若井ぼん・はやと

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若井ぼん・はやと(わかいぼん・はやと)は、昭和期に活躍した漫才コンビ(若井はんじ・けんじ門下)。元松竹芸能所属。 若手の頃、横山やすし・西川きよしのライバル的存在であった。

来歴[編集]

共に大阪市南区の出身で、高校の同級生だった。ぼんの実家は貧乏で子供のころから目立ちたがり屋。中学2年のときに朝日放送中田ダイマル・ラケット司会の「お笑い街頭録音」に出演したりしていた。のちに中学の同級生とABCラジオの「漫才教室」に出演、その後も生活費のために素人参加型の演芸番組に出演[1]。また、はやとも実家は貧乏であった(ぼんによると戦争もとっくに終わっていたのに防空壕のようなところに家族で住んでいた、また家財道具も一切なく空の缶詰が鍋茶碗がわりだったという)。ぼんが高校ではやとと出会い意気投合し、はやとは高校2年のときに学費が払えなくなり、2人で高校中退し、漫才作家の足立克己の紹介で松竹芸能入りし、1962年若井はんじ・けんじに門下になり新世界新花月にてデビュー。当初用意されていたコンビ名は「若井ぼーと・はやと」であったが新聞に間違えて「ぼん・はやと」と書かれてそのままコンビ名になった。「ぼんくらやからぼん」やとか、「ぼんぼんやからぼんや」など後付けしていた。また「茶チルプリン」という候補もあった。

主に角座の舞台などで活躍し、「しっつれいしました」などのギャグや、ぼんの出っ歯を売りにしたハーモニカの芸で、中堅漫才師としてキャリアを積んでいく。「お笑いネットワーク」などにも出演し人気を博くすも、角座閉鎖(1984年)により活躍の場が失われ、翌年1985年に解散。

メンバー[編集]

  • 若井ぼん(わかいぼん、本名:阿部龍弥1944年9月27日 - )。
解散後、東京で苦労して売れたレオナルド熊に触発され石井光三オフィス所属となるも、東京でのぼんの知名度もなく仕事がない状態が続き気分転換でジャマイカに旅行。そこで何気なく河内音頭を披露したところ好評でレゲエ及びジャマイカの文化に興味を持つようになる。1989年にミュージカルタレントのみっさんを入れて「若井ぼん・みっさん」(別称「ミュージカルコンビ・ぼん&ミッサン」。この頃は客室乗務員の妻を入れて3人でダンスありの踊りありの演奏ありのライブイベントを定期的に行なっていた。なお「ミュージカルコント」とは舞台で野球拳をし負けたら最後ぼんが(必ずぼんが負けるようになっていた)女性用の下着姿になるというオチのネタをやっていた。1999年に解散しその後「若井ぼん・ねっと」として漫才を続けていたが、現在はピン芸人・レゲエ漫談家として活動。
レゲエ歌手「ジェームス・ボン(James Bong)」としても活動。
特定非営利活動法人「笑集会」を主宰(2013年1月に解散)。アクティブシニア推進計画アドバイザリボードメンバー就任。
2001年参院選に、自由連合から比例区候補として出馬するも落選。
2009年6月15日に行なわれる関西演芸協会主催の「法善寺寄席」にいま寛大とのコンビを結成し出演した。
若井が主催していたNPO法人・笑集会は、お笑いを通じての健康づくりの場所を提供するとの目的を掲げ、2009年12月奈良県桜井市から3,300万円の交付金を受け、同市内の空き店舗を活用した施設を運営していたが、利用率が振るわなかったため2012年7月に施設は閉鎖された(翌2013年に同市が運営を引き継ぐ形で再開)。これを受け同市は、若井と笑集会元理事について、交付金300万円を騙し取られたと主張し、奈良県警詐欺容疑で2014年5月16日付で告訴した[2]
現在は、大阪市住吉区カラオケ店を経営している。
はやとは再オープンした浪花座で漫談を続け、漫談家、ラジオパーソナリティー、タレント、俳優、CM出演などの活躍していたが、2008年12月8日心不全のため死去。息子は「親指ぎゅー太郎」の名で、芸人として活動中。

受賞[編集]

弟子[編集]

以下はやとの弟子

過去の出演番組[編集]

テレビ[編集]

ラジオ[編集]

CM[編集]

[編集]

  1. ^ 当時出演、優勝すると景品や商品、賞金などが貰えた。
  2. ^ 若井ぼんさんらを詐欺容疑で警察に告訴した市 読売新聞 2014年5月19日