織田信秀

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織田信秀
時代 戦国時代
生誕 永正8年(1508年
死没 天文21年[1][2]3月3日1552年4月8日
別名 通称:三郎
渾名:器用の仁[3]、尾張の虎
戒名 萬松寺殿桃巌道見大禅定門
墓所 愛知県の亀岳林萬松寺名古屋市中区
泉龍山桃巌寺(名古屋市千種区
官位 従五位下、弾正忠備後守、三河守、贈従三位
主君 織田達勝信友
氏族 織田氏
父母 父:織田信定
母:含笑院殿(いぬゐ・織田良頼の娘)
兄弟 信秀信康信光信実信次、松平信定夫人(松平信定)室、長栄寺殿(牧長義室)、岩村殿遠山景任室のち秋山虎繁(信友)室?)、秋悦院殿(織田信安室)
正室:織田達勝の娘
継室:土田御前
側室:織田敏信の娘、養徳院殿(池田政秀の娘)ほか
信広信時信長信行信包長益(有楽)、お市の方浅井長政継室のち柴田勝家室)、お犬の方佐治信方室のち細川昭元室) ほか

織田 信秀(おだ のぶひで)は、戦国時代尾張国武将戦国大名織田信長の父。

生涯[編集]

家督相続[編集]

永正8年(1511年)、尾張国南西部海東郡中島郡に跨る勝幡城愛知県愛西市稲沢市)を支配する勝幡城主で、清洲三奉行の一人の織田信定の長男として生まれる。生年には永正7年(1510年)説、永正8年(1511年)説など諸説があって論議されている。

信定は尾張の守護代織田氏の一族で、尾張下四郡を支配する守護代「織田大和守家」(清洲織田氏)に仕える庶流として、主家の重臣の清洲三奉行の一家で弾正忠を称した家を継いでいた。大永年間(1521〜8年)に勝幡城を築き当時、伊勢湾に近い木曽川に臨む港と牛頭天王社(津島神社)の門前町として繁栄していた津島を支配し、同家の勢力拡大のきっかけを作る[4]

信秀は父・信定の生前である大永6年4月(1526年)から7年(1527年)6月の間に家督を譲られて当主となる[5]。家督相続からまもなく、天文元年(1532年)、主家の織田達勝と清州三奉行の一人の小田井城の織田藤左衛門と争ったが、講和した。この和議を固めるのと自らの威勢を示すため、翌、天文2年(1533年)7月京都から蹴鞠の宗家飛鳥井雅綱を招き、山科言継も同道してまず7月8日勝幡城で蹴鞠会を開催し、賓客たち[注釈 1]と数100人の見物衆も含め多くが集まり、7月27日には清州城に舞台を移し、連日蹴鞠会を実施した(『言継卿記』)。[7][8]

勢力拡大[編集]

天文7年(1538年)ごろ、今川氏豊の居城の那古野城名古屋市中区、のちの徳川家の名古屋城の場所となる)を謀略で奪い取り、ここに居城を移して愛知郡(現在の名古屋市域周辺)に勢力を拡大した[9]。天文3年(1534年)には信長が誕生している。

その後も勢力の拡大にともなって天文8年(1539年)に古渡城(名古屋市中区)を築き居城として二つ目の経済的基盤となる熱田を支配した。信長の幼年時か、天文15年(1546年)の元服前に那古野城を譲っている[10]。そして天文17年(1548年)に末森城(名古屋市千種区)を築いてさらに居城を移している。これは、当時の戦国大名は生涯あるいは代々拠点城を動かさないことが多く、特異な戦略である[11]

経済的に伸長し勢力を増し、上洛して朝廷にも献金し、従五位下叙位され、備後守に任官された。さらには室町幕府にも参じて、第13代将軍・足利義輝にも拝謁した。天文9年(1540年)から翌年にかけ、伊勢神宮遷宮のため、材木や銭七百貫文を献上した[9]。これで、天文10年9月、その礼として朝廷より、三河守に任じられたというが、周囲への使用例はない[9]。さらに天文12年(1543年)には、朝廷に内裏修理料として4000貫文を献上し、朝廷重視の姿勢を示す(『多聞院日記』)[12][注釈 2]

対外においては享禄2年松平清康が尾張に侵入し信秀の支配下の東春日井郡の品野城や、愛知郡岩崎城を攻め取り、さらに今川の支援を受けて天文4年(1535年)守山まで侵攻してきたが、そこで守山崩れで不慮の死を遂げた。それで、混乱する松平氏の隙を突いて三河に侵攻し、天文9年(1540年)には安祥城攻略し、支配下に置き長男の織田信広を置いた。松平氏は今川義元の支援を受けたが、天文11年(1542年)の第1次小豆坂の戦いで今川軍と戦って勝利し、西三河の権益を保持したと言われるが、『信長公記』にのみ記載された、しかし二次とは様相の違うはずの、この第一次の戦い自体があったか、今川氏の三河への進出過程から論争の対象となっている[7][13]

天文11年(1542年)、美濃では守護の土岐頼芸と子の頼次斎藤道三によって尾張国へ追放され、信秀は頼芸を支援して、越前国で同様に追放された先々代の守護の子の土岐頼純を庇護下に置いていた朝倉孝景と連携し、美濃に兵を出し斎藤道三と戦い、一時は大垣城を奪った[14]

こうして信秀はその頂点で、主家の大和守家への臣従関係は保ちつつ、地位や権威は主家やその主君である尾張守護斯波氏をも上回り、弟の織田信康織田信光ら一門・家臣を尾張の要所に配置し、尾張国内の他勢力を圧倒する戦国大名の地位を築いていった。しかし信秀は終末まで守護代奉行であり、実質上は尾張を代表する戦国大名として斎藤、松平、今川ら他国大名と戦い続けたものの、形式的主君であった守護代家、守護家は維持したままで、尾張国内の大和守家や他の三奉行や犬山の織田信清など何度も敵対し争ったり、反乱されたりしているのに、最後まで徹底して粛清したり叩こうとせず、それらを抱えたまま国外の敵と戦うという限界があり、旧来の権威や秩序を重んじる古さがあったと指摘され、それらの併呑や排除は信長の代を待つことになる。[7]

勢力の陰りとその死[編集]

萬松寺の墓所

天文13年(1544年)に道三の居城・稲葉山城を攻撃し城下まで攻め込んだが、道三の反撃を受けて大敗する(加納口の戦い)。そして、天文17年(1548年)には犬山城主・織田信清(弟・信康の子)と楽田城主・織田寛貞が謀反を起こすが、これを鎮圧して従属させた。同年、道三が大垣城の奪還のため攻めよせ、救援のため信秀が出陣し後ろ巻きするが、その留守中に、織田達勝の跡を継いだ織田信友が古渡城を攻めたことにより、帰って大和守家とも争うが、翌年には和解している[15]。大垣城はやがて道三側に取り戻される。

ここから、同年、第2次小豆坂の戦いで今川方の太原雪斎に敗北する。続いて発生した第三次安城合戦で安祥城を失い、この戦いで、庶子信広が今川氏に捕縛され、人質としていた松平広忠の嫡男竹千代(後の徳川家康)と交換することになり西三河での勢力を失う[16]

次第に今川・斎藤に押され、そして守護代大和守家とも紛議し苦しむようになった。そのため、前年天文17年斎 藤氏と和睦して、条件として信長と濃姫との婚姻が決まり、天文18年(1549年)娶る[17]。だが、同年頃から病に冒され臥せるようになり、周囲や関係者にも病中と知られ[注釈 3]11月には信長が「執達」し代行して熱田に制札を出している[19]。天文19年(1550年)8月今川軍は5万の大軍で攻めよせ、知多郡水野家が降伏して、その翌年12月には愛知郡鳴海城山口教継が今川方となり周囲に調略して、信秀側の勢力が削がれ困難の続く中、天文21年(1552年)3月3日、末森城で死去した[1][2]。享年44。家督は嫡男の信長が継いだ。葬儀は萬松寺で行われ、僧侶300人を参集させた壮大なものだった[20]

没年には、天文18年(1549年)説[21][注釈 4]や、天文20年(1551年)説[22][注釈 5]や、天文21年(1552年)3月9日説[23][注釈 6]がある[21]

人物[編集]

  • 信長の父として有名だが、信秀自らも智勇に優れた武将であり、守護代二家のうちの大和守家下の庶流という低い地位から尾張各地、そして一時は西三河まで支配し尾張国を代表する勢力となり、信長の飛躍の基盤を作った[24]
  • 何度かの苦戦の困難にも負けず戦い抜き戦国大名化し、天文13年美濃攻めの大敗北直後にも堂々と勅使を迎えた。苦戦や敗戦にめげない精神は、信長の第一次信長包囲網の元亀年間の最大の苦闘やその後の包囲網、苦戦に負けなかった強靭な人格に特に継承されている[25]
  • 父・信定の築いた勝幡城を継承し近辺の、港と門前町の商業都市津島の権益を高め、後に同様の地の熱田を支配し、経済力を蓄えて、当時の経済流通拠点を支配下に組み込み、それによって商業の活性化を図るなどの先見性を持っていた。これは信長に継承されている。[26]
  • 那古野城の奪取にあたっては、信秀はあらかじめ若年の城主の今川氏豊に友好的に接近、連歌狂だった氏豊の歌仲間として親しくなり油断させ、那古野城に何日も泊まるようになる。その後、宿泊時に仮病の重体で人を呼び寄せ、城の内外で戦いを起こし城下に放火し侵攻させていた軍勢を城内に入れ乗っ取るという奇策で攻略したと『名古屋合戦記』[27]に記され、そのまま史実ではなくても、那古野城が突然に信秀のものになったのは事実で、同様のことがあったと見られ、武将としての性格を示して有名である。前記したように同書には年数の合わない享禄5年(1532年)春のこととされている。[28]
  • 大うつけと長老衆や周囲の悪評の高い信長に、那古野城を譲り、その後も一貫して自らの後継者に据え続けており、親子の間には信頼関係があったと思われる[29]
  • 居城を勝幡城、那古野城、古渡城、末盛城と、戦略に合わせ、次々と移転したが、他の戦国大名の武田氏朝倉氏後北条氏や戦国時代の毛利氏上杉謙信などは生涯居城を動かさず、信秀は特異であるがその勢力拡大への効果は大きい。この居城移転戦略も信長へと引き継がれた。[11]
  • 子福者であり、多くの側室に12人の息子と10人以上の娘がいた[30]
  • 籠城せず必ず打って出る戦闘方法、多数の兄弟姉妹・娘息子を活かした縁組戦略などは、信長に全国に規模を広げて拡大継承された。その一方で、農村農民や農地政策の不徹底さも同様となった。[31]
  • 天文12年(1543年)、朝廷に内裏修理料として4000貫文を献上した朝廷重視の姿勢は信長にも受け継がれた[32]
  • 現・京都市東山区の建仁寺の塔頭寺院で1536年の「天文法華の乱」で焼失した禅居庵摩利支天堂を天文16年(1547年)再建したと伝えられている[33]

系譜[編集]

先祖
  • 含笑院殿(いぬゐ・織田良頼の娘)
  • 正室:織田達勝の娘
  • 継室:土田御前
  • 側室
    • 織田敏信の娘
    • 池田政秀の娘(養徳院殿)
    • 岩室殿(岩室孫三郎次盛の娘)
兄弟
  • 松平信定室
  • 長栄寺殿(牧長義室)
  • 岩村殿(遠山景任室のち秋山信友室)
  • 秋悦院殿(織田信安室)
息子

脚注[編集]

注釈[編集]

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  1. ^ 『名古屋戦記』では前年享禄5年(1532年)春に那古野城を乗っ取られたはずの今川氏豊も参加しており、この年数が間違いだと証明している[6]
  2. ^ 同年7月今川義元が献納するが500貫であり、信秀献上の巨額さがわかる[12]
  3. ^ 天文19年または20年11月5日付け織田寛近土岐頼次宛の書状に「備後守病中ゆえ」とある、『村山文書』所収[18]
  4. ^ 江戸時代の「織田系図」や 『寛政重修諸家譜』などの系図類や小瀬甫庵『信長記』によるもので、同年月日以後の天文18年11月28日や天文19年11月1日付けの信秀の判物があるので否定できる[21]
  5. ^ この場合の生年は永正7年(1510年)とする。
  6. ^ この場合の生年は永正8年(1511年)とする。

出典[編集]

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  1. ^ a b 谷口克広 2017, pp. 139-140、146-150.
  2. ^ a b 横山住雄 『織田信長の系譜 織田信秀の生涯を追って』(教育出版文化協会、1993年 )天文19年12月23日付け信長、20年9月20日付け信勝判物文書には無い生前使用しなかった信秀の法名「桃巌」が天文21年10月3日付けの信長の判物に使用されているため、この間に死亡したとする。
  3. ^ 『信長公記』
  4. ^ 谷口克広 2017, pp. 33-40.
  5. ^ 『織田信長の系譜 織田信秀の生涯を追って』横山住雄 1993年 教育出版文化協会
  6. ^ 谷口克広 2017, pp. 49-50、63-64.
  7. ^ a b c 『織田家の人びと』「2 織田信秀」小和田哲男 1991 河出書房新社 pp.21-30
  8. ^ 谷口克広 2017, pp. 43-50.
  9. ^ a b c 谷口克広 2017, pp. 63-66.
  10. ^ 谷口克広 2017, pp. 120-121.
  11. ^ a b 谷口克広 2017, pp. 201-206.
  12. ^ a b 谷口克広 2017, pp. 108-110.
  13. ^ 2009年7月23日 朝日新聞「東海の古戦場をゆく 小豆坂 今川・織田、合戦回数は謎」 2017年4月21日閲覧
  14. ^ 谷口克広 2017, pp. 81-84.
  15. ^ 谷口克広 2017, pp. 86-88.
  16. ^ 谷口克広 2017, pp. 122-127.
  17. ^ 谷口克広 2017, pp. 128-129.
  18. ^ 谷口克広 2017, pp. 137、142-143.
  19. ^ 谷口克広 2017, pp. 135-137.
  20. ^ 谷口克広 2017, pp. 150-151.
  21. ^ a b c 谷口克広 2017, pp. 146-150.
  22. ^ 当時の「萬松寺位牌」に基づいたとする江戸時代の文書、石川桃蹊『箕水漫録』
  23. ^ 尾張徳川家の菩提寺の『定光寺年代記』
  24. ^ 谷口克広 2017, pp. 238-240.
  25. ^ 谷口克広 2017, pp. 13-17、237-238.
  26. ^ 谷口克広 2017, pp. 227-231.
  27. ^ 『続群書類従 第二十一輯上 合戦部』所収
  28. ^ 谷口克広 2017, pp. 49-50、62-67.
  29. ^ 谷口克広 2017, pp. 158-162.
  30. ^ 谷口克広 2017, pp. 153-154.
  31. ^ 谷口克広 2017, pp. 206-209、211-214、231-232.
  32. ^ 谷口克広 2017, pp. 226.
  33. ^ 禅居庵HP

参考文献[編集]

  • 小和田哲男「2 織田信秀」『織田家の人びと』(河出書房新社、 1991)
  • 谷口克広 『天下人の父親・織田信秀 信長は何を学び、受け継いだのか』 祥伝社〈祥伝社新書〉、2017年。ISBN 978-4396115012。

関連項目[編集]