赤穂事件

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赤穂事件(あこうじけん)は、18世紀初頭(江戸時代)の元禄年間に、江戸城松之大廊下高家吉良上野介(きらこうずけのすけ)義央[1]に斬りつけたとして、播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)長矩が切腹に処せられた事件。さらにその後、亡き主君の浅野長矩に代わり、家臣の大石内蔵助良雄以下47人が本所の吉良邸に討ち入り、吉良義央、 小林央通鳥居正次清水義久らを討った事件を指すものである。

この事件は、一般に「忠臣蔵」と呼ばれるが、「忠臣蔵」という名称は、この事件を基にした人形浄瑠璃歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』の通称、および、この事件を基にした様々な作品群の総称である。これら脚色された創作作品と区別するため、史実として事件を述べる場合は「赤穂事件」と呼ぶ。

なお、浅野吉良に斬りかかった理由は、史実としては不明である。赤穂事件を扱ったドラマ・映画等では、浅野が、吉良から要求された賄賂を拒否した事で起きた吉良による嫌がらせを原因として描かれ、また主君の浅野に代わり、家臣が、吉良を討った「仇討ち」事件として描かれることが多い。しかし、事件当時、「仇討ち」は、子が親の仇を討つなど、目上の親族のための復讐を指した。本事件を、「仇討ち」とみなすか「復讐」とみなすか、その意義については論争がある[2]

目次

名称に関して[編集]

本事件を元禄赤穂事件(げんろくあこうじけん)と呼ぶ本もあるが[3]、専門家の書いた本では全て「赤穂事件」で統一されている[4]ので、本稿では「赤穂事件」と表記する。

また赤穂事件を扱った創作物では、前述のように本事件を忠臣蔵と呼ぶ事が多いが、講談では本事件を赤穂義士伝(あるいは単に義士伝)と呼ぶ。

吉良を討ち取った47人(四十七士)の行為を賞賛する立場からは、四十七士のことを赤穂義士(あるいは単に義士)と呼ぶ。それ以外の立場に立つ場合は、四十七士を含めた赤穂藩の浪人を赤穂浪士と呼ぶことが多いが、この名称は事件のあった元禄時代には一般的な言葉ではなく、作家の大佛次郎がそれまでの義士としての四十七士像を浪人としての四十七士に大転換する意図を持って書いた小説『赤穂浪士』で一般的になったものである[5]。(ただし先行作にも使用例あり[6])。

このため「赤穂浪士」という言い方を避け、赤穂浪人という言い方がなされる場合もある[7]

概要[編集]

事件の概要[編集]

この事件は元禄14年3月14日 (旧暦)1701年4月21日)、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が、江戸城松之大廊下で、吉良上野介吉央(きらこうずけのすけよしひさ、「よしなか」とも[8])に斬りかかった事に端を発する。斬りかかった理由は、何らかの「遺恨」が原因との事だが詳細は不明である(詳細は#刃傷の理由参照)。

事件当時、江戸城では、幕府が朝廷の使者を接待している真っ最中だったので、場所がらもわきまえずに刃傷に及んだ浅野に対し、第五代将軍徳川綱吉は激怒。

幕府は浅野内匠頭に即日切腹を言いつけ、浅野が藩主を務める播州赤穂浅野家は改易、赤穂城も幕府に明け渡すよう命じた。

それに対し吉良には咎めはなかった。当時の「喧嘩両成敗」の原則に従えば、吉良にも何らか刑が下されるはずだが、吉良が斬りつけられた際に抜刀しなかったため[9]この事件は「喧嘩」として扱われず[9]、吉良には咎めがなかったのである。

しかし浅野のみ刑に処せられた事に浅野家家臣達は反発。筆頭家老である大石内蔵助(おおいしくらのすけ)を中心に対応を協議した。反発の意思を見せるため、籠城や切腹も検討されたが、まずは幕府の申しつけに従い、素直に赤穂城を明け渡す事にした。この段階では浅野内匠頭の弟である浅野大学を中心とした浅野家再興の道も残されており、籠城は得策でないと判断されたのである[10]

一方、同じ赤穂藩でも江戸に詰めている家臣には強硬派(江戸急進派)がおり[11]、主君の敵である吉良を討ち取る事に強くこだわっていた。彼らは吉良邸に討ち入ろうと試みたものの[11]、吉良邸の警戒が厳しく、彼らだけでは吉良を打ち取るのは難しかった[11] 。そこで彼らは赤穂へ行き大石内蔵助に籠城を説いたが、大石はこれに賛同せず、赤穂城は予定通り幕府に明け渡された。

吉良を打ち取ろうとする江戸急進派の動きが幕府に知られるとお家再興に支障が出てしまうので、主家再興を目標とする大石内蔵助は、江戸急進派の暴発を抑える為に彼らと二度の会議を開いている(江戸会議山科会議)。

しかし浅野内匠頭の弟である浅野大学の閉門が決まり、播州浅野家再興の道が事実上閉ざされると、大石内蔵助や江戸急進派をはじめとした旧浅野家家臣(以降赤穂浪士と記述)達は京都の円山で会議(円山会議)を開き、大石内蔵助は吉良邸に討ち入る事を正式に表明した[12]。そして仇討ちの意思を同志に確認するため、事前に作成していた血判を同志達に返してまわり、血判の受け取りを拒否して仇討ちの意思を口にしたものだけを仇討ちのメンバーとして認めた[13](神文返し)。

その後、大石は宣言通り江戸に下り(大石東下り)、吉良を討ち取る為に深川で会議を開いた(深川会議)。

そして元禄15年12月14日 (旧暦)1703年1702年ではない)1月30日)、吉良邸に侵入し、吉良上野介を討ちとった(吉良邸討ち入り)。この時討ち入りに参加した人数は大石以下47人(四十七士)である。

四十七士は吉良邸から引き揚げて、吉良の首を浅野内匠頭の墓前に供えた。引き上げの最中には、四十七士のうち一人(寺坂吉右衛門)がどこかに消えているが、その理由は古来から謎とされている。

寺坂を除いた四十六人は、吉良邸討ち入りを幕府に報告し、幕府の指示に従って全員切腹した。

「義士」論争[編集]

赤穂事件が起こるとその是非をめぐって儒学者たちの間で論争が巻き起こった。主な論点は赤穂浪士の行動が「義」にあたるのかという事で、これは浪士達の吉良邸討ち入りが主君の為の「仇討ち」とみなせるかどうかにかかっている[14]。この事件当時「仇討ち」というのは子が親の仇を討つなど目上の親族の為に復讐する事を指し[15]、主君の仇を討ったのは本事件が初めてである為[15]、これが問題になったのである。

この問題は武士の生き方や幕藩制度の構造に深くかかわるものであった事もあり[16]、論争は幕末まで続いた[17]

赤穂事件の経過[編集]

松之大廊下の刃傷まで[編集]

事件の発端となる、松之大廊下の刃傷を説明するために、まずそれまでの経緯を説明する。

江戸幕府は毎年正月、朝廷に年賀のあいさつをしており、朝廷もその返礼として使者を幕府に遣わせていた[18]。こうした朝廷とのやり取りを担当していたのが高家であった。

吉良上野介は事件のあった元禄14年に高家筆頭の立場にあったため、朝廷へのあいさつと朝廷からの使者の接待とを受け持っていた[18]

一方の浅野内匠頭は同年、吉良の補佐役に任命されていた。朝廷からの使者には天皇の使者である勅使と上皇の使者である院使がいるのだが、事件のあった元禄14年における勅使の接待役(勅使饗応役)が浅野内匠頭だったのである[18]

朝廷からの使者達は3月11日[18]に江戸に到着し、彼等の接待を受けていた。

事件は、この大事な接待の最後の日である3月14日に起こった[18]

松之大廊下の刃傷[編集]

江戸城本丸跡(東京)

元禄14年3月14日1701年4月21日)巳の下刻(午前11時半過ぎ)[19]、浅野内匠頭は背後から吉良上野介に小さ刀(ちいさがたな。礼式用の小刀で脇差とはサイズが違う[20])で斬りかかった。浅野が斬りかかったのは吉良に「遺恨」があったためであるとされるが詳細は不明である(詳細は#刃傷の理由参照)。 切りかかった場所は江戸城本丸御殿の大広間から白書院へとつながる松之大廊下(現在の皇居東御苑)である。

吉良が振り返ったので小さ刀は吉良の眉の上[19]を傷つけた。小さ刀は吉良の烏帽子の金具にも当たり大きな音をたてた[21]。 そして吉良が向きかえって逃げるところを追いかけ、また2度斬りつけた[19]

すぐさま、浅野はその場に居合わせた梶川与惣兵衛らに取り押さえられ、柳之間[9]の方へと運ばれた。その際浅野はこう繰り返したという:

「上野介、此間中、意趣これあり候故、殿中と申し、今日の事かたがた恐れ入り候へども、是非におよび申さず討ち果たし候」
(上野介には、ここしばらくのあいだ、遺恨があったので、殿中であり、また大事な儀式の日でありながらやむをえず討ち果たしました)[22]

一方の吉良は、やはりその場に居合わせた他の高家衆に取り押さえられ、御医師之間[19]に運ばれ、その後江戸城内の自分の部屋にいるよう命じられた[19]。吉良の傷は外科の第一人者である栗崎道有[23]により数針縫いあわせられている。

浅野は幕府の裁定を待つため、芝愛宕下[24]陸奥一関藩田村建顕の屋敷にお預けとなる事になった。

浅野を乗せた駕籠は江戸城の平川門[25]から出されたが、この門は「不浄門」とも呼ばれ、死者や罪人を出すための門であった[25]。浅野は罪人として江戸城から出されたのである。

田村邸に到着して駕籠から降りたときには、すでに厳重な受け入れ体制ができており、部屋は襖を全て釘づけにし、その周りを板で覆い白紙を張っていた[26]

なお以上で述べた刃傷事件の概要は主に『梶川与惣兵衛筆記』によっているが、『多門伝八郎覚書』の記述とは様々な差異がある。しかし『多門伝八郎覚書』には誇張や創作が含まれている事が他の史料との照合により判明しているので、基本的には『梶川与惣兵衛筆記』を信じるべきで『多門伝八郎覚書』に依存する場合は充分な史料批判が必要である[27]

浅野内匠頭切腹[編集]

浅野内匠頭の切腹(2009年赤穂義士祭にて撮影)

刃傷事件が起こると、将軍の綱吉は浅野内匠頭の即日切腹を命じた。 当時殿中での刃傷は理由の如何を問わず死罪と決まっていたのに、まして幕府の権威づけの為に綱吉が重視していた朝廷との儀式の最中に刃傷に及んだのであるから即日切腹は当然であった[28]

浅野内匠頭の切腹の場所は田村家の庭で、庭に筵(むしろ)をしき、その上に毛氈を敷いた上で行われた[29]。本来、大名の切腹は座敷などで行われるが、慣例を破ってまで庭先での切腹を行うよう老中から指示があったという[30]。おそらくその背後に将軍・綱吉の強い意向が働いていたのだろう[30]

万一浅野内匠頭の家臣たちが騒動を起こしたとき武力で抑えられるよう、浅野家家臣たちの退去を命じ、上使に任ぜられた水野監物忠之の配下の者達に廻りを固めさせた[30]

当時打ち首が屈辱的な刑罰だとみなされていたのに対し、切腹は武士の礼にかなった処罰だとみなされていた[25]ので、浅野内匠頭は切腹を言いつけられた事に礼を言った上で[31]切腹をした。

切腹の際の立会人は検使正使の大目付庄田安利(下総守)と、 検使副使の目付多門伝八郎大久保権左衛門であり[29]、介錯は御徒目付磯田武太夫によってなされた[29]。 遺体は浅野家の家臣達の片岡源五右衛門礒貝十郎左衛門田中貞四郎、中村清右衛門、糟屋勘右衛門、建部喜内によって引き取られ[32]、菩提寺の泉岳寺でひっそり埋葬された[32]


浅野内匠頭の正室の阿久里は、浅野の切腹を受けて3月14日1701年4月21日)夜に剃髪し、名を瑤泉院と改め[32]、翌15日明け方に麻布今井町の屋敷に移った[32]

吉良への見舞い[編集]

一方の吉良は特におとがめもなく、むしろ将軍からこう見舞いの言葉をかけられた。

「手傷はどうか。おいおい全快すれば、心おきなく出勤せよ。老体のことであるから、ずいぶん保養するように」[33]

当時の武士社会の慣習からいえば、「喧嘩」が起こった際には「喧嘩両成敗」の法が適応されるので、浅野と吉良は「双方切腹」となるはずである[9]

しかし吉良が脇差に手をかけなかったという証言が事件の場に居合わせた梶川から得られたため[9]、この事件は喧嘩としては扱われず[9]、浅野内匠頭の一方的な「暴力」とみなされたのである[34]。また吉良に見舞いの言葉があったのは、吉良が将軍の親戚筋に当たる為かもしれない[33]

このように事件の一方の当事者である吉良には何らお咎めなしでありながら、もう一人の当事者である浅野内匠頭には切腹が命じられる事になった。しかも後日、浅野内匠頭の領地である播州赤穂浅野家には御取り潰しが命じられている。こうした裁定が、後に起こる赤穂浪士達による吉良邸討ち入り事件の素地となった[35]

実際、こうした幕府の裁定と当時の民衆の感覚の間には大きな隔たりがあり[36]、当時の記録には浅野内匠頭の軽率さに非難が向けられる一方で、幕府による裁定の厳しさに対する同情論もあった[36]。例えば『易水連袂録』にはもし浅野が吉良に対して「意趣」があり、それが「堪忍しがたきもの」なら浅野の行動は「乱気」でも「不行跡」でもないはずだと[36]、浅野の行動に理解を示している。 また武士道の観点からいえば、売られた喧嘩を買わずに逃げるのは、武士にあるまじき不名誉な行為のはずである[37]

こうした世評があった為、吉良は世間の非難の目を意識して高家肝煎の辞職願を出さねばならなかったし、吉良の傷は14、5日で治ったのにわざと重く見せかけねばならなかったという(『栗崎道有記録』)[38]

赤穂への使者[編集]

早水藤左衛門萱野三平 から刃傷事件の報告を受ける大石内蔵助赤穂市大石神社)。

事件が起こるとすぐに、事件を知らせるための早駕籠が浅野の領地である赤穂藩へと飛んだ。

早駕籠は二度にわたり赤穂に届けられ、第一の早駕籠は江戸での刃傷沙汰のみを伝え[39]、第二の早駕籠が浅野内匠頭の切腹と赤穂藩の取り潰しを報告[39]

江戸から赤穂へは早駕籠でも通常一週間程度かかるところだが、使者たちは昼夜連続で駆け続ける事で、4日半程度で赤穂に到着している[39]

吉良の生死については早駕籠は何も伝えず、結局生死が赤穂側に伝わったのは3月の下旬であった[40]

なお、第一の早駕籠に乗って赤穂に訪れたのは 早水藤左衛門萱野三平の二人で [39] 、第二の早駕籠に乗っていたのは原惣右衛門大石瀬左衛門の二人であった[39]

時刻に関しては第一の早駕籠は3月14日1701年4月21日)未の下刻(午後3時半頃)に江戸を出発し、 第二の早駕籠は同日夜更け[39]に出発した。前者は19日寅の下刻(午前5時半頃)[39]に赤穂に到着、後者も同日中[39]には赤穂に到着した。

藩札の処理[編集]

お取りつぶしの話が藩に広まると、商人達が札座に押し寄せて大混乱となった。 藩が取り潰しになると彼らの持っている藩札が無価値になってしまうからである。

両替所可能な金の量が不足していたため、大石内蔵助は、3月20日1701年4月27日)藩札を銀に六分率(金一両と等価の一分銀四枚(六十匁)に対し、その六割掛)で交換するよう指示[41]。 赤穂経済の混乱の回避に努めた[42]

このとき大石は次席家老の大野九郎兵衛と相談し、広島の浅野本家に不足分の金の借用を頼むことにしたが、広島藩は藩主が不在であることを理由にしてこれを断っている[43]。この件に限らず広島藩は、自藩に累が及ぶのを恐れ、赤穂藩に一貫して冷ややかな態度をとり続けている[43]

赤穂での議論[編集]

泉岳寺にある大石内蔵助の像(浪曲の中興の祖桃中軒雲右衛門が建立[44]

第一の使者から浅野内匠頭の刃傷事件の知らせを受けた筆頭家老の大石内蔵助は、藩士に総登城を命じ、事件を皆に伝えた[45]

そして大石を上座に据え、連日[40]、城に集まって対応を議論した(『浅野綱長伝』)[45]。幕府からは城を明け渡すよう要請されていたが、浅野家は浅野内匠頭の家臣であっても幕府の家臣ではないので、幕府からの命令があったとはいえ、簡単に明け渡す事はできないのである[40]。親族の大名家からは連日のように穏便に開城をという使者が派遣されていた。

家臣達の意見は、籠城により吉良が処罰されなかった事に対する抗議の意思を示すというものが多かった[46]が、大石はこの意見には与しなかった。籠城をすれば公儀に畏れ多いと思ったのである[46]

また、浅野内匠頭の弟にあたる浅野大学に迷惑がかかると大石が考えたのも籠城を辞めた理由の一つである[10]。大石は城内での議論と並行して、吉良の処分を再考するよう城受け渡しの上使に嘆願書を出していたのだが[47]、この事が大学の耳に入ったため、籠城が大学の指示だと思われるのを恐れたのである[10]

連日の議論を経て、大石は結論を出した。赤穂城の前で皆で切腹しようというのである[46]。こういう決断を下したのは、切腹の際に自身らの思いを述べれば、幕府も吉良への処罰を考え直してくれるのではないかと考えたからである[46]。 ただし、大石はほどなく切腹を口にしなくなるので[10]、切腹という方針を出す事で本当に味方する藩士を見極めようとしたとする説もある[10]

最終的に切腹という結論が出ると、切腹に同意する旨の神文(起請文)を60人余り[46]が提出した。

なお、議論がすぐに収束しなかったのは、次席家老の大野九郎兵衛等による反対意見もあった[46]事による。大野九郎兵衛はとにもかくにも主君の弟である浅野大学が大事だから、まずは穏便に赤穂城を幕府明け渡すのが先決だと考えていたのである[48]

しかし切腹の神文を提出する段になって原惣右衛門が「同心なされない方はこの座をたっていただきたい」と発言すると、大野をはじめとする10人ばかりが退出した[46]。なお原惣右衛門はもしこのとき大野が立ち退かなかったら大野を討ち果たしているところだったと後で回想している[48]

なお、江戸から下ってきた片岡源五右衛門、磯貝十郎左衛門、田中貞四郎の3人は、切腹をせず、吉良を討つ旨を述べて退出した[46]

赤穂城開城[編集]

赤穂城

大石内蔵助は4月12日[49]に赤穂城の明け渡しを決意し、4月18日[49]に明け渡された。予定された切腹は結局行われていない。

赤穂城受け取りは物々しいもので、幕府は受城目付の荒木政羽榊原政殊、代官石原正氏、受城使の脇坂安照木下㒶定を派遣し、脇坂は総勢4550人を動員し、これに木下の軍勢が加わり、さらに船数百隻が警戒する中、赤穂城は開城された[50]

明け渡しの際、大石は浅野大学によるお家再興を上使に嘆願[49]し、上使から江戸に帰り次第その旨を老中に伝えるとの返答を得た[49]。また取り潰しによって家臣が路頭に迷わぬよう、大石は4月5日から、赤穂に残った財産を家臣に分配している[49]

4月12日から3日間、浅野内匠頭の法要が泉岳寺で執り行われた[51]。幕府から許可がおりたためである。位牌や石塔もこの時建立された[51]

江戸急進派の動き[編集]

一方、同じ赤穂家でも、江戸に詰めている家臣には堀部安兵衛をはじめとした強硬派(いわゆる江戸急進派)がおり[11]、主君の敵である吉良を討ち取る事に強くこだわっていた。

堀部は同じく江戸詰めの高田郡兵衛奥田孫太夫とともに吉良邸に討ち入ろうと試みたものの[11]、吉良の実子の上杉綱憲が吉良邸を訪問するなど警戒が強く、討ち入りは難しかった[11]

そこで3人はまず国元の藩士と合流しようと4月5日に江戸をたち[11]4月14日[11]に赤穂に到着した。3人は大石に籠城を説くも大石は賛成せず、城を明け渡した4月22日に赤穂を出発した[11]

同志間の対立[編集]

あとで討ち入りが決定するまで、大石たち上方の主流派(上方慚進派[52])と堀部たち江戸急進派は、対立することになる。

対立の原因は、両者の目標の違いにある。上方慚進派の最大の目標は、浅野内匠頭の弟にあたる浅野大学を擁立した浅野家の再興にあり[53]、その際武士の体面が保てること、そのために吉良の出仕を止めるなどの処分を加えてもらうことだった[54]

一方、江戸急進派の目標は吉良を討つ事にあった[52]。彼らにとって主君は浅野内匠頭ただ一人であり、その名誉を回復するには吉良を討つしかないからだ[53]。 主君の兄弟である浅野大学によるお家再興が成し遂げられたとしても主君の名誉は回復されないという考えなのだ[53]

こうした目標の違いにより、しばらくの間大石は今にも暴発しそうな江戸急進派を押さえるために腐心する事になる。

両者のこうした目標の違いは、両者の背景の違いを反映していた。上方慚進派の代表である大石は代々浅野家に仕えており、しかも浅野家とも親戚関係にあった[55]。このため浅野内匠頭個人に仕えるというよりも浅野家そのものに仕えるという意識が強く、お家再興に拘ったのであろう[55]

一方の江戸急進派の面々は堀部をはじめ、高田郡兵衛や奥田孫太夫など浅野内匠頭の代から浅野家に仕えた者が多かった[56]。このため浅野家よりも浅野内匠頭個人に対して仕えているという意識が強く、内匠頭の宿敵である吉良を討つ事、それにより武士としての面子を立てることに拘っていたのであろう[55]

なお、上方慚進派が擁立しようとしている浅野大学自身がどのように思っていたのかは分からない。事件直後には藩士らが騒動を起こさないよう命じただけだったし、その後閉門されてしまったので、赤穂浪士らに連絡が取れなくなってしまったからである[57]

山科隠棲[編集]

赤穂城が明け渡しになると、旧藩士たちは赤穂城を出て行かねばならなかった。

大石内蔵助は6月に家族と合流し、山城国山科に隠棲する[58]。親戚の進藤源四郎が代々ここに田畑を持っており、これを頼って居を定めたのである[58]

ここで大石は幕府に対してお家再興の嘆願を、赤穂の遠林寺の僧祐海を通じて出している[59]

それ以外の藩士達は赤穂に近い大阪、伏見、京都などに散らばっている[60]

幕府の許可を得て赤穂に留まった者も多かったが、その場合は百姓や町人の格で居住する必要があった[60]

江戸詰めの藩士達はそのまま江戸に留まる者が多かったが、もう藩邸には住めないので借宅して暮らす必要があった[60]

この頃までには大石に起請文を提出した同志は93人に増えていた[60]

吉良の屋敷替えと江戸会議[編集]

本所松坂町の吉良邸跡

一方の吉良は3月23日[61]にお役御免となり、8月19日[61]には呉服橋の屋敷を召し上げられて、江戸郊外の本所松坂町に移り住む事になった。

大名屋敷の多い[62]呉服橋と比べ、人気のない郊外[61] にある本所はずっと仇討ちに適した場所であった[62]

討ち入りをしやすくするために吉良を郊外に幕府が移したのではないか、そんな噂が江戸に流れた[61]

幕府がなぜこの時期に屋敷替えを命じたかは不明だが、『江赤見聞記』巻四によれば、吉良邸の隣の蜂須賀隆長は、赤穂浪士の討ち入りを警戒していて出費がかさむという理由で老中に屋敷替えを願い出ていたというので、こうした事情が影響した可能性はある[62]

堀部ら急進派はこの屋敷換えを討ち入りの好条件ととらえ[61]、大石に討ち入りを迫った。

そこで大石は急進派を説得する為、9月はじめ頃に赤穂浪士の原惣右衛門、潮田又之丞、中村勘助の3人を派遣し、さらに10月に赤穂浪士の進藤源四郎と大高源五を派遣したが、どちらも逆に説き伏せられて急進派に同調してしまった[63]

そこで大石は11月2日に自ら江戸に下り、急進派を説得すべく会議をひらいた(江戸会議[61]。 しかし上方から派遣した同志達が堀部等に同調してしまっていたこともあり、議論は堀部等が望む方向で一方的に進んだ[63]

堀部達は討ち入りの日の期限を決断するよう大石に迫り[61]、大石は浅野内匠頭の一周忌には結論を出したいと約束した[61]

吉良の隠居[編集]

こうした中、衝撃的な知らせが赤穂浪士達の耳に入った。自身の評判があまりに悪い事を知った吉良上野介が、隠居を願い出て、12月13日に許可されたのだという[64]

これを聞いて堀部たち急進派は焦り始めた[64]。隠居した吉良が、息子の養子先である米沢の上杉家に引き取られてしまうと、討ち入りが難しくなってしまうからである[64]。また吉良の隠居が認められたという事は、幕府から吉良へのこれ以上の処罰は望めないと堀部等は判断し、浅野内匠頭の一周忌までに討ち入りすべきだと主張した[65]

一方、大石内蔵助は浅野大学によるお家再興に影響が出る事を懸念し[64]、討ち入りを先延ばしすべきだと主張した[64]。吉良上野介が無理なら息子の吉良左兵衛を討てばよいし [65]、閉門はたいてい三年で解けるものだから、浅野大学の閉門が解かれるであろう主君の三回忌まで討ち入りを待ち、後悔しないようにすべきだというのである[66]

山科会議[編集]

こうした中、京都の山科で、今後の行く末を決める会議が翌元禄15年2月15日から数日間[67]執り行われた。いわゆる山科会議である。

会議では、すぐさま討ち入りに行くという意見は少数で[67]、しばらく様子を見るという結論になった[67]。大石内蔵助は浅野内匠頭の三回忌まで待つべきであろうとしている[67]

なお、山科会議に先立つ2月10日には、赤穂浪士の原惣右衛門と吉田忠左衛門が会談しており、山科会議はその会談の内容の再確認としての色彩が強く[68]、ドラマ等で見られるような激論が交わされたとするのは史実ではない。

大石の動き[編集]

山科会議により討ち入りは延期になったので、大石内蔵助はお家再興の嘆願書を出している[69]。大石の背後には再興を願う家臣達がおり、簡単には再興を諦められないのである[69]

しかしこの頃から大石は討ち入りは避けられないと覚悟したのか、累が及ばぬよう妻を離縁して実家に返している[69]。事実大石は息子の主税に「寝ても覚めても吉良を討ち取る事を考えよ」といったという(『江赤見聞記』巻七)[70]。なお離縁の際、大石の妻・りくは自分も「君父の志」を達する為に役に立ちたいと反論したが、大石は女人と一緒では内匠頭の為にならないからとこれを断ったという(『江赤見聞記』巻七)[70]

この頃の大石は、浅野大学を擁立した討ち入りを構想していた。浅野大学の閉門が解かれたら、すぐさま大学に討ち入りの許可を取り、その上で吉良を討とうというのである[71]。だから大石は、浅野大学と無関係に討ち入りしようとする堀部達の意見には賛同できなかった[71]

大石がこのような仇討ちにこだわった理由は、事件当時「仇討ち」というのは、親や兄などの目上の親族に対して行うものであり、主君の仇を討つというのは前例がなかったからである[72]。しかし主君・浅野内匠頭の弟である浅野大学の指示によって吉良を討てば、従来通り兄の仇を討つという枠組みに収まる事になる。

後述するように、結局浅野大学による御家再興は頓挫したため大石のこのような仇討ち構想が実現する事はなく、吉良邸討ち入りは浅野大学の許可を得ずに行っている。このため討ち入りの際の口上書では、「君父の讐、共に天を戴くべからず」と仇討ちの概念を「父」から「君父」へと拡大している[73]。こうした拡大された価値観が武士社会へと受容される事で、赤穂事件は武士の生き方と道徳を変え、武士道概念の体系化を促し、大名の「家中」が武士の帰属する唯一の集団へと変わっていくのである[73]

江戸急進派の動き[編集]

一方の堀部達急進派は、山科会議による討ち入りの延期決定に素直に従いはしなかった。

赤穂浪士の原惣右衛門が堀部らに、大石を見捨てて自分たちだけで吉良を討つ事を提案したのである[74]。 大石ら主流派を除いて行動すれば、大石らが考えている浅野大学によるお家再興にも迷惑がかからないだろうし、吉良が油断している今なら、討ち入りに同調するであろう14、5人程度がいれば十分事を成し遂げられるだろうというのである[74]

堀部らはこれに賛同し、上方を訪れて同志達と計画を練り、7月の24、5日頃に再び江戸に帰ろうとしていた[74]

浅野大学閉門と円山(まるやま)会議[編集]

しかしまさにそのとき、事態が急転した。

7月18日[12]に浅野大学が閉門のうえ本家の広島藩浅野家に引き取られる事が決定したのである。これはお家再興が事実上あり得ない事を示している。

大石達と堀部達の対立点であったお家再興の道が閉ざされたので、彼らは7月28日[12]に京都の円山で会議を開き(円山会議)、大石は10月に江戸に下り吉良邸に討ち入る事を正式に表明した[12]

あらかじめ会合の予定があったわけではないので、参加者はたまたまその日京都周辺にいた人物である[75]。このとき会議に参加したのは19人[75]。うち17人は後に仇討に参加するメンバーである[75]

なお円山会議は秘密会議であった為、議論の詳細は一切分かっておらず、今日伝わる円山会議の「詳細」と称するものは初期の実録本『赤城義人伝』で創出されたものである[76]。 堀部達は江戸に戻ると、隅田川で二艘の船を借り、月見の宴に装いつつ、船の中で同志達に円山会議の報告をしている(船中会議[77]

山科会議の頃までは同志は120名ほどいたが[13]、円山会議で討ち入りが決定すると、脱盟する者が続出する[13]

この際、大石の親戚でありこれまで大石の行動を支えてきた奥野将監、小山源左衛門、進藤源四郎の三人が脱盟している[78]。大石は討ち入りの際、家中の主だった面々が加わっている事を強く期待していたが、位の高い彼ら三人が脱盟したことにより、それはかなわなくなった[78]

神文返し[編集]

同志達の脱盟を受けて大石は、赤穂浪士の貝賀弥左衛門大高源吾を派遣し、連判状から切り取った血判を返してまわった[13]。いわゆる神文返しである。そしてそれでもどうしても討ち入りをしたいと答えたものだけを同志として認める事にした[13]。これにより同志は50人程度[13]に減った。

大石東下り[編集]

大石内蔵助は円山会議での約束にしたがい、10月7日[79]に京を出て、11月5日[79]に江戸に到着している。道中には箱根を通り、仇討ちで有名な曾我兄弟の墓を詣でて、討ち入りの成功を祈願した[80]。このとき墓石を少し削って懐中に納めたという[80]

また10月26日[79]には平間村の家に入り、討ち入りの計画を練っている。

同志たちの困窮[編集]

このころ、同志たちはすでに困窮を極めており、大石瀬左衛門は秋も深まったのに着替えすら買えなかったというし[81]磯貝十郎左衛門も家賃が2カ月も払えなかったという[81]

大石内蔵助は彼らに金銭的な援助をしたが、すでに赤穂藩の残金も少なくなっており、もうあまり猶予はなかった[81]

深川会議[編集]

12月2日 頼母子講を装って[82] 深川八幡前の大茶屋 [82] に集まり、討ち入り当日の詳細を決めた[83] 。いわゆる深川会議である。

討ち入り日の決定[編集]

赤穂浪士達は討ち入りの日を12月14日に決めた[84]。 というのも、吉良がこの日に茶会を開くために確実に在宅している事を突き止めたからである [84]

茶会の情報を手に入れたのは 内蔵助の一族である大石三平であった [84]。大石三平は茶人山田宗偏の弟子なのだが、三平と同門の材木屋の所に在宅していた羽倉斎が江戸で新道や歌道を教えており[84]、その関係で羽倉は吉良邸にも出入りしていて[84]、この情報を聞いたのである。

また赤穂浪士の一人である大高源五もやはり山田宗偏の弟子で[84]、彼も同じく14日の吉良邸での茶会の情報をつかんでいたという[84]。しかし宮澤誠一は、これは歌人として人気の高かった大高に活躍の場を与えるための初期の実録書以来の俗説として退けている[85]。ただし、大高が茶会の情報をつかんでいたという話は『江赤見聞記』に記されているため可能性は否定できない[86]

直前の脱盟[編集]

11月になってからも江戸潜伏中にも同志の脱盟があり、小山田庄左衛門[87](100石[87]片岡源五右衛門から金と着物を盗んで逃亡[88])、田中貞四郎[87](小姓あがり[87]、150石[87]酒乱をおこして脱盟[要出典])、中田理平次[87](100石[89])、中村清右衛門[87](小姓[87]100石[89])、鈴田重八郎[87]瀬尾孫左衛門[87](大石内蔵助家来[87])、矢野伊助[87](足軽5石2人扶持[87])が姿を消した。

そして討ち入り三日前の12月11日まで同志の中にいた[90]毛利小平太(大納戸役[要出典]20石3人扶持[89])も脱盟し、最後まで残った同志の数は47人となった。

討ち入り[編集]

吉良邸討ち入り。二代目山崎年信画、1886年

元禄15年12月14日(1703年1月30日)、四十七士は堀部安兵衛の借宅と杉野十平次の借宅にて着替えを済ませ、寅の上刻(午前4時頃)に借宅を出た[91]。そして吉良邸では大石内蔵助率いる表門隊と大石主税率いる裏門隊に分かれ[91]、表門隊は途中で入手した梯子で吉良邸に侵入、裏門隊は大きな木槌で門を打ち破り吉良邸に侵入した[91]

表門隊は侵入するとすぐに、口上書を入れた文箱を竹竿にくくりつけ、玄関の前に立てた[92]

裏門隊は吉良邸に入るとすぐに「火事だ!」と騒ぎ、吉良の家臣たちを混乱させた[93]。また吉良の家臣達が吉良邸そばの長屋に住んでいたのだが、その長屋の戸口を鎹(かすがい)で打ちつけて閉鎖し、家臣たちが出られないようにした[93]。 吉良邸には100人ほど家来がいたが、実際に戦ったのは40人もいなかったと思われる[93]

隣の屋敷の屋根から様子をうかがっている者がいたので、片岡源五右衛門と小野寺十内が仇討ちを行っている旨を伝えたところ、了承したしるしに高提灯の数が増えた[94]

四十七士は吉良の寝間に向かったものの、吉良は既に逃げ出していた[94]。茅野和助が吉良の夜具に手を入れ、夜具がまだ温かい事を確認した[94]。吉良はまだ寝間を出たばかりだったのである。四十七士は吉良を探した。

そして台所の裏の物置のような部屋を探したところ、中から吉良の家来が二人切りかかってきたのでこれを返り討ちにし、中にいた白小袖の老人を間十次郎が槍で突き殺した[95]。この老人が吉良であると思われたので、浅野内匠頭が背中につけた傷跡を確認し[95]、吉良方の足軽にこの死骸が吉良である事を確認させた[95]。無事吉良を討ち取ったのである。

そこで合図の笛を吹き、四十七士を集めた[95]

ここまでわずか二時間程度[96]。 吉良側の死者は15人負傷者は23人であった[97]

一方の赤穂浪士側には死者はおらず、負傷者は二人で、原惣右衛門が表門から飛び降りたとき足を滑らせて捻挫し[98]、近松勘六が庭で敵の山吉新八郎[99] と戦っているときに池に落ちて太ももを強く刺されて重傷をおっている[98]

浪士たちの討ち入り事件は、討ち入り2日後の14日[疑問点 ]の記録にすでに「江戸中の手柄」と書いてあるほど、すぐさま噂として広まった[100]

吉良の最期に関して[編集]

山本博文は、武林唯七が即死に追い込んだ吉良の首を間十次郎が取ったのだろうとしている[101]

その根拠は『江赤見聞記』巻四で、同書には四十七士の武林唯七が物置の中の人物を十文字槍でついたところ小脇差を抜いて抵抗してきたので間十次郎が刀で首を打ち取ったとしており[101]、さらに同書によれば引き上げの際間十次郎が吉良の首を取ったのを自慢した所、武林唯七が「私が突き殺した死人の首を取るのはたいした事ではない」と憤慨したという[101]

一方、宮澤誠一は四十七士の不破数右衛門の書簡に「吉良は手向かいせず唯七と十次郎その他にたたき殺された」という趣旨のことが書かれているのを根拠に、本当は不破の言うように吉良はたたき殺されたのに、記録が後世に残るのを意識して残酷さを和らげるために間十次郎が一番槍をつけたのだと記したのではないかとしている[102]

泉岳寺への引き上げ[編集]

浅野内匠頭が埋葬された泉岳寺

吉良を討った浪士達は、亡き主君・浅野内匠頭の墓前に吉良の首を供えるべく、内匠頭の墓がある泉岳寺へと向かった。 途中、吉田忠左衛門富森助右衛門の二人が大目付の仙石伯耆守に討ち入りを報告すべく隊を離れた[103]。 また寺坂吉右衛門も理由は分からないがどこかに消えた。寺坂が隊を離れた理由は古来から謎とされている(#寺坂吉右衛門問題)。

泉岳寺についた一行は内匠頭の墓前に吉良の首を供え、一同焼香した[103]

赤穂浪士お預け[編集]

赤穂浪士の吉田と富森から討ち入りの報告を受けた大目付の仙石伯耆守は、月番老中の稲葉丹後守正往にその旨を報告し、二人で登城して幕府に討ち入りの件を伝えた。

幕府は赤穂浪士を、細川越中守綱利松平隠岐守定直毛利甲斐守綱元水野監物忠之の4大名家に御預けとした[104][105]。赤穂浪士達は預け先にて罪人扱いではなく、武士としての英雄として扱われたする話が残る[105][106]

浪士切腹の決定[編集]

赤穂浪士討ち入りの報告を受けた幕府は浪士等の処分を議論し、元禄16年2月4日 (旧暦) (1703年3月20日)、彼らを切腹にする事を決めた。赤穂浪士が「主人の仇を報じ候と申し立て」、「徒党」を組んで吉良邸に「押し込み」を働いたからである[107]

ここで重要なのは幕府が「主人の仇を報じ候と申し立て」という言い回しをしている事である。 あくまで赤穂浪士達自身が「主人の仇を報じる」と「申し立てて」いるだけであって、幕府としては討ち入りは「徒党」であり仇討ちとは認めないという立場なのである[107]

通常、このような罪には斬首が言い渡されるが[107]、赤穂浪士達の立場を考慮したのか、武士の体面を重んじた切腹という処断になっている。

切腹[編集]

泉岳寺の赤穂浪士の墓
花岳寺の赤穂義士の墓

元禄16年2月4日 (旧暦) (1703年3月20日)、幕府の命により、赤穂浪士達はお預かりの大名屋敷で切腹した[108]。 切腹の場所は庭先であったが、切腹の場所には最高の格式である畳三枚(細川家)もしくは二枚(他の3家)が敷かれた[109]

当時の切腹はすでに形骸化しており、実際に腹を切ることはなく、脇差を腹にあてた時に介錯人が首を落とす作法になっていた[108]

間新六のみ肌脱ぎせずにすぐに脇差を腹に突き立てたため、実際に腹を切り裂いている[110][108]細川綱利は切腹跡についた血を清掃しようとする藩士に対して赤穂浪士は吾藩のよき守り神であるとして清掃する必要なしと指示している[111][112]

赤穂浪士の遺骸は主君の浅野内匠頭と同じ泉岳寺に埋葬された[108]。 赤穂の浅野家菩提寺である花岳寺にも37回忌の元文4年(1739年)に赤穂浪士達の墓が建てられている[113]。(墓には赤穂浪士の遺髪が埋められたと伝えられる[113])。

吉良家への処罰[編集]

赤穂浪士の切腹と同日[114]、吉良家を継いだ吉良左兵衛義周を信濃高島藩主諏訪安芸守忠虎にお預けとされた[115]

幕府が吉良左兵衛の処分を命じた理由は、義父・吉良上野介が刃傷事件の時「内匠に対し卑怯の至り」であり、赤穂浪士討ち入りのときも「未練」のふるまいであったので、「親の恥辱は子として遁れ難く」あるからだとしている[115]。ここで注目すべきは吉良上野介の刃傷事件の時のふるまいが「内匠に対し卑怯」であるとしている事で、幕府は赤穂浪士の討ち入りを踏まえ、刃傷事件の時は特にお咎めのなかった上野介の処分を実質的に訂正したのである[115]

左兵衛はその後20歳余りの若さで亡くなり[115]、ここに吉良家は断絶する事になった[116]

赤穂浪士の遺児の処罰と赦免[編集]

赤穂浪士の遺児らも、15歳以上の男子は伊豆大島遠島、15歳未満の男子は縁のあるものにお預けとなり、15歳になるのを待って遠島という処分が幕府から下された[117]。(女子は構いなし[117])。

15歳以上の男子は4人(吉田伝内、中村忠三郎、間瀬惣八、村松政右衛門)おり、彼らは処分にしたがって遠島に処せられたが、赤穂浪士の名声は伊豆大島まで届いていた為、彼らの待遇は良かったと伝えられる[117]

間瀬惣八のみ伊豆大島で病死したが、残りの3人は浅野内匠頭の正室・瑤泉院をはじめとした旧赤穂藩の関係者の働きかけにより、宝永3年に赦免された。他の遺児たちも綱吉が死去した宝永6年に大赦とされた[118]

浅野大学家の再興[編集]

綱吉が死去した宝永6年8月には、内匠頭の実弟である浅野大学長広も赦免され、安房国朝夷郡平郡に500石を与えられた。赤穂新田3,000石から減封のうえ、播磨からも移封ではあるが、旗本として浅野大学家(長広系)は続く事になった[119][120]

大石大三郎の浅野本家召抱[編集]

大石内蔵助の三男である大三郎良恭(よしやす)も、広島の浅野宗家に内蔵助と同じ1500石で召抱えられた[121][120]。明和5年(1768年)3月18日に隠居。男子が2人あったが、小山良至(小山良速の孫)の五男良尚を養子に迎えて大石家の家督を継がせた。

その大石良尚は、後継男子(大石良完)とその嫡男が相次いで先立ち、自身も病んで大石家を去り、実家の小山家に帰って没した。嫡流が絶えた大石家は一旦断絶となった。ただし、寛政9年(1797年)以降に一族の横田温良が大石に改姓し、大石の名跡を再興した[122]という。

吉良家の高家再興[編集]

赤穂事件以来、三河吉良家が断絶していたため、武蔵吉良家の義俊は、姓を蒔田[123]から吉良に戻す許可を幕府に求めていたが、宝永7年(1710年)2月15日にこれが許された。武蔵吉良家は高家として幕末まで続く。

赤穂藩と吉良庄のその後[編集]

刃傷事件のあった元禄14年(1701年)に、下野国烏山藩より永井直敬が3万2000石で赤穂に入部する。5年後の宝永3年(1706年)に、永井氏は信濃国飯山藩へ転封となり赤穂を去っている。

同年、備中国西江原藩より森長直が2万石で入部。廃藩置県までの12代165年間、森氏が赤穂藩主として統治する[124]

その後の吉良庄は、西尾藩のほか大多喜藩や沼津藩などの飛び地、寺社領、天領といった様々な領主が統治する。吉良義央の弟・東条義叔は、兄の死後、吉良の祭祀[125]などは継承したが、知行500石は武蔵国児玉郡と賀美郡内にあり、吉良庄と直接の関係がなくなっている[126]

また、上野介の官名に因む、上野国白石の吉良家飛び地700石は、吉井藩、佐野藩、天領ほか、複数の旗本が統治した[127]

本願寺関係者の動き[編集]

吉良家と関係が深かった西本願寺は刃傷事件や討ち入り後、築地本願寺と書状を交わして吉良の傷の様子や浅野の心情など状況を把握しようとしていた[128][129][130]

「義士」論争[編集]

主君の遺恨を晴らすべく命をかけて吉良邸に討ち入った「義士」達が切腹に処せられた事は人々に大きな衝撃をもって迎えられた[131]

儒学者たちの間でも、赤穂事件の是非をめぐって論争が巻き起こり、その論争は幕末まで続いた[132]。論争がこのように長く続いたのは、この問題が武士の生き方や幕藩制度の構造に深くかかわるものだからである[133]

論争の焦点は多岐にわたるが、その主なものは赤穂浪士の行動が「義」にあたるのかという事である。これは浪士達の吉良邸討ち入りが「仇討ち」とみなせるかどうかにかかっている[14]。浪士達の行動が「仇討ち」だとすれば、それを果たした浪士達は忠臣であり義士であるという事になるし、そうでなければ彼らは忠臣でも義士でもない事になるのである[14]

今日の目から見れば赤穂事件が「仇討ち」になるのは一見自明なように見えるが、この事件当時「仇討ち」というのは子が親の仇を討つなど目上の親族の為に復讐する事を指し[15]、主君の仇を討ったのは本事件が初めてである為[15]、事件当時は自明なことではなかった。今日「仇討ち」といえば親族の為にするものの他に主君の為にするものが想起されるのは、ひとえに赤穂事件が有名になったからに他ならない。

論争史[編集]

赤穂浪士達が切腹した元禄16年には早くも林鳳岡が『復讐論』を著し、「義士」達が主君の讐を討つのは儒教的道義にかなうとして彼らの行動を賛美した[134]。しかし鳳岡は同時に、彼らは法を犯した者達であるから「法律」の観点からは処罰は正当であるとして幕府の裁定を肯定した[134]。ただし鳳岡は、儒教的道義にかなう行為がどうして罰せられなければならないのかという肝心な点には答えていない[134]

また同じく元禄16年には朱子学者室鳩巣が赤穂事件に関する最初の「史書」[135]である『赤穂義人録』を著し、義士を賛美した[135]。本書では泉岳寺引き上げの最中にどこかに消えた寺坂吉右衛門は大石内蔵助の命で浅野大学のもとへ向かったのだとし[135]、寺坂を義士の一人に数え赤穂浪士は寺坂を含めた「四十七士」だとした[135]。これにより「四十七士説」は生まれた[136]。室は周の武王を伐った行為とこれに抗議して餓死した伯夷兄弟の行為が後世ともに称えられた例を引き合いに出して義士への賛美と幕府の処分の正当性は矛盾するものではないとしている他、大石の忠義は称えつつも家老の職務は藩主が過ちを犯さないように補佐するものであると指摘して刃傷事件の原因は大石の家老としての能力不足にもあるという批判もしている[137]。なお本書は「史書」として出されたものであるが、今日の目から見れば赤穂事件に関する虚伝俗説を信用して書かれたものである[138]

一方、佐藤直方は『四十六人之筆記』(宝永2年以前)において、内匠頭の刃傷において吉良上野介は無抵抗に逃げただけだという事実に着目し、刃傷事件は喧嘩ではなく内匠頭の暴力に過ぎず、よってそもそも上野介は赤穂浪士にとって「君の讐」でないとした[134]。また佐藤は、赤穂浪士達は吉良邸討ち入りの後に自主的に切腹すべきで、そうせずに幕府に報告にあがったのは、生きながらえて禄をはむ為ではないかと批判している[134]

荻生徂徠も『四十七士の事を論ず』(宝永2年頃)において、内匠頭は幕府に処罰されたのであって吉良に殺されたわけではないから吉良上野介は赤穂浪士にとって「君の仇」ではなく、内匠頭の行為も先祖の事を忘れた不義の行為とした[134]。したがって赤穂浪士の行動は、同情の憐みを禁じえないものの、「君の邪志」を引き継いだものだから「義」とは認められないとしている[134]。その後も浅見絅斎や三宅尚斎らにより義士論叢は続けられた[134]

享保17年に太宰春台が『赤穂四十六士論』で「義士」を徹底批判[134]した事で、義士論争は新たな局面を迎える[14]。春台の論が斬新なのは、幕府の処罰の可否を正面から論じた事にある[134]。春台によれば、浅野は吉良を傷つけただけなのに浅野を切腹に処したのは幕府の処罰が過当である[134]。よって赤穂浪士達は吉良を恨むのではなく幕府を怨むべきであり[134]、彼らは幕府の使者と一戦を交えた後、赤穂城に火を放って自害するべきだったという[134]

以後、春台の論をめぐり、幕末まで論争は続く[134]

関連人物[編集]

主な赤穂浪士[編集]

討ち入り参加者の傾向[編集]

討ち入り参加者の半数強にあたる24人が、内匠頭刃傷の際、江戸にいた浪士たちである[139]。藩士の多くは国元にいた事を考えれば、この比率は際立って高い。 国元在住だが江戸まで内匠頭についてきて刃傷事件に遭遇したものも12人いる[139]

家臣団の頂点に位置する家老4人と番頭5人のうち、討ち入りに参加したのは内蔵助のみで[139]、物頭は吉田忠左衛門と原惣右衛門のみであり[139]、残りは用人、馬廻、小姓、およびその家族が大半であった[139]

また親族での討ち入り参加が多く、単独で討ち入りに参加したものは21人、残り26人は親子あるいは何らかの親族関係のものとともに討ち入りに参加している[139]

討ち入り参加者の多くは内匠頭個人から特別な恩寵を受けたものではあらず[140] 、むしろ内匠頭との関係が悪かったものもいた。

例外は片岡源五右衛門と磯貝十郎左衛門で、彼らは浅野内匠頭の側近であり、一昔前であれば内匠頭の死とともに殉死するような関係にある[141]

一方内匠頭と関係が悪かった例としては千馬三郎兵衛がおり、千馬は主君に度々諫言して不興を買い、閉門にさせられ、刃傷事件のあった元禄14年の3月には永の暇乞いをしようとしていたほどであったにも関わらず、討ち入りに参加している[140]

不破数右衛門も内匠頭から勘気を蒙り、刃傷事件の際には浪人中だったにもかかわらず、内蔵助に頼んで討ち入りに参加している[140]

大石主税良金[編集]

大石主税(おおいしちから)は大石内蔵助の嫡男で四十七士では最年少であり、内匠頭の刃傷の際は元服前で幼名の松之丞を名乗っていた[142]

討ち入りの際には裏門隊の大将を務めた[142] 。享年16[142]

吉田忠左衛門兼亮[編集]

吉田忠左衛門(よしだちゅうざえもん)は大石内蔵助に次いで事実上の副頭領[143]。足軽頭で裏門隊の副将を務めた。享年64[143]

寺坂吉右衛門信行[編集]

寺坂吉右衛門(てらさかきちえもん)は四十七士では最も身分が低い。他の46人が士分なのに対し、寺坂は士分ではなく足軽である[144]

おそらくもともとは百姓で[145]、吉田忠左衛門の家来になったが、忠左衛門が足軽頭になったことにより忠左衛門の足軽から藩直属の足軽に昇格した[145]

討ち入りには参加したが引き上げの際に姿を消した。それ故に赤穂浪士切腹の後も生き残り、享年83で亡くなった[144]

姿を消した理由は古来から議論の的で、逃亡したという説から密命を帯びていたという説まで様々である(後述)。

堀部安兵衛武庸[編集]

堀部安兵衛(ほりべやすべえ、やひょうえ)は江戸詰めの浪士の一人で、内匠頭の切腹の報を聞くと最初から吉良への仇討ちを主張したいわゆる江戸急進派の中心人物の一人である。

25才の時[146]に甥・叔父の義理を結んだ菅野六郎左衛門の危機に助太刀した高田馬場の決闘で名を馳せ、吉良邸への討ち入りは生涯2度目の戦いとなる。享年34[146]

堀部弥兵衛金丸[編集]

堀部弥兵衛(ほりべやへえ)は四十七士最高齢で享年77[147]

高田馬場の決闘で名を馳せた安兵衛を強いて求めて養子にした[147]

不破数右衛門正種[編集]

不破数右衛門正種[148](ふわかずえもんまさたね[148])は元禄六年の分限帳によれば百石取りの普請奉行で[148]、馬廻りであった[148]。元禄10年[149][148]浅野内匠頭の勘気を受けて浪人していた。『翁草』によれば、数右衛門は墓地から死体を掘り返して試し切りをしていたのだが、これが噂となった為、不慮の事故が起こる前に路銀を取らせて暇をだしたのが浪人の原因だという[148]

浅野内匠頭の刃傷後、大石内蔵助に許されて帰参し、討ち入りに参加[149]。吉良邸討ち入りでは裏門を屋外で固める役であったが、じっとしてられず中に侵入し、二人を斬り倒し、吉良左兵衛に斬りかかった。左兵衛は逃げてしまったものの、別の一人と斬りあいをして倒す[150]。斬り合いのしすぎで刀がささらのようになり刃が無くなるほどだったという[150]。享年34[149]

矢頭右衛門七教兼[編集]

矢頭右衛門七(やとうえもしち)は大石主税に次ぐ若年である[151]

刃傷後、父・矢頭長助とともに盟約に加わったが、大阪に移り住んだ頃から父が病に倒れ、帰らぬ人となったため、右衛門七のみが討ち入りに参加する[151]。享年18[151]

討ち入りへの参加は、病に倒れていたころからの父の遺言であったという[152]

武林唯七隆重[編集]

武林唯七は豊臣秀吉の朝鮮出兵の際捕虜になった中国人・孟二寛の孫で[153][154]、祖父が中国浙江省の武林の出身だったことから姓を武林と名乗った[153]。内匠頭の乳兄弟であり、後に内匠頭の中小姓として使えたが、十五両三人扶持の軽輩だった[154]。唯七は上方では最も急進的な同志の一人であった[153]。享年32。

主な脱落者[編集]

脱落者の傾向[編集]

赤穂藩士に士分の子や隠居を含めた三百数十人のうち[155]、1/3以上が神文を提出[155]。そこから80名ほどが脱盟し[155]、討ち入りに参加したのは46名(寺坂は士分ではなく足軽身分)であった。 神文提出の段階でまず下級武士がいなくなり[155]、そこから46人に絞られる段階で比較的高禄のものが離脱した[155]

最初に下級武士がいなくなったのは、町人になるなど生計を立てる道があったからであろうし[155]、その後で高禄のものが離脱したのは浅野大学の処分が決まりお家再興の道が閉ざされたためだろう[155]

離脱者は時に討ち入り参加者から義絶されたり不通にされたりするが、それは討ち入り参加者が離脱者の援助を受けられなくなるという事でもあった[156]

たとえば四十七士の一人である小野寺十内は義兄(妻の兄)が脱盟したため義兄を義絶したが、その結果として小野寺の妻「おたん」は兄を頼る事ができなくなってしまっている[156]。 おたんは討ち入り後、京都で自害している[156]

大野九郎兵衛知房[編集]

大野九郎兵衛(おおのくろべえ)は赤穂藩の次席家老で、平時には藩札のシステムを作るなどの貢献があった[157]

しかし赤穂藩取り潰しが決まると、切腹に反対するなど弱腰の姿勢を見せ[46]、原惣右衛門が賛同できないものはこの場を去るようにと言うと、大野は10人ほどの者とともに立ち去った[46]

4月12日に赤穂城の明け渡しが決定すると、その日の晩に息子の郡右衛門とともに逃亡した[49][158]。逃亡に際し郡右衛門の幼い娘を置き去りしていったという[158]

逃亡の原因は、『江赤見聞記』の巻二によると、大野が藩庫金の分配に関して岡島八十右衛門と揉め、命の危険を感じた事が原因だというが、よく分からない[158]

こうした経緯もあってか、忠臣蔵のドラマでは「不義士」の親玉として描かれることが多く、元禄16年に書かれた『易水連袂録』ではすでに「日本無双大臆病ノ腰抜」と描かれている[158]

宮澤誠一は「義士」伝説が創出される際、大野がいわば悪役としてスケープゴートにされた形だと評している[158]

岡林杢之助直之[編集]

岡林杢之助(おかばやしもくのすけ)は最初から盟約に加わらなかったが、四十七士が討ち入りを果たした事が伝わると、兄の孫左衛門や弟の左門から不義をなじられ、弟の介錯により12月28日に切腹した[159]

寺井玄渓[編集]

赤穂藩の医師である寺井玄渓(てらいげんけい)は円山会議以前から浪士たちの活動を支えており[160]、討ち入りに参加したいという意思を持っていたが[160]、玄渓は武士でないという理由により、内蔵助に断られている[160]

高田郡兵衛資政[編集]

高田郡兵衛(たかだぐんべえ)は討ち入りに参加した堀部奥田と同じ堀内道場の同門であった[161]ためか、江戸急進派の一人としてこの二人とともに行動し、吉良を討つよう大石に迫っていたにもかかわらず、脱盟した。

父方の伯父が高田を養子にしたいと言ってきたのを断りきれず、仲介にたった高田の兄が仇討ちの事を伯父に話さざるを得なくなったからである[162]。高田は堀部と相談し、伯父を納得させるために脱盟[162] 。最初の脱盟者となった[163]。元禄14年12月頃のことである[164]

高田は討ち入り後泉岳寺に向かう赤穂浪士達のもとに駆けつけたが、堀部以外の全員から無視された[162] 。その後酒を持って赤穂浪士のいる泉岳寺にも行ったが、赤穂浪士からは「踏み殺してやりたい」と罵られた[162]

萱野三平重実[編集]

萱野三平(かやのさんぺい)の父は三平に他家への仕官の口を見つけてきた[162]。赤穂浪士の密命に参加したかった三平は仕官を固辞したものの父が仕官の内諾をもらってしまう[162]。板挟みになった三平は元禄15年1月14日、切腹で自害してしまった[162]

小山源五左衛門良師、進藤源四郎俊式、大石孫四郎信興、奥野将監定良[編集]

小山源五左衛門(こやまげんござえもん)、進藤源四郎(しんどうげんしろう)の二人は大石内蔵助の親戚で[165]、大石と常に行動を共にしてきた中核的なメンバーだった[78]にも関わらず、浅野大学の処分が決まり、浅野家再興の望みがなくなると脱盟してしまった[165]

なお小山は山科会議の際すでに消極的な姿勢を見せていたが、同時にその裏では堀部等急進派に同調するような書状も送っていた。それゆえ堀部等急進派は小山の事を信じ、大石をはずして小山を急進派の首領に担ぎあげようと画策していたのだが、山科会議での態度を見て堀部等急進派は激怒した[166]

同じく大石の親戚にあたる大石孫四郎(おおいしまごしろう)もその後の円山会議には出席したものの、そのまま脱盟した[165]

実録物の『赤穂義士伝一夕話』では討ち入りと老母の世話とどちらをするか弟の大石瀬左衛門と籤を惹いたとあるが、史実ではそのようなことはなく、大石孫四郎は脱盟により四十七士の一人である弟の大石瀬左衛門から義絶されている[165]

また小山源五左衛門の娘ユウは、四十七士の一人である潮田又之丞のもとに嫁いでいたのだが、源五左衛門の脱盟により実家に返され、源五左衛門ともども又之丞から義絶された[167]

奥野将監(おくのしょうげん)も大石の親戚で[78]、城明け渡しの際最初に血判状に署名し、大石とともに幕府の対応にあたるなど、大石を支えてきたが、円山会議の後、もう一度お家再興の嘆願をすべきだと主張して脱盟した[78]

橋本平左衛門公之[編集]

浅野内匠頭の刃傷事件のとき18才だった橋本平左衛門(はしもとへいざえもん)は赤穂浪士の密命に加わっていたが、大阪で蜆川の茶屋淡路屋の遊女「はつ」に入れあげ、2人で心中してしまった[168][169]

2人の心中は元禄15年7月15日の事だとされる[168]が、佐々小左衛門が早水藤左衛門にあてた手紙ではそれは11月の事だとある[169]

小山田庄左衛門、田中貞四郎[編集]

小山田庄左衛門(おやまだしょうざえもん)は四十七士の一人である片岡源五右衛門から小袖と金三両を盗んで逃亡した[170]。深川会議のあった元禄15年11月2日のことであった[171]。酒が原因で金に困っていたという[171]

庄左衛門の父である一閑は、このことを知ると刃で胸元から背後の壁まで突き通して自害した[170][172]

田中貞四郎(たなかさだしろう)も酒の虜になり、その二日後に逃亡した[171]。田中は病毒のため、顔まで変わっていたという[171]

渡辺半右衛門、中村清右衛門[編集]

渡辺半右衛門は四十七士の一人武林唯七の兄にあたる人物である。渡辺は当初盟約に参加していたが、武林から自分に代わって両親の面倒を見てほしいと説得され、離脱している[173]

中村清右衛門は年老いた母を置いて盟約に加わったが、(老母の世話を頼んでいる人物と思われる)太郎左衛門が自殺を考えていると聞き、半ば脅迫のような形で討ち入りを断念させられた[174]

瀬尾孫左衛門、矢野伊助[編集]

内蔵助の家来である[175]瀬尾孫左衛門(せおまござえもん)は、山科で江戸行きを止められて立腹し、江戸までついてきた[176]。そして内蔵助の東下りに先行して瀬踏み役をしたり平間村の仮宿を斡旋したりする活躍があったが[177]矢野伊助(やのいすけ)とともに脱盟[177]

二人の脱盟は元禄15年12月6日の事とされるが[87]、『寺坂私記』によれば元禄15年12月12日に内蔵助留守中に矢野伊助とともに平間村から姿を消したとあり[177][178]、 これが事実なら通常「最後の脱盟者」とされる毛利小平太よりも後に脱盟したことになる[177]

毛利小平太[編集]

毛利小平太(もうりこへいた)はさる大名の下男になりすまして吉良邸に潜入し、世間で言うほど警備は強固でないという報告をもたらしたこともあるほどの男であった[179]。にもかかわらず討ち入り三日前の元禄15年12月11日に脱盟[179]。最後の脱盟者となった。

同志たちは毛利が本当に脱盟したのか分からず、討ち入り前日になっても大石は毛利を同志の一人として数えていたという[87]

吉良方[編集]

吉良上野介の親族[編集]

吉良は上杉家と親戚関係を結んでいる。

上杉綱憲

吉良の妻富子は上杉家の出身であり、長男の三之助は上杉に養子にいき、家督を継いで上杉綱憲となっている[180]。 上杉綱憲は将軍徳川綱吉の孫娘と結婚しており、吉良は将軍家とも親戚関係にある事になる[180]

また吉良上野介は上杉家から養子の吉良左兵衛義周をもらっており、上野介が引退した際には左兵衛に家督を譲っている[181]

赤穂浪士討ち入りの際、左兵衛は薙刀を持って相手を傷つけたが、自身も額と腰から背中にかけて傷を負い、気絶した[182]。その後気付いて父・上野介を探しに寝室に向かったが、上野介が見つからず、落胆してまた気絶している[182]

にもかかわらず左兵衛は「不届き」で「親の恥辱は子として遁れ難く」あるという理由で、信濃高島藩主諏訪安芸守忠虎にお預けとなった[183]。 そこで罪人だからと月代を剃る事すら許されない生活を送り、宝永3年に20歳ほどの若さで死んだ[183]

小林平八郎[編集]

小林平八郎(こばやしへいはちろう)は『大河内文書』によれば、赤穂浪士の吉良邸討ち入りの際、逃げようとしたところを赤穂浪士達に捕らえられ、「上野介(義央)はどこか?」と聞かれたのに対して、「下々の者なので知らない」と答えるも、「下々が絹の衣服を着ているはずがない」と言われ、首を落とされたとしている[184]

一方、赤穂方の落合与左衛門(瑤泉院付き用人)の書といわれる『江赤見聞記』には「小林平八は、槍を引っさげて激しく戦い、上野介をよく守ったが、大勢の赤穂浪士と戦ってついに討ち取られた」となっている[184]

山吉新八郎[編集]

山吉(小牧)[185]盛侍(やまよし もりひと)、通称山吉新八郎(しんぱちろう)は吉良上野介の家臣[185] 、近習[185]。(吉良義周の中小姓[185])。

赤穂浪士討ち入りの時負傷。その後吉良義周が幽閉されたとき左右田孫兵衛とともに付き従い、義周が亡くなるまで面倒をはじめとする見た[疑問点 ][185]

清水一学[編集]

五代目尾上菊五郎扮する清水一学(豊原国周画)

清水一学(しみずいちがく)は、忠臣蔵のドラマなどでは剣の達人として伝わる人物。

実際には吉良家の中小姓[186](用人[187][186])である。 『大河内文書』には吉良上野介と吉良義周にお供して、「少々戦いて討たれ候」とある[186]。『江赤見聞記』によれば、当時四十歳で台所で死んだ[186]

なお、『吉良家分限帳』には隠居付近習七両三人扶持[186]とあるが、『江赤見聞記』には「上野介用人、清水一学、台所口、四十歳」[186]とあり、近習なのか用人なのか不明。

江戸時代の歌舞伎では実際の人物の名称を使うことが禁じられていたため、作中では「清水一角」 [188] 、「清水大学」[189]などと 表現される。

その他[編集]

柳沢吉保[編集]

柳沢吉保は時の将軍綱吉側用人である[190]。元々綱吉の小姓小納戸であったが[190]、異例の出世を遂げて側用人になった。その背景には当人の才覚の他に、綱吉との男色関係があったという[190]

梶川与惣兵衛[編集]

梶川与惣兵衛は松之大廊下の事件に立ち会った人物で、梶川が吉良と立ち話をしているところに浅野が斬りかかってきたので、すぐさま梶川は浅野を取り押さえた。 この行動が幕府に評価されて500石加増になり、旗本になった[191]

しかし浅野の不幸をもとに旗本になった形なので、世間の評判は悪化した[191]。 その為か梶川は後になって浅野の無念を慮るべきだったと後悔した旨を記しているが、そのような議論は「朋友への義」に過ぎず、「上」に対してはこのような議論は無用だと弁明している[191]

刃傷の理由[編集]

遺恨に関して[編集]

浅野内匠頭は刃傷に及んだ理由を説明していない為、刃傷の原因は今日に至るまで不明である。

原因は何らかの「遺恨」にあるとされ、『梶川与惣兵衛筆記』の写本によっては内匠頭は刃傷の際「此間の遺恨、覚えたるか」と言ったと書いてあるし、『多門伝八郎覚書』には、多門が近藤平八郎と共に内匠頭を事情聴取したとき、内匠頭は一言も申し開きもないとした上で次のように述べたという[192]

「私的な遺恨から前後も考えず、上野介を討ち果たそうとして刃傷に及んだ。どのような処罰を仰せつけられても異議を唱える筋はない。しかし上野介を打ち損じたことは残念である」[192]

また浅野内匠頭は事情聴取に対し「乱心ではありません。その時、何とも堪忍できないことがあったので、刃傷におよびました」と答えている[193]

一方、吉良の方は全く身に覚えがないとしている[194]。 しかし身に覚えがあると言えば立場が悪くなるのは目に見えているので、身に覚えがあったとしても隠してこの様に証言すると考えられる[194]

四十七士の一人堀部弥兵衛が討ち入り前に書いた『堀部弥兵衛金丸私記』には以下のように原因が吉良の悪口にあると記している:

伝奏屋敷において、吉良上野介殿品々悪口(あっこう)共御座候へ共、御役儀大切に存じ、内匠頭堪忍仕り候処、殿中において、諸人の前に武士道立たざる様に至極悪口致され候由、これに依り、其の場を逃し候ては後々までの恥辱と存じ、仕らすと存じ候[194]
(伝奏屋敷で、吉良上野介殿がいろいろと悪しざまにおっしゃいました。御役儀を大切に考え、内匠頭は堪忍しておりましたが、殿中において、諸人を前にして武士道が立たないようなひどいお言葉をかけられましたので、そのままにしておくと後々までの恥辱と思い、斬りかけたものと存じております)[194]

仮に、内匠頭が吉良に「武士道立たざる様に至極悪口」を言われたとしても文脈から刃傷事件当日のことと推察でき、堀部弥兵衛はその事情を伝聞以外で知ることは出来ないはずである。この記述の信頼性には疑問があるが、少なくとも家臣達にはそのように言われたと信じていたと推察できる[194]

なお堀部弥兵衛は続けて「悪口は殺害同様の御制禁」と書いており、吉良がその御制禁を犯したから内匠頭はそれに応じたまでだとしている[194]。 実際、この時代悪口は明文化されてないものの「殺害同様の御制禁」だった[194]

刃傷は突発的なものか[編集]

梶川与惣兵衛によれば、刃傷の少し前に梶川が浅野と話した時には特に異変を感じていなかったといい[195]、刃傷は突発的犯行だった事が推測される[195]。実際、刃傷の無計画さはよく指摘され、吉良を仕留めるのであれば、切りかかるのではなく刺し殺すべきで[195]、江戸城における過去の刃傷事件では、小刀で刺す事により、相手を仕留めている[195]

また田村邸に預けられた浅野内匠頭は家臣に次のように伝えてほしいと依頼したという(『御預一件』)

此段、兼ねて知らせ申すべく候ども、今日やむを得ざる事故、知らせ申さず候、不審に存ずべく候[194]
(このことは予め知らせておくべきだったが、今日やむを得ざる事情で知らせる事ができなかった。不審に思うだろう)

「今日やむを得ざる事情」があったという事は、この日に何かあって突発的に斬りつけたのだともとれる[194]。少なくとも以前からこの日に斬りつけようと計画したわけではないと思われる[194]

一方、『元禄世間話風聞集』には刃傷事件に居合わせた茶坊主のものとされる文書が残っており、これによれば内匠頭は「小用に立つ」といって席を立ち、大廊下を通り、「覚えたか」といって上野介に切りかかったという[196]。これを信じれば、上総介から悪口を言われた直後にカッとなって刃傷に及んだわけではなく、悪口のあと多少なりとも時間をかけた後に切りかかったことになる[196]

賄賂[編集]

当時の文献には吉良が暗に賄賂を要求したのに浅野内匠頭が十分な賄賂をおくらなかった事が両者の不和の原因だとするものがある。ただし、たかだか五千石の高家である吉良から浅野などの大名が指南を受ける場合何らかの贈り物をするのが当然だった[197]

賄賂に関して書かれた文献には例えば『江赤見聞記』の一巻があり、以下のように記されている:

上野介欲ふかき人故、前々御務めなされ候御衆、前廉より御進物等度々これ有る由に付き、喜六、政右衛門、御用人どもまで申し達し、御用人共も度々その段申し上げ候処、内匠頭様仰せにも、御馳走御用相済み候上にてはいか程もこれを進らせらるべく候、前廉に度々御音物これ有る儀は如何しく思し召され候由、仰せられ候。尤も、格式の御付届けの音物は前廉に遣わされ候由也[197]
(上野介は欲が深い人なので、以前に御勤めなさった方も、前もって御進物等を度々していたので、喜六や政右衛門、御用人たちまで伝え、御用人たちも度々その段を申し上げたけれども、内匠頭様は「御馳走御用が済んだ後にはどれほどでも進(まい)らせたいと思う。しかし、前もって度々御進物を贈るのは、如何かと思う」と仰せられました。もっとも、決まった御付届けの進物は前もって遣わされていたということです[197]

文中にある「喜六、政右衛門」は建部喜六(250石)と近藤政右衛門(250石)で、ともにこうした折衝にあたる江戸留守居役である[197]

また事件直後に書かれた『秋田藩家老岡本元朝日記』にも次のようにある

吉良殿日頃かくれなきおうへい人ノ由。又手ノ悪キ人二て、且物を方々よりこい取被成候事多候由。先年藤堂和泉殿へ始て御振舞二御越候時も、雪舟ノ三ふく対御かけ候へハ則こひ取被成候よし。ケ様之事方々二て候故、此方様へ御越之時も御出入衆内々二て、目入能御道具被出候事御無用と御申被成候由二候[197][198]
(吉良殿は平生から横柄な態度で有名な人物だということです。また手の悪い人で、方々から物をせびりなさる事が多いということです。先年藤堂和泉殿(高久、伊勢津藩主)へはじめて御振舞に御越になった時も、雪舟の三幅対の御掛け軸をかけたところ、せびって自分の物にしたということです。このような事を方々でなされるので、こちら様へ御越の時も御出入の旗本衆が内々に、よい御道具は出されない方がよいと御申しなされたという事です[197]

ただしこの記事は事件直後のものなので、内匠頭への同情が入っているかもしれない[197]

尾張藩士の朝日重章も『鸚鵡籠中記』に次のように記している:

吉良は欲深き者故、前々皆音信にて頼むに、今度内匠が仕方不快とて、何事に付けても言い合わせ知らせなく、事々において内匠齟齬すること多し。内匠これを含む。今日殿中において御老中前にて吉良いいよう、今度内匠万事不自由ふ、もとより言うべからず、公家衆も不快に思さるという。内匠いよいよこれを含み座を立ち、その次の廊下にて内匠刀を抜きて詞を懸けて、吉良が烏帽子をかけて頭を切る[197]
(吉良は欲が深い者なので、前々から皆贈り物をして物を頼んでいたが、今度の内匠頭のやり方が不快だということで、何事につけても知らせをせず、内匠頭が間違って恥をかくことが多かった。内匠頭はこれを遺恨に思って座を立ち、その次の廊下で、刀を抜き、声を懸けて吉良の烏帽子ごと頭を斬った)

朝日は当時名古屋にいたから、これが全国的に広まった噂なのであろう[197]

浅野内匠頭のストレス[編集]

『冷光君御伝記』によれば、浅野内匠頭は勅使御馳走役が嫌で仕方がなかったらしく、「自分にはとても勤まらない」と述べている[199]。 御馳走役はほぼ家中をあげて準備をしなければならず、接待費は藩ですべて持たねばならず、しかも典礼の詳細は高家肝煎である吉良の指図を受けねばならないなど、ストレスの溜まる仕事であった[199]。特にこの年は、綱吉が最愛の母を慣例に反してまで従一位に推そうとしていたため、綱吉は公家の接待に熱心であり、例年よりも緊張を強いられた[200]

また内匠頭は11日ころから持病の痞(つかえ、詳細後述)が出るなど、心身に不調をきたしていた[199]史実から考察するに、内匠頭に御馳走役を務めるに当たり心理的ストレスが蓄積され、ストレスの暴発により、刃傷に及んだ可能性も考えられる[199]

前回の勅使御馳走役の差[編集]

浅野内匠頭はこの時二度目の勅使御馳走役であったが、それゆえ「前々の格式」にこだわりすぎ、そこから吉良との確執が生まれたのかもしれない[199]

また前回の勅使御馳走役の後、急激な物価上昇があった為、前回の額面が通用しなくなっていた[199]。 浅野内匠頭が「前々の格式」にこだわりすぎたとすれば、物価上昇ゆえ、現実にそぐわないものになっていたであろうし、 風説にあるように吉良に「付届け」が必要だったとすれば、その額も物価上昇ゆえに少なすぎるものになっていたであろう。

浅野内匠頭の性格[編集]

吉良を治療した金瘡外科の栗崎道有は『栗崎道有記録』で「我慢できない事でもあったのか、内匠頭は普段から短気な人間だったというが、上野介を見つけて小さ刀で抜き打ちに眉間を切りつけた」と述べ[201]、さらに内匠頭と上野介の人間関係はかねてからよくなかったと記している[201]

『土芥寇讎記』という、元禄3年時点での大名の家計、略歴、批評等を書いた本には「内匠頭は智のある利発な人物で、家臣の統率もよく領民は豊かである。しかし女好きが激しく、内匠頭好みの女性を見つけてきた者が立身出世し、女性の血縁者も禄をむさぼる状態にある。昼夜を問わず女色に耽っており、政治は家老に任せきったままだ」とある[202]

そして同書は大石内蔵助と藤井又左衛門を主君の内匠頭を諫めない不忠な家臣としている[202]

元禄14年春に作成された『諫懲後正』には内匠頭は武道を好むが文道を好まず、知恵もなく短慮だが職務を怠らず不行跡なことはないとしている[202]

多門伝八郎は内匠頭が「私は乱心したわけではないから離してほしい」と内匠頭を抱きとめた梶川与惣兵衛に言っていたと書き留めており、当人の言によれば内匠頭は「乱心」したわけではない[203]。 幕府は当初、内匠頭が乱心したと思い、外科の栗崎道有を呼んだが、結局乱心ではないと判断されたため、治療の判断を上野介にゆだね、治療費は上野介の自費になった[203]

否定された理由[編集]

吉良のいじめ[編集]

畳替えのいじめがあったとされる増上寺の山門

史実に俗説を取り交えて書かれた[204]『赤穂鍾秀記』(元禄16年元加賀藩士の杉本義鄰著)の憶測によれば、吉良は元来奢侈で利欲深く、いつも過言し、「付届け」の少ない者には指図を疎かにしたり陰口をたたいたりする人物であったという[204]。 同書によれば、浅野が吉良に付届けをしなかったので吉良は不快に思い、浅野が勅使をどこで迎えるべきかと吉良に問うたところ、「そんな事は前もって知っておくべきだ」と嘲笑し、「あのような途方もないことをいう人間にごちそう人が勤まるか」と少し声高に雑言したという[204]。同書はさらに、勅使が休憩する増上寺宿坊の畳替えを吉良が指示せず浅野内匠頭が危うく失態を招きそうになったという話や、「吉良から無礼な事をされても堪忍すべきだ」と親友の加藤遠江守から浅野が忠告されたという話が載っている[204]

後の「赤穂義士」観に決定的な影響を与えた室鳩巣の『赤穂義人録』(元禄16年10月著、宝永6年改訂)では、さらにはっきりと吉良が儀式作法を伝授する際「賄賂」を受け取っていたと書かれている[204]。 同書によれば、浅野は公私をわきまえず贈り物をする気は全くなかった事が吉良との不和の根本原因となったという[204]。 そして「大広間の廊下」で浅野は勅使の迎え方で吉良から侮辱される[204]。 梶川が「勅答の礼が終わったら連絡してほしい」と浅野に伝えると、吉良は横から口を挟み、「相談は私にすべきだ。そうでないと不都合が生じるでしょう」と浅野を侮辱し、さらに吉良が「田舎者は礼を知らない。またお役目を辱めるだろう」と追い打ちをかけた為、浅野は刃傷に及んだという[204]

しかしこうした記述は刃傷の場に居合わせた梶川与惣兵衛の書いた『梶川与惣兵衛筆記』の記述と矛盾しており、「大胆な虚構」に基づいて書かれたものである[204]

また忠臣蔵のドラマ等では、吉良による以下のような苛めが描かれるが、佐々木杜太郎はこれに対して反証をしている。

  • 増上寺や寛永寺の畳替えが必要なのに、吉良が「畳替えは必要ない」と嘘をついた、というもの。しかし当時の御馳走役の任務に増上寺や寛永寺の警護は入っていたが修繕は入っていないし[205]、刃傷は増上寺の参詣の翌日の事であるので[205]信憑性に乏しい。
  • 殿中での服装は本来、烏帽子大紋なのに、長上下を身に着けるべきだと吉良が内匠頭に嘘をついた、というもの。しかし内匠頭は2度目の御馳走役なのだから、服装に関してはすでに知っているはずであり、信憑性に乏しい[205]
  • 伝奏屋敷に墨絵の屏風が置いてあったが、吉良から難癖をつけられたので、あわてて金屏風に取り換えた、というもの。史実としても刃傷後に伝奏屋敷に引き取りに行った道具の目録に金屏風がある[205]。しかし天保8年の文献に「伝奏屋敷は前々から金屏風であった」と書いてあり、初めから金屏風があったものと思われる[205]。しかも内匠頭は2度目の御馳走役なのだから、この辺も熟知していたはずである。
  • 老中の連名の奏書を吉良が内匠頭に見せなかったというもの。信夫恕軒の『義士の真相』などに載っている説である[205]が、事件の場に立ち会った梶川与惣兵衛による『梶川与惣兵衛筆記』には奏書の事は書いておらず[205]、信憑性に乏しい。

持病説[編集]

浅野内匠頭は3月11日未明に勅使一行が到着してから心身に不調をきたしており持病の痞(つかえ)が出たと『冷光君御伝記』にある[206]

立川昭二はこの痞は今で言う偏頭痛か緊張性の頭痛だろうと考察している[207]。 一方痞とは癪の事とも解され[208]、中島陽一郎の『病気日本史』によれば、癪は「胃痙攣、神経性の胃痛、心筋梗塞、慘出性肋膜炎、胃癌、後腹膜腫瘍、脊髄の骨腫瘍、ヒステリーなどを含んでいる」と考えられる[208]

『江赤見聞記』によれば、浅野内匠頭は「持病の痞のために行動に対する抑制が利かなくなり刃傷に及んだ」という趣旨の事を述べている[208]が、痞が癪の事だとすれば、「痞が刃傷の原因だとはとても信じられない」[208]。 宮澤誠一も、「痞」が精神発作を起こしたという説を、「単なる推測の域を出ない」ものとしている[204]

また浅野内匠頭の母の弟である内藤和泉守忠勝も延宝八年に殺害事件を起こしている[209]ため、浅野内匠頭も刃傷を起こしやすい血縁にあったという説があり、『徳川実記』にも母方の伯父(つまり内藤和泉守)が狂気の者であったと記しているが[210]、この説は「そう考えれば考える事もできる」という程度のものである[209]。 しかも『徳川実記』は江戸後期に編纂されたもので、必ずしも当時の記録によったものではない[210]

仮にこうした持病説が正しいとしても、それは事件を及ぼす為の要因の一つであってもそれだけで事件の原因を十分説明しきれるものではない[210]

塩の生産をめぐる対立[編集]

赤穂の塩田(赤穂市立海洋科学館

浅野内匠頭と吉良上野介の確執の原因は、赤穂と吉良地方におけるの製法や販路の問題で対立があった事が原因とする説がある。

吉良地方に古くから伝わる伝説[211]によれば、吉良上野介が自身の知行所で塩田を開発しようとして、塩の生産で有名な赤穂藩に隠密を放った。隠密は赤穂藩で捕らえられたが何とか逃げ帰り、吉良領に赤穂の入浜塩田の技術を伝えたという[211]

また昭和22年に田村栄太郎の書いた『裏返し忠臣蔵』でも塩に関する対立説を扱っており[211]、昭和29年には吉良出身の作家の尾崎士郎も随筆『きらのしお』でこの説を唱え[212]、他にも海音寺潮五郎南條範夫もこの説に沿った本を出している[211]

史実においても当時赤穂が塩田の技術で全国をリードしていたのは事実ではあるが[211]、この技術は決して秘密にされていたわけではない[211]。当時、赤穂の製塩技術は瀬戸内海各地に急速に広まっており[211]、仙台藩が塩業技術者を依頼してきたときも赤穂藩はこれに応じており[211]、吉良との間に塩業で確執が生まれるとは考え難い、と比定する意見がある[211]

また赤穂の塩が主に大阪で売られていたのに対し、吉良産の「饗庭塩」は三河など東海方面で売られており[213]、販路・商圏の点でも直接の競合関係になかったとされる[213]

浅野内匠頭任官のときからの遺恨という説[編集]

『赤城盟伝』には「上野介に宿意があるのは一朝一夕の事ではない。ずっと前からの事である」と書いてあり、この「ずっと前の宿意」が寛文11年浅野内匠頭が将軍家綱にはじめてお目通りした際、その場にいた上野介が内匠頭を侮辱したものだとするもの[205]。『赤穂記』にこの説が書いてあるが、寛文11年の段階では内匠頭は5才であり、この説には信憑性がない[205]

衆道に関する怨恨[編集]

浅野内匠頭のお気に入りの美しい小姓の日比谷右近を吉良上野介が懇望したが、断られたため確執ができたという説。

『誠忠武艦』という「幕末に成立した赤穂事件の経緯を真偽取交ぜてのべた」[214]文献にこの説がでている[205]。また『正史実伝いろは文庫』の十三回にも同じ話が載っている[215]

しかし福本日南は「吉良上野介は61歳の白髪翁、最早若い衆の争いでもあるまい」としている[205]

茶器に関する怨恨[編集]

浅野家伝来の「狂言袴」という茶入れを吉良が欲しがったが、断られたため確執ができたとする説。

これは「余程後世になっていい出された説」[205]で、高山喜内の『元禄快挙義士の真相』に載っている[205]

一休の書画の鑑定に関する怨恨[編集]

浅野内匠頭と吉良が茶会で出会い、山田宗徧が持ってきた一軸を吉良が「一休の真筆だ」といったところ、内匠頭がそうでない証拠を出して吉良をやり込めたので、確執ができたとする説[205]

実録本の『赤穂精義参考内侍所』に載っている説である。

しかしこの話は史料には見当たらず、しかも浅野内匠頭と吉良が茶会で平素から交流があったとしており、事実とは考えにくい[205]

内匠頭の謡曲[編集]

明治末期に著された小野利教の『赤穂義士真実談』にでている話[205]

元禄13年に内匠頭が謡曲熊野を舞ったところ、上野介から「クセがよくない」と非難を受けた事を内匠頭が根に持ったとするもの[205]。 これも一休の書画と同じ理由で信憑性がない[205]

寺坂吉右衛門問題[編集]

四十七士のひとりである寺坂吉右衛門は討ち入りに加わったにも関わらず、泉岳寺に引き上げた時には姿を消していた。 これは古来から謎とされており、逃亡したという説から密命を帯びて消えたという説まで様々である。

そもそも討ち入りに参加しているか[編集]

今日、寺坂が姿を消したのは討ち入り後の引き上げの際だと考えられているが、事件当時の資料にはそもそも討ち入りに参加していないとするものもある。例えば、内蔵助、原惣右衛門、小野寺十内が連名で寺井玄溪に出した書状には

  • (1)「寺坂吉右衛門の儀、十四日暁迄これ在るところ、彼屋敷へは相来たらず候、かろきものの儀、是非に及ばず候」[216]

と、「十四日暁」まではいたが吉良邸にはいかなかったと書いてある。(「かろきもの」という発言は寺坂が四十七士の中で最も身分が低く唯一の足軽である事を指していると思われる)。なお当時の感覚では夜明けが来るまでを「十四日」とみなしていたので、「十四日暁」というのは今日の言葉でいえば十五日の夜明けの事である[216]

また原惣右衛門が堀内伝右衛門に対して「寺坂は討ち入り前までいたが討ち入り時に逐電した」という趣旨の事をいっており[216]、やはり寺坂は討ち入りに参加していない事になる。

しかし八木哲浩は以上の発言は「誤解か作為のあるもの」[216](すなわち間違いか嘘を含んだもの)で実際には寺坂は討ち入りに参加しているのではないかと述べている[216]。その証拠として八木哲浩は、『堀内伝右衛門筆記』において吉田忠左衛門が討ち入りについて述べている箇所の記述と寺坂が『寺坂信行筆記』で討ち入りについて述べている箇所の記述がほぼ同一である事を挙げている[216]。『堀内伝右衛門筆記』と『寺坂信行筆記』は互いに相手を参照できない状況で書かれており、両者の内容が偶然一致する事はありえない[216]。したがって、寺坂が討ち入りに参加して吉田忠左衛門とともに行動していたと解釈するのが正しいと思われる[216]

そして(1)の書状に関しては、寺坂が公儀の追及から逃れられるように討ち入りに参加しなかったと嘘をついたのではないかとしている[217]

また八木哲浩は寺坂が引き上げの早い段階で離脱したのだと推測しており[216]、その理由として『寺坂信行筆記』には引き上げの記述が短い事と、寺坂の主人である吉田忠左衛門が仙石邸に行った事実が記載されていない事を挙げている。さらに『寺坂信行筆記』の「新大橋へ係り」という記述も理由として挙げている。というのも実際には引き上げの際に新大橋を通ってないし[216]、仮にこの記述を「新大橋の近くを通った」と解するにしても今度は永代橋を渡った事を記述してないのがおかしい事になるからである[216]

逃亡か否か[編集]

泉岳寺における寺坂吉右衛門の供養塔(明治元年建立)。戒名が「逐道退身信士」と逃亡説に基づいたものになっている

『堀内覚書』にも吉田忠左衛門が

  • (2)「此者(=寺坂)は不届者にて候。重ねては名をも仰せ下さるまじく」[218]

と発言したとある。これを字義通りにとれば、寺坂は逃亡したのだという事になろう。

実際、『堀内覚書』を書いた堀内伝右衛門は、一方では寺坂は吉良邸まできて「欠落」したらしいと聞き、他方では寺坂は仇討の成就を伝える使いを申し付けられたのだと聞き判断に迷っていたが、(2)の忠左衛門の言葉で「実の欠落」なのだと推測した[219]

しかし逃亡説を支持しない立場からは、寺坂の密命を隠すためにあえてこのような嘘をついているとも考えられる[218]

実際下記のように、寺坂は単純に逃亡したのではなかろうと推測される文献が残っている。

  • (3)元禄16年2月3日に忠左衛門が娘婿伊藤藤十郎に当てた書状には「寺坂の事は是非を申しがたい。一旦公儀へ提出した書状に名が出ているので仲間として是非を申せない」、「仙石様屋敷でも(中略)一人が欠落ちしたと申し上げてある」、「寺坂についてはうかつな事は言わないようにしてもらいたい」と書かれている[220]
  • (4)同年2月26日には忠左衛門の親戚拓植六郎右衛門の書状に「吉右衛門はさりとては〳〵頼もしき心中、忠左衛門の頼もあるから自身に引とって世話したい」とある[218]
  • (5)忠左衛門の親戚である平地市右衛門の宝永7年の書状に「寺坂吉右衛門の身の上気の毒である」とある[218]

佐々木杜太郎は以上の書状を根拠にして逃亡説を退けている[218]

寺坂当人も『寺坂信行筆記』において

  • 私儀も上野介殿御屋敷へ一同押し込み相働き、引き払いのとき子細候て引き別れ申し候[221]

と、事情があって離れた旨を書いている

佐々木杜太郎はさらに逃亡説を退けている理由として以下をあげている

  • 内蔵助の(1)の書状に関しては用意周到な内蔵助が公儀への報告と矛盾する事を書くとは思えない[218]
  • 忠左衛門の(2)の発言における「重ねては名をも仰せ下さるまじく」という言い方は「この件についてはこれ以上触れるな」と言外に言っているようにも取れる[218]
  • 寺坂は12年も吉田忠左衛門の娘婿・伊藤家と忠左衛門の妻子の面倒を見ており、逃亡した人間ができる事とはおもえない[218]

野口武彦も逃亡説は退けており、理由として以下をあげている

  • 内蔵助の(1)の書状に書かれた討ち入り参加者のリストには寺坂の名が載っているにも関わらず、寺坂に関しては前述のように「是非に及ばず候」と書いてある。これは「今後寺坂については触れるな」というメッセージだとも取れる[222]
  • (2)の忠左衛門の件に関しては佐々木と同じく言外の意図を推測している[222]

一方八木哲浩は寺坂が自分の考えで姿を消したのだろうとして[217]逃亡説を支持している。八木哲浩は後述する理由により密命説を退けた上で、(3)の書状には忠左衛門が伊藤に寺坂の事を頼むとも書いてあるので、忠左衛門が寺坂をかばおうとする姿勢が見て取れるとしている[217]

密命を帯びていたか否か[編集]

密命説に肯定的な意見[編集]

野口武彦は前述したように内蔵助も忠左衛門も寺坂に関して隠したがっている以上、寺坂は何らかの密命を帯びていたのだろうとしている[222]

松島栄一は討ち入りの件を広島浅野本家などに報告させるため、内蔵助達が寺坂を逃がしたのではないかとしている[223]。寺坂は身分が低い足軽である為追及されることもなく、報告役として適任だった[223]

実際、事件当時から寺坂は広島浅野本家に報告に行ったのだろうという推測があり、例えば吉田忠左衛門が仙石邸で「組足軽一人が吉良討ち取り後に見えなくなった」といったところ仙石家中のものは広島の浅野大学のもとに事件の報告に行ったのだろうと推測したし[224]、堀内伝右衛門も同様の事を言っている[224]

また『寺坂信行私記』には寺坂の孫が

  • (6) 祖父吉右衛門儀は、その場より芸州江注進のため罷(まか)り越す。右芸州へ罷り越し候訳(わけ)は、内匠頭殿舎弟大学との居られ候に付き、内蔵助より差図(さしず)に付き罷り越し候[221]

と内蔵助の指図により、浅野大学に報告しに行くためにその場を離れたと記している。ただし、これは後になって書かれたものなのでそのまま信じることはできない[221]

初期の実録本である『赤穂鍾秀記』も密命説の立場をとり、これを室鳩巣の『赤穂義人録』も取り入れた事で、寺坂を抜いた「四十六士説」ではなく寺坂を入れた「四十七士説」は生まれた[219]

密命説に否定的な意見[編集]

一方、宮澤誠一は、(2)と(3)により、寺坂と忠左衛門には「何か二人の間で個人的に複雑な事情についての了解があったのかもしれない」[219]としつつも、密命説に対しては批判的で、その理由として以下の二つを挙げている。

第一に、仮に内蔵助や忠左衛門が寺坂をかばうためにあえて嘘をついているにしても、私信にまで「欠落」したと書く必要はないはずである[219]。寺坂とは直接関係がないと思われる四十七士の一人・三村次郎左衛門すらも泉岳寺で母にあてて書いた手紙に、寺坂が立ち退いた旨を述べている[219]

第二に、そもそも討ち入りが終わった時点で浅野大学らに密かにどうしても伝えなければならない事柄が果たしてあるのか疑問である[219]。仮にあったとしても、浅野大学が差し置きになったときすら主家に累が及ぶのを恐れて会うのを避けたほど慎重な内蔵助が、討ち入りの顛末を知らせる使者を立てるとは思えない[219]。また内蔵助は大石無人・三平に書簡を出し、死後の供養を頼むとともに「芸州・上方へも仰せ遣わされ下さるべく候」と述べている[219]。つまり危険を冒して寺坂を派遣するまでもなく、無人や三平に言伝を頼むなど、もっと安全な方法で討ち入りの報告ができたはずである[219]

佐々木杜太郎も宮澤誠一と同様、浅野大学が差し置きの際にすら会うのを避けた内蔵助が寺坂を浅野大学や瑤泉院への報告に使うはずがないとして密命説を退けている[218]

八木哲治も寺坂が密命をおびて広島の浅野大学のもとに行ったという説を退けている。 前述のように寺坂の孫は『寺坂信行私記』に寺坂が芸州広島に行ったと書いているものの、伊藤十郎太夫浩行が寺坂から聞き書きした史料には広島に行ったとは書いていない[224]。寺坂の孫と違い伊藤が寺坂をかばう立場にはない事を考えると、伊藤の聞き書きの方が信用でき、寺坂は広島に行っていないと見る方が自然ではないかと八木哲治は述べている[224]。史料から確実に言えるのは寺坂が討ち入り後、吉田忠左衛門の娘と孫がいる播磨国亀山へ向かった事だけである[224]

山本博文も寺坂の孫が書いた(6)の文章に関し、足軽の身分が「内匠頭殿」と書くはずがないとして(6)を孫による弁明なのだと解釈している[225]

また『寺坂信行私記』は『寺坂信行自記』に加筆して作られたものだが、加筆部分は例えば寺坂の名前の入った口上書など、寺坂が討ち入りに参加した事を証拠づける意図が見え隠れするものが多い[224]。したがって前述の芸州広島に行ったとする加筆も、寺坂の作為と解釈するべきであろう[224]

なお前述した伊藤による聞き書きには、「大石から播磨に向かうように言われたので、皆が泉岳寺から仙石邸にいくのを見届けて播磨に行った」という趣旨の事が記載されているが、前述のように寺坂は泉岳寺に行っていない可能性が高いので、これも寺坂の作為がある弁明であると考えられる[224]

さらに言えば、前述のように寺坂は泉岳寺引き上げの早い段階で姿を消していると考えられ、大石が播磨にいくよう説得する暇がなかったと思われる[226]

また密命説では寺坂の身分が低かったから寺坂を報告役に選んだとするが、大石は身分が低いものの討ち入り参加を歓迎しており、身分が低い事で差別される事はなかったのではないかと八木哲治は述べている[226]

その他の説[編集]

佐々木杜太郎によると、逃亡説・密命説以外でこれまで論じられた説は以下の3つになる[218]

  • 公儀に対する遠慮:高家に武士が乱入して首を取っただけでも公儀から秩序の破壊とみなされかねないのに、身分の低い足軽である寺坂吉右衛門が討ち入りに加わっていたら問題視されるので、寺坂を除外したというもの[218]
  • 亡君の名誉の為:身分の低い足軽である寺坂が討ち入りに加わっては亡君の名誉にならないので、寺坂を除外した[218]
  • 寺坂の本意から:寺坂は吉田忠左衛門に仕える足軽なので、直接の主人は浅野内匠頭ではなく忠左衛門である。よって他の者と違い、討ち入り後は忠左衛門の意思を重んじて退去し、忠左衛門の家族に活躍を物語ったとするもの[218]

佐々木杜太郎は「公儀に対する遠慮」や「亡君の名誉の為」という理由であるなら、なぜ最初から寺坂吉右衛門を同志に入れたのかという疑問がわくという理由により、最後の「寺坂の本意から」の説をとっている[218]

また山本博文は武士ではない寺坂を哀れんで吉田忠左衛門が寺坂を逃がしたのではないかとしている[227]

その他特記事項[編集]

「此間の遺恨、覚えたるか」[編集]

『梶川与惣兵衛筆記』の東大史料編纂所写本には、浅野内匠頭は刃傷の際、「此間の遺恨、覚えたるか」と言ったとされるが、同じ『梶川与惣兵衛筆記』でも南葵文庫本(東大図書館所蔵)には「声をかけた」としか書かれておらず、本当に内匠頭がこの発言をしたのかはよくわからない[228]

刃傷の場所[編集]

浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及んだ場所は通説では江戸城の松之大廊下であるが、本当の刃傷の場所は中庭を隔てて反対側の柳之間の前の廊下ではないかという説がある[229]

その根拠は、松之大廊下は将軍や御三家、勅使などの特別に地位の高い人が通る場所で高家の吉良が通れる場所ではない事と、赤穂浪士切腹直後に書かれた『易水連袂録』に「浅野と吉良が柳之間で言い争いをした後に吉良が廊下を逃げていき御医師之間の前で浅野が刃傷に及んだ」という趣旨の事が書かれている事である[229]

しかし宮澤誠一は、刃傷の場所は通説通り松之大廊下であろうとし、その根拠として事件の場に居合わせた梶川与惣兵衛による『梶川氏日記』に刃傷の場所が松之大廊下だと書いてある事と、田村家の記録に松之大廊下で事件があったと推定される場所に勅使と高家の控える定位置が記載されている(ので高家の吉良はこの日松之大廊下にいた可能性が高い)事を挙げている[229]

にもかかわらず『易水連袂録』に柳之間から御医師之間へ続く廊下で刃傷が起こったと書いてあるのは、柳之間と御医師之間がそれぞれ浅野を目付に引き渡した場所と吉良が他の高家に引き取られた場所なので、それが混同されたものであろう[229]。そもそも吉良と浅野は『易水連袂録』の記述とは異なり口論をせずに急に斬りかかっている[229]。おそらく、「口論の上刃傷に及んだ」という分かりやすいシナリオが俗説として流布した結果、大名や勅使が控える故に口論しにくそうな松之大廊下よりもより自然な場所として柳之間の前の廊下で刃傷に及んだというシナリオが流布されたのであろう[229]

太平記との関係[編集]

元禄時代に『太平記』は、太平記読みや人形浄瑠璃を通じて武士はもちろん町人にも広く浸透していた[230]。 このため赤穂浪士達は書簡や日記の中で、赤穂事件を太平記になぞらえて表現している[230]

たとえば進藤源四郎は内匠頭刃傷の後の赤穂藩の混乱を太平記における南北朝の動乱にたとえている[231]し、堀部安兵衛も太平記になぞらえて大石に決起を促している[231]し、小野寺十内の書簡にも太平記への言及がある[230]

また討ち入り後には大石を太平記の忠臣・楠木正成の再来とみなす落首が出たと『易水連袂録』に載っているし[232]室鳩巣も大石を楠木正成に例えている[232]

浪士お預けに関する俗説[編集]

赤穂浪士の討ち入りの報告を受けた際、幕府の筆頭老中阿部正武は「このような忠義の士が出た事はまさに国家の慶事」と称賛し[233]、将軍綱吉も報告を聞いて感激し、処分を熟慮して決めたいとして一旦浪士達を4大名家に御預けにしたのだといわれる[233][234]。しかし宮澤誠一によれば、この話は初期の実録本『赤穂鍾秀記』に見られる話をもとにしており、史料的に疑わしく、いささか信のおきかねる話だという[234]。しかも『赤穂鍾秀記』では順序が逆で、綱吉が報告を受けてから阿部の称賛の話が出ている[234]

また12月23日に寺社奉行、大目付、町奉行、勘定奉行計十四名が連名でこの事件の処分を老中に答申した文書とされるものが残っており、『赤穂義人纂書』(補遺)に「評定所一座存寄書」という名称で載っているが、山本博文と宮澤誠一によればこの文章は偽書であるという[235][236]。偽書だとされる根拠はまずこの文章には上杉家の領地を召し上げるべきと書いてあるが、幕府の指示を守って動かなかった上杉家を処分するはずがないし[235]、幕府は吉良邸討ち入りを仇討ちと認めなかったのにこの文書では赤穂浪士を真実の忠義者と讃える[236]など不自然な点が多いからである。

一方、八木哲浩は上述した不自然な点をみとめつつも、「評定所一座存寄書」は偽書ではないだろうとし、その根拠として『徳川実記』に文書の記述と符合する部分がある事をあげている[237]。『徳川実記』は江戸後期に成立したものなので、『徳川実記』の記述も偽書を写している可能性もあるが、八木は幕府内に残された何らかの確かな史料を元にしたとする方が自然ではないかとしている[237]

処分決定に至るまでの議論[編集]

「切腹」とする処断が決定するに至るまでに、幕府内でどのような議論が成されたのかに関し、2つの異なる話が伝えられる。

1つは『徳川実記』に載っている話で、この史料によれば幕閣での議論が収束せず、日光門主公弁法親王に意見を求めたという。 このとき公弁法親王は以下の趣旨の返答をし、これにより切腹が決まったと記されている。法親王曰く「彼らが主の讐を遂げた事は立派だが、その志を果たし今は心残りはないだろう。彼らは公の刑に身を寄せると申し出ているのだから今さら彼らを許しても他家につかえる事もできない。彼らの武の道を立て死を賜った方がよかろう」[107]

しかし『徳川実記』は事件から百年以上経ってから成立した史料であり、しかも『徳川実記』は以上の事実を伝聞として伝えるのみでその立証・真偽を保留している[238][107]。 ゆえに、おそらく将軍綱吉と懇意であった公弁法親王に仮託して述べた虚説であろう、とする説がある[238]

もう一つの話は『柳沢家秘蔵実記』に載っている話で、この史料によれば、老中等が赤穂浪士の討ち入りは「夜盗の輩」同然だから「打ち首」にすべきだと一旦は決定したのだという[238]。しかしこの決定に不満を持った側用人柳沢吉保が家臣の儒者・荻生徂徠に相談したところ、徂徠は「赤穂浪士の行為は、将軍綱吉が政務の第一に挙げている忠孝の道にかなったものだから、打ち首という盗賊同様の処分に処すべきではない。彼らに切腹を賜れば赤穂浪士の宿意も立ち、世上の示しにもなる」という趣旨の事を述べた[238]。この意見を将軍綱吉に「上聞」したところ綱吉は大いに喜び、一転して切腹に決まったと記されている[238]

徂徠が幕府に提出した答申書と言われる『徂徠儀律書』でもやはり切腹を献言しており、この史料の趣旨に拠れば「赤穂浪士の報讐は義にかなっているが、それは自己の一党に限る話だから所詮は私の論である。したがって天下の規矩である法を維持する立場に立って武士の礼にかなう切腹を申しつければ、上杉家の願いにもこたえ、赤穂浪士の忠義も認めた事になる」という論法を主張したとされる[238]

しかしこうした話にも疑問が残り、『徂徠儀律書』の内容は同じく徂徠が著した『四十七士の事を論ず』の主張と決定的に矛盾しており、前者では赤穂浪士の討ち入りを「義にかなった」仇討ちであるとみなしているのに、後者では討ち入りを不義とみなしており仇討ちであるとも認めていない[238]

以上の事から宮澤誠一は『徂徠儀律書』と称される史料は徂徠が書いたものではなく、『柳沢家秘蔵実記』も柳沢吉保が自己弁護の為に事実を転倒させているのではないかと述べている[238]。 八木哲浩も宮澤誠一と同様の理由で『徂徠儀律書』は後人の作だろうと述べている[237]

上杉綱勝の毒殺[編集]

吉良上野介が上杉家を乗っ取るために上杉綱勝を毒殺し、吉良の息子の三之助に上杉家を継がせたという俗説がある。

三之助が上杉家を継いだというのは事実であるが、その為に綱勝を毒殺したという説には「何ら確かな史料的根拠がない」[239]。 この毒殺説は三田村鳶魚が『元禄快挙別録』の中で述べた説であるが[239]、鳶魚は後にこの説を撤回している[240]

『藩翰譜首書』には「綱勝、吉良の宴に赴き、帰路興中にて血を吐き、後七日卒す」と書いてあり、毒殺説はこれを吉良が宴の際に毒を盛っため綱勝が死去したと曲解したものである[241][要高次出典]

また、綱勝が死去したからといって吉良が上杉家を乗っ取れるとは限らない。結果として吉良の息子が養子に入り上杉家を継ぐ事にはなったが、綱勝の死去の時点では吉良家は複数ある養子候補のひとりに過ぎなかったからである[242][243][要高次出典]

浪士の娘だと騙る女たち[編集]

赤穂浪士が切腹した後、浪士の娘だと騙る女が何人か登場した。

妙海尼堀部安兵衛の娘だと騙り、清円尼は大石内蔵助の娘だと騙り[244]長国寺の尼は武林唯七の娘だと騙った[244]

吉良の服装[編集]

映画やテレビドラマでは、松之大廊下での刃傷事件時の吉良義央(従四位上左近衛権少将)の装束が狩衣あるいは大紋となっているのが見受けられるが、映画『元禄忠臣蔵』などに見られる狩衣は四品侍従成していない従四位下の者)の装束、映画『赤穂浪士 天の巻 地の巻』などに見られる大紋は侍従成していない五位の者の装束であり、朝廷との交渉を職務とする高家(初任従五位下侍従)の公式行事での装束は昇殿もできる直垂である。このうち前者は、「侍従・四品・諸大夫」と列挙した場合の「四品」は、あくまで「侍従成していない従四位の者」に限られるのを「四位の者全員」と解した時代考証の誤りによるところが大きい[245]。後者は、大紋(大紋直垂)と直垂の外見上の差は家紋の有無だけであり、見栄えからあえて大紋を使ったフィクションとも考えられる。

後世の顕彰[編集]

博物館・資料館[編集]

類似の事件[編集]

類似の刃傷事件[編集]

赤穂事件以前に起こった江戸城内での刃傷沙汰には次のものがある。

  • 寛永4年(1627年):小姓組猶村孫九郎が、西の丸で木造氏、鈴木氏に切りつけた事件。加害者猶村は殿中抜刀の罪により切腹改易、被害者鈴木はその時の傷がもとで死亡。木造は逃げたことを咎められ、改易となった。加害者は死罪、被害者は死亡と改易の例。
  • 寛永5年(1628年):目付豊島信満が、西の丸表御殿で縁談のもつれから老中井上正就に斬りつけ、正就と制止しようとした青木義精を殺害し、その場で自害した(豊島事件)。加害者・被害者共に死亡の例。
  • 寛文10年(1670年):殿中の右筆部屋で、右筆の水野伊兵衛と大橋長左右衛門が口論になり、水野伊兵衛が刀を抜いた。水野伊兵衛は殿中抜刀の罪で死罪となった。喧嘩相手の大橋長左右衛門は無罪。加害者は死罪、被害者は無罪の例。
  • 貞享元年(1684年):若年寄稲葉正休が、本丸で大老堀田正俊を殺害し、正休もその場で老中らによって殺害された事件。加害者・被害者共に死亡の例。

後年の例としては享保10年7月28日 (旧暦)1726年8月25日)に江戸城本丸で発生した事件がある。水野忠恒松本藩主7万石)が扇子を取りに部屋に戻ったところ、毛利師就(長府藩主5万7000石)が拾ったが、そのとき毛利は「そこもとの扇子ここにござる」と薄く笑ったため、水野は侮辱されたと思い、毛利を討とうと斬りかかった。しかし、水野は周りにいた者に取り押さえられ、水野も毛利も双方が助かった。このとき将軍徳川吉宗は、水野の行動を乱心によるものであると裁定し、秋元喬房に預かりとして改易に処しながらも切腹はさせず、また親族の水野忠穀に信濃国佐久郡7000石を与えて水野家を再興させた。そのうえで毛利家は咎めなしとした。その結果、水野家からも毛利家からも不満の声は上がらなかった。同じ事例でも吉宗と綱吉の違いがここにあると言われる。


類似の討ち入り事件[編集]

浄瑠璃坂の仇討[編集]

赤穂浪士の吉良邸討入りに類似した事件には、討入りの30年前に起こった寛文12年(1672年)の浄瑠璃坂の仇討がある。 浄瑠璃坂の仇討宇都宮藩を脱藩した奥平源八が寛文12年(1672年)2月3日に父の仇である同藩の元藩士奥平隼人を討った事件である。 源八の一族40人以上が徒党を組んで火事装束に身を包み、明け方に火事を装って浄瑠璃坂の屋敷に討ち入ったという方法などは、30年後に起こる元禄赤穂事件において赤穂浪士たちが参考にしたとされている。 源八ら一党は、幕府に出頭して裁きを委ねた。幕府は本来ならば死罪であるところを死一等を減じて伊豆大島への流罪という寛大な処分を行った。 恩赦後、一党は他家へ召抱えられた。 この事件を知っていた赤穂浪士は同様の寛大な処置を期待していた可能性もある[248]

深堀事件[編集]

深堀事件(ふかほりじけん)は、元禄13年12月19日(1701年1月16日)から12月20日(同1月17日)にかけて起こった、肥前国天領長崎(現・長崎県長崎市)において長崎会所の役人と佐賀藩深堀領の武士(家老格深堀鍋島家の家中のこと)の間に起こった騒動。

創作と史実の違い[編集]

天野屋利兵衛[編集]

天野屋利兵衛は、大坂の惣年寄を勤めた実在の人物「天野屋兵衛」の事だとする説もある[249]。しかしこの人物は赤穂藩とは無関係である。

南部坂雪の別れ[編集]

南部坂の別れは創作である[83]。大石は瑤泉院に『金銀受払帳』その他帳面類を添えた書状を、瑤泉院の用人落合与左衛門に届けている[83]が、これは手紙を送っただけで大石が直接南部坂の瑤泉院のもとへ向かったわけではない[83]。(なお書状の日付は元禄15年11月29日付であるが、『江赤見聞記』(巻六)によれば、この書状を実際に出したのは討ち入り当日の晩であるという[250]。大石は討ち入りの計画が露見するのを恐れ、直前まで書状を手元に置いておいたのである[250]。) また12月9日付の書状には討ち入りする決意と吉良邸討ち入りの時に持参する口上書の写しが入っている[83]

赤埴源蔵、徳利の別れ[編集]

史実では赤埴には兄はおらず弟と妹がいるだけである[251]。 史実において赤埴は元禄15年12月12日に妹の夫である田村縫右衛門のもとを訪ねている[251]。その日赤埴が普段より着飾ってた事に関して縫右衛門の父から苦言を呈されたが、赤埴は苦言に感謝の意を述べ、一両日中に遠方に参るためあいさつに来た旨を述べた。そして縫右衛門と杯を交わして別れている[251]

事件当日の天気[編集]

史実では数日前に降った雪が積もっていたものの[252]、討ち入り当日は晴れていた[252]。また空には月が輝いていた[252]。 月は満月に近いが、事件時刻には月は大分西の空の低い場所にあったため、月齢から考えるほど明るくはなかった[253]

山鹿流陣太鼓[編集]

大石側の史料である『人々心覚』、『寺坂信行筆記』、『富森筆記』には、笛や鉦を持参した話は載っているが、太鼓を用意したとは書かれていない。

浪士の装束[編集]

史実では11月初めの覚書ですでに「黒い小袖」に「モヽ引、脚半、わらし」に決まっており[254]、あとは思い思いの服装でよかった[254]。全員が一様であったのは定紋つきの黒小袖と両袖をおおった合印の白晒くらいである[254]。衣類の要所要所には鎖を入れて防備を固めた[254]

上杉挙兵の制止[編集]

兵を挙げんとする上杉綱憲を止めたのは、千坂でも色部でもない。 高家で上杉屋敷にしばしば訪問していた畠山下総守(上杉義春の曽孫)が訪れて、「江府の騒動」になるのは畏れ多いので討手を出さないようにという老中の言葉を伝えたため、幕命に背く事ができず藩士を送らなかったのだという。

脚注[編集]

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  1. ^ 諱の読みは諸説あるが、愛知県西尾市の華蔵寺に収められる古文書の花押などから「よしひさ」と考察される。
  2. ^ 宮澤(1999) p146
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  5. ^ 宮澤(2001) p28、p147-151
  6. ^ 例えば1888年の『江戸本所讐討 : 赤穂浪士吉良義英』 森仙吉編、東京屋 近代デジタルイブラリー
  7. ^ 宮澤(2001)山本(2013)
  8. ^ 野口(2015) p70
  9. ^ a b c d e f 山本(2012a) 第一章一節「梶川与惣兵衛の証言」
  10. ^ a b c d e 山本(2012a) 第二章二節「大石の真意」
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  12. ^ a b c d 山本(2012a) 第四章二節
  13. ^ a b c d e f 山本(2012a) 第四章三節
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  23. ^ 山本(2012a) 第一章一節「梶川与惣兵衛の詳言」
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  26. ^ 『一関藩家中長岡七郎兵衛記録』宮澤(1999) p44より重引。
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参考文献[編集]

歴史に関する文献[編集]

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  • 赤穂市総務部市史編さん室 『忠臣蔵第一巻~第七巻』 兵庫県赤穂市、1989年(昭和64年)~2014年(平成26年)。
  • 野口武彦 『忠臣蔵―赤穂事件・史実の肉声』 ちくま新書、1994年(平成6年)。ISBN 978-4480056146。
  • 野口武彦 『花の忠臣蔵』 講談社、2015年(平成27年)。ISBN 978-4062198691。
  • 田口章子 『おんな忠臣蔵』 ちくま新書、1998年(平成10年)。ISBN 978-4480057808。
  • 宮澤誠一 『赤穂浪士―紡ぎ出される「忠臣蔵」 (歴史と個性)』 三省堂、1999年(平成11年)。ISBN 978-4385359137。
  • 谷口眞子 『赤穂浪士の実像 歴史文化ライブラリー 214』 吉川弘文館、2006年(平成18年)。ISBN 978-4642056144。
  • 田原嗣郎 『赤穂四十六士論―幕藩制の精神構造 (歴史文化セレクション)』 吉川弘文館、2006年(平成18年)。ISBN 978-4642063036。
  • 山本博文 『これが本当の「忠臣蔵」赤穂浪士討ち入り事件の真相』 小学館101新書、2012年(平成24年)。ISBN 978-4098251346。
  • 山本博文 『「忠臣蔵」の決算書』 新潮新書、2012年(平成24年)。ISBN 978-4106104954。
  • 山本博文 『赤穂事件と四十六士 (敗者の日本史)』 吉川弘文館、2013年(平成25年)。ISBN 978-4642064613。
  • 山本博文 『知識ゼロからの忠臣蔵入門』 幻冬舎、2014年(平成26年)。ISBN 978-4344902886。

史料[編集]

その他[編集]

関連書籍[編集]

  • 『元禄赤穂事件』(学研歴史群像シリーズ57、1999年)ISBN 4056020086
  • 会田雄次、南條範夫ほか『四十七士の正体 【真説・元禄忠臣蔵】』ワニ文庫、1998年
  • 井沢元彦『逆説の日本史14近世暁光編』小学館2007年
  • 伊東成郎『忠臣蔵101の謎』(新人物往来社、1998年) ISBN 4404026684
  • 円堂晃『政変「忠臣蔵」―吉良上野介はなぜ殺されたか?』(並木書房、2006年)ISBN 4890632093
  • 勝部真長『忠臣蔵大全―歴史ものしり事典』(主婦と生活社、1998年) ISBN 4391608529
  • 菊地明『図解雑学 忠臣蔵』(ナツメ社、2002年)ISBN 4816333592
  • 佐藤孔亮『「忠臣蔵事件」の真相』(平凡社新書、2003年)
  • 高野澄『忠臣蔵とは何だろうか 武士の政治学を読む』(NHKブックス日本放送出版協会、1998年)
  • 西山松之助『図説 忠臣蔵』(河出書房新社ふくろうの本、1998年) ISBN 4309725872
  • 吉田豊・佐藤孔亮『古文書で読み解く忠臣蔵』(柏書房、2001年) ISBN 4760121722
  • 山本博文『忠臣蔵のことが面白いほどわかる本―確かな史料に基づいた、最も事実に近い本当の忠臣蔵!』(中経出版、2003年) ISBN 4806119237

関連項目[編集]