酒井忠績

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酒井 忠績
Sakai Tadasige.jpg
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 文政10年(1827年
死没 明治28年(1895年11月30日
別名 勘解由(通称)
墓所 東京都豊島区駒込染井霊園
官位 従五位下、従四位侍従雅楽頭
左近衛権少将
幕府 江戸幕府老中大老
播磨姫路藩
氏族 雅楽頭酒井家
父母 父:酒井忠誨、養父:酒井忠顕
兄弟 忠績、忠恕、忠惇
正室:本多助賢の娘)
忠弘、光徳、徳行、玉子(本庄宗美正室)
鈴子(平野長祥室)
養子:忠敬忠惇

酒井 忠績(さかい ただしげ)は、江戸時代末期の大名老中大老播磨姫路藩第8代藩主。雅楽頭系酒井氏宗家16代。江戸幕府最後の大老である。

来歴[編集]

姫路藩分家の旗本・酒井忠誨(5000石)の長男として生まれる。本家の姫路藩主酒井忠顕に子がなかったため、その養子となり、万延元年(1860年)に家督を相続する。

文久2年(1862年)5月、幕命により京都守衛と京都所司代臨時代行の特命を帯びて上洛・入京した。安政の大獄期に京都所司代に就任した若狭小浜藩主・酒井忠義は、万延元年に桜田門外の変で大老井伊直弼が暗殺された後も引き続きその職にあり、罷免を朝廷から要求されていた。幕府は忠義を罷免し、後任として大坂城代松平宗秀を内定したが、宗秀も安政の大獄当時は寺社奉行の任にあり直弼の信任が非常に厚かったため、朝廷は宗秀の所司代就任にも内諾を与えなかった。このため所司代職は空席という、開幕以来の異常事態となっていた。このため、9月末に牧野忠恭が後任の所司代として正式に承認されるまで4ヶ月間臨時所司代の任にあたった。

京都市中警備の功績により、文久3年(1863年)6月18日に老中首座となる。老中就任後は兵庫開港をめぐって朝廷対策に奔走する一方、年末に14代将軍徳川家茂の上洛が決定すると、常陸水戸藩徳川慶篤武蔵忍藩松平忠誠と共に江戸城留守居役を命じられる。ちょうど1年後の元治元年(1864年)6月18日に老中職を退いたが、8ヶ月後の元治2年(慶応元年、1865年)2月1日には大老となった。そして第二次長州征討の事後処理、幕府軍の西洋式軍制の導入など、幕政改革に尽力した。一方、藩内で台頭してきた尊王論に対しては「徳川家譜代の臣として幕府と存亡をともにするのが道理である」として元治元年に重臣・河合屏山を幽閉して多数の尊王派を粛清する「甲子の獄」と呼ばれる事件を起こしている[1]

慶応3年(1867年)2月に隠居し、次弟で養子の忠惇に家督を譲る。ところが戊辰戦争の際に鳥羽・伏見の戦いの責任を問われた忠惇は江戸で蟄居、同じく江戸にいた忠績も謹慎をしていたが、憤懣やるかたない忠績は慶応4年(1868年)5月5日に江戸城の新政府軍大都督府に対して、謹慎の姿勢を貫いている徳川家の処遇への不満と共に、酒井家は徳川家譜代の家臣であり、徳川家との主従関係を断ち切ってまで朝廷に仕えるのは君臣の義に反するので、この際所領を返上したいとする嘆願書を提出する。対応に苦慮した新政府は、忠惇に替わり遠縁の伊勢崎藩主家から急遽養子に入って酒井宗家を相続した最後の藩主・酒井忠邦に忠績の翻意を促すよう命じられるが、いまだ姫路藩の最高意思決定者を自負する忠績はもとより遠縁の親戚から養子に入ったばかりの数え十五の忠邦の言葉に聞く耳を持つ道理もなく、忠惇までもが忠績の考えに賛同する有様で埒があかなかった。立場をなくした姫路藩は新政府に迫られるままに藩内の佐幕派の粛清に乗り出し、忠績・忠惇の側近を一掃した。改元あって明治元年となった直後の同年9月14日、忠績は実弟の静岡藩士・酒井忠恕方での同居が認められ、これで事態はやっと収拾された(後に忠惇もこの忠恕方に預けられている)[2]

明治13年(1880年)11月、終身華族となる。明治22年(1889年)5月には忠邦の子・酒井忠興の酒井伯爵家とは別に一家を立てることが許されて、永世華族に列して男爵を授けられた。明治28年(1895年)に死去、享年68。

経歴[編集]

栄典[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『戊辰戦争と「朝敵」藩-敗者の維新史-』176-177頁。
  2. ^ 『戊辰戦争と「朝敵」藩-敗者の維新史-』181-185頁。
  3. ^ 『官報』第1758号「授爵叙任及辞令」1889年5月13日。

参考資料[編集]

  • 柳営補任
  • 『内閣文庫蔵 諸侯年表』東京堂出版
  • 『増補幕末明治重職補任・附諸藩一覧』東京大学出版会
  • 水谷憲二『戊辰戦争と「朝敵」藩-敗者の維新史-』八木書店、2011年。