アテルイ

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阿弖流爲(あてるい)[原 1]、または大墓公阿弖利爲(たも の きみ あてりい、? - 延暦21年8月13日ユリウス暦802年9月13日先発グレゴリオ暦802年9月17日〉)は[原 2][原 3][原 4][原 5]日本奈良時代末期から平安時代初期の古代東北の人物。

8世紀末から9世紀初頭に陸奥国胆沢(現在の岩手県奥州市)で活動した蝦夷(えみし)の族長とされ、古代日本の律令国家朝廷)による延暦八年の征夷のうち巣伏の戦いにおいて紀古佐美率いる官軍(朝廷軍)の記録中にはじめて名前がみえ、延暦二十年の征夷の後に胆沢城造営中の坂上田村麻呂に自ら降伏した。その後は平安京付近へと向かったものの、公卿会議で田村麻呂が陸奥へと返すよう申し出るが、公卿達の反対により盤具公母禮とともに河内国椙山で斬られた。

名前について[編集]

大墓公阿弖利爲は、古代日本の律令国家から「水陸万頃にして、蝦虜、生を存す」[原 6]、「賊奴の奥区なり」[原 7]と呼ばれた衣川以北の北上川流域平野部となる磐井郡江刺郡胆沢郡一帯(現在の岩手県南部)に勢力を持っていたと考えられている胆沢の蝦夷(えみし)の族長である[1]

名前は古代日本の律令国家が編纂した六国史のなかに4度見える[2]。内訳は「阿弖流爲」で1回[原 1]、「大墓公阿弖利爲」で2回[原 2][原 5]、「大墓公」で1回となる[原 4][2]

日本紀略』には「夷大墓公阿弖利爲」とあり[原 5]、田村麻呂のもとに帰降した直後の記事のため大墓公のは降服後に国家から賜与されたものとが見解もある[3]。一方で、結果として河内国椙山で斬られたことからみても、国家が帰服したアテルイにわざわざ姓を与えたとは考えがたく、国家に従った蝦夷族長が離反した際に姓を剥奪された例もいくつかみられることから、大墓公の姓はアテルイらの一族が朝廷軍と戦うより以前に国家から賜与されていたものとの見解もある[3]。いずれにせよ、大墓公一族がかつては律令国家との間にかなり良好な政治的関係を築いていたことを示すひとつの重要な手がかりである[3]

大墓公」を文字通り大きな墓の意味であると解釈し、胆沢地方に所在する角塚古墳の被葬者一族の系譜を引くものと国家に認定されたため、この姓が与えられたとみて「おおつかのきみ」「おおはかのきみ」などと読む見解がある[3]。しかし「大墓」の字で表されるものは蝦夷居住地域の地名であるため、和語として意味を持つ訓読は避けるべきである[3]。また、奥州市水沢羽田町田茂山の字名が遺っており、延暦8年(789年)の胆沢合戦でアテルイ率いる胆沢蝦夷軍が朝廷軍に奇襲作戦を仕掛けた地点でもあり、田茂山を「大墓」の遺称地として「たも」と読む見解がある[3]。現在は後者の田茂山説を採用する研究者が最も多い[3]。しかしながら「大墓公」の解釈はいずれも推測の域を出ない。

岩手県奥州市江刺に大萬館・小萬館とよばれる館跡があることから関連付けられ、大公阿弖利爲は大公阿弖利爲の誤記ではないかとする説や、跡呂井という地名と関連付けられることもあるが、これらの説について高橋崇は安易に類似の地名を求め、正史の転写次第での誤記とする考え方は危険であると述べている[4]

現在のところ、朝廷の記録に阿弖流爲[原 1]、大墓公阿弖利爲[原 2][原 5]、大墓公[原 4]と記録されていること以外は不詳である。

生涯[編集]

※日付は和暦による旧暦西暦表記の部分はユリウス暦とする。

巣伏の戦い[編集]

延暦八年の征夷がおこると、朝廷軍は延暦8年3月9日789年4月8日)に多賀城から進軍を始め、延暦8年3月28日(789年4月22日)に「陸道」を進軍する2、3万人ほどの軍勢が衣川に軍営を置いた[原 8][5]征東将軍紀古佐美4月6日5月5日)付の奏状で衣川に軍営を置いたことを長岡京へと報告するが、その後30日余りが経過しても戦況報告がないことを怪しんだ桓武天皇は延暦8年5月12日(789年6月9日)に衣川営に長期間逗留している理由と、蝦夷側の消息を報告せよと勅を発した[原 8][5]

衣川営での逗留を責める桓武天皇からの勅が陸奥へと届けられたと思われる延暦8年5月19日(789年6月16日)頃、古佐美は進軍するよう命じた[6]。5月下旬から末頃、中・後軍より各2000人ずつ選抜された計4000人の軍兵が、衣川営を出発後、北上川本流を渡河して東岸に沿って北進、阿弖流爲の居宅やや手前の地点で蝦夷軍300人程と交戦した[原 1][7][8][9]。蝦夷軍は北へと退却したため、朝廷軍はこれを追いつつ途上の村々を焼き払いながら北上し、前軍との合流地点であったらしい巣伏村を目指した[8][9]。しかし前方から800人ほどの蝦夷軍が現れて朝廷軍を押し戻すと、東の山上に潜んでいた400人ほどの蝦夷軍が朝廷軍の後ろへとまわって退路を絶ち、川と山に挟まれた狭い場所に追い込まれた朝廷軍は蝦夷軍に翻弄されて総崩れとなった[9]

朝廷軍の損害は戦闘による死者25人、矢疵を負った負傷者245人、溺死者1036人、裸で泳ぎ生還した者1257人と、胆沢の蝦夷軍は朝廷に対して驚異的な惨敗を与えた[9]。『続日本紀』には「賊帥夷阿弖流爲が居(おるところ)に至る比(ころあい)」とのみあり[原 1][7]、胆沢の蝦夷軍は阿弖流爲の居宅やや手前で朝廷軍と交戦しているが、阿弖流爲が蝦夷軍を指揮していのかまでは不明。高橋崇は蝦夷側の抵抗戦線の中心人物であったといってよいだろうとしている[1]

降伏[編集]

延暦20年10月28日801年12月7日)、延暦二十年の征夷から平安京へと凱旋して桓武天皇に節刀を返上した征夷大将軍坂上田村麻呂[10][11]、延暦21年1月9日(802年2月14日)には陸奥国胆沢城を造営するために再び胆沢の地へと派遣されてきた[原 9][12][11]。同年1月11日(同年2月16日)には駿河甲斐相模武蔵上総下総常陸信濃上野下野等の10国は、国中の浪人4000人を陸奥国胆沢城の柵戸とするようにとの勅が下っている[原 10][12][11]。胆沢城造営についての史料は僅少で、造営開始の時期や完成した時期などは不明である[12]

延暦21年4月15日(802年5月19日)に陸奥国にいる田村麻呂から、大墓公阿弖利爲と盤具公母禮が種類500余人を率いて降伏した報告が平安京に届けられた[原 2][原 3][注 1][13][14]。大墓公阿弖利爲らの根拠地である胆沢はすでに征服されており、北方の蝦夷の首長にはすでに服属していた者もいたため、大墓公阿弖利爲らは進退きわまっていたものと思われる[13]

田村麻呂に付き添われて盤具公とともに平安京へと向かった大墓公は、延暦21年7月10日(802年8月11日)に平安京付近へと着いた[原 4][15][14]。これを受けて同年7月25日(同年8月26日)に百官が桓武天皇に上表を奉って、蝦夷平定の成功を祝賀している[原 11][15][14]。『日本紀略』には「田村麿来」とだけあり、大墓公と盤具公が「入京」したとまでは記されていない。また「夷大墓公二人並びに従ふ」とあることから、この時点では大墓公と盤具公は捕虜の扱いではなかったと考えられている。

延暦21年8月13日(802年9月13日)、大墓公阿弖利爲と盤具公母禮の2虜は奥地の賊首であることを理由として斬られた。公卿会議で田村麻呂が「この度は願いに任せて返入せしめ、其の賊類を招かん」と大墓公阿弖利爲と盤具公母禮を故郷に返して彼らに現地を治めさせるのが得策であると主張したが、公卿たちは執論して「野生獣心にして、反復定まりなし。たまたま朝威に縁りてこの梟帥を獲たり。もし申請に依り、奥地に放還すれば、いわゆる虎を養いて患いを残すなり」と田村麻呂の意見が受け容れられることはなかった。そのため大墓公阿弖利爲と盤具公母禮は奥地の賊首として捉えられ、河内国□山(現在の枚方市交野市寝屋川市守口市門真市四條畷市大東市東大阪市八尾市柏原市松原市藤井寺市羽曳野市富田林市河内長野市大阪狭山市太子町河南町千早赤阪村大阪市の一部[注 2]堺市の一部[注 3]のどこか)で斬られた[原 5][15][16]

死後[編集]

阿弖利爲の死後、胆沢や周辺地域で阿弖利爲と母禮が殺されたことに報復する弔い合戦などの反乱が発生した形跡は一切ない[17]

弘仁5年12月1日815年1月14日)、嵯峨天皇は「既に皇化に馴れて、深く以て恥となす。宜しく早く告知して、夷俘と号すること莫かるべし。今より以後、官位に随ひて称せ。若し官位無ければ、即ち姓名を称せ」と蝦夷に対して夷俘と蔑称することを禁止する勅を発し、ここに征夷の時代が終焉した[原 12][18]

年表[編集]

和暦 西暦 日付
旧暦
内容 出典
延暦8年 789年 6月3日 朝廷軍が阿弖流爲の居に至ったころに巣伏の戦いがはじまった 続日本紀
延暦21年 802年 4月15日 大墓公阿弖利爲と盤具公母禮が種類500余人を率いて坂上田村麻呂に降伏した 類聚国史
日本紀略
延暦21年 802年 7月10日 大墓公と盤具公が坂上田村麻呂に伴われて平安京付近に至った[注 4] 日本紀略
延暦21年 802年 8月13日 大墓公阿弖利爲と盤具公母禮が河内国椙山で斬られた[注 5] 日本紀略

アテルイに関する議論[編集]

アイヌ説の否定[編集]

古代の蝦夷(えみし)について、近年でも「蝦夷=アイヌ説」に立脚した論著が散見されるものの、現在では学会の共有財産となる標準的な見解が成立している[19]

蝦夷の中には渡嶋北海道)の蝦夷などきわめて僻遠の地の集団も含まれているが、本州内にいた蝦夷については、概ね現代日本人の祖先のうちの一群であったことが明らかである。また奈良時代から平安時代初期には、奥羽両国の蝦夷が関東から九州までのほぼ全国に移住させられたことがあり、彼らはその後各地に血統を伝えたこともうかがい知れる[19]

及川洵は、アテルイを研究し、遺跡を調査研究している者の疑問として、アテルイがアイヌ人の祖先であるとされていることについて、古代蝦夷がアイヌ民族であるかどうか「思いつきやムードではなく、純粋に学問的に考えて頂きたい」と論じている[20]

河内国と終焉の地[編集]

アテルイ終焉の地について『日本紀略』延暦21年8月13日条は「即捉両虜斬於河内國□山」とだけ記録している[原 5][21][15][16]。そのためアテルイが斬られた地は河内国内(現在の枚方市交野市寝屋川市守口市門真市四條畷市大東市東大阪市八尾市柏原市松原市藤井寺市羽曳野市富田林市河内長野市大阪狭山市太子町河南町千早赤阪村大阪市の一部[注 6]堺市の一部[注 7])のどこかであるということ以外は不詳である[16]

一方で「□山」については、テキストとして広く利用されてきた新訂増補国史大系『日本紀略』では「山」、旧輯国史大系『日本紀略』および増補六国史『日本後紀』(逸文)では「山」、鴨祐之『日本逸史』では「山」とあり、異同があることがかねてから知られていた[16][22]

「河内國」の後に続く地名は、神英雄が写本を調査した結果、主に以下のように分けられた[23][22]

「(木へんに欠)+山」
蓬左文庫本(江戸時代初期)、国立公文書館林家本(江戸時代中期?)
「(欠)+山」
宮内庁書陵部松岡本・日本紀類(江戸時代中期)
「椙山」
宮内庁書陵部編年紀略(江戸時代末期)・日本逸史(宝永7年(1710年))、神宮文庫天明四年奉納本(江戸時代中期)・三冊本(江戸時代末?)、無窮会神習文庫大覚寺本(江戸時代後期?)、国立公文書館内務省地理局本(江戸時代後期?)、東洋文庫東洋文庫本(文政7年)
「榲山」
無窮会神習文庫会田家蔵書本(江戸時代後期?)
「植山」
宮内庁書陵部久邇宮文庫本(江戸時代末期)、無窮会神習文庫菊屋幸三郎校本(江戸時代後期?)
「木山」
神宮文庫明治写

神英雄は、『日本紀略』の写本を調査した結果、新訂増補国史大系が「杜山」としているのは、宮内庁書陵部所蔵久邇宮文庫本の「植」のくずし字を読み誤ったもので、「杜山」と記す写本が存在しないことを明らかにした[24][16][22]。調査した30本程度ある『日本紀略』の写本のうち、判読不能なものもあるが24本を閲覧調査して、おおむね「植山」と「椙山」に分けるとこができた[注 8][24][22]

また神は、「植山」を「椙山」へと訂正した写本が複数あること、「植山」と記された4例の写本はすべて興福寺門跡一条院の伝本に関連した同一系統であることに対して、「椙山」と記された10例の写本は原本を一つの系統に求めることが困難であるため、『日本紀略』の原本に掲載されていた本来の文字は「椙山」であると結論した[24][22]

今泉隆雄は、神の述べる通り「杜山」は誤りだが、植山説と椙山説のどちらが正しいかはわからないとしている[25]

宇山説・杉山説ともに有力な批判もあり、現在、アテルイが斬られた地は河内国のどこかであること以外は不詳である[16]

椙山説と比定地[編集]

河内国椙山説は、枚方市東部の「杉」(旧交野郡杉村)を比定地とみなす説がある[26][16][22]

植山説と比定地[編集]

河内国植山説は、枚方市北部の「宇山町」(旧交野郡宇山村)が江戸時代初期に「上山村」から改称したため比定地とみなす説がある[27][28] [29][22]

宇山……延暦二十一年坂上田村麿蝦夷二酋を河内植山に斬ると云ふは此なるべし……乃斬於河内植山。〇宇山の東一里菅原村大字藤坂に鬼墓あり夷酋の墳歟。……津田……於爾墓オニツカ〇河内志云、王仁墓、在河内國交野郡藤坂村東北墓谷、今稱於爾墓。按ずるに此は百濟博士王仁にや、又蝦夷酋を植山に斬りたれば、是其墓にあらずや。 — 吉田東伍,大日本地名辞書(1900年(初版),1907年(第二版),1913年(第三版),1937年(再版),1969年(増補版),1992年(新装版))、[27]

吉田東伍は、処刑地は旧宇山村で埋葬場所は旧菅原村藤坂と記載しているが、藤坂の該当地は今は並河誠所が企画し、並河を中心として編纂された『五畿内志[30]を根拠に「伝王仁博士墓」とされている。また発掘調査の結果、宇山の丘は古墳だったことが判明している[要出典]

舊名の上山は植山ならんとの説あり、植山は大日本史坂上田村麻呂の傳に「延暦二十一年……乃斬於河内植山」と見ゆる植山是れなり。 — 大阪府全志(1922)、[28]
大字宇山 旧交野郡宇山村で牧ノ郷に属して古くは上山村と称したが、元和元年宇山村と称する様になった。延暦二十一年征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷の二酋長を率いて京師に帰り、次いで之を斬った河内植山とは当地の事と考えられる — 枚方市史(1951)、[29]
……宇山=植山説が成立するためには、(a)河内国杜山や、(b)河内国椙山よりも、(c)河内国植山の方が正しいことを論証する必要がある — 枚方市史第二巻(1972)、[31]

その後に出版された地名辞書類でも、河内国植山は宇山説は書かれ続けている。

うやま 宇山<枚方市>……延喜年間坂上田村麻呂が蝦夷の首長2人を斬った土地とする伝説がある(地名辞書・全志4) — 角川書店、角川地名大辞典 27 大阪府Ⅱ(1983)
宇山村……延暦二一年(八〇二)坂上田村麻呂が蝦夷の二首長を率いて帰京、二人は八月一三日に斬られたが、その場所を当地に比定する説がある(大日本地名辞書・大阪府全志) — 平凡社、日本歴史地名大系第二八巻 大阪府の地名Ⅱ(1986)

2006年の「伝 阿弖流為 母禮 之塚」の建立当時、枚方市で勤務していた馬部隆弘は『大日本地名辞書』(1900年)からはじまる「アテルイ宇山で斬られ藤阪で埋葬される」という記載は一般には広がらなかったと述べている。

『日本紀略』無窮会神習文庫本では「河内国植山」でアテルイを斬ったと表記される。現在河内国には「植山」なる地名は残されていない。ただし、近世の宇山村は元「上山村」と称し、元和元年(一六一五)に宇山村と改称している。……この説の初見は、明治三三年(一九〇〇)に出版の始まる吉田東伍『大日本地名辞書』である。この書の「宇山」の項には「牧野村大字宇山は大字坂の北に接す。延暦二一年坂上田村麻呂、蝦夷二酋河内植山に斬ると云ふは此なるべし。」と記されている。『大阪府全志』や旧『枚方市史』にもこの記述は踏襲されるが、この説が一般に広まることはなかったようで、昭和末期に至るまで管見の限りガイドブックなどの一般書への掲載は確認できない。 — 馬部隆弘、[32][33]

2020年、枚方市宇山で蝦夷が殺害されたという「伝承」を話す人達は確かに何人も存在したが、それらは『大日本地名辞書』の記載が発端となったものにすぎず、伝承とは先祖代々伝わってきたものがそう呼ばれるべきであるのだから伝承には該当しないと判断、この程度の事は説明する必要がないと考え記載しなかったと述べている。

アテルイが当地近くで殺害されたという言説は、明治33年(1900)に刊行された吉田東伍氏の著書に始まり、昭和47年(1972)に刊行された『枚方市史』などにも引用されている。これらは、『日本紀略』の解釈から提示された仮説・学説で、当然ながら伝承ではない。 一方で、枚方市には蝦夷が殺害されたという「伝承」があると熱心に主張する方々もたしかに何人もいた。しかし、蝦夷が殺害されたという「伝承」は、どう聞いても先祖代々伝わってきた類のものではなく、明らかに上記の学説が発端となったものばかりであった。このようなものは到底伝承として扱えなかった。また、この程度のことを説明する必要もないというのが当時の筆者の判断である。 — 馬部隆弘、[34]

河内国と禁野[編集]

杉村・宇山村がある枚方市周辺は桓武天皇がたびたび遊猟をおこなった交野の地で、桓武天皇の外戚で陸奥鎮守将軍等を務めた百済王氏の本拠地付近となる[16]

旧杉村・旧宇山村がある枚方市には明確にいつからかは不明であるがかつて天皇が所領する「禁野」があり、一般人の鷹狩は禁じられていた。朝廷が自ら禁野を穢すとは考えられないため杉・宇山を比定地とすることに対して批判もある[16]

宮内庁書陵部「満基公記 合綴 河内国禁野交野供御所定文 道平公記抄出」にて記された禁野の大まかな地理的記述[35]からその範囲を推定した馬部隆弘も旧宇山村説を否定しているが[36]、室町時代の禁野の範囲とアテルイが処刑された平安時代初期・西暦802年の禁野の範囲や禁野の定義、穢れについての概念が合致していたかどうかは定かではなく[37]、また旧宇山村他は京都府と大阪府の国境線上の山地に飛び地があり墓地等ももうけられていた[38]。 アテルイが斬られた802年の後の大同3年(808年)河内国交野雄徳山(男山)での埋葬が禁じられているが、宇山村東山飛地は男山の裾野にあたる。

禁葬埋雄河内国交野雄徳山。採造御器之土也。 — 類聚國史、[39]

枚方市のアテルイ首塚問題[編集]

「伝 阿弖流為 母禮 之塚」碑
(大阪府枚方市牧野公園)

首塚と牧野阪古墳[編集]

大阪府枚方市牧野阪の片埜神社裏にある牧野公園(片埜神社の旧社地)に「伝 阿弖流為 母禮 之塚」碑がある。顕彰碑が整備される以前は「首塚」と称される塚状の高まりであった[40] [41][42]。遺跡地図ではその場所に牧野阪古墳が記され[43] [44]、その隣に西寺の瓦が出土した牧野阪瓦窯跡が記されている。周辺一帯は牧野阪遺跡と呼ばれている。

枚方市史第一巻の「阪の古墳」[45]昭和28年(1953年)の台風13号被害復旧のために宮川徒達が見守る中重機で破壊された。

そこで直に調査にかゝったが、パワーショベルによる機械化採土のため、主体部遺構など充分調査しえないまゝに破壊されてしまった……ほゞ高さ3~4m径15m前後の圓墳で……恐らく粘土や砂礫などの棺外設備を設けず、たゞ木棺をそのまゝ直葬した様な最も簡単な埋葬形式のものと考えたい。……そしてこれらの點より本古墳の年代も、5世紀とは下らないと推定される。なお、御援助下さった北野耕平、生澤英太郎の兩氏に感謝したい。 — 宮川徒、[46]

馬部隆弘令和元年(2019年)5月「枚方市字阪の一古墳概報[46]」にて報告された古墳の所在地を1954年当時は大阪歯科大学の学生であった宮川徏へ尋ねアテルイの「首塚」のある牧野公園西側敷地ではなく道路を挟んだ東側敷地であるとの回答を得たため「阪の古墳」で引用された「枚方市字阪の一古墳概報」で報告された破壊された古墳の所在地と「伝 阿弖流為 母禮 之塚」碑の場所は異なると発表した[47]。「枚方市字阪の一古墳概報」の古墳は現在「牧野阪古墳」であると記載されている[48]

1970年代前半[編集]

平成5年(1993年)の枚方市議会にて、教育委員会社会教育部長が20年前(1973年)頃からいわれはじめたという伝承について語り、議事録に残されている。2006年この議事録を引用した[49]馬部隆弘は2020年3月教育委員会社会教育部長は1990年5月25日の日付けのメモを残した田宮久史であると発表した[47]

……まだ、ほんの20年ほど前から一部の方が胴塚とか、首塚とか、宇山地区にはそういう多分古墳だろうと思うんですが。実際胴塚と呼ばれていますところは発掘調査の結果、古墳だったということがわかりましたが、首塚、胴塚というようなことで伝わってきておりました。しかし阿弖流為のと言い出したのは、ほんの20年ほどのことです……盛んに水沢市の方からラブコールが起こったということでございます。確かに水沢市の方からいろいろ申し入れもあったんですけれども、おっしゃるような形でお断りを申し上げたというのが実情です。 — 『平成五年第三回定例会 枚方市議会会議録』A議員の質問及び答弁(四三六~五六抜粋)、[50]

アテルイの首塚は1970年代末から言われ始めたことであり、牧野公園のある牧野地区に古くからそのような伝承があった形跡は全く認められていないとの意見もあるが[22][51]、記録では1970年代前半から言われ始めているようである。

1979年頃・メモの女性[編集]

2002年から2012年まで枚方市で勤務していた馬部隆弘は、2006年発表の論文で勤務先で発見した枚方市史編纂室担当者であった田宮久史の1990年5月25日付けメモ(現在は枚方市立中央図書館市史編纂室にて保管)にて書かれていたそれよりさらに10年ほど前(1979年頃)の出来事を元にアテルイの首塚伝承の成立過程を説明した[49]

……(1)一〇年ほど前、牧野地区の女性が市史編さん室に時々電話してきた。曰く、夢に時々長い白髪で白いあご髭の人が地中から半身を乗り出して何かを訴える。どんな人で何を言っているのかわからないが、昔この辺で何かありましたか。(2)田宮ほとんど冗談として対応。昔、エゾの酋長が斬られた話がありますから、そんな関係でしょうか。(3)その女性、また後日曰く、きっとその酋長だと思う。恨みをもって未だに成仏できずに苦しんでいるに違いない。きちんとお祠りしてあげなさい。(4)……(2)北上(河北)新報大阪支社の記者は河内で斬られたとすることから本市を訪ね、田宮から女性の存在を知り、片埜神社宮司を取材して、アテルイの墓を発見したとばかりに大きく報道した。(3)…… — 馬部隆弘発見の枚方市史編纂室担当者田宮久史1990年5月25日付けメモ、[49][52][22][51]

1979年・河北新報の報道[編集]

昭和54年(1979年)、河北新報大阪支社は『蝦夷の統領ここに眠る?』という記事で「阿弖流為処刑地と埋葬場所見つかる」「地元の人々が保存」「大阪枚方 古くから首塚の伝承」と報道した。

首塚は式内片埜神社の古くからの氏子が発見し、その後追跡調査した先々代の宮司さんは、宇山町の竹薮内で処刑地と古老たちが伝えていた小さな塚山を見つけたという内容であった。
瀬川芳則、[53][51]
ところが数年前、同神社の氏子……が、元の神社の神域で現在は公園になっている神社のわきにある首塚を発見した。古くから「ヘビ塚」「鬼塚」などと呼ばれ……「もしや斬刑にされた蝦夷の統領を葬ったものでは!」との声が付近住民から高まり、市民有志が約5メートル四方、高さ2メートルの土盛り塚に柵(さく)を巡らし保存するようになっていた……同宮司は……(2)神社の所在地は地理的に河内国でも京都に一番近く、地元には古くから”戦いに負けた大物武将の首塚がある”との伝承があった……たまたま最近、同神社から北東に1キロほど離れた同市宇山町の竹やぶでも高さ3メートル、周囲5メートルぐらいの古塚が発見され、朽ちはてた桜の古木とともに、古くから「蝦夷の統領が処刑された場所」と伝えられていることがわかった……梅原猛京都市立芸術大学長の話……ここが二人の蝦夷(えぞ)の首領の処刑の地と結び付くかどうかは、確証がない限りなんとも言えないが、できればもっと地元の古老の証言が欲しい。 — 河北新報、蝦夷の統領ここに眠る? 阿弖流為処刑地と埋葬場所見つかる 地元の人々が保存 大阪枚方 古くから首塚の伝承,1979年3月25日日曜日

胴塚と宇山一号墳・二号墳[編集]

河北新報の報道から9年後となる昭和63年(1988年)に、枚方市文化財研究調査会が数ヵ月かけて宇山遺跡一帯の発掘調査を実施し、報道された竹薮の中の胴塚を6世紀後半の宇山一号墳、6世紀前半の宇山二号墳と命名した[53]

枚方市宇山町の竹籔の一面に、「どうづか」と呼ぶことのある直径約15メートルの小マウンドがあった……そして「どうづか」とか「胴塚」で、延暦21(802)年に斬首された蝦夷王阿弖流為の、首の無い遺骸を葬った塚だという……昭和57年の秋のある日、「まんだ」編集室にこの河北新報社から二人の来客があった。来訪の主旨は、阿弖流為の墓が発見できたかどうかの確認をすることであった……いつの日にか阿弖流為の墓を発見して欲しいと力説されたのであった — 瀬川芳則、"蝦夷王阿弖流為悲業の地枚方にのこる伝承と遺跡"まんだ34号,1988年1月,16頁
片埜神社の北にある牧野公園の中には、阿弖流為の首塚だと伝承されたマウンドがあります。今回、調査されたマウンドも阿弖流為の胴塚だと言い伝えられていました — 三宅俊隆、"枚方市"宇山一号墳""まんだ35号,1988年1月
墳丘を四分割……近世の屋瓦と多数の灯明皿(土師質小皿)があった。これは墳丘の上に小さな祠をおき屋根に瓦を葺いていたこと、そして人びとがまつりごとを行っていたことを示している。江戸時代の人が、ここを阿弖流為の墓だと考えていたらしい……江戸時代の人が、この古墳を壊した時には、横穴式木室も木棺もすでに腐って失われてしまっていたことであろう。人びとは、床面に散乱する人骨や歯を見て、大いに驚きかつ恐怖し、もう一度土を盛り上げたのであろう — 瀬川芳則、"アテルイ伝承をもつ枚方の胴塚"まんだ38号,1989年
宇山一号墳……非常に珍しい「横穴式木室」と「組合式木棺直葬(墓)」が並列してみつかり注目を浴びました……今回の調査地……宇山二号墳……棺内に二体が合葬されていたものと思われます。 — 三宅俊隆、"枚方市・宇山遺跡(第一五次調査)"まんだ43号,1991年

1988年当時は地元で胴塚と伝えられていたと語られていたが、2013年になると宇山一号古墳が発見されて以来、地元では古墳が発見される以前よりアテルイの首塚とセットで「胴塚」と呼んでいたという確証のない話が伝えられはじめたと語られるようになった[53][22]

1994年・清水寺の碑[編集]

平成6年(1994年)11月6日、京都市東山区清水寺にて平安遷都1200年を記念して「北天の雄 阿弖流為 母禮之碑」の除幕式と法要が執り行われた。顕彰碑は関西胆江同郷会、アテルイを顕彰する会、関西岩手県人会、京都岩手県人会によって建立された[54]

清水寺の碑は、もとは岩手県人会などが「枚方市にあるアテルイの首塚と称されるものにアテルイの碑を建てたい」と希望したことに対して、枚方市が「歴史的根拠のない場所に顕彰碑を建設すべきでない」と断ったことから、清水寺にアテルイの碑が建てられたという経緯がある[53]

1995年・慰霊祭の開始[編集]

清水寺の碑が建立された翌年となる平成7年(1995年)頃から、牧野公園内に突如として生まれた塚と、その付近にあった枚方市宇山にかつて存在した塚は、それぞれアテルイとモレの首塚・胴塚として岩手県県人会などの主催でアテルイの慰霊祭が行われ、片埜神社による祭祀が開始された[51]

平成12年(2000年)の吉川英治文学賞高橋克彦火怨 北の耀星アテルイ』が選ばれると、平成14年(2002年)には当時の水沢市で行われた「阿弖流為没後1200年祭」で秋田県に本拠地を置く劇団わらび座が同作品をミュージカルにして公演した[53]

翌春、わらび座は京都公演をおこなうのに先立ち、清水寺の「北天の雄 阿弖流為 母禮之碑」の前で鎮魂の奉納公演をおこなうと、以後は全国公演に取り組み、大阪公演は主催がアテルイを成功させる会(岩手県・関西岩手県人会・関西アテルイモレの会など)、後援が大阪府・大阪市および大阪府教育委員会大阪市教育委員会などで実施された[53]。関係者が「最後の公演は枚方で」と呼びかけた結果、平成16年(2004年)に枚方公演がおこなわれた[53]

2000年代・枚方市の方針転換[編集]

枚方市はその後、中司宏枚方市長(当時)が突如として生まれたアテルイの首塚と称されたものに対し記念碑建立実現に向けた支援を行うと方針転換した[51]。このような経緯から平成19年(2007年3月に「伝 阿弖流為 母禮 之塚」と記された石碑が牧野公園に建立されることになった[55][56]

アテルイ首塚に対する批判[編集]

瀬川芳則は、アテルイの首塚は史跡ではないと断言しつつ「人々の寄付金によって石碑が建てられ、披露の式典に参加した奥州市の幹部職員が涙しながら修辞を述べたのが印象的である」と記している[53]

馬部隆弘は、枚方市に対し「公共機関が動けば嘘も真になる」と厳しく批判している[51]。平成14年(2002年)から枚方市の市史担当部署で非常勤職員として勤めていた馬部は[57]、枚方市教育委員会が平成20年(2008年)に市制60周年記念の一環で発行した『発進!! タイムマシンひらかた号』にアテルイの首塚、七夕伝説、王仁墓に関する椿井文書なども登場することについて、枚方市役所では歴史的な内容の記述がある場合は市史料室がチェックする習わしであったことから、馬部の立場上、不適切な記述は全て書き換えるよう要望したが、冊子の編集を担当した指導主事から「史実でなくてもいいから、子供たちが地元の歴史に関心を持つことの方が大事」との編集方針を明言されたことを、著書『椿井文書―日本最大級の偽文書』で明かしている[58]

王仁墓に関する文書類が椿井文書であると判断された根拠は馬部隆弘氏によって発見された旧津田村三宅家所有の三宅源治郎が大正時代に記録した文書に記録されたエピソードであるが原本は所在不明、複写物は枚方市立中央図書館史料室で保管されている。

後世の評価[編集]

復権運動[編集]

平成14年(2002年)はアテルイ没後1200年にあたり、岩手県を中心にアテルイブームが巻き起こったことで東北地方在住の人たちにアテルイの名前が浸透した[2]。かつては「反逆者」として日本史の悪役であったアテルイの復権運動は、新たな日本史像を再構築するにあたって意義深いものであった[2]

しかしアテルイ復権運動は、かつての中央中心の征夷史観をそのまま裏返したかのように、国家と蝦夷社会との対立関係や、国家の侵略性と蝦夷社会の自律性・主体性にもとづく「正義」とがやや一面的に強調されすぎるきらいがあった[2]。またそうした見方は、アテルイがあたかも東北人の中央に対する自立や抵抗の象徴のように扱われることもしばしばあった[2]

高橋崇は、著書『坂上田村麻呂』において、アテルイの降伏に対し郷土愛的な側面があることについて「史料的裏付けの乏しい解釈には慎重でありたいと願う」と論じている[13]

顕彰碑[編集]

京都市東山区

田村麻呂が創建したと伝えられる京都の清水寺境内には、平安遷都1200年を期し1994年(平成6年)11月に、「北天の雄 阿弖流為母禮之碑」と記された碑が建立されている[59][60]

岩手県奥州市

2005年(平成17年)には、アテルイの忌日に当たる9月17日に併せ、岩手県奥州市水沢羽田町の羽黒山に「阿弖流為 母禮 慰霊碑」と記された石碑が建立されている。この慰霊碑は、アテルイやモレの魂を分霊の形で移し、故郷の土の中で安らかに眠ってもらうことを願い、地元での慰霊、顕彰の場として建立実行委員会によって、一般からの寄付により作られた。尚、慰霊碑には、浄財寄付者の名簿などと共に、2004年(平成16年)秋に枚方の牧野公園内首塚での慰霊祭の際に奥州市水沢の「アテルイを顕彰する会」によって採取された首塚の土が埋葬されている[61]。及川洵は、アイヌ民族によるアテルイ慰霊祭について疑問視している[62]

鉄道[編集]

2001年のアテルイ没後1200年記念事業の一環で、東北本線水沢駅 - 盛岡駅間で運行する朝間の快速列車1本に「アテルイ」という愛称が付けられた。[要出典]

スーパーコンピュータ[編集]

国立天文台水沢VLBI観測所に設置され、2013年4月1日に共同利用開始された天文学専用スーパーコンピュータに水沢地域の英雄である「アテルイ」の名がつけられた[63]。計算能力を活かして果敢に宇宙の謎に挑んでほしい、という願いが込められている。また2018年6月からは前システムの6倍の演算能力をもつ「アテルイII(アテルイ ツー)」が稼働している。

悪路王伝説[編集]

鹿島神宮の白馬祭の由来に関して記された天福元年(1233年)の文書の一節に「初代摂関家将軍となった藤原頼経が関東下向の時に悪来王を退治した」と書かれている[原 13][64]

その後、正安2年(1300年)頃に成立したとされる『吾妻鏡』では「文治5年(1189年)9月28日に源頼朝鎌倉帰還の途中に立ち寄った達谷窟は、坂上田村麻呂と藤原利仁が征夷の時に賊主・悪路王と赤頭が立て籠った岩屋と教えられた」と記されている[原 14][65][66]

これら鎌倉時代以降の文献に登場する悪路王なる人物をアテルイと結びつけようとする説もある[67][68]

高橋崇は、悪路王など坂上田村麻呂伝説全般について「採るに足らぬ俗説」としている。また新井白石が『読史余論』で陸奥の夷高丸が駿河の国清見が関まで攻め上がり、田村丸はこれをうち取り、北に追って陸奥の神楽岡で斬ったと記述していることについても「合理性と実証を重んじた史学者として白石らしからぬ叙述」と批判している[69]

桃崎有一郎は著書『武士の起源を解きあかす: 混血する古代、創発される中世』において、『吾妻鏡』での悪路王は田村麻呂と利仁の2人に討伐されたとあるが、2人は同じ時代の人物ではなく、悪路王についても実在した可能性がほぼないとしている[66]

アテルイを題材とする作品[編集]

小説
舞台
ドラマ
音楽
漫画
  • 『XEMBALA シャンバラ』 - 作・津寺里可子 - 1996年-1997年。アテルイと坂上田村麻呂をモチーフにした漫画。
  • 阿弖流為II世』 - 原作・高橋克彦、作画・原哲夫2000年
  • 『Madman call』 - 作・津寺里可子 - 2001年-2004年。上記シャンバラのキャラであるアテルイ達の遺伝子を継ぐ者達の現代での戦い。
アニメ
  • アテルイ』 - 2002年、長編アニメーション。没後1200年を機に製作された。
ゲーム

関連資料[編集]

蝦夷側で記した史料は残っておらず、古代日本の律令国家が編纂した六国史と称される正史のうち『続日本紀』で1箇所、『日本後紀』で3箇所にアテルイの名前が伝えられている[注 9][72]

阿弖流爲/大墓公阿弖利爲が記録される資料

脚注[編集]

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原典[編集]

  1. ^ a b c d e 『続日本紀』延暦八年六月甲戌(三日)条
  2. ^ a b c d 『類聚国史』延暦二十一年四月庚子(十五日)条
  3. ^ a b 『日本紀略』延暦二十一年夏四月庚子(十五日)条
  4. ^ a b c d 『日本紀略』延暦二十一年秋七月甲子(十日)条
  5. ^ a b c d e f 『日本紀略』延暦二十一年八月丁酉(十三日)条
  6. ^ 『続日本紀』延暦八年七月丁巳(十七日)条
  7. ^ 『続日本紀』延暦八年六月庚辰(九日)条
  8. ^ a b 『続日本紀』延暦八年五月癸丑(十二日)条
  9. ^ 『日本紀略』延暦二十一年春正月丙寅(九日)条
  10. ^ 『日本紀略』延暦二十一年春正月戊辰(十一日)条
  11. ^ 『日本紀略』延暦二十一年秋七月己卯(二十五日)条
  12. ^ 『日本後紀』弘仁五年十二月朔(一日)条
  13. ^ 『鹿島神宮文書』天福元年正月白馬祭
  14. ^ 『吾妻鏡』文治五年九月小廿八日乙酉

注釈[編集]

  1. ^ 「種類」は「一族」を指す
  2. ^ 大阪市鶴見区のうち旧・北河内郡茨田町生野区のうち旧・中河内郡巽町東住吉区のうち旧・中河内郡矢田村平野区のうち旧・中河内郡加美村瓜破村長吉村
  3. ^ 堺市東区全域、堺市美原区全域、北区のうち旧・南河内郡金岡村北八下村大字河合を除く。河合は現・松原市のうち)
  4. ^ 「田村麻呂来たる」とのみあることから、アテルイが平安京へと「入京」したとは解釈されていない
  5. ^ 「河内国椙山にて斬る」とのみあることから、律令に照らして「処刑」とは解釈されていない
  6. ^ 大阪市鶴見区のうち旧・北河内郡茨田町生野区のうち旧・中河内郡巽町東住吉区のうち旧・中河内郡矢田村平野区のうち旧・中河内郡加美村瓜破村長吉村
  7. ^ 堺市東区全域、堺市美原区全域、北区のうち旧・南河内郡金岡村北八下村大字河合を除く。河合は現・松原市のうち)
  8. ^ 神英雄の調査による内訳は「椙山」が9例、「植山」が4例、「榲山」が2例など
  9. ^ 日本紀略』と『類聚国史』にもアテルイについて記述されている箇所はあるが、いずれも『日本後紀』を原文とした内容である

出典[編集]

  1. ^ a b 高橋 1986, p. 100.
  2. ^ a b c d e f 樋口 2013, pp. i-iv.
  3. ^ a b c d e f g 樋口 2013, pp. 35-37.
  4. ^ 高橋 1986, pp. 101-102.
  5. ^ a b 樋口 2013, pp. 212-214.
  6. ^ 樋口 2013, pp. 216-218.
  7. ^ a b 高橋 1986, pp. 216-218.
  8. ^ a b 高橋 1986, pp. 113-114.
  9. ^ a b c d 樋口 2013, pp. 218-220.
  10. ^ 高橋 1986, p. 148.
  11. ^ a b c 樋口 2013, pp. 273-275.
  12. ^ a b c 高橋 1986, p. 150.
  13. ^ a b c 高橋 1986, pp. 150-151.
  14. ^ a b c 樋口 2013, pp. 275-277.
  15. ^ a b c d 高橋 1986, pp. 151-152.
  16. ^ a b c d e f g h i 樋口 2013, pp. 277-279.
  17. ^ 樋口 2013, pp. 280-281.
  18. ^ 樋口 2013, pp. 290-293.
  19. ^ a b 樋口 2013, pp. 305-307.
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  22. ^ a b c d e f g h i j 鈴木 2016, pp. 57-60.
  23. ^ 神英雄 『歴史と伝承:日野昭博士還暦記念論文集』 永田文昌堂、1988年、546頁。 
  24. ^ a b c 神英雄 『歴史と伝承:日野昭博士還暦記念論文集』 永田文昌堂、1988年、蝦夷梟帥阿弖利為・母礼斬殺地に関する一考察。 
  25. ^ 今泉隆雄 『日本古代国家の展開 〈上巻〉』 思文閣出版、1995年、三人の蝦夷-阿弖流為と呰麻呂・真麻呂-。 
  26. ^ 神英雄 『歴史と伝承:日野昭博士還暦記念論文集』 永田文昌堂、1988年、551頁。 
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参考文献[編集]

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  • 岡田桃子『神社若奥日記』、祥伝社2003年。ISBN 4-396-31339-X
  • 黒板勝美『新訂増補国史大系[普及版] 日本紀略』(第二)、吉川弘文館1979年。ISBN 4-642-00062-3
  • 鈴木拓也編『三十八年戦争と蝦夷政策の転換』吉川弘文館〈東北の古代史 4〉、2016年6月20日。ISBN 978-4-642-06490-3。
  • 瀬川芳則、西田敏秀、馬部隆弘、常松隆嗣、東秀幸『枚方の歴史』松籟社、2013年5月5日。ISBN 978-4879843135。
  • 高橋崇『坂上田村麻呂』吉川弘文館人物叢書〉、1986年7月1日、新稿版。ISBN 4-642-05045-0。
  • 新野直吉『古代東北の兵乱』、吉川弘文館、1989年。ISBN 4-642-06627-6
  • 新野直吉『田村麻呂と阿弖流為』、吉川弘文館、1994年。ISBN 4-642-07425-2
  • 馬部隆弘「蝦夷の首長アテルイと枚方市」『史敏』2006春号、史敏刊行会、2006年。ISSN 1881-2066
  • 馬部隆弘『椿井文書―日本最大級の偽文書』中央公論社中公新書 2584〉、2020年3月25日。ISBN 978-4-12-102584-5。
  • 樋口知志『阿弖流為 夷俘と号すること莫かるべし』ミネルヴァ書房ミネルヴァ日本評伝選 126〉、2013年10月10日。ISBN 978-4-623-06699-5。
  • 細井計・伊藤博幸・菅野文夫・鈴木宏『岩手県の歴史』(県史3)、山川出版社、1999年。ISBN 4-634-32030-4
  • 桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす――混血する古代、創発される中世』筑摩書房ちくま新書 1369〉、2018年11月10日。ISBN 978-4-480-07178-1。

関連項目[編集]