アストリア (重巡洋艦)

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USS Astoria (CA-34) operating in Hawaiian waters on 8 July 1942 (NH 97682).jpg
艦歴
発注
起工 1930年9月1日
進水 1933年12月16日
就役 1934年4月28日
退役
除籍
その後 1942年8月9日に戦没(第一次ソロモン海戦
性能諸元
排水量 9,950 トン
全長 588 ft (179 m)
全幅 61 ft 9 in (18.8 m)
吃水 19 ft 5 in (5.9 m)
機関 バブコック&ウィルコックス製水管缶8基
ウェスティングハウス製ギヤードタービン4基、4軸推進、107,000hp
最大速 32.7ノット (61 km/h)
乗員 士官、兵員899名
兵装 8インチ砲9門
5インチ砲8門
3ポンド砲2門
50口径機銃8門

アストリア (USS Astoria, CA-34) は、アメリカ海軍重巡洋艦[注 1]ニューオーリンズ級重巡洋艦の2番艦。艦名はオレゴン州アストリアに因む。その名を持つ艦としては2隻目。ニューオーリンズ級重巡洋艦は、もともとはアストリアがネームシップとなる予定だった。しかし、アストリアの竣工がニューオーリンズ (USS New Orleans, CA-32) より遅れたため、ネームシップの座もニューオーリンズに譲らざるを得なかった。

概要[編集]

一等巡洋艦アストリアは、アメリカ海軍の重巡洋艦で、1934年(昭和9年)4月末に就役した[注 2]。 1939年(昭和14年)4月[3]、アメリカで客死した斎藤博大使の遺骨を日本に送り届けた[4]太平洋戦争緒戦では空母レキシントンヨークタウンと行動を共にし、機動部隊として1942年(昭和17年)3月のラエ・サラモア空襲珊瑚海海戦に参加した。6月上旬のミッドウェー海戦でヨークタウンが航行不能になると、フレッチャー提督はアストリアに移乗した[5]。 8月上旬のガダルカナル島攻防戦では、僚艦とともにアメリカ海兵隊輸送船団を護衛してガダルカナル島に進出する[6]8月9日未明、突入してきた三川艦隊の重巡洋艦と交戦し[注 3]、アストリアはアイアンボトム・サウンドで沈没した(第一次ソロモン海戦)。

艦歴[編集]

大戦前[編集]

アストリアは1930年(昭和5年)9月1日にワシントン州ブレマートンピュージェット・サウンド海軍造船所で起工する。1931年(昭和6年)7月1日に CL-34 (軽巡洋艦)から CA-34 (重巡洋艦)に艦種変更され、1933年(昭和8年)12月16日にレイラ・C・マッカイ(オレゴン州アストリアを創立したジョン・ジェイコブ・アスター遠征隊のメンバーであるアレクサンダー・マッカイの子孫)によって命名、進水し、1934年(昭和9年)4月28日に艦長エドマンド・S・ルート大佐の指揮下就役した。

1934年の夏にアストリアは太平洋で長距離整調巡航を行う。ハワイ諸島に加え、サモアフィジーオーストラリアシドニーニューカレドニアヌーメアを訪問し、1934年9月26日にサンフランシスコに帰還した。

1934年秋から1937年2月までの間にアストリアは偵察部隊の第7巡洋艦分艦隊の一部としてカリフォルニア州サンペドロを拠点として作戦活動に従事した。1937年2月に第6巡洋艦分艦隊に配属され、活動を継続する。両艦隊での活動の間、アストリアは平時の通常任務を行った。この頃、後に大将に昇進するリッチモンド・K・ターナー大佐が、昇進目当てで航海局への手紙作戦の末、アストリア艦長に就任した[8]

斎藤大使遺骨の礼送[編集]

斎藤博

1939年(昭和14年)初め、アストリアは第20次フリート・プロブレム英語版に参加するために西インド諸島に向かった。演習終了後、アストリアはクレブラ島を艦隊とともに出港し、3月3日にチェサピーク湾に到着した。ノーフォークで燃料を補給した後、アストリアはアナポリスに入港した。これより先の2月26日、日本の斎藤博・前駐米大使がワシントンで死去した[9]。1925年に当時のエドガー・A・バングロフト駐日大使が日本で客死した際、軽巡洋艦多摩で遺体を礼送した返礼として[10]、アメリカ側はパナイ号事件の火消しにも奔走した斎藤大使の遺骨を軍艦で礼送することとなった[9][11]。斎藤大使の遺骨はワシントン日本大使館付きの北沢直吉二等書記官に護られてアストリアに乗せられ、アストリアは3月18日にアナポリスを出港した。

3月24日にパナマ運河を通過する頃、アストリアは「在パナマ日本人団より、故斎藤大使の遺骨に対し哀悼の意を捧げます」というメッセージを受け取った。アストリアは4月4日にハワイに到着し、その同じ日には斎藤大使夫人と2人の娘が龍田丸日本郵船、16,955トン)でホノルルに到着した。2日後、アストリアは先に出港した龍田丸に続いてホノルルを出港し、日本に向かった。

4月17日、アストリアは吹雪型駆逐艦3隻(狭霧)に先導され、出迎えの軽巡洋艦木曾と21発の礼砲をかわし、星条旗日章旗半旗に掲げて横浜港に入港した[10]。午後、斎藤大使の骨壷の引渡し式が行われた[12]。斎藤大使の葬儀は4月18日築地本願寺に於て行われた[9][13]。葬儀の後、日本側はアストリア乗組員に対し最大限のおもてなしを行った。 4月24日、リッチモンド・ケリー・ターナー大佐(アストリア艦長)とポール・シーマー・シース中佐(アストリア副長)とはジョセフ・グルー駐日大使等と共に昭和天皇と謁見する[4][14]。駐日アメリカ大使館付け海軍武官ハロルド・M・ビームスは後に、「ターナー艦長がアメリカ側の最大限の誠意の表れとしてこの大任を果たしたことは、最も晴れがましいことだ」と回想した。後刻、斎藤大使夫人と娘からアメリカ側に塔が贈られ、その塔はアナポリスの海軍兵学校構内、ルース・ホールの正面に現存している[15]

アストリアは4月26日に上海に向けて出港し、29日に到着。5月1日まで滞在し、その間にアジア艦隊英語版司令長官ハリー・E・ヤーネル大将の訪問を受けた。アストリアは香港フィリピンを経て5月21日朝にグアムに到着。同地でアストリアは、掃海艇ペンギン (USS Penguin, AM-33) および雑役艦ロバート・L・バーンズ (USS Robert L. Barnes, AG-27) とともに座礁した陸軍輸送船U. S. グラントの救助にあたった。作業後、アストリアはサンフランシスコからジャンク「シードラゴン」で太平洋を横断し香港に向かっている途中で消息を絶った冒険家リチャード・ハルバートン英語版の捜索に参加し、およそ42万平方キロメートルの範囲を捜索したがハルバートンを発見することはできず、捜索は5月29日に打ち切られた。

真珠湾攻撃まで[編集]

10月、アストリアの母港はサンペドロから真珠湾に移った。1940年春、アストリアは第21次フリート・プロブレムに参加してハワイ水域で訓練を行った。1941年4月2日、アストリアは真珠湾を出港し、4月8日にロングビーチに到着後、13日にメア・アイランド海軍造船所に入渠して1.1インチ75口径4連装機銃英語版とレーダーを装備した。アストリアは7月11日に出渠し、ロングビーチ、サンペドロを経て7月24日に真珠湾に向けて出港した。

7月31日に真珠湾に戻ったアストリアは、9月前半までオアフ島ミッドウェー島との間で哨戒を行った。その後、太平洋に出没するドイツ仮装巡洋艦に備えてグアムおよびフィリピン行きのアメリカ船舶に護衛がつくこととなった。アストリアは輸送船ヘンダーソン (USS Henderson, AP-1) を護衛し、グアムとマニラに寄港した後、10月29日に真珠湾に帰投。アストリアは局地的な哨戒任務に戻り、事が平和なまま5週間が過ぎ去った。

太平洋戦争[編集]

この頃、太平洋艦隊司令長官ハズバンド・キンメル大将は、険悪になっていく日米情勢に呼応し、ミッドウェー島とウェーク島海兵隊の飛行機を増援として輸送することとした[16]。アストリアは12月5日に空母レキシントン (USS Lexington, CV-2) 基幹の第12任務部隊(ジョン・H・ニュートン英語版少将、旗艦シカゴ)とともに出港し、ミッドウェー島に18機のSB2U ビンディケーター(レキシントン搭載)と第231海兵飛行群の要員を輸送することになった。

12月7日(日本時間12月8日)の真珠湾攻撃当日、アストリアの属する第12任務部隊はハワイの西方1,100キロの地点にあり[17]、既述のように航空機輸送任務のためミッドウェー島に向かっている途中だった[18]ウィルソン・ブラウン中将の旗艦インディアナポリスUSS Indianapolis, CA-35)もジョンストン島での演習を終えた帰り道だったので、第12任務部隊に合流した[19]。第12任務部隊(空母レキシントン、重巡インディアナポリス、シカゴ、ポートランド、アストリア、駆逐艦5隻)はオアフ島ジョンストン島パルミラ環礁を結ぶ三角形内で敵の捜索を開始した[19]。南雲機動部隊と遭遇する機会はなく、13日(日本時間14日)に真珠湾へ戻った[20]

太平洋艦隊司令長官代理のウィリアム・パイ中将は、日本軍の攻勢に晒されているウェーク島アメリカ海兵隊を救援するため、空母機動部隊を派遣することにした[21][22]。折しもアメリカ西海岸サンディエゴからやってきた空母サラトガUSS Saratoga, CV-3)が、真珠湾に到着した[23]。サラトガはウェーク島配備予定のブリュースターバッファロー戦闘機 18機と、海兵221飛行中隊を運んできたのである[24]。同艦の到着により、空母3隻(エンタープライズ、レキシントン、サラトガ)がハワイ周辺に集結した[24]。 この空母3隻を主軸とする3つの任務部隊のほかに、給油艦ナチェスUSS Neches, AO–5)および水上機母艦タンジール (USS Tangier, AV-8) も加わり、各部隊はウェーク島救援を目指した[25]。だが22日をもって、パイ中将は第11任務部隊(レキシントン)と第14任務部隊(サラトガ)に対し作戦中止を命じた[26][27]。翌23日にウェーク島の海兵隊は日本軍に降伏し、空母機動部隊は救援に失敗した[28][29]。 12月29日、アストリアは真珠湾に帰投したが、その際アストリアに40名の船客が乗ってきた。彼らは戦艦カリフォルニアUSS California, BB-44)の乗組員で、真珠湾攻撃でカリフォルニアが着底した際の、一等整備兵曹マーティン・W・ベンダーを含む生存者だった。アストリアは空母サラトガUSS Saratoga, CV-3)を中核とする任務部隊に合流し、12月31日に真珠湾を出港した。1942年(昭和17年)1月11日(日本時間1月12日午後2時40分)[30]、日本の潜水艦伊6の雷撃によりサラトガが損傷したため[31]、アストリアは僚艦とともにサラトガを護衛して引き返した。サラトガは約5ヶ月間も戦線を離脱した[32]

第11任務部隊はレキシントンを中枢に据え、重巡アストリア、シカゴ (USS Chicago, CA-29) 、ミネアポリス (USS Minneapolis, CA-36) および9隻の駆逐艦とともにキングマン・リーフキリスィマスィ島の間を哨戒する予定だった。しかし、1月21日午後に計画が改められ、ウィリアム・ハルゼー中将(旗艦エンタープライズ)が企図するマーシャル諸島への一撃に呼応してウェーク島を攻撃することとなった[33]。第11任務部隊はナチェスを加えて23日に真珠湾を出撃した。しかし、出撃直後にナチェスが伊72に撃沈される[34]。燃料不足が懸念されたことと代わりのタンカーがいなかったこともあって、第11任務部隊のウェーク島への奇襲作戦は中止された[35]。1月24日、第11任務部隊は真珠湾に帰投した。

南西太平洋での戦い[編集]

2月16日(日本時間2月17日)[36]、アストリアは空母ヨークタウン (USS Yorktown, CV-5) を基幹とする第17任務部隊英語版フランク・J・フレッチャー少将)に参加し、ルイビル (USS Louisville, CA-28) 、駆逐艦シムス (USS Sims, DD-409) 、アンダーソン (USS Anderson, DD-411) 、ハムマン (USS Hammann, DD-412) およびウォーク (USS Walke, DD-416) 、給油艦グアダルーペ (USS Guadalupe, AO-32) とともに出撃し、初めはカントン島方面に向かった。ところがニューブリテン島ラバウル攻撃に向かったブラウン中将の第11任務部隊が、ラバウルから飛来した日本海軍の一式陸上攻撃機と交戦する[37]。被害はなかったものの奇襲の効果が失われ、燃料が乏しくなって空襲が中止された[38]ニューギニア沖海戦[39]。ブラウン中将の増援要請を受け入れたニミッツ提督は、第17任務部隊を第11任務部隊の応援にまわした[40]。両任務部隊は3月6日にニューヘブリディーズ諸島近海で合流した[41]

空母2隻(レキシントン、ヨークタウン)を基幹とする任務部隊は、ラバウル攻撃を企図していた[42]。珊瑚海を西進中の3月8日、ポートモレスビー攻略の前段階として日本軍がニューギニア島ラエサラモアに上陸した[43]。空母機動部隊は、攻撃目標をラエとサラモアに切り替えた[40]。奇襲作戦中、重巡アストリア、ルイビル、シカゴ、オーストラリア (HMAS Australia, D84) および駆逐艦アンダーソン、ハムマン、ヒューズ (USS Hughes, DD-410) とともに豪州海軍ジョン・G・クレース英語版少将(旗艦「オーストラリア」)の指揮下に入り、ルイジアード諸島ロッセル島近海で空母部隊の間接護衛にあたる一方で、ヌメアからポートモレスビーに向かう陸軍部隊を援護した。

3月10日、空母2隻(レキシントン、ヨークタウン)は攻撃隊を発進させ、またアメリカ陸軍のB-17も出撃した[44]。104機の艦載機による南からのオーエンスタンレー山脈を越えた攻撃は奇襲となったが、期待されたほどの戦果ではなかった[45]。それでも第六水雷戦隊(旗艦夕張)が護衛する日本軍諸艦船に大きな損害を与えた[46]。この攻撃により日本軍のポートモレスビー攻略作戦に狂いが生じた[47]。作戦を担当する南洋部隊(第四艦隊司令長官井上成美中将)は、連合艦隊に大型空母加賀の派遣を要望する[48]。交渉と調整の結果、ポートモレスビー攻略作戦MO作戦に軽空母祥鳳第五航空戦隊[49](司令官原忠一少将:瑞鶴翔鶴)が参加することになった[47]

珊瑚海海戦[編集]

3月14日、アストリアは第17任務部隊に再合流した。16日、レキシントンと随伴艦は真珠湾に帰投した[50]。ヨークタウンと護衛部隊は、3月の残りの期間を珊瑚海で哨戒に費やした。フレッチャー少将の命により、重巡アストリア、ポートランドUSS Portland, CA-33)、駆逐艦ヒューズおよびウォークとともに給糧艦ブリッジ (USS Bridge, AF-1) のいるヌメアに向かい、4月1日に到着した。翌日出撃し、珊瑚海の第17任務部隊に合流。2週間余りの哨戒の後、4月20日から27日までトンガタプ島に滞在した[51]

この頃、アメリカ軍は暗号解読により日本軍によるポートモレスビー占領作戦(MO作戦)を察知した[52]。太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将は日本軍のMO作戦を粉砕すべく、レキシントンを中核とする第11任務部隊の新司令官にオーブリー・フィッチ少将を任命し、空母ヨークタウンと合同して珊瑚海に向かうよう命じた[53]。また重巡シカゴがニューカレドニアヌーメアから、クレース少将の重巡オーストラリアと軽巡ホバートHMAS Hobart)が豪州からかけつけた[54]

アストリアは4月27日に第17任務部隊とともに出撃し、5月1日に2つの任務部隊は合流した[55][56]。先任のフレッチャー少将が両方の任務部隊を指揮する[57]。5月3日、フレッチャー少将は日本軍がツラギ島を占領したとの報に接した[54]。フレッチャー少将は同地に空襲を仕掛けて、同時にヨークタウンの直衛にあたっていた重巡アストリアとチェスター (USS Chester, CA-27) をツラギ島に送り込んで、動けなくなった艦船を片付ける腹であったが異議が出て、最終的には空襲のみが行われた[58]。ヨークタウン攻撃隊の戦果は期待はずれだったが[59]、それでも駆逐艦菊月や特設艦艇3隻を撃沈し、敷設艦沖島や駆逐艦夕月等に小被害を与えた[60]

5月6日、ポートモレスビーへ進撃する日本軍輸送船団を撃滅するため、フレッチャー提督は指揮下戦力から第17任務部隊第3群(クレース少将:重巡オーストラリア、重巡シカゴ、軽巡ホバート、駆逐艦3隻)を編成した[61]。また給油艦ネオショー (USS Neosho, AO-23) と駆逐艦シムス (USS Sims, DD-409)を南方に避退させた[62]5月7日朝、フレッチャー提督はクレース隊を分離し[63]、日本軍輸送船団にむけ進撃させた[64]。 つづいて錯誤と幸運の末に第17任務部隊攻撃隊がMO主隊の6隻を捕捉し[65][注 4]、軽空母祥鳳を撃沈した[68]。一方、日本側の飛行機もをネオショーを空母と誤認して攻撃し[69]、護衛のシムスと共に撃沈した[68]。五航戦攻撃隊の薄暮攻撃を撃退したあと、第17任務部隊は夜戦を検討したが、実施されなかった[70][71]

5月8日朝、日米双方の機動部隊は攻撃隊を発進させた[72]。巡洋艦(アストリア、ポートランド、ミネアポリス、ニューオーリンズ、チェスター)は敵襲に備えて対空陣形を取り、攻撃隊はMO機動部隊を捜し求めた。11時ごろ、第17任務部隊に五航戦(瑞鶴、翔鶴)から飛来した69機[注 5]の攻撃隊が襲いかかり、これと同時に第17任務部隊の攻撃隊もMO機動部隊[注 6]を発見し、米空母2隻の攻撃隊は翔鶴に爆弾と魚雷多数を命中させて「撃沈」したと錯覚した(実際は爆弾3発命中、大破)[75]。 ヨークタウン部隊とレキシントン部隊の距離はおおよそ9.7キロから13キロ離れており、これは海戦終了まで変わらなかった。アストリアのチョーンシー・R・クルッチャー艦長は「短くも激しい対空砲火を撃ち上げた」と回想したように、アストリアはレキシントン上空に猛烈な対空弾幕を張り、任務部隊が分離するとヨークタウンの防衛に回った。アストリアの射手は一連の攻撃を「始まったかと思えば、すぐに終わった」と振り返り、少なくとも4機の日本機を撃墜したであろうと主張した。この戦闘で日本軍攻撃隊69機(零戦18、艦爆32、艦攻18)のうち、瑞鶴(艦爆2、艦攻3)、翔鶴(零戦3、艦爆7、艦攻5)を失った[76]。 一方、レキシントンに爆弾2発と魚雷2本が命中し、ヨークタウンに爆弾1発が命中した[77]。 レキシントンは沈没を免れるかに見えたが、やがて激しい爆発を起こし、消火しきれないほど炎上した[78]。16時30分までに航行不能となり、レキシントンのフレデリック・C・シャーマン艦長は艦の放棄を決意し、総員退艦を令した[79]。救助活動を終え、レキシントンは駆逐艦フェルプス (USS Phelps, DD-360) の魚雷により処分された[79]。第17任務部隊はレキシントンを失い、ヨークタウンも損傷したが、日本軍のポートモレスビー侵攻を断念させた[80]。珊瑚海海戦は、連合軍側の戦略的勝利で終わった[81]

重巡アストリア、ミネアポリス、ニューオーリンズ (USS New Orleans, CA-32) 、駆逐艦アンダーソン、ハムマン、モリス (USS Morris, DD-417) およびラッセル (USS Russell, DD-414) とともにヌメアに向かった[82]。5月12日に到着。翌13日、アストリアと僚艦はヌメアを出港してトンガタプ島を経由し、5月27日に真珠湾に帰投した。

ミッドウェー海戦[編集]

重巡洋艦群は遅くとも5月30日まで真珠湾で整備を行い、突貫工事で修理を終えたヨークタウンとともに[83][84]ミッドウェー島に接近する日本艦隊に打撃を与えるべく出撃した[85]。第17任務部隊は、空母ヨークタウン、重巡2隻(アストリア、ポートランド)、駆逐艦部隊であった[86]。先任のフレッチャー少将(旗艦ヨークタウン)が、レイモンド・スプルーアンス少将の空母2隻(エンタープライズホーネット)を併せて指揮することになった[87][88]。 連合軍時間6月3日(日本時間6月4日)の時点で、哨戒機は日本の輸送船団[89]掃海艇および2隻の水上機母艦、そして第一航空艦隊司令長官南雲忠一中将率いる南雲機動部隊を発見した[90]。連合軍時間6月4日(日本時間6月5日)、ヨークタウンは攻撃隊を発進させ、アストリアは予想される日本機の攻撃に備えた。米空母3隻の攻撃隊は、南雲機動部隊の主力空母3隻(赤城加賀蒼龍)に致命傷を与えた[91]

やがて第17任務部隊(空母ヨークタウン、重巡〈アストリア、ポートランド〉[92]、駆逐艦ハムマン、アンダーソン、ラッセル、モーリス、ヒューズ)に[93]第二航空戦隊司令官山口多聞少将が指揮する空母飛龍を発進した攻撃隊が襲いかかってきた[94]零戦4機[注 7]九九式艦爆18機を[96]、各空母から集まってきたF4F ワイルドキャットが邀撃した[97][98]。 F4Fは艦爆10機と零戦3機を撃墜した[99]。残る艦爆8機のうち、2機を空母と護衛艦艇の対空砲火で撃墜した[100]。しかし、残りの艦爆6機がヨークタウンに対して投弾した[101]。アストリアは投弾後の艦爆1機を撃墜した[98]。爆弾3発がヨークタウンに命中し、激しく炎上した[100]。フレッチャー少将は軽傷を負った[102]。 アメリカ側は飛龍第一次攻撃隊を全滅させたと思っていたが[102]、実際の損害は零戦3と艦爆13であった[103][注 8]

フレッチャー少将は0時30分に自身・幕僚および将旗をヨークタウンからアストリアに移すことを決意し、ボートを派遣するよう命じた[106]。午後1時30分、フレッチャー少将はアストリアに将旗を掲げた[107]。またポートランドにヨークタウン曳航を命じた[108]。ヨークタウンの被害対策班の働きにより、13時40分までにはヨークタウンは応急修理を終え、航行可能になった[109]。しかし、程なくして友永丈市大尉率いる10機の九七式艦攻と、護衛の6機の零戦、すなわち飛龍第二次攻撃隊がやってきた[110]。 第16任務部隊から重巡2隻(ヴィンセンスペンサコーラ)と駆逐艦2隻(ベンハムバルチ)が応援のため合流し[98]、戦闘機隊も加わった[5]。アストリアは海中に向けて砲火を撃ち込み、水柱の壁を作って雷撃を阻止しようとした。にもかかわらず、九七式艦攻のうちの2機がヨークタウンに魚雷を命中させ、ヨークタウンは航行不能になった[111]。飛龍第二次攻撃隊は零戦2と艦攻5を喪失し、友永隊長も戦死した[112]。フレッチャー提督はスプルーアンス提督に航空戦の指揮を委ねた[113]。 ヨークタウンは放棄されることとなり[114]、随伴の巡洋艦や駆逐艦はヨークタウンの乗組員を救助した[115]。その後、アストリアは僚艦と共に東方へ移動を開始した[116]。放棄されたヨークタウンには、駆逐艦ヒューズが監視役としてつけられた[117]。その後、空母ヨークタウンと駆逐艦ハムマンは日本時間6月7日午前10時頃に伊168の雷撃を受ける[118][119]。ハムマンは轟沈、ヨークタウンは6月8日夜明けに沈没した[120]。 アストリアは第17任務部隊の旗艦としてミッドウェー島北方を行動し、6月8日正午に空母サラトガを中核とする第11任務部隊と合流した。6月11日、フレッチャー少将はサラトガに将旗を移した。6月13日、部隊は真珠湾に帰投した[121]。アストリアはしばらくの間、修理と訓練を行った。

第一次ソロモン海戦[編集]

戦没3日前の1942年8月6日に撮影されたアストリア

8月初め、アストリアは第62.3任務群に加わり、ウォッチタワー作戦を支援することとなった。上陸作戦部隊司令官は元アストリア艦長のリッチモンド・K・ターナー中将[122]、上陸部隊総指揮官はアレクサンダー・ヴァンデグリフト少将、掩護部隊指揮官はクラッチレー英語版少将であった[123]。上陸作戦をフレッチャー提督が指揮する空母3隻(サラトガ、エンタープライズ、ワスプ)と戦艦ノースカロライナが支援していた[124][125]8月7日朝、アストリア以下の巡洋艦群はガダルカナル島沖に到着し、ガダルカナル島ツラギ島フロリダ諸島)など島嶼に対する上陸作戦全般を支援した[126]ガダルカナル島攻防戦フロリダ諸島の戦い)。上陸作戦が開始されるとラバウルから日本海軍の攻撃隊(一式陸上攻撃機27、零戦17、艦爆9)が飛来した[127]。連合軍側は、フレッチャー機動部隊から派遣されたF4F 戦闘機と、各艦の対空砲火で応戦した[128]。駆逐艦マグフォードUSS_Mugford,DD-389)が損傷しただけで、輸送船団は無事だった[128]。連合軍側は戦闘機11と急降下爆撃機1を失った[129]。日本側は陸攻5、零戦2、艦爆9を失った[130]。 その後、クラッチレー提督が指揮する掩護部隊は3つのグループ(北方隊、南方隊、東方隊)に分かれて哨戒をおこなう計画であった[131]。ガダルカナル島ルンガ泊地とフロリダ諸島の連合軍輸送船団に対する敵襲に備えたが、8月7日夜~8月8日朝にかけては平穏無事にすぎた[132]

8月8日昼間になると、ラバウルから再び一式陸攻23機と零戦15機がやってきた[133]。空襲で兵員輸送艦ジョージ・F・エリオット英語版USS George F. Elliott, AP-13)が炎上して雷撃処分され(三川艦隊襲撃時点では炎上中)[134]、北方部隊の駆逐艦ジャービスUSS Jarvis, DD-393)が中破した[135]。F4Fは9機が失われた[136]。日本側は陸攻18と零戦1を失い、帰投した陸攻5も被弾していた[137]。フレッチャー提督の機動部部隊(空母3、戦艦1、重巡6、駆逐艦16)は、「燃料不足」のために引き揚げていった[138]。連合軍輸送船団の揚陸作業中止と撤退を迫られたターナー提督は、ガ島陸上にいたヴァンデクリフト少将と、重巡オーストラリア艦上のクラッチレー少将を輸送船(旗艦)マコーレー号に召喚した[139]。連合軍の指揮官たちは前後策を協議し、撤退の方針を決めた[6]

8日夜の北方隊は、重巡ヴィンセンス (USS Vincennes, CA-44)、重巡クインシー (USS Quincy, CA-39)、重巡アストリア、駆逐艦ヘルムUSS Helm,DD-388)、駆逐艦ウィルソンUSS Wilson,DD-408)(ジャービスの代艦)[140]、駆逐艦ラルフタルボットUSS Ralph Talbot,DD-390)であり[131]、サボ島とフロリダ諸島間の海域にいた[注 9]。 同8日深夜から9日未明にかけて、第八艦隊(司令長官三川軍一中将、参謀長大西新蔵少将、先任参謀神重徳大佐)が率いる8隻[注 10]が、サボ島西方からガダルカナル島沖に入ってきた[144]

三川艦隊はサボ島西方を進み、まず南方部隊に襲いかかった[145][注 11]。砲撃と雷撃により豪州重巡キャンベラ (HMAS Canberra, D33) は航行不能となり、後に沈没した[148]。重巡シカゴ (USS Chicago, CA-29) は艦首部に魚雷が1本命中して戦線を離脱した[148]。駆逐艦パターソン (USS Patterson, DD-392) は損傷し[149]、駆逐艦バッグレイ (USS Bagley, DD-386)は何もできなかった[150]。南方部隊は警報を発しなかったか[151]、他のグループの受信状態が芳しくなかったか[152]、ともかく異変を周囲に知らしめることはなかった[153]。三川艦隊は些細なミスから鳥海隊(鳥海、青葉、衣笠、加古)、古鷹隊(古鷹、天龍、夕張)、駆逐艦夕凪に三分割され、このうち鳥海隊と古鷹隊が北方隊(ヴィンセンス、クインシー、アストリア、)に迫りつつあった[154]。襲撃前、グリーマン大佐(アストリア艦長)は就寝中であった[155]

突然、ヴィンセンスがサーチライトに捉えられ、起床したリーフコール艦長は「照射をやめよ、われら味方なり」と打電しようとした[156]。まもなく20㎝砲弾が命中して炎上した。クインシーも砲撃により炎上し、周囲を明るく照らし出して良い目標となった[157]。前から3番目を航行していたアストリアは、水上機からの照明弾投下をみて砲術長が戦闘配置を命じ、前方艦(ヴィンセンス、クインシー)に対する弾着を見て「那智型重巡洋艦」に対し主砲の斉射を開始した[158]。ところが起床して艦橋にかけつけたグリーマン艦長は、同士討ちと判断して射撃中止を命じた[159]。相手を確認して再び砲撃を再開したが[160]、三川艦隊からの第五斉射がアストリアの中央部に命中し、飛行機格納庫を炎上させた[161]。そこからは一方的に撃たれ始めた[162]。1番砲塔が破壊され、機関部も破壊されて乗組員多数が戦死、速力が低下した[163]。アストリアが、前方でのた打ち回っているクインシーを避けて追い越したその時、衣笠のサーチライトがアストリアを捉え、猛然と砲撃してきた。さらに被害が増えたアストリアは最後の反撃を行い、これは鳥海の第一砲塔に命中した。

三川艦隊は高速で去っていき、アストリアはコントロールを失いつつ南に向かったが、やがてすべての動力が止まった。3時ごろまでには、70名の負傷者を含む約400名の乗組員が船首楼甲板に集まった[164]。アストリアはおよそ65発も被弾しており、依然炎上していた。乗組員はバケツリレーで消火にあたり、負傷者は艦長室に移送された[164]。駆逐艦バッグレイ (USS Bagley, DD-386) が接近し、アストリア艦長をふくむ大半の乗組員を収容した[165]。バッグレイがアストリアから離れた瞬間に、アストリアの艦尾で懐中電灯の信号がつけられ、生存者が残っていることがわかった[165]

バッグレイがアストリアの周辺を警戒しているうちに、ヴィンセンスの生存者が乗ったいかだを発見した。いかだを収容したバッグレイは再びアストリアの傍らに戻り、アストリア幹部(艦長、副長、機関長)がアストリアに移乗して損傷具合を確かめた[166]。助かる見込みがあると判断し、グリーンマン艦長は決死隊を募った[166]。約300名のアストリア乗組員がバケツリレーの援軍として志願し、アストリアに乗り移ると消火作業の一方で排水を行ったり戦死者を水葬にする準備も行った[167]。7時ごろ、掃海駆逐艦ホプキンス (USS Hopkins, DMS-13) もかけつけ、アストリアを曳航する準備に取り掛かった[167]ウィルソン (USS Wilson, DD-408) も9時ごろから消火と排水の手伝いを行い、10時過ぎにホプキンスとウィルソンはアストリアの曳航を開始した[168]

最期[編集]

ところがアストリアを曳航していたホプキンスは橋頭堡の警戒任務を命じられ、曳航を中止した[168]。ウィルソンは生存者を輸送船に移すために離れた[168]。かわりに駆逐艦ブキャナン (USS Buchanan, DD-484) が消火作業を引き継いだ[168]。曳航のため、攻撃貨物輸送艦アルチバ (USS Alchiba, AKA-6)が派遣されることになった[168]

午前11時頃、火薬庫で爆発がおこり、傾斜が増加した[169]。水線下に開いた穴の補強が壊れ、傾斜を改善させる試みは全て無駄に終わった[169]。ブキャナンはアストリアの右舷に位置した[169]。ところがブキャナンは日本軍潜水艦(伊121伊122がガ島に急行していた)[170]を追跡するため救援作業を中断し、救命筏と、2隻の動力艦載艇をのこして去った[169]。アルキバが到着して救助作業を引き継いだ[169]。そうこうしているうちにアストリアは転覆し、12時15分に完全に沈没した[171]。アストリア乗組員(士官83名、兵員989名)のうち、戦死者は216名、負傷者は186名だった[172]

ちなみに、ガダルカナル島上陸作戦の総指揮を執っていたのはターナー提督である[3]。前述のように、かつて斎藤大使の遺骨を日本に送り届けた時点でのアストリア艦長がターナーであった[3]

アストリアは第二次世界大戦の戦功で3個の従軍星章を受章した。

2019年1月30日、サボ島に眠る本艦を故・ポール・アレンの調査チームがヴィンセンスともに発見したことが明らかになった。

出典[編集]

[編集]

  1. ^ 一等巡洋艦“アストリア Astoria”[1] 全要目{排水量9,950噸 速力32.5節 備砲20糎砲9門 13糎高角砲8門 起工1930年9月 竣工1934年6月 建造所 ビューゼットサウンド海軍工廠} アストリアは全長174.94米、幅20.42米、平均喫水5.94米、上記備砲の外に小砲10門、高角機關銃8門。魚雷發射管は装備せず。(以下略)
  2. ^ 一等巡洋艦“アストリア Astoria”[2] 全要目{排水量9,950噸 速力32.0節 備砲20糎砲9門 12.7糎高角砲8門 起工1930年9月 竣工1934年6月 建造所 ビューゼツトサウンド海軍工廠} アストリアは全長174.94米、幅20.42米、平均吃水5.94米。上記備砲の外に小砲10門、高角機銃8門。魚雷發射管は装備せず。/魚雷發射管を全く捨てたこの變則的重巡のカタパルトはもう窮屈な煙突の間にゐる必要はないので發射管の位置に移り、後檣中心に大きな屯所を造りあげた。同時に高角砲臺も前に移動し、前檣も愈々高く列國の重巡に近づいて來た。
  3. ^ 第八艦隊司令長官三川軍一中将を指揮官とする外南洋部隊[7]:重巡鳥海〈第八艦隊旗艦〉、重巡青葉、重巡衣笠、重巡古鷹、重巡加古、軽巡天龍、軽巡夕張、駆逐艦夕凪
  4. ^ 第六戦隊司令官五藤存知少将を指揮官とするMO主隊[66]:第六戦隊(青葉、加古、衣笠、古鷹)、軽空母祥鳳、駆逐艦[67]
  5. ^ 翔鶴飛行隊長高橋赫一少佐が指揮する69機(瑞鶴:零戦9、艦爆14)(翔鶴:零戦9、艦爆19、艦攻10)[73]
  6. ^ MO機動部隊指揮官は、第五戦隊司令官高木武雄中将[74]。第五戦隊(妙高羽黒)、第五航空戦隊(司令官原忠一少将:瑞鶴翔鶴)、第7駆逐隊()、第27駆逐隊(時雨白露夕暮有明)、祥鳳沈没後に合流した第六戦隊第2小隊(衣笠古鷹)。
  7. ^ 飛龍発進の零戦は6機だったが、敵機攻撃のため2機が途中で分離した[95]
  8. ^ 飛龍に帰投したのは零戦1と艦爆5にすぎず[104]、この艦爆5のうち被弾使用不能1、修理後使用可能2だった[105]
  9. ^ 駆逐艦ラルフタルボットは、南方部隊の駆逐艦ブルーと共に、掩護部隊の一番西側に配備されて哨戒をおこなっていた[141][142]
  10. ^ 高雄型重巡洋艦鳥海(第八艦隊旗艦)[7]、第六戦隊(司令官五藤存知少将:青葉衣笠古鷹加古)、天龍型軽巡天龍(第十八戦隊司令官松山光治少将)、第二海上護衛隊(軽巡夕張、駆逐艦夕凪[143]
  11. ^ 豪州重巡洋艦オーストラリア(クラッチレー提督旗艦)は作戦会議のため哨戒海域を離れており[146]、南方部隊の指揮を重巡シカゴ艦長(ボード大佐)に委任していた[147]

脚注[編集]

  1. ^ ポケット海軍年鑑 1935, p. 130原本246-247ページ(一等巡洋艦アストリア)
  2. ^ ポケット海軍年鑑 1937, p. 114原本210-211ページ(一等巡洋艦アストリア)
  3. ^ a b c サボ島沖海戦 1984, p. 330.
  4. ^ a b #昭和天皇実録七巻 757頁〔 (昭和十四年四月)二十四日 月曜日(米国軍艦アストリア艦長を御引見) 〕
  5. ^ a b 戦史叢書43 1971, p. 403.
  6. ^ a b 戦史叢書49 1971, pp. 474-476ガダルカナル泊地における連合軍の配備
  7. ^ a b 戦史叢書49 1971, pp. 464-465.
  8. ^ 谷光, 383ページ
  9. ^ a b c #昭和天皇実録七巻 753-754頁〔 (昭和十四年四月)十八日 火曜日(駐米大使斎藤博死去/米国大統領への返電) 〕
  10. ^ a b #写真週報62号 p.6〔 アストリアの結ぶ日米親善 〕
  11. ^ 昭和14年4月14日官報第3680号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ4〔 ◎逓信省告示第千六十七號 開港港則施行規制第三十八條ノ規定ニ依リ横濱税關ニ於テ軍艦アストリア號ヨリ故特命全權大使齋藤博遺骨上陸儀禮中昭和十四年四月十七日午後一時ヨリ同一時四十分迄左記區域内ニ於ケル一般船舶ノ航行ヲ禁止ス 〕
  12. ^ #写真週報62号 p.7〔 午後一時十五分、アストリア號の艦載艇は静かに舷梯に横付され、遺骨を納めた白木造りの御堂は武装の米國水兵に捧持されて艇に移された。〕
  13. ^ 昭和14年4月19日官報第3684号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ17〔 ◎勅使差遣 故特命全権大使齋藤博葬送ニ付昨十八日午前九時勅命トシテ侍從入江相政ヲ其邸ニ差遣サレ幣帛ヲ下賜セラレタリ 〕
  14. ^ 昭和14年4月26日官報第3689号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ15〔 ◎謁見(略)米國軍艦アストリヤ艦長大佐リッチモンド、ケリー、ターナー今般渡來ニ付敬意ヲ表スルタメ同艦副長海軍中佐ポール、シーマー、シースヲ從ヘ本邦駐剳同國匿名全權大使ジョセフ、クラーク、グルー同伴同大使館附海軍武官海軍大佐ハロルド、メッドペリー、ベミスト共ニ一昨二十四日午前十時四十分 天皇陛下ニ謁見仰付ケラレタリ 〕
  15. ^ 外部リンク "That pagoda"
  16. ^ 戦史叢書38 1970, pp. 191-192ウェーク島の戦略的価値に伴う防禦措置
  17. ^ 戦史叢書10 1967, pp. 374-375開戦時の海上兵力配備
  18. ^ ニミッツ 1962, p. 24.
  19. ^ a b 戦史叢書10 1967, p. 393.
  20. ^ 戦史叢書10 1967, p. 394.
  21. ^ 戦史叢書38 1970, p. 203aウェーク第二次作戦 日、米機動部隊行動図
  22. ^ 戦史叢書38 1970, pp. 203b-204太平洋艦隊司令部ならびに救援任務部隊の状況
  23. ^ 戦史叢書38 1970, pp. 192a-194機動部隊による救援
  24. ^ a b 戦史叢書38 1970, p. 192b.
  25. ^ 戦史叢書38 1970, p. 193.
  26. ^ 戦史叢書38 1970, p. 204.
  27. ^ 戦史叢書38 1970, p. 214a撤収、救援の時期を失した米太平洋艦隊司令部
  28. ^ 戦史叢書38 1970, p. 214b米守備隊の抵抗
  29. ^ 戦史叢書49 1971, pp. 92-94開戦後の米太平洋艦隊の動静
  30. ^ 戦史叢書38 1970, p. 332「伊六潜」、レキシントン型空母撃沈確実と報告
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  32. ^ ニミッツ 1962, p. 41.
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  68. ^ a b ニミッツ 1962, p. 54.
  69. ^ 空母ヨークタウン 1984, p. 102.
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  71. ^ 戦史叢書49 1971, pp. 294-295米空母部隊の状況
  72. ^ ニミッツ 1962, p. 56.
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  170. ^ 戦史叢書98 1979, p. 181.
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  172. ^ サボ島沖海戦 1984, p. 306サボ島沖海戦(1942年8月9日)における日米両軍死傷者数

参考文献[編集]

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  • 木俣滋郎『日本軽巡戦史』図書出版社、1989年3月。
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  • 「世界の艦船増刊第57集 第2次大戦のアメリカ巡洋艦」海人社、2001年
  • 谷光太郎「ターナー上陸軍司令官」『米軍提督と太平洋戦争』学習研究社、2000年、ISBN 978-4054009820
  • チェスター・ニミッツ、E・B・ポッター『ニミッツの太平洋海戦史』実松譲、富永謙吾(共訳)、恒文社、1962年12月。
  • R・F・ニューカム著、田中至訳『サボ島沖海戦 米軍史上最大の敗北』光人社〈光人社NF文庫〉、1998年4月(原著1963年)。ISBN 4-7698-2192-1。
  • パット・フランク、ヨーゼフ・D・ハリントン『空母ヨークタウン』谷浦英男(訳)、朝日ソノラマ〈航空戦史シリーズ〉、1984年10月。ISBN 4-257-17048-4。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 ハワイ作戦』第10巻、朝雲新聞社、1967年12月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦<1> 昭和17年5月まで』第38巻、朝雲新聞社、1970年10月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 ミッドウェー海戦』第43巻、朝雲新聞社、1971年3月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪還作戦開始まで』第49巻、朝雲新聞社、1971年9月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 潜水艦史』第98巻、朝雲新聞社、1979年6月。
  • ウォルター・ロード著、実松譲訳『逆転 信じられぬ勝利』フジ出版社、1969年7月。
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『米国海軍大佐「リッチモンド、ケリー、ターナー」外一名叙勲ノ件』。Ref.A10113310500。
    • 『写真週報62号 4月26日』。Ref.A06031065700。
    • 『外務次官沢田廉三『故齋藤大使遺骨礼送艦「アストリア」号来朝ニ関スル件』(故斉藤大使遣骨礼送艦「アストリア」号来朝に関する件)』。Ref.C01001773600。
    • 『外務次官沢田廉三『故齋藤大使葬儀並ニ「アストリア」号乗組員ニ対スル便宜供与ニ関シ謝意表明方ノ件』(故斎藤大使葬儀並「アストリア」号乗組員に対する便宜供与に関し謝意表明方の件)』。Ref.C04014732600。

関連項目[編集]