自衛隊ペルシャ湾派遣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

移動先: 案内検索

自衛隊ペルシャ湾派遣(じえいたいペルシャわんはけん)は、湾岸戦争後の1991年(平成3年)にペルシャ湾海上自衛隊掃海部隊(ペルシャ湾掃海派遣部隊)が派遣されたことをいう。自衛隊にとって初の海外実任務である。

練習艦隊等による遠洋航海以外の海外実任務で、日本海軍・海上自衛隊の艦隊がインド洋を渡るのは、第一次世界大戦地中海派遣、第二次世界大戦のインド洋作戦以来の出来事である。また、他国領海付近における掃海作業は、朝鮮戦争での海上保安庁特別掃海隊による活動(1950年(昭和25年))以来のことである。

経緯[編集]

1991年1月29日、自衛隊法第100条の5(国賓等の輸送)を根拠として、航空自衛隊輸送機による難民輸送が政令で認められた。

3月2日の国際連合安全保障理事会決議686を、翌3日イラクは受諾し、また4月3日の安保理決議687を、同6日イラクはこれを受諾し、4月11日に停戦が発効した。

停戦発効後、防衛庁長官海上幕僚長に対し「ペルシャ湾における機雷等の除去の準備に関する長官指示」を発出した。4月24日、長官は海上自衛隊に対し、「我が国船舶の航行の安全を確保するため、ペルシャ湾における機雷の除去及びその処理を行う。」ことを目的とする「ペルシャ湾における機雷の除去及びその処理の実施に関する海上自衛隊一般命令」(平成3年4月24日海甲般命第18号)を発令した。この命令は自衛隊法第99条(機雷等の除去、2015年現在では第84条の2)を根拠として行われた。法的には、公海上の作業ということで、海上自衛隊の通常業務という解釈がされた形である。自衛艦隊司令官に直属する「ペルシャ湾掃海派遣部隊」が編成され、4月26日に出発した。

掃海派遣部隊は、ペルシャ湾へ進出する途上で、スービックフィリピン)、シンガポール、ペナン(マレーシア)、コロンボスリランカ)、カラチ(パキスタン)ドバイ(アラブ首長国連邦)に寄港した。その際には、ペルシャ湾への早期到着を最優先して、各寄港地では補給・整備のみに限り、現地在外公館や所在海軍部隊指揮官への表敬訪問をする程度にとどまった(これらの行事は港に寄港する外国艦隊の最低限の礼儀である)。5月27日にドバイのアル・ラシット港に約7,000海里の航海を経て入港した。

そして、6月5日から9月11日までの99日間にわたり、米国及び他の多国籍軍派遣部隊と協力して掃海作業を実施した。

このペルシャ湾派遣に際し隊員家族との連絡手段のため補給艦ときわ」内に「海上自衛隊ときわ船内郵便局」が設置された。海上自衛隊の艦艇内に船内郵便局が設置されたのは、自衛隊創設後初のことであった。そのため、艦内郵便局の消印欲しさに激励手紙が送られる事態となり[1]、寄港時を見計らって未使用切手に押印に押してもらおうとする業者もあった。

掃海派遣部隊編成[編集]

補給艦「ときわ」(左の艦)
  • 指揮官 - 落合畯1等海佐第1掃海隊群司令
  • 司令部 - 幹部25(落合指揮官含む)、准尉2、23、合計50名。
  • 掃海母艦「はやせ」(旗艦) - 艦長は横山純雄2等海佐。幹部12、准尉1、曹士133、合計146名。
  • 第14掃海隊 - 隊司令は森田良行2等海佐
    • 掃海艇(はつしま型)「ひこしま」(61MSC) - 艇長は新野浩行1等海尉。幹部8、准尉1、曹士38、合計47名(第14掃海隊司令部含む)。
    • 掃海艇「ゆりしま」(61MSC) - 艇長は梶岡義則1等海尉。幹部5、曹士38、合計43名。
  • 第20掃海隊 - 隊司令は木津宗一3等海佐
    • 掃海艇「あわしま」(62MSC) - 艇長は桂真彦1等海尉。幹部8、准尉1、曹士38、合計47名(第20掃海隊司令部含む)。
    • 掃海艇「さくしま」(62MSC) - 艇長は田村博義3等海佐。幹部5、曹士38、合計43名。
  • 補給艦「ときわ」 - 艦長は両角良彦2等海佐。幹部13、准尉2、曹士120、合計135名。

以上、幹部76、准尉7、曹士428、総員511名で編成されていた。また、これには医官歯科医官、薬剤官の3名が含まれ、隊員の健康管理に当たった。

殉職者が発生した場合に備え、はやせには棺桶を作るための木材が積まれていた[2]。また、当時の海上自衛隊には認識票を常時身につける習慣がなかったが、万が一に備えて認識票を配布したところ乗組員らの表情が曇ったため、落合は苦し紛れに「ただの迷子札」と説明したという[2]

なお自衛官二人がこの任務に就くことを拒否したとして自衛隊法違反の疑いで逮捕されている。

掃海作業[編集]

ペルシャ湾の機雷敷設海域には、1991年2月28日の戦闘停止直後から、ベルギーサウジアラビアの4か国海軍の派遣部隊が掃海作業に従事していた。また、日本部隊が到着するまでには、の4か国も掃海部隊を派遣していた。日本部隊と各国派遣部隊との関係は、指揮命令ではなく、協同の関係とされた。 7月20日までにMDA-7海域で日本部隊は17個の機雷を処分する。その後、英・仏・独・伊・蘭・ベルギーの各部隊は、掃海終了宣言を発出して掃海作業を打ち切り帰国した。日・米・サウジアラビアの掃海部隊はその後もMDA-10及びクウェイト沖の航路等において、掃海作業を継続した。掃海派遣部隊は、この間、MDA-10において新たに計17個の機雷処分を行う。また、サウジアラビア政府の要請に基づき、独自でカフジ沖の油井に至る航路の安全確認を実施する。 爆破された計34個の機雷の処分方法としては、リモコン式処分具を使い、安全な遠隔操作により爆破されたものが5個、水中処分隊員が機雷に近づき、手作業で爆破準備したものが29個であった。

掃海海域には、イランイラククウェート領海が含まれていたため、日本は自国の外交ルートを経由して交渉し、イランとの間では、7月20日にイラン軍の代表者を立ち会わせること等を条件として日本の掃海派遣部隊の領海立入りや掃海作業の実施について同意が成立した。イラクからは7月25日に、クウェートからは8月12日に、領海内での掃海作業を認める正式な回答がなされた。

また、イラン及びクウェートの要請により、イランのバンダレ・アッバース港(8月22日から同月24日)及びクウェートのアル・シュワイク港(9月4日から同月6日)に寄港し、友好親善を図った。

部隊派遣後[編集]

湾岸戦争に際して日本は、130億ドルにも上る資金協力を行った。それにもかかわらず、クウェートが湾岸戦争終結直後に、ワシントン・ポスト紙の全面を使って謝意を表した広告には、クウェート解放に貢献した全ての国の国旗が掲載されていたが、金銭的貢献しか行わなかった日本は除かれていた。しかし掃海部隊が派遣されたあとでは、クウェートでは、日本の国旗が新たに他国に加わって印刷された記念切手が発行されるなど、危険を伴った人的貢献への評価が一変した。

江田憲司は、90億ドルの支援金のほとんどは米国に渡り、クウェートに渡ったのは6億円にすぎなかったとしている[3]

部隊や隊員に対しては、次の通りの表彰が行われた。

  • 部隊に対して - 特別賞状(職務の遂行に当たり、特段の推奨に値する功績があった部隊)。自衛隊創隊以来初となる。
  • 掃海派遣部隊指揮官 - 第1級賞詞
  • 各級指揮官 - 第2級賞詞
  • その他の派遣隊員総員 - 第3級から第5級までの賞詞
  • 派遣部隊隊員総員 - 国際貢献記念章の防衛記念章

また、この掃海作業により海自の掃海・掃討能力は技量についてはともかく、装備については諸外国に(特に掃討分野で)大きく劣ることが明らかになった。その為、諸外国の掃海・掃討装備を導入したすがしま型掃海艇が建造されることになった。

参考文献[編集]

  • 神崎宏・朝雲新聞社編集局 編『「湾岸の夜明け」作戦全記録 海上自衛隊ペルシャ湾掃海派遣部隊の188日』(朝雲新聞社、1991年) ISBN 4-7509-8013-7
  • 碇義朗『ペルシャ湾の軍艦旗 海上自衛隊掃海部隊の記録』(光人社、2005年) ISBN 4-7698-1261-2
  • 日野景一「注目のペルシャ湾派遣掃海部隊 その編成とミッション
海人社『世界の艦船』1991年7月号 No.438 p168~p171
  • 「ペルシャ湾派遣掃海部隊行動日誌」
海人社『世界の艦船』1992年1月号 No.445 p218~p219

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 「モテモテ!?掃海艇 「船内郵便局の消印欲しい」」 1991年5月7日付『毎日新聞』朝刊
  2. ^ a b 河北新報 2015年5月27日号 27面 『ペルシャ湾掃海・元海自指揮官「法整備必要、でも……」』
  3. ^ SYNODOS 2015.07.18