くれなゐ丸

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Kurenai Maru 1924 PostCard.JPG
船歴
起工
進水 1924年7月16日[1]
竣工 1924年9月17日
その後 1944年9月9日に沈没
主要目
総トン数 1,540 トン[2][3]
載貨重量トン数 406.4 トン[2]
全長
垂線間長 72.59 m[2][3]
型幅 11.58 m[2]
型深 5.94 m[2]
吃水 (満載平均)3.505 m[2]
(空艙平均)2.838 m[2]
主機 バーマイスター・アンド・ウェイン ディーゼル機関2基2軸[2]
出力 (計画)1,600 馬力[2]
(最大)1,880 馬力[2]
航海速力 13.7 ノット[2]
最高速力 14.3ノット[2][3]
船客定員 一等:33名[3]
二等:106名[3]
三等:292名[3]
乗員 63名[2]

くれなゐ丸[2](くれないまる、紅丸)は、かつて大阪商船および関西汽船が運航した旅客船[2]。日本における初期のディーゼル船の一隻で、客船部門では音戸丸級貨客船に続いて二番目の船である。後に続く瀬戸内海航路就航の客船のプロトタイプとなった[3]

概要[編集]

1912年(明治45年)に初代「紅丸」(1,399トン)をもって始まった大阪商船の別府航路は、関西から別府温泉に向かう入湯客という新たな観光客を生み出し、乗客は年を追うごとに増加して、瀬戸内海方面における重要航路となっていた[4]1921年(大正10年)12月に別府航路向けにより大型で、初めから専用船として建造された「紫丸」(1,586トン)に続いて、大阪商船工務部長の和辻春樹の設計により建造されたのが二代目の「紅丸」である[5]

「紅丸」は大阪鉄工所で建造され、1924年(大正13年)7月16日に進水して9月17日に竣工。これに伴い、初代「紅丸」は「鳴門丸」と改名した。大阪商船が、建造がわずかに先行した音戸丸級貨客船に続いて「紅丸」をディーゼル機関搭載船として建造した真の理由ははっきりしないが、「従来からのレシプロエンジンとの比較のため」とする新聞記事も存在する[6]。運航成績はよく、日本における大型ディーゼル船の建造に大きな影響を与えた[7][8]。もっとも、当の大阪鉄工所は「紅丸」建造をきっかけにMAN社から技師を招いてディーゼル機関の自主製作に乗り出そうとしたが資金難で取りやめになり、新造船の受注で不利になってしまった[9][10]。内装は、一等船室が「桃山式」と呼ばれる和風の装飾が施され、二等と三等の船室もスペースや通風、採光の面で配慮されており、「紫丸」と比べてもグレードアップしていた[11]。もっとも、「紫丸」と同様に一等船室のプロムナードデッキを設け、外側から入室できるようになっていたため、プロムナードデッキを歩く乗客から船室がのぞかれるという欠点も有していた[12]

9月23日から就航を開始し、これによって別府航路は毎日運航されるようになった[11][13]。以後、1928年(昭和3年)に「紅丸」をさらに改良した「緑丸」(1,725トン)、1929年(昭和4年)に「緑丸」の同型船「菫丸」(1,725トン)が就航して毎日二便の運航に拡大した[13]。その後、1934年(昭和9年)に「に志き丸」(1,848トン)が就航したのをきっかけに、を船名にしていた「紫丸」から「菫丸」までの就航船も平仮名に改めることとなり、「紅丸」は「くれなゐ丸」に改められた[14]1939年(昭和14年)からは大阪高松線に移るが、日中戦争の長期化などにより瀬戸内海航路は縮小の方向に向かう[4]1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争開戦を経て、1942年(昭和17年)には大阪商船や他の船主の瀬戸内海航路を統合経営する関西汽船が設立され、「くれなゐ丸」も関西汽船に移籍する。

1943年(昭和18年)1月、大阪商船は日本陸軍の命により、フィリピン方面の沿岸航路を運営する「比島運航部」を設立し、4月から業務を開始する[15]。「くれなゐ丸」は比島運航部の管轄下で運航することとなり、音戸丸級貨客船の一隻である「三原丸」(697トン)とともに大阪商船に用船の形で復帰したあと、フィリピンに回航される[15]。日本からの機帆船や現地で接収した汽船などとともにフィリピン沿岸航路に就航し、昭和18年10月からは「三原丸」とともにマニラセブ間の定期航路に就航した[15]。運航から1年近く経った1944年(昭和19年)9月9日、ペリリューの戦いの支援を行っていたアメリカ第38任務部隊マーク・ミッチャー中将)の艦載機はフィリピン各地を空襲。「くれなゐ丸」と「三原丸」もこの網にかかり、北緯09度45分 東経125度30分 / 北緯9.750度 東経125.500度 / 9.750; 125.500の地点で沈没した[16]

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ #商船五十年史 年表p.59
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o #日本汽船名簿
  3. ^ a b c d e f g #日本の客船1p.194
  4. ^ a b #商船八十年史p.259
  5. ^ #西村p.3
  6. ^ #大毎241004
  7. ^ #日立造船株式会社七十五年史p.147
  8. ^ #日立造船百年史p.105
  9. ^ #日立造船株式会社七十五年史pp.147-148
  10. ^ #日立造船百年史p.108
  11. ^ a b #中外240925
  12. ^ #西村pp.3-4
  13. ^ a b #西村p.4
  14. ^ #西村p.5
  15. ^ a b c #商船八十年史p.132
  16. ^ Chapter VI: 1944” (英語). The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II. HyperWar. 2012年7月18日閲覧。

参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08050085400『昭和十八年版 日本汽船名簿 内地 朝鮮 台湾 関東州 其一(下)』、37頁。
  • 戦前期新聞経済記事文庫データベース(神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ)
  • 神田外茂夫(編)『大阪商船株式会社五十年史』大阪商船、1934年。
  • 日立造船(編)『日立造船株式会社七十五年史』日立造船、1956年。
  • 財団法人海上労働協会(編)『復刻版 日本商船隊戦時遭難史』財団法人海上労働協会/成山堂書店、2007年(原著1962年)。ISBN 978-4-425-30336-6。
  • 岡田俊雄(編)『大阪商船株式会社八十年史』大阪商船三井船舶、1966年。
  • 山高五郎『図説 日の丸船隊史話(図説日本海事史話叢書4)』至誠堂、1981年。
  • 日立造船(編)『日立造船百年史』日立造船、1985年。
  • 野間恒、山田廸生『世界の艦船別冊 日本の客船1 1868~1945』海人社、1991年。ISBN 4-905551-38-2。
  • 西村慶明『に志き丸 モデルアート 日本の客船シリーズ No.2』モデルアート、2007年。

関連項目[編集]

座標: 北緯09度45分 東経125度30分 / 北緯9.750度 東経125.500度 / 9.750; 125.500