ばんだい号墜落事故
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![]() 1966年に撮影された事故機 | |
出来事の概要 | |
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日付 | 1971年7月3日 |
概要 | 原因不明 |
現場 | 日本・北海道亀田郡七飯町 |
乗客数 | 64 |
乗員数 | 4 |
負傷者数 (死者除く) | 0 |
死者数 | 68 (全員) |
生存者数 | 0 |
機種 | 日本航空機製造YS-11 |
運用者 | 東亜国内航空(現・日本航空) |
機体記号 | JA8764 |
出発地 | 札幌飛行場 |
目的地 | 函館空港 |
ばんだい号墜落事故(ばんだいごうついらくじこ)は、1971年7月3日に、函館空港に着陸直前であった東亜国内航空のYS-11が函館郊外の山地に墜落した航空事故である。事故原因については計器の誤読によるパイロットミスなど様々な説が唱えられたが、確定されるまでには至らなかった。
事故の概略[編集]
1971年7月3日、東亜国内航空(日本エアシステムの前身)63便としてYS-11「ばんだい号」(機体記号JA8764)が札幌・丘珠空港から函館空港に向かっていた。函館空港上空周辺まで接近していたが、18時5分頃の交信を最後に消息を絶った。事故当時の空港周辺は風雨が強く、着陸が可能な最低限の条件をかろうじて満たしている程度であった。19時40分頃から海上保安庁と自衛隊による捜索が開始された。悪天候により墜落地点が雲に覆われていたことや、事故発生が夕刻を過ぎた時間帯だったことから墜落した機体の発見は遅れたが、事故発生翌日の17時25分頃、自衛隊のヘリコプターが横津岳(北海道亀田郡七飯町)南西斜面(函館空港から北北西に17.6km離れている)で墜落した「ばんだい号」の機体を発見した。
事故調査によって正確な墜落時刻は18時10分頃であることが分かった。
この事故で機長、副操縦士、客室乗務員2名、乗客64名の計68名全員が死亡した。
事故原因[編集]
事故翌日の7月4日には守屋富次郎東大名誉教授(当時)を委員長とする事故調査委員会が編成され、事故原因の究明を行った。しかし、同機にはフライトデータレコーダーやコックピットボイスレコーダーが搭載されていなかった[1]こともあり、結局完全な事故原因を明らかにすることはできなかった。
事故発生当時、空港上空は雲に覆われており、先述の通り着陸に関する最低限の条件をかろうじて満たしている程度であった。また、上空の強風によって機体が大きく流されていたと考えられた。そのため事故原因として「操縦乗員(日本人機長とアメリカ人副操縦士)が進路を変針する地点の目安となる無指向性無線標識(NDB)上空に達していないにも関わらず通過したと勘違いし、早めに変針したために、着陸進入操作として高度を下げたところ山地に激突した」という説が大勢となった。当時のNDBの精度は必ずしも高いとは言えず、標識の直上でなくとも機上機器が「直上通過した」と表示する事故が本件事故発生以前にも度々あったためである。
しかし、この説には異論がある。前記のようにフライトレコーダーやボイスレコーダーがなく、決定的な証拠を欠くなかで早々に「パイロット・ミス」と決めつけることへの批判があった。特に、事故調査委員会やNHKの取材に対し、函館空港や市街地でばんだい号と思われる飛行機の音を聞いた、あるいは飛行機そのものを見たという確度の高い証言者[2]が多数現れたことから、事故機は空港上空まで到達していた(空港より手前で誤って変針したというのが「勘違い」説の根本であり、もし空港上空に到達していれば「勘違い」説は成り立たなくなる)可能性が出た。目撃者らの証言を集めると「いったん空港上空まで到達、旋回して函館市街地を低空で西に飛行した後、北に向かって進路を変え山の方に向った」という航跡が割り出された。しかし、その航跡が異例のものであることや、管制と事故機の交信内容と矛盾すること、NDB直上通過を勘違いしたという仮説と整合が取れないことから、事故調査委員会が大いに紛糾する事態(委員の中には「目撃証言など取らなければ良かった」とまで発言する者もあった)となり、結果的にこれらの証言を採用しない形(市街地における目撃証言は事故の約1時間後に函館空港に到着した全日空機を目撃したものとされた)で結論が出された。このことが原因で、事故調査委員会で証言担当を務めた海法泰治が報告書提出前に抗議の辞任をしている。
事故調の仮説とは異なる仮説としては、函館近辺の航空地図だけがレイアウトの都合から北方向を上にする通常の書き方ではなかったため、誤読したとの仮説や、機長に不測の事態が発生し(無線通信を分析した所、機長の会話に「思考の遅れ」を感じさせる兆候が見られるとの結果が出ている)、来日して間もないアメリカ人副操縦士が函館の空に不慣れなため事故に至ったとの仮説もある[3]。
実際に機長席で操縦していたのは、機長昇格訓練中の副操縦士であった(副操縦士が操縦することの是非については副操縦士#副操縦士の資格を参照)。副機長の飛行時間は11,725時間であったが、大部分はアメリカ海軍時代のものであり、YS-11の飛行時間はわずか158時間であった。加えて函館空港への離着陸経験はなかった[4]。
その他[編集]
乗客の中には、事故発生の前年春に管理馬「リキエイカン」が天皇賞を制するなど、すでに数十年のキャリアがあり、さらなる将来を嘱望されていた中央競馬調教師の柏谷富衛がいた。また、柏谷と一緒に搭乗する予定であった同僚の調教師の西塚十勝は、当日丘珠空港までやって来たが、空港への到着が遅れたため、自分の空港到着時の63便にはすでにキャンセル待ちの客が搭乗していたことなどの事情も絡み、札幌に一泊することにしたのをきっかけに難を逃れている。
南茅部町の米田陽町長も犠牲になった。
東亜国内航空は、犠牲者の遺族に対して1人あたり100万円の見舞金を支払った。この額は、翌年発生した日本航空ニューデリー墜落事故の際、見舞金額決定の参考となった[5]。
参考文献[編集]
- 柳田邦男『続・マッハの恐怖』新潮社、1986年。ISBN 4-10-124906-7。
脚注[編集]
関連項目[編集]
- 航空事故
- 日本エアシステムの航空事故およびインシデント
- 鈴木隆雄 - 事件の鑑定に関わった元警察庁科学警察研究所副所長
外部リンク[編集]
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