花魁淵

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花魁淵(おいらんぶち)は、山梨県甲州市塩山一之瀬高橋(旧塩山市)にある史跡おいらん淵オイラン淵とも書かれ、淵をと書くこともある。地図花魁淵漢字で表記されていることはあまりない。

国道411号線青梅街道)旧道(現在は通行止)沿いの、甲州市と北都留郡丹波山村の境にあり、地元では銚子滝と呼ばれている。花魁淵の名は、戦国時代に起きたと伝えられる悲劇に由来する。別名「五十五人淵」とも言う。

アクセス[編集]

花魁淵は山梨県甲州市の国道411号線沿いにあったが、花魁淵付近は地形が険しく、崖崩れによる通行止めもたびたび発生していたため、2011年11月21日に付近の国道は複数のトンネルを含むバイパス道路に変更され、花魁淵前の道路は現在旧道となっている。また、旧道はバイパスの開通と同時に厳重に閉鎖され立入禁止となっており(従って現在は花魁淵に近づくことができない)、山梨県による廃道化工事が行われる予定である。

概要[編集]

  • 以下は花魁淵まで通行可能であった頃の記述である。

下り線側(塩山方面)の谷側に車両数台分の駐車スペースがあり、旧塩山市および塩山市観光協会の案内板、および新興宗教団体が建立した慰霊碑が建てられている。また谷に向かって張り出したコンクリート製の展望台と手すりがあり、その下には滝が流れている。周辺は、渓流釣りや山菜採り、トレッキングドライブツーリング等で訪れる人も多く、晴れた昼間には長閑な山岳路の雰囲気を満喫することができ、特に新緑の頃と紅葉の時期には絶好のドライブスポットとなる。

丹波川(たばがわ)を挟んで向かいの鶏冠山(黒川鶏冠山)の山中には、黒川千軒と呼ばれる金山黒川金山)の遺構が現在も存在している。黒川金山は、古くは武田家の隠し金山と言われ、武田信玄の時が最盛期でこの時の武田軍の軍資金の多くがここから産出したとされている。また一度閉山された後、江戸時代大久保長安により採掘が行われ、現存する黒川千軒の遺構はこの時代のものとされる。

この地域は、地質的な性質から黒川金山以外にも多数の金山が存在し、これらの金山が閉山した後も、現在でも川沿いでは稀に砂金などが採取されることもあるという。

由来と背景[編集]

花魁淵という名称の由来に関する故事の概要が、塩山市観光協会により現地に建てられた看板に書かれている。

武田勝頼の死による甲州征伐の折、武田氏の隠し金山と言われたこの黒川金山も閉山となった。この時、金山の秘密が漏れることを危惧した金山奉行 依田の主導で、鉱山労働者の相手をするため遊廓にいた55人の遊女と金山に従事した配下の武士を皆殺しにすることを決め、酒宴の興にと称して柳沢川の上に藤蔓で吊った宴台の上で彼女らを舞わせ、舞っている間に蔓を切って宴台もろとも淵に沈めて殺害した(殺された遊女が55人であったので「五十五人淵」とも言う)。実際に事件があったのは、この場所よりも更に上流のゴリョウ滝の辺りであったとされ、事件を説明する看板と小さな供養碑が建てられている。また下流の丹波山村には、この際の遊女たちの遺体を引き上げてお堂を建てて供養したとされる言い伝えが残る。このお堂は長らく失われていたが、1988年昭和63年)に再建されている(西東京バス丹波バス停下車、徒歩15分)。

一方、この花魁淵という名は、後に付けられたものとされる。その根拠としては、戦国時代には遊女を指す「花魁」という単語は無かった(花魁は江戸時代になって成立した)こと、また明治の世にこの地を訪れた役人が、紅葉する奥多摩の渓谷美を「まるで着飾った花魁のように美しい」と形容したことなどが語り継がれている、といった点などが挙げられる。また、黒川金山の発掘調査でも遊廓の存在は確認されていない。

現実には、秘密を守るための口封じであれば、確実に相手の息の根を止めることが重要で、毒殺・斬殺等の容易で効果的な方法がいくらでもあり、わざわざ大掛かりな舞台をしつらえてしかも川に落とすという、遊女の死亡をはっきり確認できないやり方が用いられとは考えにくいため、この伝説の信憑性には疑問がある。ただし、実際に秘密保持のための大量殺人があり、それが長い間に脚色されて上記のような伝説に変化した、という可能性も考えられる。

関連項目[編集]

座標: 北緯35度48分25.9秒 東経138度51分20.6秒 / 北緯35.807194度 東経138.855722度 / 35.807194; 138.855722