ふとん太鼓

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堺型ふとん太鼓(写真は大阪府堺市堺区 西湊太鼓台 約1.7トン)。布団の頂上四隅にある縛り紐は湧き立つ雲を表すという[1]
難波神社の布団太鼓。摂津名所図会(18世紀)より。太鼓の叩き手となった子供は投げ頭巾をかぶり、商家の軒先では担ぎ手に西瓜をふるまっている。ト書きには、太鼓の音は雷のように大きく、に伝わるという韓人(中国人)太鼓も及ばないだろうとある

ふとん太鼓(ふとんだいこ)とは大阪府河内泉州地方や、兵庫県播磨淡路その周辺で担がれる大型の太鼓台のことである。祭りの飾り山車の一種であり、形状的な最大の特徴は、正方形の巨大な布団を屋根にあたる部分に逆ピラミッド型に積む点にある。布団だんじり、布団神輿、布団屋台などとも呼ばれる。

重さは1.0t~2.0tあり、約50~70人ほどで毎年各神社の祭礼で派手な演出と共にいきおいよく担がれている。現在では少なくなったが戦前は一カ所の神社で約10台以上、宮入されていた所(開口神社、菅原神社)もある。

形式と特徴[編集]

  • 共通
内部は中央に太鼓があり、「乗り子」と呼ばれる少年4~8名が乗り込む。激しい動きでも転落しないように乗り子を縛り付ける地区もある。乗り子は舞台化粧並の厚化粧で、豪華な衣装を着る場合が多い。撥の形は野球のバットを短くしたような太くて短いものを使う場合が多い。
  • 大阪型
布団の角度が小さく彫り物中心のふとん太鼓。土呂板や欄干、雲板にも彫刻が入る。その中でも雄太鼓と呼ばれるものもあり、飾りが少なくシンプルなのが特徴的である。
  • 淡路型
    大きな特徴としては五段のふとんの下に薄い板を数枚重ねたようなタガヤが施されている。
    • 淡路島内においての淡路型
    淡路島内では、ふとんだんじり又はかき(ぎ)だんじりと呼ばれる。島内に現存する本体の全数を把握する者はいないが、約200台はあるとされている。移動のため、祭礼の時には底部に車輪が取り付けられる。
    淡路島南部では主に車輪を使い境内をシーソーのように揺らしたり、回転する動作だけをする地区が多い。
    回転や曳航中の取り回しがしやすいよう、舵(梃子)を取り付けているところもある。
    神社への奉納において、浄瑠璃と一対とする考えが多く。若者は祭礼前に練習を繰り返し、だんじり唄(浄瑠璃くずし)を披露するところが多い。
    淡路島北部では、宮入の際に車輪を外しだんじりを担ぎ練りながら宮入をする地域が多い。担ぎ練ることの勇壮さに重点が置かれ競いあう。神社の奉納においては祇園囃子が唄われる部落もある。
  • 堺型
ふとん太鼓全体の彫り物が、神話、人情もの、風景、花鳥物が多く土呂板や欄干にも彫刻が入る。ふとんの厚みが下から上に順に厚くなっていて布団の角度が小さく蒲団〆が金綱では無く羅紗などの帯びであること。もっとも大きな特徴は、ふとんの下にふとん台と小屋根がついていることと柱が地についている所まですべて一本の木で作ってある通し柱(四本柱)。
  • 貝塚型
結び・トンボの代わりに「魔羅」と呼ばれるものが立っている。下地車に見られるような緻密な彫刻が施されており、柱が上下にスライド出来、「せり上げ」と呼ばれる。
東大阪市のふとん太鼓

東大阪市のふとん太鼓[編集]

枚岡神社 秋郷祭 10月14日15日

  • 出雲井・鳥居 大太鼓1 小太鼓1
  • 額田       大太鼓1 中太鼓1 小太鼓1
  • 宝箱       大太鼓1 小太鼓1
  • 豊浦       大太鼓1 小太鼓1 豆太鼓1 地車1
  • 喜里川      大太鼓1 小太鼓1
  • 五条       大太鼓1 小太鼓1
  • 客坊       大太鼓1 小太鼓1
  • 河内       大太鼓1 小太鼓1
  • 四条       大太鼓1 小太鼓4 地車1

大賀世神社 10月第2土曜日曜

  • 横小路

池島神社 10月21日22日

  • 本町
  • 橋詰

梶無神社 10月22日23日

  • 櫻井
  • 上六万寺
  • 下六万寺

吉田春日神社 10月15日16日

  • 本郷
  • 市場
  • 新家
  • 下島

石切劔箭神社 (夏季:7月2,3,4日、秋季:10月第3土・日)

  • 植附
  • 辻子
  • 日下

※夏季に参加する太鼓台は、秋季には参加しない。

大津神社 (10月第2土・日)

  • 古水走
  • 町水走

御劔神社 夏季大祭 (7月第3土・日)

  • 本部     御神輿1 小神輿1 小太鼓1
  • 北之町    大太鼓1
  • 西之町    大太鼓1
  • 新町     大太鼓1
  • 中南之町  大太鼓1 小太鼓1

八尾市のふとん太鼓[編集]

玉祖神社 (7月「海の日」直前の土・日)

  • 神立
  • 水越
  • 楽音寺
  • 大竹
  • 千塚
  • 服部川
  • 大窪
  • 郡川
  • 山畑
  • 黒谷

万願寺(住吉神社・八幡神社・御野縣主神社 (7月最終の土・日)

  • 堂垣内(住吉神社)
  • 御領(八幡神社)
  • 式部(御野縣主神社)
  • 新家

恩智神社 (夏祭り:8月1日、秋祭り:11月26日)

八阪神社 (7月最終の土・日)

  • 西山本(貝塚型)

神劔神社 (7月最終の土・日)

弓削神社 (7月最終の土・日)

加津良神社 (10月 第二週土曜日・日曜日)

三十八神社 (10月第三週土曜日・日曜日)

藤井寺市のふとん太鼓[編集]

辛国神社・八幡神社・産土神社 (10月「体育の日」直前の土・日)

  • 南岡(辛国神社)
  • 津堂(八幡神社)
  • 小山(堺型)(産土神社)
  • 北岡

大阪市のふとん太鼓[編集]

生野区
  • 巽神社 (夏季:7月14,15日、秋季:10月14,15日)
  • 大地
住之江区
  • 高崎神社(7月中旬頃の土日)
  • 南加賀屋
平野区
毎年地車を宮入りさせる町が順番(9年に1度)でふとん太鼓の運行を担当。ふとん太鼓は、11日と14日のみ。乗り子は、ここでは「敲き児」(たたきこ)と呼ばれ、3~12歳位の少年が厚化粧して豪華な衣装、四角い布が垂れた頭巾を被って登場。
  • 長吉志紀神社(10月の第2土日)
西淀川区
此花区

堺市のふとん太鼓[編集]

堺市のふとん太鼓は、布団状のものを周囲に取り付けた貼り子構造で、空洞部分に人が乗る

開口神社八朔祭 (9月12日より一つ前の 金・土・日曜日)

  • 芦原濱
  • 大南戸川
  • 新在家濱
  • 大甲濱

菅原神社八朔祭 (9月13日,14日,15日)

  • 海船濱
  • 北戸川

船待神社秋季例大祭 (9月第3金・土・日曜日)

  • 出島
  • 西湊
  • 東湊

方違神社秋季例大祭 (9月第3土・日・月曜日)

百舌鳥八幡宮月見祭 (旧暦の8月15日に近い 土・日曜日) ふとん太鼓の担ぎ手、観客数は毎年10万人以上と百舌鳥八幡宮月見祭が最も多いと言われる。[2]

  • 赤畑町
  • 梅町
  • 梅北町
  • 土塔町
  • 中百舌鳥町
  • 陵南町
  • 西之町
  • 土師町
  • 本町

※百舌鳥のふとん太鼓は各町、大太鼓と子供太鼓を所有している。
※叩き手は通常子供太鼓が3年生4人、親太鼓は6年生8名が務める。町や子供の人数により5年生が叩いたり人数が少なかったりする。
※土塔町は平成15年度より43年ぶりに復帰。
※2019年現在、最古の歴史を持つのが梅町。106年の歴史を数える。

石津太神社秋祭り (10月の「体育の日」直前の金・土・日曜日)

  • 石津川向
  • 石津東
  • 石津若中
  • 北若仲
  • 十三町会
  • 西地蔵会

石津神社秋祭り (10月第1土・日曜日)

華表神社秋祭り (10月4,5日)

  • 奥本町

歴史[編集]

堺市(旧市)のふとん太鼓は古くは江戸時代中期には住吉大社祭礼に担ぎ出されていたとされ、『三村宮祭礼絵馬』にも太鼓台のような練り物が描かれている。

堺市内では明治の中ごろまでは祭礼時には各氏子だんじりや鉾を曳行し、神事として太鼓台があったが、明治29年の旧暦の8月1日の祭礼の際、堺市中之町西の紀州街道(だんじりが1台通れるほどの狭い道)において湊組の船地車と北の鍛治屋町の地車が鉢合わせとなり、双方道を譲らず争論となり死傷者が出る事故が発生。「堺の地車騒動」と呼ばれ、これ以後の堺市(現在の旧堺市街地域)での練物曳行は一切禁止となった。

その後、日本が日露戦争に勝利したことを祝して練り物の曳行が許可されたが、各氏子が地車を処分売却していたこと、それまでは堺に多くいた地車の職人が堺の地を離れていたり職を変えていたこと、地車の危険性などの理由から淡路よりふとん太鼓を買い付ける地域が多かったことから、ふとん太鼓だけが残っていった。

大正時代には開口神社では13台、菅原神社では14台ものふとん太鼓が奉納され、堺のふとん太鼓の黄金期を迎え、各町個性を主張しようと、白色ではない房、刺繍の施された布団ラシャ(布団の布地)、色違いの結び(新在家濱は現在でも青色を採用)など各氏子趣向凝らした太鼓台も登場した。

昭和へ入ると人手不足や諸事情等で太鼓台を手放す氏子が表れ始めその後には堺大空襲によって多くのふとん太鼓が焼失した。戦後は物資不足等の影響で飾り付けは基本的なスタイルに戻ったが近年、戦前のような豪華なものに戻ってきている。

貝塚市の太鼓台[編集]

提灯で飾られた貝塚太鼓台        南太鼓は平成29年からライトアップ方式も採用するようになった

感田神社夏季例大祭(大人太鼓台)・秋季例祭(子供太鼓)

大正八年の本宮 貝塚浜   西太鼓新調の年 まだ黒帯に染めていないのがわかる        左は焼失した先代南太鼓(隣接の倉庫から出火、ペスト菌が発生したため焼却したとの説もある)

7月「海の日」直前の土・日 (本来は7月18日宵宮・19日本宮)

7月の第一日曜日には「試験担ぎ」が行われる。

 大阪府の泉州路に秋を告げる岸和田だんじり祭(旧市九月祭礼)と並び、同じく梅雨明けの夏到来を招く泉州の代表的な祭りである。 泉州の行政自治体名の付く祭礼は岸和田祭(九月旧市地車祭礼年番)と、この貝塚祭(七月太鼓台祭礼運営委員会)のふたつである。

 これは泉州大鳥郡和泉郡南郡日根郡)四郡の南郡(明治29年泉南郡の設立と同時に廃止)に属する、南海沿線岸和田町(=六町総称)・岸和田浜町岸和田村の三郷と、貝塚町(=五町総称)の祭礼であったことから現在まで変わりはない。


正式には貝塚宮太鼓台祭(かいづかのみやたいこだいさい)という。

 貝塚では「ふとん太鼓」とは言わず「太鼓台」と呼ぶ。これは「装飾品」より「彫り物中心の太鼓台本体」を直視するからである。

祭礼は市街中心地を交通規制して行われるが、運行中心の祭礼のため太鼓台が神社境内で担がれることは無い。太鼓台の運行は南海電鉄貝塚駅商店街を含む大阪側の水間街道(中ノ町通り)で行われる。

以前、各町の太鼓台は宵宮終了後は昭和四十年代頃までは神社内に留め置いたり、神社前の中ノ町通りで宵越ししたが、太鼓台の保安上の問題や交通状況の影響もあって、現在では宵宮夜の担ぎあいのあとは各々各町に戻るようになった。

 貝塚太鼓台の運行の特徴は、祭礼中コマをほとんどつけず担ぎとおすところにある。(コマをつけて運行することは恥とされる。これはだんじりは曳くもの、太鼓台は担ぐものという岸和田貝塚伝統の祭礼概念からである)。 また貝塚太鼓台においては宵宮に「神社奉納」、本宮に「宮出し」という旧来の形式は、昭和後期頃から行われ始めた「宵宮のかきあい」により、今では殆ど形骸化している。

そのため酷暑の二日間の祭礼中、最低三度の「担ぎあい」を行い、加えてコマ運行を殆どしない貝塚の祭礼は、他所に比べ極めて過酷である。

(宵宮夜の全町一斉、 本宮昼の全町一斉、 本宮夜の浜四町・上三町の以上「かきあい」)

貝塚太鼓台祭本宮かきあい       神社本部席前の中北太鼓 勇壮な黒房と伝説の高松彦四郎の泉州最古の太鼓台

 宵宮は、午後一時頃から市街地運行、とりわけ浜四町の貝塚商店街を最初に上がる始まりは、ものすごい迫力である。泉州で言われる「さぶいぼが立つ」の例え話に、岸和田祭の早朝浜七町の曳き出しと、貝塚太鼓の担ぎ出しを言う人も多い。担ぎ出された太鼓台は夕刻五時頃まで周回運行を行う。夜は提灯の「灯入れ運行」となり、旧26号線(大阪府道204号堺阪南線)で七町による一斉の「練りあい」(「かきあい」ともいう)がある。

 本宮は正午過ぎあたりから順次、駅下がりを貝塚駅まで上がり駅前ロータリーで周回担ぎを披露する。そのあと中ノ町通りに向かい宮入りを行う。神事・式典の後、神社本部前にて全町による「担ぎあい」が行われる。そして終了後は再び自由運行となり周回に移る。昼間の運行の最後となるこの時間帯には、各町会の申し合わせによって再び南海貝塚駅前などでも「担ぎあい」が行われる。

そして夜は祭礼を締めくくる、浜四町・上三町それぞれの「かきあい」があって、二日間の祭礼ながら見所は多い。

昭和30年代半ばには、太鼓台の「のせあい」から喧嘩が頻発した 写真は堀の町太鼓が数年間休止する原因となった、南太鼓との喧嘩 昭和34年頃。


ただ、貝塚は他の地域の見せ場である「太鼓台の差し上げ」は一切しない。また稚児(乗り子)は存在しない。

(貝塚祭りは過去において太鼓台同士の「乗せあい」が喧嘩にまで発展することが多かったため、他所のような化粧した囃し方の子供を乗せるなどの慣習はない)。

戦前のお渡り(神輿渡御)と、先導する南太鼓 大日本帝國憲法下では宮総代の取り仕切る、お渡りが祭礼の中心であった。


本宮の午前中は神輿渡幸が氏子各町を巡る。この時の神輿行列の「左大臣」「右大臣」は北小学校の男子から毎年選出される。稚児は祭礼中、神に仕える神聖なものとして神輿行列のみに参加し、例大祭の前座を務める太鼓台には乗せることはない。

このことは江戸時代当時から、貝塚御坊願泉寺が招聘された折りに、町民が梯子に飾りをつけたような出し物で祝ったこと(貝塚祭りの発祥)と従来の神事との筋目を立てているためである。(神輿と山車との区別)

 

感田神社は現在地に移転鎮座(南郡海塚村と同郡堀村から合祀)した江戸時代の中期以前より、幕府領として大坂奉行所及び、寺内町領主である卜半家を中心とする周辺の寺院との関連性が極めて強かったが、明治帝国憲法のもと神仏分離と廃仏毀釈により、祭礼中の稚児は寺院の影響を受けない神格的な存在になった。

感田神社は明治政府神社庁の旧郷社に属していたため、神輿の巡幸が終戦まで祭礼の中心行事であり、その習慣は現在も続いている。

(各町会の氏子総代は祭礼中は神社に奉仕のため、太鼓台の運行には参加しない)


※ 泉州(和泉国)一の宮は、堺市西区の大鳥大社(旧官幣大社)である。官幣大社は戦前の国家別格大社であり社紋は皇室と同じ「菊の御紋」である。大鳥大社の鳳だんじり祭りは泉州では歴史が一番古く、旧官幣大社ゆえに地車の化粧に格式ある「菊紋」を用いるに何ら制約はない。

※大阪府の旧三国、摂河泉「一の宮」はそれぞれ ①摂津住吉大社)②河内(秋郷祭で有名な枚岡神社)③和泉(大鳥大社)、いずれも官幣大社(旧社格)で現在は神社本庁の別表神社である。


 そのため神社の宮本である中ノ町を除く各町会には、数メートルの竹笹で四方を囲われた「結界」の「お旅所」が設けられ、宮司と巫女による神事が行われる。(現在では本宮の午前中行われ、この時間帯の太鼓台の運行はない)。

感田神社の神輿は東京浅草の「千貫神輿」に匹敵する大きさのため、昭和中期以前は牛が引くのが習わしであったが宮総代の代表が扮する猿田彦の乗る馬とともに近年は道路交通法上、子供会や子供育成会が引いて次町に引き渡すようになっている。

(戦前戦中において、在郷軍人会が担いで暴れた事もあったため、損傷が激しく近年に新調された)。

宵宮の午後からは神社で「湯神楽神事」も行われ貝塚市長も列席する。

(一般の神楽神事は祭礼二日間行われ、氏子九町すべての家庭に神楽券が配られる)。


 だんじり文化一色の泉州において、旧貝塚町(北小学校の一校区)という限られた地域の祭礼にもかかわらず、明治の高松彦四郎はじめ大正の開正藤・桜井義国など、名匠と云われる彫師の手がけた太鼓台が今も保存され、尚且つ運行されている。

岸和田貝塚伝統の泉州彫り  写真は安田卯の丸こと二代目高松彦四郎作と言われる大北太鼓台   重量感溢れる繊細かつ見事な彫り物で木鼻は貝塚独特のものである

 フル扇の垂木・重厚な枡合枡組み・奥行きのある狭間・欄干から泥台に至る彫り物は、岸和田貝塚独自の「泉州彫り」(いずみ彫りとも言う)と云われ、その繊細さから現在でも「岸和田型地車(下だんじり)」「貝塚型太鼓台」と他地域と区別されている。

貝塚の太鼓台は三本締めの帯、梯子、二本のマラ、ふとん部四方の網など一見するだけで異なる形態である。

また「せり上げ」と呼ばれる独特の構造により、台座と四本柱から上は別固体である。(台座の枠中に四本柱が入るもうひとつの枠があり、それ自体が底に固定されず吊っているため上下が可能である。細かい枡組みがばらけないための心柱や、上下を固定する杭止めのある複雑な四本柱は貝塚独特の構造である)。

 ※大北町会では現在も、太鼓台本体の「組み立て方について」後継の指導を行っている。

担ぎ手の力が直接伝わる台座と、その重心を安定させるための四本柱から上部分が「違う揺れ方」をするのはこのためであり、提灯で上部の重みが増す夜は特に顕著である。

(大北太鼓・中北太鼓は「組立て式太鼓台」の名残もあり、四本柱がきしむほど上部の「しなり」はよくわかる。)

 先述のとおり貝塚において「差し上げ」(サセ)をしないのは、貝塚太鼓台の重量そのものや先述の「せり上げ構造」に加え、運行中心の祭礼のため「担いだままの静止状態」などは関係者からも観客からも全く興味なく、担ぎ手が交代するたびに太鼓台がいちいち静止するようなことは一切ない。

 それゆえに、太鼓台を落とさずに担ごうとする担ぎ手の気合いと豪快な迫力、そして何よりも先人の時代から「だんじりは岸和田、太鼓台は貝塚」の伝統概念もあって、祭礼二日間の人出は相当な数にのぼる泉州屈指の夏祭りである。

無数の提灯がつく夜間運行は、盛夏にもかかわらず多くの観客で溢れかえる、泉州の夏の風物詩である。

感田神社前を通過する中北太鼓と通りを埋め尽くす観客     伝統の秋の岸和田祭・夏の貝塚祭は南海沿線の有名な年間行事である

     

    浜四町 

()内は旧町名。旧貝塚町とは、この五つの町の総称である。貝塚では昔から町を「〇〇ちょう」と呼ぶ

  • 大北町 (貝塚北之町・二軒町を含む) おおぎたちょう  

安田卯の丸こと二代目高松彦四郎および高松一門の作と云われる 組み立て式太鼓台で、戦前から昼提灯と網目にガラス玉が入った網が特徴。金の御幣と金梯子を賜り、かつて「あらこ」の異名を取る。

  • 中北町 (貝塚北之町) なかぎたちょう 

伝説の彫徳こと初代高松彦四郎作。幕末から明治初期の製作と云われる。得意の太閤記で統一された彫り物は圧巻でなおかつ貴重な泉州最古の太鼓台である。元は大北太鼓同様に組み立て式太鼓台。勇ましい四隅の黒の組房が特徴。

  • 南町 (貝塚南之町) みなみのちょう

淡路の巨匠、開正藤を中心に川島暁星ら多くの名匠が手掛けた名作太鼓台。段数の多い桝組や狭間などには奥行きある精密な彫り物が多数彫られている。(布引の滝四段目、小桜責め・新田義貞稲村ヶ埼宝剣を奉ずなど)また泥幕にまで有名な彫り物が多数。彫金は金銀の「瓢箪」


  • 西町 (貝塚西之町) にしのちょう 

名匠左衛ェ門こと桜井義国が大工仕事まで手掛けた破風屋根(入母屋)の太鼓台。義国独自の屋根部分の彫金が重厚でかつ、黒檀が多く採用され欄干が他町と異なる作りになっている。網の色は黒ではなく、濃い藍色である。 

 

和前半頃の近木太鼓    四本柱を高く上げていたので、ふとん張りの厚みが薄く見える

     上三町


  • 近木町 (貝塚近木之町) こぎのちょう

大正九年に製作。近藤泰山が制作に加わった、桝合いのはざまが左右に分かれた細部まで手の込んだ美しい太鼓台である。(先代の太鼓台は明治初期の高松彦四郎作で一旦、堺の鍛冶屋町に売却されその後、西淀川区大和田西に千円で売却されたと云われる)。

  • 中町 (貝塚中之町) なかんちょう 

平成の大型新調太鼓台。先代は北小学校前の個人展示館で今もなお、美しく保存されている。(太鼓台本体のみ)

昭和三十年代中頃の先代中町太鼓台。              マラ・ふとんばり・四本柱の比が均等な上、反りが美しく極めて損傷の少ない太鼓台である。      (摂河泉太鼓台展示室蔵)
  • 堀之町 (貝塚北之町 別名北上ノ町) ほりのちょう

交差旗は「日章旗」と「旭日旗」である。北上ノ町として「神巻」を持つ かつては左右一対あった(損失の片方は短剣もしくは神剣とされる)。 先代太鼓台は現在、淡路北淡町育波浜の「ふとんだんじり」である。(この太鼓台は二軒町より購入されたものらしく大正十年の祭礼で大破、堺の出島に譲渡され、その後、淡路に渡ったとされる)


※各町、大人太鼓台と子供太鼓台を所有  

 子供太鼓は別に秋季祭礼を行う(体育の日の連休)南上町も参加で八台となる。海新町の中型太鼓台は子供太鼓の祭礼に参加していたが、昭和四十年初頭に一旦、貝塚市に寄贈され、その後に姉妹都市米国カルバーシティに寄贈された。 この海新町の太鼓台のマラの房は水色で当時では珍しかった。(今では中北町が黒房になっている)。


(付録)過去の貝塚太鼓台の主な変遷と経緯

※近木町の花街と日根郡の畠中(現・貝塚市)に大人の太鼓台があった記録があり、先の花街の太鼓台は八尾に行ったとされている。畠中の太鼓台と紀州街道旅籠町(通名で後述)にあったとされる太鼓台の行方は定かでない。

畠中は大型だんじりを新調しつつも早い時期から他所に手放して祭礼をしなくなった経緯もあり、(貝塚市では他に津田・沢など世帯数も多く、大型だんじりを新調していたにも関わらず、昭和40年代初頭までに祭礼を中止した町が多い。津田に至っては麻生郷阿理莫神社の番外二番町でもあった)また、旅籠町の太鼓台については南上町の旧会館の土間に「提灯の木枠」が残されていた(昭和三十年半ば以前)という証言と紀州街道で夕刻に灯入れしていた太鼓台の記憶があるとの証言もあるが、所有者の名もわからず年を経て詳細は殆ど不明である。

現在、貝塚市以外で確認できる貝塚型太鼓台は三台であり、西淀川区大和田西と八尾西山本の太鼓台は製作年では中北太鼓より更に古いとされる。


先頭を行く「猿田彦」。戦前の「北上ノ町」の天狗提灯が見える 現在も堀の町、利斎坂には    「天狗の面」を祭礼中展示する旧家がある。

※現在、大北町・中北町・堀の町の3町の住所表記は「北町」である。

(北上之町列伝) ごく一部ではあるが神社宮本は堀の町だという説がある、これは上記記載の堀の町太鼓の前部に吊るされた左右「奉巻神剣」の與伝からである。

※大北町・中北町の「北」の下を跳ね上げた意匠文字は明治四年、北小学校(発足は貝塚北之町の郡学問所で寺子屋に開設の後、願泉寺境内内に拡張、明治二十二年南郡貝塚町時代に尋常高等小学校となる)の明治天皇による姫松尊称・校歌賜勅の際に意匠考案されたのが泉州で最初でありその後、大北町・中北町太鼓台の交差旗や町旗にも採用されるようになった。(姫松は北小学校の校章にデザインされ、明治四年の創立時から今も変わりはない)。

  雪に耐え 嵐に耐えし後にこそ 松の位も高く見えけれ 

  (貝塚市立北小学校校歌 明治天皇玉賜 令和三年2021年に創立150周年を迎える)

(姫松は堺市大浜から「羽衣」と歌われた美しい大阪湾の南端に位置する貝塚浜にあった松の銘木で、蒼い空と松の緑の絶景から「二色の浜」の名が起こったと云われている)


※大北町の一部であった二軒町、南上町紀州街道に旅籠町(通名)の太鼓台もあったが、担ぎ出された記録は残ってはいない。また旧貝塚町内で紀州街道が現在も残るのは海新町と南上町の区域だけであり、紀州街道を運行する太鼓台は南太鼓だけである。二軒町は大北町の一部で現在は北町、南上町の住所表記は現在に至るまで南→南町、海新町は海塚五部→海塚3丁目である。(海塚1・2丁目は麻生郷地車祭の海塚町)。

泉佐野市のふとん太鼓[編集]

春日神社夏祭り [7月海の日の前日と当日(7月第3日曜日・月曜日)]

  • 春日町
  • 新町
  • 野出町

※各町、大太鼓と小太鼓を所有

茨木市のふとん太鼓[編集]

新屋坐天照御魂神社秋祭り [10月毎年体育の日の前日の日曜日]

江戸時代には福井村の各地区に神輿があり奉納されていたが、喧嘩・怪我が多く発生したため廃止された。

昭和23年青年団結成、昭和29年新蒲団太鼓にて開始。

青年層の就労状況の変化、価値観の多様化、少人数による活動困難が懸念されるが、 平成8年自治振興会 太鼓保存会により活動が継続されている。

福井太鼓保存会

  • 上地区
  • 中地区
  • 下地区
  • 中河原区
  • 豊原地区
  • 山西地区
  • 府営地区
  • 促進地区
  • 南地区
  • 朝日ヶ丘地区
  • 宮の前地区

奈良市のふとん太鼓[編集]

[10月体育の日前の土日]

  • 西畑佐紀神社(佐紀西町)布団に刺繍あり
  • 門外釣殿神社(佐紀中町二丁目)布団に刺繍あり
  • 葛木神社(佐紀東町)布団に刺繍あり
  • 式内佐紀神社(二条町氏神)廃絶後→子供みこし
  • 八幡神社(西大寺)布団でなく唐破風屋根
  • 平松皇大神社(平松)
  • 押熊八幡神社(押熊町)
  • 中山八幡神社(中山町)
  • 山上八幡神社(山陵町山上)布団に刺繍あり
  • 山陵八幡神社(山陵町)
  • 興福院天神社(尼辻中町)
  • 蓬莱神社(宝来)布団ではなく唐破風屋根
  • 疋田三輪神社(疋田町)
  • 菅原神社(菅原町)布団でなく唐破風屋根
  • 倭文神社(西九条町)
  • 元岩清水八幡宮(大安寺八幡)
  • 柏木天満神社(柏木町)
  • 三宝荒神社(古市町)
  • 狭岡神社(法蓮町)神社据置
  • 添御県坐神社(歌姫町)神社据置
  • 添御県坐神社(三碓)
  • 南三条広峰神社(三条大路)廃絶
  • 北三条春日神社(二条大路南5丁目)廃絶
  • 北新天神社(二条大路南2丁目)廃絶
  • 南新皇大神社(四条大路3丁目)廃絶
  • 横領天神社(四条大路5丁目)廃絶
  • 大将軍神社(四条大路4丁目)廃絶後→子供だんじり
  • 斎音寺天神社(尼辻南町)廃絶
  • 北野天満神社(尼辻北町)廃絶
  • 五条山天神社(赤膚町)屋根なしの太鼓台

その他、ふとん太鼓がある所[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]