アウルクチ (西平王)

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アウルクチ(A'uruγči,モンゴル語: Агругчи,中国語: 奥魯赤、? - 1306年?)とは、モンゴル帝国第五代皇帝クビライ・カーンの庶子で、モンゴル帝国の皇族。『元史』などの漢文史料では奥魯赤(àolŭchì)、『集史』などのペルシア語史料ではاوغروقچى(ūghrūqchī)と記される。

概要[編集]

『集史』の記述によるとクビライの側室の1人、ドルベン部出身のドルベジン・ハトゥンより生まれ、同母兄弟には雲南王フゲチがいたという[1]。兄のチンキムマンガラノムガン・フゲチらがそれぞれ燕王・安西王・北平王・雲南王に封ぜられて自らのウルスを形成したのに続き、アウルクチは1269年(至元6年)に西平王に任ぜられた[2][3]。『集史』「クビライ・カアン紀」には「[クビライ・]カアンはチベット地方(ولایت تبت)を彼に委ねられた……」とも記されており、これ以後アウルクチはチベット東部に自らのウルス(西平王国)を形成する。庶出のフゲチ、アウルクチらの所領はチンキムら嫡出子の王国より比較的小規模であり、安西王マンガラの統令下にあったものと見られる[4]

1272年(至元9年)、アウルクチはクビライよりチベット・雲南・四川の折衝地帯にあたるガインドゥ/建都(現在の西昌市)の征服を命じられ、四川行省イェスデルを始め、マングダイスゲ[5]、劉恩[6]ら諸将を率いて出発した[7]。同年中にはクビライより米が支給されている[8]

1273年(至元10年)、アウルクチはイェスデルらとともにガインドゥを攻略し、その酋長下濟ら4人を捕らえ、その民600人を支配下に入れた[9]。その後もアウルクチの軍勢はガインドゥ一帯に駐屯し、1275年(至元12年)には安西王マンガラ、ジビク・テムルらがモンゴル兵を援軍としてアウルクチの下に派遣している[10][11]

これ以後、アウルクチの軍事行動に関する記録は少なくなり、1279年(至元16年)[12]1280年(至元17年)[13]1282年(至元19年)[14]1286年(至元23年)[15]にアウルクチにクビライより下賜がなされたことのみが記される[16]1293年(至元30年)には張邦瑞が西方へ遠征するのに軍勢を供出した[17][18][19]

1294年(至元31年)、クビライが崩御すると次代のカーンを決定する上都クリルタイに息子のテムル・ブカとイジル・ブカとともに出席したことが『集史』「テムル・カアン紀」に記されている。1295年(元貞元年)にはチュベイが率いていたタンマチを統べるよう命じられ[20][21]、翌年には上都開平府で新帝テムルと行動をともにした[22]

その後もアウルクチは王族として定期的に下賜を受けていたが[23][24][25][26]1306年(大徳10年)以後史料上には現れなくなり[27][28]、この頃亡くなったものと見られる。

子孫[編集]

アウルクチの家族について、漢文史料の『元史』とペルシア語史料の『集史』はともに2人の息子がいたと記している。

テムル・ブカ[編集]

アウルクチの長男の名前を『元史』は鉄木児不花(tiĕmùérbùhuā)、『集史』はتیمور بوقا(tīmūr būqā)と記しており、これはどちらもテムル・ブカ(Temür Buqa)という名前を表記したものである。アウルクチ・ウルス当主の座は基本的にテムル・ブカの家系に継承されていった。

イジル・ブカ[編集]

アウルクチの次男の名前について、『元史』は八的麻的加(bādemádejiā)、『集史』はایجىل بوقا(Yījīl būqā)と記しており、名前が一致しない。『集史』の記す「イジル・ブカ」が本名で、『元史』の記す「バディマディガ」はチベット語に由来する別名の可能性もあるが、確証はない。

アウルクチ西平王家[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 志茂2013,902/906頁
  2. ^ 『元史』巻6世祖本紀3,「[至元六年冬十月]庚子……賜諸王奥魯赤駝鈕金鍍銀印」
  3. ^ 『元史』巻108諸王表,「西平王:奥魯赤、至元□年封。八剌麻力。管不八。」
  4. ^ 杉山1995,98-99頁。杉山正明はフゲチら庶子の王国を二小王国、嫡子三人の王国を三大王国と呼称している
  5. ^ 『元史』巻131列伝18速哥伝,「[至元] 九年、建都蛮叛、詔諸王奥魯赤及也速帯児討之。速哥将千人為先鋒、破黎州火尾寨、攻連雲関、克之」
  6. ^ 『元史』巻166列伝53劉恩伝,「[至元]九年、従皇子西平王・行省也速帯児征建都、恩将游兵為先鋒。師次其地、一日三戦皆捷。建都兵夜来犯囲、恩御之、死者千餘人。時師久駐、食且尽、恩画策招諭沿江諸蛮、得糧三万石・牛羊二万頭、士気益振。建都因山為城、山有七嶺、恩奪其五,断其汲道。建都窮蹙、乃降」
  7. ^ 『元史』巻7世祖本紀4,「[至元九年春正月]丁丑、敕皇子西平王奥魯赤・阿魯帖木児・禿哥及南平王禿魯所部与四川行省也速帯児部下、並忙古帯等十八族・欲速公弄等土番軍、同征建都。新安州初隸雄州、詔為県入順天。庚辰……給西平王奥魯赤馬價弓矢」
  8. ^ 『元史』巻7世祖本紀4,「[至元九年夏四月己丑]丙午、給西平王奥魯赤所部米」
  9. ^ 『元史』巻8世祖本紀5,「[至元十年冬十月]庚申……西蜀都元帥也速答児与皇子奥魯赤合兵攻建都蛮、擒酋長下済等四人、獲其民六百、建都乃降、詔賞将士有差」
  10. ^ 『元史』巻8世祖本紀5,「[至元十二年三月]乙亥、諭枢密院『比遣建都都元帥火你赤征長河西、以副都元帥覃澄鎮守建都、付以璽書、安集其民』。仍敕安西王忙兀剌・諸王只必帖木児・駙馬長吉、分遣所部蒙古軍従西平王奥魯赤征吐蕃」
  11. ^ 『元史』巻8世祖本紀5,「[至元十二年九月] 乙亥……賜西平王所部鴨城戍兵、人馬三匹」
  12. ^ 『元史』巻10世祖本紀7,「[至元十六年春正月]丙子……賜皇子奥魯赤及諸王拜答罕下軍士与思州田師賢所部軍衣服及鈔有差」『元史』巻10世祖本紀7,「[至元十六年五月]丙子……賜皇子奥魯赤・撥裡答等及千戸伯牙兀帯所部軍及和州站戸羊馬鈔各有差」
  13. ^ 『元史』巻11世祖本紀8,「[至元十七年八月]癸巳,賜西平王所部糧」
  14. ^ 『元史』巻12世祖本紀9,「[至元十九年春正月]丙戌、賜西平王怯薛那懐等鈔一万一千五百二十一錠」
  15. ^ 『元史』巻14世祖本紀11,「[至元二十三年]是歳、以亦攝思憐真為帝師。賜皇子奥魯赤・脱歓・諸王朮伯・也不干等羊馬鈔一十五万一千九百二十三錠、馬七千二百九十匹、羊三万六千二百六十九口、幣帛・毳段・木綿三千二百八十八匹、貂裘十四」
  16. ^ 『元史』巻14世祖本紀11,「[至元二十四年春正月]戊辰……皇子奥魯赤部曲饑、命大同路給六十日糧」
  17. ^ 『元史』巻17世祖本紀14,「[至元三十年]冬十月癸未朔、以侍衛親軍千戸張邦瑞為万戸、佩虎符、将六盤山軍千人及皇子西平王等軍共為万人、西征」
  18. ^ 『元史』巻18成宗本紀1,「[至元三十一年五月]戊寅……西平王奥魯赤言『汪総帥之軍、多庇其富実、而令貧弱者応役』。命更易之」
  19. ^ 『元史』巻18成宗本紀1,「[至元三十一年六月] 壬辰……定西平王奥魯赤・寧遠王闊闊出・鎮南王脱歓及也先帖木而大会賞賜例、金各五百両・銀五千両・鈔二千錠・幣帛各二百匹」
  20. ^ 『元史』巻18成宗本紀1,「[元貞元年夏四月] 癸卯、以諸王出伯所統探馬赤・紅襖軍各千人、隸西平王奥魯赤
  21. ^ 『元史』巻18成宗本紀1,「[元貞元年五月] 癸亥、立蒙古軍都元帥府於西川、径隸枢密院、以阿剌鉄木而・岳楽罕並為都元帥、佩虎符。河西隴北道廉訪司鞫張万戸不法、西平王奥魯赤沮撓其事、帝命諭之」
  22. ^ 『元史』巻19成宗本紀2,「[元貞二年春正月]甲申、命西平王奥魯赤今夏居上都」
  23. ^ 『元史』巻19成宗本紀2,「[元貞二年五月]丙寅……賜西平王奥魯赤銀二百五十両・鈔六千錠、所部六万錠……」
  24. ^ 『元史』巻19成宗本紀2,「[大徳二年春正月]己酉……給西平王奥魯赤部民糧三月」
  25. ^ 『元史』巻21成宗本紀4,「[大徳八年夏四月] 丁未……賜西平王奥魯赤・合帯等部民鈔万錠、朶耳思等站戸鈔二千二百錠・銀三百九十両有奇」
  26. ^ 『元史』巻21成宗本紀4,「[大徳八年秋七月] 癸亥……賜諸王也孫鉄木而等鈔二十万錠、戍北千戸十五万錠、怯憐口等九万餘錠、西平王奥魯赤二万錠」
  27. ^ 『元史』巻21成宗本紀4,「[大徳十年二月] 戊辰、車駕幸上都。賜安西王阿難答・西平王奥魯赤・不里亦鈔三万錠、南哥班万錠、従者三万二千錠。鎮西武靖王搠思班所部民饑、発甘粛糧賑之」
  28. ^ 『元史』巻21成宗本紀4,「[大徳十年十一月] 丙申、安西王阿難答・西平王奥魯赤所部皆乏食、給米有差」

参考文献[編集]

  • 愛宕松男『東方見聞録 1』平凡社、1970年
  • 杉山正明「大元ウルスの三大王国 : カイシャンの奪権とその前後(上)」『京都大学文学部研究紀要』34号、1995年
  • 野口周一「元代後半期の王号授与について」『史学』56号、1986年
  • 新元史』巻114列伝11
  • 蒙兀児史記』巻105列伝87