酒井くにお・とおる

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酒井くにお・とおる
メンバー 酒井 くにお
(1948-05-01) 1948年5月1日(68歳)
酒井 とおる
(1951-05-12) 1951年5月12日(65歳)
結成年 1972年
事務所 松竹芸能
活動時期 1972年 -
師匠 さがみ良太
影響 浅草松竹演芸場の風刺コント
現在の活動状況 舞台
芸種 漫才
過去の代表番組 お笑いスター誕生!!
受賞歴
第7回NHK上方漫才コンテスト優秀敢闘賞(1977年
お笑いスター誕生!!銀賞(1981年
第29回上方漫才大賞奨励賞(1994年
第25回上方お笑い大賞金賞(1996年
第32回上方漫才大賞大賞(1997年
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酒井くにお・とおる(さかいくにお・とおる)は、松竹芸能所属の兄弟漫才コンビ

メンバー[編集]

共に岩手県水沢市(現奥州市)出身。

来歴・人物[編集]

兄のくにおは地元で秀才の誉れ高く、東京教育大学[1]に現役合格。全盛の全共闘運動に加わり日々機動隊と戦っていたが、ふらっと立ち寄った浅草松竹演芸場で見た社会派コント『コント・コンビネーション』の風刺劇に魅せられ、リーダーのみなみ良雄(現在のさがみ良太[2])に弟子入り。大学は中退してしまい、出番をフケた大空かんだの代役を経て、城後光義(元ゆーとぴあのホープ)らの女装コントグループに混じって、ストリップ劇場・新宿ニューアートで初舞台を踏む。間もなく友人の伊原某と『コント・コマーシャル』を結成し、ストリップ劇場の幕間で修業を積んでいた。

弟のとおるも高校卒業後上京し、千代田テレビ技術学校で学ぶうちに裏方志望が高まり、ストリップ劇場で窓口や大道具のアルバイトをしていたところ、別の劇場で働いていた兄と偶然再会。相方に逃げられた兄に誘われて、1972年さがみ良太門下に兄弟で直り、正式にコンビを結成した。コンビ名は『コント・コマーシャル』を引き継ぎ、浅草松竹演芸場で初舞台。

花柳流日本舞踊の素養があるくにおに合わせて、振袖・日本髪でタップダンスを踊ったり、ローラーゲームよろしく舞台を走り回ったり、上野動物園に来たばかりのパンダの着ぐるみで暴れたりと、体を張った時事物ドタバタコントだった。他にもキャバレーでチュチューレース[3]等の営業をしていたが、なかなか芽が出ず、心機一転1974年から上方大阪)に移住。吉本興業に入るも、ナンセンス・コントの芸風自体が漫才主流であった当時の関西では全く受け入れられず、翌年には契約解除されたところを松竹芸能に拾われる。

漫才転向に伴い『酒井くにお・とおる』に改名した頃、新世界新花月の舞台で極度の緊張から台本を忘れてしまったくにおが、咄嗟に「とおるちゃん!」と連呼して急場を凌いだことから、定番のギャグが生まれた。

関西弁をマスターし[4]努力した結果、1977年のNHK上方漫才コンテストでは優秀敢闘賞を得た。1980年の『お笑いスター誕生!!』では審査員からマンネリを酷評されつつも[5]女装コントを中心に7週勝ち抜くが、体力を消耗するコントからしゃべくり漫才に比重を移す。

その後、スタッフの手違いで急遽代役出演する羽目になった『お笑いネットワーク』(読売テレビ)収録時に、吉本印天然素材水玉れっぷう隊ら、若手目当ての追っかけ女子高生ファンには予想通り全く受けなかったため、絶望したとおるが客席に向かって放った「ここで笑わないと、もう笑うトコ無いよ」「ウチらの漫才、二つか三つしか笑うトコないから、皆さん笑う努力して」「忘れて頂戴忘れて頂戴~」「こんな話二度とやらんわ」等の捨て鉢な客いじりが突如脚光を浴び、自虐的ボヤキ漫才の第一人者の地位を確立した。

現在では中田ダイマル・ラケット夢路いとし・喜味こいしの後を継ぐ、現役最ベテランの兄弟漫才コンビになっている[6]。漫才以外に、小劇団の定期公演も行っている。

その他[編集]

くにおのオカマしゃべりは、女装コント時代に身に付いた癖や、岩手訛りを誤魔化すためのものである。

ますだおかだも騒動に参戦して「くにおが女便所に入るのを見た」等と流布し、くにお本人も「そのケがあるかも知れない」「ヅラではないがホモ」等と悪乗りして、噂を打ち消すどころか、逆に自ら進んで火に油を注ぐ、捨て身のサービス精神と芸人根性を発揮した。

大阪市の元市長平松邦夫と市長選で平松を下した橋下徹前市長(前大阪府知事)の二人は、くにお・とおると同音の名前であることから『大阪政界のくにお・とおる』と言われていた。

受賞歴[編集]

出演[編集]

テレビ番組[編集]

ラジオ番組[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 現在の筑波大学
  2. ^ 師匠のさがみ良太は後年漫才師として活動していたが、元々は浪曲の出であり、くにおが入門した当時はコメディアンであった。くにお・とおるの漫才は師匠から授かったものでは無く、全て独学である。
  3. ^ ねずみにレースをさせ勝敗を決める賭け事。
  4. ^ 細かいイントネーションは若干違うが、それも「味」として認知される域まで来ている。なおこれ以降日常生活でも岩手方言を余り使わなくなった。
  5. ^ 「華がない。ネタに中身がない。」とタモリに酷評されたくにおが「アンタに言われとうないわ」と舞台で逆上してみせたが、これもネタ。
  6. ^ 二番目は凸凹一番・二番

関連項目[編集]