耿ヒョウ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

移動先: 案内検索
本来の表記は「耿飈」です。この記事に付けられた題名は、技術的な制限により、記事名の制約から不正確なものとなっています。
耿飈
Geng-Biao.jpg
耿飈
プロフィール
出生: 1909年8月26日
死去: 2000年6月23日
職業: 軍人・政治家・外交官
各種表記
繁体字 耿飈
簡体字 耿飙
拼音 Gěng Biao
和名表記: こう ひょう
発音転記: ゴン ビャオ
テンプレートを表示
耿 飈

耿 飈(こう ひょう、1909年8月26日 - 2000年6月23日)は、中華人民共和国の軍人、政治家、外交官。各国大使、副総理、全人代副委員長を歴任。湖南省醴陵の出身。

経歴[編集]

耿は1922年から衡陽市の亜鉛鉱山で少年工として働いた。1925年、共産党青年団に参加。1928年8月、中国共産党に入党した。

1930年9月、中国工農紅軍の紅一軍団紅三軍九師参謀に任命。1933年の紅軍再編後、紅一軍団二師四団団長に任命。1934年10月10日、耿の部隊は二師の前衛として長征に参加。

1935年初め、耿は部隊を率いて貴州の軍事要地・婁山関を攻撃占領し、この功により遵義会議の後、紅一軍団一師参謀長に昇進。陝北に到着後、第一次作戦において重傷を負った。1936年耿は抗日軍政大学を卒業後に復帰し、紅四方面軍紅四軍参謀長に任命。

抗日戦争の開始後、耿は八路軍129師385旅参謀長、副旅長兼政治委員に任ぜられ、甘粛東部に駐屯し、陝甘寧辺区の西部境界線の防衛責任を担った。1941年より中国共産党中央党校で学び、卒業後は晋察冀辺区へ向けての進軍を指揮。1945年、部隊を率いて張家口を攻撃占領した。

1946年、耿は葉剣英に従い、共産党代表団副参謀長として北平軍事仲裁委員会に参加。仲裁の失敗後、耿は晋察冀に戻り、軍区野戦軍参謀長に任命。1948年、華北軍区第二兵団副司令に任命され、部隊を率いて平津戦役に参加し、太原などを攻撃占領した。

中華人民共和国の建国後の1950年1月、外交部に転出。国連代表団に参加。1950年より、スウェーデン大使、パキスタン大使を務めた後、1960年に外交部副部長に任命。その後、1963年にミャンマー大使に転任し、69年にアルバニア大使。

1971年、中国共産党中央対外連絡部部長。1978年3月から国務院副総理(〜1982年)を務め、1982年に国務委員に昇格(〜1983年)。

また、1979年1月から党中央軍事委員会常務委員兼秘書長、1981年3月から国防部部長(〜1982年)を兼任。

1983年6月18日、第6期全人代第1回会議において全国人民代表大会常務委員会副委員長に選出され[1]、外事委員会主任委員を兼任し[2]、1988年まで務めた。

中国共産党第9〜11期、中央委員。第11期、中央政治局委員。第12、13次全国代表大会で党中央顧問委員会常務委員に選出。

1988年、一級紅星勲章を受章。

脚注[編集]

  1. ^ 中華人民共和国全国人民代表大会公告(六届一次第2号) (中国語)
  2. ^ 第六届全国人民代表大会外事委員会主任委員、副主任委員、委員名単(10人) (中国語)

参考[編集]

中華人民共和国の旗中華人民共和国
先代:
徐向前
国防部長
1981年 - 1982年
次代:
張愛萍