さらしなの里

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さらしなの里
Sarashinanosato1.JPG
新大橋通りから見る
(2016年3月3日撮影)
店舗概要
所在地 104-0045
東京都中央区築地三丁目3番9号
座標 北緯35度40分8.13秒 東経139度46分26.28秒 / 北緯35.6689250度 東経139.7739667度 / 35.6689250; 139.7739667座標: 北緯35度40分8.13秒 東経139度46分26.28秒 / 北緯35.6689250度 東経139.7739667度 / 35.6689250; 139.7739667
開業日 月曜 - 土曜日
閉業日 日曜、祝日(祝日営業の場合あり)
店舗数 1店舗
営業時間 月曜 - 金曜日 午前11時 - 午後9時45分
土曜日 午前11時 - 午後3時
駐車台数 無し台
前身 麻布永坂更科支店布屋善次郎
永坂更科牛込通寺町支店
最寄駅 東京メトロ日比谷線築地駅
東京メトロ有楽町線新富町駅
最寄IC 首都高速宝町出入口
外部リンク 公式ウェブサイト

さらしなの里(さらしなのさと)は、東京都中央区築地三丁目にある1899年明治32年)創業のそば屋店舗

概要[編集]

さらしなの里は、麻布永坂「更科」(現・更科堀井)の最初の暖簾分けの支店である。更科堀井の創業は1789年寛政元年)、信州出身で信州特産晒布の高遠藩保科家御用布屋だった八代目清右衛門が、領主保科兵部少輔からそば打ちがうまいのを見込まれ、布屋よりも蕎麦屋の方が良いのではと勧められ、麻布永坂町の保科家の江戸屋敷傍に、そば屋「信州更科蕎麦所 布屋太兵衛」を創業したのが始まり。

当初は、大名屋敷寺院などに出入していたが、明治時代半ばの最盛期には、皇室宮家などにも出前を届けた。創業以来、五代目布屋松之助に至るまで、麻布永坂「更科」は一軒も支店を出さなかった。一門の古いしきたりで、暖簾分けには分店と支店のふた通りがあり、分店と名乗れるのは本家の子どもが新たに出した店の場合に限られた。1869年明治2年)、神田錦町に初めての分店「神田錦町更科分店」が開店した。初めての支店は、1899年明治32年)に開店した初代赤塚善次郎「麻布永坂更科支店布屋善次郎」、後の「さらしなの里」である。[1]

信濃の国はかつては科(シナ)野の国で、科の木の多いところだった。この木の皮を剥いで縄につくり、布を織ったり、紙をすいたりした。この科の皮は丈夫なので桶のたがにも利用されていた[2]

沿革[編集]

文政7年(1824年)、『江戸買物独案内』、名物そば屋(御膳蕎麦所)より[3]
明治10年(1877年)頃、『一億人の昭和史 明治上』、明治10年頃の永坂更科より[4]
明治31年(1898年)頃、『永坂町更科蕎麦店の図』(山本松谷画)より[5]
  • 1789年寛政元年) - 堀井家は信州高遠の保科松平家の御用布屋で、信州特産の晒布を江戸屋敷に納入していた。初代は布屋太兵衛(堀井清助)といい、麻布1番通り竹屋町にある保科家の屋敷の長屋に滞在を許されていた。清助は1693年元禄6年)の秋ここで世を去った。八代目堀井清右衛門(現「更科堀井」初代布屋太兵衛)のとき、御領主からそば打ちがうまいのを見込まれ、布屋よりも蕎麦屋の方が良いのではと勧められ、麻布永坂町の三田稲荷(高稲荷)下に「信州更科蕎麦所 布屋太兵衛」の看板を掲げた[6]
  • 1824年文政7年) - 『江戸買物独案内 飲食之部』、名物そば屋(御膳蕎麦処)、18軒に、「信州 更科蕎麦所 麻布永坂高いなりまえ 布屋太兵衛」が挙げられている[3]
  • 1848年嘉永元年) - 『江戸名物酒飯手引草』には、120軒のそば屋の中の「更科」の屋号6軒中に「更科生そば麻布永坂町布袋屋太兵衛」と誤って挙げられている。
  • 1858年安政6年) - 本店四代目布屋太兵衛没。
  • 1869年明治2年) - 麻布永坂「更科」は神田錦町に初代堀井丈太郎「神田錦町分店」を開店した。創業以来五代目に至るまで、一軒も分店・支店を出していなかった。
  • 1873年(明治6年) - 本店五代目布屋松之助没。
  • 1875年(明治8年) - 名字必称の令により、屋号「布屋」から「堀井」と改め、六代目堀井松之助となる。
  • 1876年(明治9年) - 赤塚善次郎(後の「麻布永坂更科支店布屋善次郎」初代)生まれる。
  • 1884年(明治17年) - 赤塚善次郎は8歳のとき、麻布永坂「更科」本店に奉公に出された。善次郎の母まきは、新橋露月町(現・新橋五丁目附近)のそば屋の娘で、米屋に嫁いだが、明治初期の混乱で廃業した。
  • 1894年(明治27年) - 赤塚善次郎は17、8歳の頃、麻布永坂「更科」本店の板前を務めていた。この間、母まきは、銀座新地(現・銀座五丁目附近)に移転していた実家のそば屋に身を寄せ、善次郎の4人の弟妹を育てた。
  • 1899年(明治32年) - 本店で15年間修行した善次郎は23歳で独立した。深川佐賀町に、初代布屋善次郎(赤塚善次郎)「麻布永坂更科支店布屋善次郎」を開店、麻布永坂「更科」初の支店である。
明治31年の麻布永坂町の蕎麦店「更科」[7]
更科といえば、人みな麻布永坂の蕎麦店たるを知る。実に東京に於ける一名物というべし。本店は永坂町13番地に在り、当主を堀井松之助という。

其の製法他店と全く異にして、色白くして細く、一見愛すべし。(中略)、当店は、奥座敷等ありて、通常の店舗と異なり、其の地亦喧雑ならさるを以って、紳士の来たりて賞玩する者多く、帰途は更にミヤゲとして持帰る者少なからず。近来は汽車に搭し、大阪、神戸、須磨、明石等に赴く遊客も亦之を携ふるに至れり。

支店は、神田区錦町5番地と日本橋区三代町4番地とにあり。製法等総て本店に同じ。現店主は、第五代なるよしなれば、ふるくより在りしとは明らかなり。むかしそば切りを以って名高かりしは、麹町のひょうたん屋、洲崎の伊勢屋、浅草の道光庵等なりし。更科の名の聞こえしは、文化文政頃よりならむ。文政の江戸買物帳に、其の名見えたり。

— 新撰東京名所図会、『風俗画報』、麻布区の巻之一、「更科」、明治35年3月31日より抜粋

  • 1912年(明治45年) - 都内有数の三業地(芸者の置屋、待合茶屋、料理屋の営業が許可されていた地域)として栄えていた牛込神楽坂へ移転、看板は「永坂更科牛込通寺町支店」である。
  • 1930年(昭和5年) - 不景気のどん底の年で、更科一門もそばの値段を下げた。この時の麻布永坂「更科」一門は、麻布永坂本店、下谷池之端仲町分店、神田錦町分店、牛込通寺町支店、芝二本榎西町支店、府下品川町歩行新宿支店、京橋区尾張町支店、麹町区有楽町支店の8店だが、尾張町と有楽町は同経営者なので全部で7店で、巷間「更科お七軒様」と呼ばれていた。
  • 1936年(昭和11年)
    • 初代布屋善次郎を継いだのは、婿養子の二代目布屋善次郎(赤塚正治)となる。
    • 本店堀井良造(後の本店八代目)生まれる。
  • 1939年(昭和14年) - 初代赤塚善次郎は、大東京蕎麦商組合の組合長を務めた。
  • 1941年(昭和16年)
    • 初代布屋善次郎は65歳でこの世を去る。
    • 本店七代目堀井保のとき、大正末期から昭和初期にかけての、関東大震災、国内外の金融恐慌、堀井家が出資していた麻布銀行の倒産等の影響により廃業に追い込まれる。本店の廃業とともに、廃業する支店も多く出て、「錦町」と「有楽町」の支店のみとなる。本店危機にさいして、親族、一門が集まった時、血縁関係から錦町が本店を継ぐのが筋ではないかという話も出たが、二代目布屋善次郎(堀井亀雄)は「店は錦町一軒だけで十分」といって断り、本店七代目堀井保の身柄を引取った。
  • 1942年(昭和17年) - 大東亜戦争で永坂の店が焼失、本店の堀井良造と母きん、良造のきょうだい2人で麻布を去る。
  • 1943年(昭和18年) - 赤塚昭二(後の三代目)生まれる。
  • 1944年(昭和19年) - 二代目赤塚正治は出征、店は強制疎開で閉鎖された。
  • 年代不詳 - 二代目赤塚正治が復員したが、栃木県佐野市に疎開したとき、店の看板を近所の鳥料理屋にあげてしまったことを聞いた正治は、「もうそば屋はやらない」と大いに怒ったとゆう。そして、二代目赤塚正治は青果業に転業、牛込更科は廃業した。
  • 1967年(昭和42年) - 赤塚昭二は大学卒業後、一門の「布恒更科」で修行し、三代目布屋善次郎(赤塚昭二)「さらしなの里」を開店した。二代目正治は廃業したことを悔やんでいたが、「さらしなの里」の店名は正治が付けた。店の場所は、初代善次郎の母まきが実家から譲り受けた土地で、当初は銀座だったが、震災後の区画整理で築地が替え地になった。
  • 1973年(昭和48年) - 赤塚滋行(後の四代目)生まれる。
  • 1977年(昭和52年) - 鉄筋コンクリート造の3階建を新築。
  • 2003年(平成15年)5月 - 築地にほど近い所に移転。昭二の長男滋行は、大学卒業後、「虎ノ門大坂屋砂場」にて1年間修行の後、一門の「布恒更科」にて手打ちそばの基礎を学び、四代目布屋善次郎(赤塚滋行)「さらしなの里」となる。

交通アクセス[編集]

鉄道

ギャラリー[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『蕎麦屋の系図』、岩崎信也著、「更科の系図」、光文社、2011年7月20日、国立国会図書館蔵書、2016年2月20日閲覧。
  2. ^ 『そば物語』、植原路朗著、井上書房、昭和34年12月1日、国立国会図書館蔵書、2016年2月25日閲覧。
  3. ^ a b 江戸買物独案内 飲食之部』 - 国立国会図書館デジタルコレクション - 中川五郎左衛門編 、山城屋左兵衛他、1824年(文政7年)、2016年2月24日閲覧。
  4. ^ 毎日新聞社、2016年2月24日閲覧。看板に「信州更科蕎麦所」とある、前面の道路は「現・麻布通り」、坂の向こうは「現・飯倉片町交差点」。建物は戦災を受け焼失し、現在は「永坂更科 布屋太兵衛」の本社(中央ビル)、本社工場2棟が建っている。
  5. ^ 『風俗画報』、新撰東京名所図会、第248号、麻布区の巻之一、「更科」、東陽堂、1902年3月31日、国立国会図書館蔵マイクロフィルム、2016年2月22日閲覧。背景のこんもりした木立は三田稲荷(高稲荷)で、棟が重なり、蔵と門のある屋敷然とした造りであった。明治以降の店は、広い敷地と、店舗のほかにいくつもの家作を所有する大店と発展した。その場所には現在、「永坂更科 布屋太兵衛」の本店、本社工場が建っていて、三田稲荷は本社ビル屋上に祀ってある。
  6. ^ 『そば物語』、植原路朗著、井上書房、昭和34年12月1日、国立国会図書館蔵書、2016年2月25日閲覧。将軍家御用を承わり、江戸城中の愛顧を受けていたので、「御前蕎麦」を創製、また、堀井家は仏心厚かったので、増上寺とも誼みが深く、いよいよ繁昌した。
  7. ^ 『風俗画報』、新撰東京名所図会、第248号、麻布区の巻之一、「更科」、東陽堂、1902年(明治35年)3月31日、国立国会図書館蔵マイクロフィルム、2016年2月20日閲覧。

参考文献[編集]

  • 松本順吉編、『東京名物志 更科』 - 国立国会図書館デジタルコレクション - 公益社、1901年(明治34年)9月29日、2016年2月24日閲覧。
  • 行列のできる、『街角うまい店ガイド』、麻布・お台場他、「日本そば更科堀井」、アドメディア、2009年(平成21年)10月、国立国会図書館蔵書。

関連項目[編集]