1]。同年4月の主権回復後最初の国事であり、国民的な盛り上がりを見せた。

当日、明仁親王の東宮仮御所から皇居までの移動は、馬車でのパレードが行われ、沿道には多数の市民が詰めかけた。

11月10日
親告の儀
昭和天皇・香淳皇后が立太子の礼を行うことを神前に報告。
なお、これ以前は側近による代拝だった。
成年式 / 加冠の儀(仮宮殿:表北の間)
皇族に加え、吉田茂首相を始め三権の長、都道府県知事(代理含む)、各国大使ら300名が出席。
君が代の演奏とともに、黄櫨染御袍の天皇、十二単略装の皇后が入場。続いて、未成年の正装である闕腋袍に空頂黒を被った明仁親王が入場。加冠役の侍従が、明仁親王の空頂黒を外し燕尾纓の付いた冠を被せた。その後、明仁親王が成年の挨拶をし、吉田首相が寿詞を述べ、10時16分に儀式は終了した。この後、黄丹色の縫腋袍に着替えた明仁親王報道用の写真撮影が行われた。
立太子宣制の儀(仮宮殿:表北の間)
10時45分、加冠の儀と同じ姿で入場を開始。11時5分、宣明役の田島道治宮内庁長官が「宣明」を読み上げ、明仁親王が皇太子であることを宣言。明仁親王は天皇・皇后に拝礼し、吉田首相が寿詞を述べて、儀式は終了した。
壺切御剣伝進の儀(仮宮殿:表拝謁の間→奥一の間)
天皇が壺切御剣を侍従長を通じて、別室に待機する皇太子明仁親王に伝進した。

明仁親王は宮中三殿を拝礼し、成年と立太子を奉告した。

朝見の儀(仮宮殿:表西の間)
洋装で行われた。明仁親王が天皇に感謝を述べ、順に酒を口にする。
勲章親授の儀(仮宮殿:表拝謁の間)
天皇から明仁親王に大勲位菊花大綬章が親授された。

この後、明仁親王は11月18日に伊勢の神宮を、19日に畝傍陵を、20日に多摩御陵をそれぞれ拝礼し、立太子礼の終了を報告した。

立太子後の一般参賀にて、国民の歓呼に応える
一般国民の動き

当時の日本国民にとって、復興と希望の象徴であった明仁親王の立太子は、大きな祝福を持って受け止められ、自治体・民間それぞれで多数の祝賀行事が催された。また、式典の最中、衆議院議長大野伴睦は感激のあまり号泣し、吉田茂も涙で寿詞が途切れがちであったという[7]

翌11日、皇居で一般参賀が行われ、合計5回20万人以上もの国民が皇太子明仁親王を祝福した[8]。特に、第1回目の参賀では、国民から自然発生的に君が代の合唱が巻き起こった[8]

9日に発表された、皇太子の長期外遊(英国エリザベス女王戴冠式など)への期待が高まるとともに、成年を機に、皇太子妃が誰になるか"お妃候補"にも大きな関心が高まっていった。

徳仁親王の立太子の礼[編集]

平成3年(1991年2月23日[2]浩宮徳仁親王の満31歳の誕生日に行われた。なお、徳仁親王は今上天皇践祚時点(昭和64年1月7日)で成年に達しており、すでにマスコミ報道では「皇太子」の呼称が用いられていた。今上天皇の即位の礼(平成2年(1990年)11月)を経て、立太子礼が行われた。

これに先立つ1月8日の閣議決定により、「立太子宣明の儀」「朝見の儀」「宮中饗宴の儀」が天皇の国事行為(=国の儀式)として行われた[9]。また、立太子礼のために9400万円が計上され、一方恩赦は行われなかった。

また、湾岸戦争の最中であり、簡素にとの配慮がなされ、宮中饗宴の儀は大幅に縮小された[10]。クウェート大使は招待されたが、イラク大使は即位礼に続き招待されなかった[10]。特に翌2月24日には地上戦に突入するなど立太子礼当日は極めて緊迫した状況にあり、日本の国会議員20名余りに加え、19か国の大使が欠席する事態となった[10]

2月19日
勅使発遣の儀(宮殿:竹の間)
2月23日
賢所皇霊殿神殿に親告の儀(宮中三殿)
今上天皇が立太子の礼を行うことを神前に報告。
立太子宣明の儀(宮殿:松の間)
皇族に加え、海部俊樹首相を始め三権の長、都道府県知事(代理含む)、各国大使ら245名が出席。
天皇は黄櫨染御袍を、皇后十二単の略装を、徳仁親王は黄丹袍をそれぞれ着用した。
天皇が「宣明」を読み上げ、徳仁親王が皇太子であることを宣言。徳仁親王が決意の言葉を述べ、続いて海部首相が寿詞(よごと)を朗読して儀式は終了した。

宣明の儀に引き続き、鳳凰の間で、天皇から皇太子となった徳仁親王に壷切御剣が親授された。また、正午には鳳凰の間で衆参両院で決議された賀詞が天皇に奏上された。

賢所皇霊殿神殿に謁するの儀(宮中三殿)
徳仁親王が装束姿のまま宮中三殿に拝礼。
朝見の儀(宮殿:松の間)
洋装で行われた。徳仁親王が天皇・皇后に感謝と決意を奏上した後、九年酒を順番に口にし、儀式料理に箸を立てて終了した。
2月24-25日
宮中饗宴の儀(宮殿:豊明殿)

この後、徳仁親王は2月26日に伊勢の神宮を、27日に神武天皇陵を、28日に昭和天皇陵をそれぞれ拝礼し、立太子礼の終了を報告した。

脚注[編集]

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  1. ^ a b 1952年(昭和27年)9月30日宮内庁告示第3号「明仁親王殿下の立太子の礼及び皇太子成年式を行わせられる件」
  2. ^ a b 1991年(平成3年)1月11日内閣告示第1号「立太子の礼を国の儀式として行う件」
  3. ^ 1909年(明治42年)2月11日皇室令第3号「立儲令」
  4. ^ 1947年(昭和22年)5月2日皇室令第12号「皇室令及附属法令廃止ノ件」
  5. ^ 河鰭実英の養父。
  6. ^ 久我通久の子。
  7. ^ 1952年11月11日 読売新聞「その夜の天皇ご一家」
  8. ^ a b 1952年11月11日 読売新聞「この気持を皇太子さまへ 一般参賀に行列はつづく みんなニコニコ・20万!」
  9. ^ 1991年1月8日 読売新聞「皇太子さまの「立太子の礼」 31歳の誕生日2月23日に国の儀式として」
  10. ^ a b c 1991年2月23日 朝日新聞「立太子の礼にも湾岸の影」

関連項目[編集]