アジアの曙 (テレビドラマ)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
検索に移動
アジアの曙
ジャンル テレビドラマ
原作 山中峯太郎(『実録・アジアの曙』)
脚本 佐々木守
田村孟
石堂淑郎
監督 大島渚
出演者 御木本伸介
音楽 司一郎
国・地域 大日本帝国の旗日本
中華民国の旗 中華民国
時代設定 明治時代末期〜大正時代
製作
編集 浅井弘
制作 中島正幸
島村達芳
製作 創造社
国際放映
TBS
放送
放送チャンネルTBS系列
音声形式モノラル放送
放送国・地域日本の旗 日本
放送期間1964年12月9日 - 1965年3月3日
放送時間水曜21:30 - 22:30
放送分60分
回数13回
テンプレートを表示

アジアの曙』(あじあの あけぼの)は、1964年12月9日から1965年3月3日まで、TBS系列で60分枠で放送された創造社、国際放映TBS製作のテレビドラマ。全13話。放送時間は毎週水曜日、21:30 - 22:30(JST。後の『水曜劇場』枠)。 原作は山中峯太郎の自伝的作品『実録・アジアの曙』。映画監督大島渚が初めて監督した連続テレビドラマである。

概要[編集]

大島渚が監督した唯一の連続テレビドラマ作品。タイトルは『アジアの曙』ではあるが、戦前に山中峯太郎が発表した軍事冒険小説『アジアの曙』ではなく、1962年に文藝春秋誌に連載された山中峯太郎の実体験に基づく『実録・アジアの曙』が原作である。全13話通しての視聴率が平均6%と、TBS開局以来の低視聴率(1965年3月時点)を記録し[1]、評価も芳しいものではなかった。[2]
脚本を担当した佐々木守は、「テレビ番組であれほど「革命」という言葉をくりかえした作品は空前絶後であろうと思う」としている。[3]全13回、687分。

あらすじ[編集]

明治40年11月、中山峯太郎(御木本伸介)が、陸軍幼年学校を優等で卒業、明治天皇に対し御前講義を行うシーンから物語は始まる。

陸軍士官学校に進んだ峯太郎は、そこで清国からの留学生、李烈鈞(佐藤慶)、周育賢(戸浦六宏)らと出会い、固い友情を結ぶ。やがて孫文加藤嘉)による辛亥革命が起き、清国留学生たちは一斉に退学、革命に参加するために故国へ帰ってゆく。李烈鈞は、陸軍大学で知識を身に付け、中国に来てくれと峯太郎に言い残した。

陸軍大学に進んだ峯太郎は、榊原康子(小山明子)と結婚。李烈鈞から革命への参加を促す電報が届き、決意を固めた峯太郎は、わざと白紙答案を提出して陸軍大学校を批判、退学処分を受け軍籍を剥奪される。康子と生まれたばかりの息子を日本に残し、単身上海へと渡った峯太郎は李烈鈞、周育賢と再会、変わらぬ友情を確認し、第二革命へとその身を投じてゆく。

スタッフ[編集]

  • 制作:中島正幸、島村達芳[4]
  • 原作:山中峯太郎『実録・アジアの曙』
  • 脚本:佐々木守田村孟(1〜6、10、11、13話)、佐々木守・石堂淑郎(7〜9、12話)
  • 監督:大島渚
  • 撮影:菱田誠
  • 音楽:司一郎
  • 美術:今保太郎、小島初雄
  • 照明:久米成男
  • 編集:浅井弘
  • 助監督:片桐直樹
  • 制作補:山口卓治
  • 製作:創造社、国際放映TBS

キャスト[編集]

放映リスト(サブタイトルリスト)[編集]

放送年月日 サブタイトル 脚本 監督
1 1964年
12月9日
タイトル不明 佐々木守、田村孟 大島渚
2 12月16日 タイトル不明 佐々木守、田村孟 大島渚
3 12月23日 タイトル不明 佐々木守、田村孟 大島渚
4 12月30日 タイトル不明 佐々木守、田村孟 大島渚
5 1965年
1月6日
タイトル不明 佐々木守、田村孟 大島渚
6 1月13日 タイトル不明 佐々木守、田村孟 大島渚
7 1月20日 愛情の墓標 佐々木守、石堂淑朗 大島渚
8 1月27日 帰れ康子 佐々木守、石堂淑朗 大島渚
9 2月3日 さらば烈鈞 佐々木守、石堂淑朗 大島渚
10 2月10日 泣くな朱浩 佐々木守、田村孟 大島渚
11 2月17日 ああ郁栄 佐々木守、田村孟 大島渚
12 2月24日 荒野の奪還 佐々木守、石堂淑朗 大島渚
13 3月3日 いつの日か会わん 佐々木守、田村孟 大島渚

備考[編集]

  • 大島は、創造社として劇映画を撮る為の資金作りとして、連続テレビ映画の仕事をするのがいいと考えた、と本作を手掛けた動機を語っている。[5]
  • 製作発表会見の席上、記者が「なぜこんなものを取り上げる気になったのか」と質問し、大島を激怒させている。[6]
  • 第一話撮影前、大島は2週間程度で帰国するつもりで日本テレビのドキュメンタリー番組『青春の碑』撮影の為に韓国へ行き、丸2ヶ月を費やしてしまった。一部キャストも未定の状態で、大島の帰国が遅れて、第一話の完成が放送開始に間に合わない事態が危惧されたため、残されたスタッフが未定だった配役を選定、森川英太朗を監督代行に決めて、ギリギリまで大島の帰国を待った。大島はタイムリミット間際に帰国し、撮影が開始された。未定だった配役のうち「令鈴に立川君がきまってたのはおどろいたな」と大島が言ったのを聞いた佐々木守は、「留守部隊、苦心のキャスティングだったのである。文句いうな、と心で思った」と述懐している[7]
  • 初回の試聴率が振るわなかったうえ、批評も芳しくなく、3人の脚本家での分担体制から生じる齟齬もあり、商売と割り切って撮り上げることの出来る作家でもないため、モチベーションが低下してしまい、辛い仕事であったと大島は述べている。そのため、以後は絶対に連続テレビドラマはやらないと決めたという。[8]
  • 視聴率不振の理由をTBS側は、「主人公の性格描写が一貫性を欠き不自然で、青年層に見放されたこと」「妻子を置いて革命のためにたたかう夫の心理が理解を得られず、女性と子どもが積極的についてゆけなかったこと」と分析している。一方の大島は「失敗作ではない。私は自分の言うべきことはあの作品で十分に言ったつもりだし、6%というのは、360万人が見てくれたわけで、その人達は、理解してくれているはずです」と述べている。[1]
  • TBSは本作を「中共へ輸出をすることを試みたが」失敗したと、週間新潮の記事にはある。[1]

映像ソフト[編集]

  • VHS、DVD等のソフト化はされておらず、映画史家の四方田犬彦は「ぜひどこかでDVD化していただきたいものである。」と記している。[9]
  • 1983年三百人劇場(東京)で初めて全13話が一挙上映され、その後、2012年7月と11月にアテネ・フランセ文化センター(東京)、シネ・ヌーヴォ(大阪)で一挙上映が行われたほか、2000年1月にチャンネルNECOで放送された。

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c 「タウン :テレビでもつまずいた大島渚」『週間新潮』10(473)、新潮社、1965年、 23頁。
  2. ^ 佐藤忠男『大島渚の世界』朝日新聞社、1988年、185頁。
  3. ^ 佐々木守「『アジアの曙』の思い出」『イメージフォーラム』、ダゲレオ出版、1983年4月30日、 92頁。
  4. ^ a b 『フィルムメーカーズ(9)大島渚』キネマ旬報社、1999年12月25日、221頁。ISBN 4-87376-527-7。
  5. ^ イメージフォーラム, p. 107
  6. ^ 『世界の映画作家6 大島渚』キネマ旬報社、1970年、64頁。
  7. ^ イメージフォーラム, p. 92
  8. ^ イメージフォーラム, p. 108
  9. ^ 四方田犬彦『大島渚と日本』筑摩書房、2010年6月20日、297頁。
TBS系列 水曜21:30 - 22:30枠
前番組 番組名 次番組
夕日と拳銃
アジアの曙
国際事件記者