アフガニスタン紛争 (2001年-)

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アフガニスタン紛争(2001年- 現在)
対テロ戦争
Defense.gov News Photo 120229-A-8536E-817 - U.S. Army soldiers prepare to conduct security checks near the Pakistan border at Combat Outpost Dand Patan in Afghanistan s Paktya province on.jpg
戦争アフガニスタン紛争
年月日2001年10月7日 - 現在
場所アフガニスタン
結果:継続中
交戦勢力
国際治安支援部隊の旗 NATO – ISAF

アフガニスタンの旗 アフガニスタン・イスラム共和国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ
イギリスの旗 イギリス
ドイツの旗 ドイツ
Flag of Afghanistan (WFB 1996).png 北部同盟

ターリバーンの旗 ターリバーン
アルカーイダの旗 アルカーイダ
ヘクマティヤール派
指導者・指揮官
アメリカ合衆国の旗 デービッド・ペトレイアス
アメリカ合衆国の旗 ドナルド・トランプ
アメリカ合衆国の旗 バラク・オバマ
アメリカ合衆国の旗 ジョージ・W・ブッシュ
ターリバーンの旗 ムハンマド・オマル
ターリバーンの旗 アフタル・ムハンマド・マンスール
ターリバーンの旗 ハイバトゥラー・アクンザダ
アルカーイダの旗 ウサーマ・ビン・ラーディン
戦力
NATO – ISAF: 132,381[1]

アフガニスタン軍: 270,000 (2011)[2]

120,000+[:en]
損害
NATO – ISAF:

死亡 2,697[3](アメリカ: 1,751, イギリス: 379, その他: 567 )
負傷 18,000以上 (アメリカ: 13,447[4]、イギリス: 4,091[5]カナダ: 1,580以上[6])
民間請負業者:
死亡 887, 負傷 11,000以上[7]
アフガニスタン軍:
死亡 7,500以上[8][9]
北部同盟:
死亡 200[10]
合計:
死亡 10,000以上

タリバンおよび反政府軍

死亡および捕虜 38,000以上 [:en]

アフガニスタン紛争 (2001年-)

アフガニスタン紛争(2001年 - 現在)(アフガニスタンふんそう)では、2001年10月から現在までアフガニスタンで続いている紛争のこと。主にアフガニスタン政府やそれを支援するアメリカ合衆国北大西洋条約機構(NATO)加盟国などとターリバーンアルカーイダなどの武力集団の間で戦闘が行われている。

前史[編集]

2001年時点のアフガニスタンの勢力地図。赤の部分が北部同盟の支配下。

1978年の共産政権の成立にともない、全土でムジャーヒディーンと呼ばれる武装勢力が蜂起した。これをうけて1979年にはソビエト連邦軍事介入を行ったが、東側社会以外の支援を受けたムジャーヒディーンを駆逐することはできず、1989年にソ連軍は撤退した。

しかしソ連軍の撤退以降はムジャーヒディーン同士が内戦を起こし、軍閥を形成して戦闘が続いた。1994年頃からパキスタン軍の支援を受けたパシュトゥーン人の武装勢力であるターリバーンが勢力を拡張し、国土の大半を制圧した。しかし、ターリバーン政権はイスラム原理主義的政権であり、同様に原理主義的思想を持つウサーマ・ビン=ラーディンアル・カーイダを国内に保護し、テロリストの訓練キャンプを設置していた。

このためターリバーン政権を承認したのはパキスタン、サウジアラビアアラブ首長国連邦の三国に留まり、アフガニスタンの国際連合における代表権はブルハーヌッディーン・ラッバーニーを大統領とするアフガニスタン・イスラム国が保持していた。ラッバーニーをはじめとする旧ムジャーヒディーン勢力はターリバーンに対して同盟を組み、通称「北部同盟」として北部で抵抗を続けたが、ターリバーンに押されつつあった。

1998年、タンザニアケニアアメリカ大使館がアル・カーイダにより爆破される事件が発生し、アメリカは報復としてアフガニスタン国内の訓練キャンプをトマホークで攻撃した。このため12月8日には国際連合安全保障理事会で国際連合安全保障理事会決議1214[11]が採択され、テロリストの国際司法機関への引き渡しが要求され、1999年には国際連合安全保障理事会決議1267[12]で、アル・カーイダとビン=ラーディンらを名指ししての引き渡しが要求された。しかしターリバーン政権は従わず、決議に基づく経済制裁が行われた(アメリカ同時多発テロ事件後はこの狙い撃ち制裁が拡大され、カディ事件やサヤディ事件で人権侵害が問題化する[13])。

アル・カーイダの攻撃は引き続き起こり、2000年10月には米艦コール襲撃事件が発生した。このため12月に国際連合安全保障理事会決議1333[14]が採択され、再度アル・カーイダの引き渡しが求められたがターリバーン政権はこれにも従わなかった。ターリバーンとしては、アフガニスタンの客人歓待の伝統、ウサマ・ビン・ラーディンからの資金援助等の事情から、犯罪の証拠が示されることなく、ウサマ・ビン・ラーディンを引き渡すことはできなかった[15]

2001年2月26日にターリバーン政権は偶像破壊を名目にバーミヤンの大仏を破壊した。しかしこの事件も非イスラム諸国だけでなく、イスラム諸国からの批判も受けターリバーン政権は孤立状態にあった。

開戦までの経緯[編集]

炎上する世界貿易センタービル

2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件が発生した。12日、アメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領はテロとの戦いを宣言した。またこの中で、ターリバーン政権の関与が示唆され、ドナルド・ラムズフェルド国防長官はウサーマ・ビン=ラーディンが容疑者であり、また単独の容疑者ではないと発言した。また同日、第56回国連総会でも米国政府と市民に哀悼と連帯を表して国連も本部を置くニューヨークなどへのテロ攻撃に対して速やかに国際協力すべきとする決議56/1を当時の全加盟国189カ国が全会一致で採択し[16]、国際連合安全保障理事会でも国際連合安全保障理事会決議1368[17]が採択された。

この決議1368は9月11日のテロ攻撃を「国際の平和及び安全に対する脅威」と認め、「テロリズムに対してあらゆる手段を用いて闘う」というものであった。また前段には「個別的又は集団的自衛の固有の権利を認識」という言葉があり、これは同日にNATOが創設以来初めての北大西洋条約第5条の集団防衛条項による集団的自衛権の発動を決定する根拠となった。(#開戦の正当性に対する論議)。

この後アメリカはターリバーン政権にビン=ラーディンらの引き渡しを要求した。しかしターリバーンは引き渡しに応じなかった。

9月14日、オーストラリア太平洋安全保障条約第4条に当たるとして集団的自衛権の発動を表明した[18]。9月15日、アメリカのコリン・パウエル国務長官はパキスタンがアフガニスタン攻撃に協力すると声明した。16日、湾岸協力会議を構成するアラブ諸国はテロ攻撃を批判し、アフガニスタン攻撃を支持する声明を出した。タリバンを承認してきたアラブ首長国連邦、パキスタン、サウジアラビアも国交を解消した。しかし16日にターリバーンの情報相は重要拠点を要塞化したと声明し、徹底抗戦の姿勢を示した。17日、イランモハンマド・ハータミー大統領はテロを非難したが、アラブ連盟イスラム諸国会議機構と同じようにアフガニスタン攻撃の際は民間人の被害を最小限にするよう要請した。

9月18日、アメリカ合衆国議会テロを計画、承認、実行、支援したと大統領が判断した国家、組織、個人に対してあらゆる必要かつ適切な力を行使する権限を与えるとする合同決議が上院98対0、下院420対1で通る。9月21日、ラムズフェルド国防長官は北部同盟と共同して作戦に当たることを発表した。また欧州連合外相会議も全会一致で攻撃を支持した。

9月28日、国際組織法で初の「立法行為」[19][20]とされる国際連合安全保障理事会決議1373[21]が採択され、「全ての国」に国連憲章第7章に基づく強制措置として厳罰化や情報交換および資金援助禁止などのテロ対策とその報告が義務化され、11月12日には国際連合安全保障理事会決議1377ではテロは「全国家と全人類への挑戦」とまで非難された。

アメリカはこの間に協力する国々と連合を組み、攻撃の準備に入った。これらの国は有志連合諸国と呼ばれ、ラムズフェルド国防長官は「人類史上最大の連合」であるとした[22]。有志連合諸国は不朽の自由作戦という統一作戦名で、アフガニスタンを含むテロ組織勢力地域への作戦を実行した。

開戦の正当性に対する論議[編集]

アメリカはイギリスフランスカナダドイツ等と共同でアフガニスタンに攻撃を行った。これは国際連合憲章に定められた国連軍ではなく、国連憲章第51条によって定められ、事前に国連決議を必要としない集団的自衛権の発動によるという論理であった。この論理は米州機構EU、そして日本を含む同盟国と法学者に広く認められた[23]

しかし、テロ攻撃に対して自衛権は発動出来ないという法学者も少なからずおり[23]、議論が発生している。また、これらは後のテロ対策特別措置法自衛隊インド洋派遣をめぐる国会論議でも取り上げられている。

以下、『テロ特措法の期限延長をめぐる論点』[23]に沿った争点の整理を行う。

自衛権[編集]

「テロ攻撃」は自衛権の対象となる「武力攻撃」にあたるかという問題である。また、自衛権は急迫不正の侵害に対して自国を防衛するための権利であり、テロ攻撃が今後も続く「除去しなければならない脅威」にあたるかという議論があった。

  • 肯定派
    • 安保理決議1373は国連憲章第7章のもとに行動することを定めている。これは個別的又は集団的自衛権を確認するものであり、テロ攻撃に自衛権が発動出来るということを示している。
    • 派遣される武装集団の規模や影響が武力攻撃に匹敵するほどであれば武力攻撃を構成しうるという国際司法裁判所の判例がある(ニカラグア事件判決)。
    • アル・カーイダの以前からの活動を見ると今後の攻撃も予想され、除去しなければならない脅威にあたる。
  • 否定派
    • 安保理決議1373にあげられた「すべての国がとるべき行動」には武力行使自体は書かれていない。
    • テログループは「私人」であり、国際法上の主体ではなく、その行動は「武力攻撃」 (armed attack)ではなく「武力行使」 (use of force)であり、自衛権の対象にならない。
    • 有志連合諸国による攻撃は一ヶ月以上後であり、自衛権の要件の一つである「時間的要件」(差し迫った脅威を取り除くため)に該当しない。
    • 安保理決議1378にあげられた必要な措置に、武力行使は含められない。

ターリバーンへの攻撃[編集]

テロ攻撃を行ったのは、ターリバーン政権自体ではなく、その庇護下にあるアル・カーイダである。この場合、ターリバーンに攻撃を行うのは正当かという問題がある。

  • 肯定派
    • 安保理決議1368および1373はテロ組織援助禁止を規定しており、ターリバーン政権のアル・カーイダへの援助は問題がある。
    • ターリバーン政権は1996年以来、安保理決議1267および1333によるアル・カーイダ引き渡しの要求を再三拒否しており、ターリバーンの擁護者である。
    • 友好関係原則宣言では、テロ組織の育成を禁じており、ターリバーンの行為はこれにあたる。
    • 11月14日に定められた国際連合安全保障理事会決議1378[24]は「タリバン政権を交代させようとするアフガニスタン国民の努力を支援」するとあり、ターリバーン政権の打倒を明確に支持している。
  • 否定派
    • ターリバーン政権は対する兵站支援や武器供与を行ったにすぎず、直接攻撃を行っていない。
    • 一テロ組織の行動をターリバーン政権の責任とするのは問題がある。
    • 政権崩壊に至るというターリバーン政府が受けた結果は、自衛権の要件である均衡性要件を欠く。

アルカーイダ問題[編集]

同時多発テロ当時、アルカーイダによる犯行声明などは行われておらず、アルカーイダを犯人と推定したのはアメリカ当局によるものであった。明確な関与が判明していない以上、攻撃を行うのは正当かという点も問題となった。

経緯[編集]

開戦後[編集]

2001年[編集]

オマーン海で「不朽の自由」作戦を行う5カ国空母艦隊(2002年4月18日)

2001年9月のアメリカ同時多発テロ事件は不意打ちだった為、アメリカ軍はアフガニスタンで戦争を行うプランを持っていなかった[25]。急きょ作戦が立てられ、アフガニスタンのムジャーヒディーン軍閥にアルカーイダやターリバーンを攻撃させること、レーザー目標指示装置を装備した特殊部隊を派遣して空爆を支援させることなどが決まった[25]。アメリカ合衆国政府はこの作戦を対テロ戦争の一環と位置づけ、国際的なテロの危機を防ぐための防衛戦であると主張し、作戦名を不朽の自由作戦 (OEF: Operation Enduring Freedom)」と名付けた。なお英国では「ヘリック作戦」 (Operation Herrick)と呼んでいる[26]。アメリカは同時多発テロの前からウズベキスタンの空軍基地で無人偵察機を運用していたので、無人偵察機にミサイルを積んで攻撃機としても使えるようにした[25]。10月2日、NATOは集団自衛権を発動し、アメリカ合衆国イギリスを始めとした有志連合諸国は10月7日から空爆を開始した。アメリカ軍は米国本土やクウェートインド洋ディエゴガルシア島航空母艦から発着する航空機やミサイル巡洋艦を動員して、アフガニスタンに1万2000発[27]の爆弾を投下した。アメリカは軍事目標だけを攻撃していると発表していたが、実際には投下した爆弾の4割[27]は非誘導型爆弾であり民間人に多くの犠牲が出たと言われている。11月13日には北部同盟軍が首都カーブルを制圧した。

開戦当初、ターリバーンの指導者のムハンマド・オマルカンダハールの自宅に居たので、空爆によって殺害する機会はあった[25]。しかしアメリカは民間人の被害を恐れてオマルの逃亡を許した[25]。オマルはハーミド・カルザイを通じて降伏に同意したが、アメリカは降伏を認めなかった[25]。アメリカは数千人のターリバーンを殺害したので、ターリバーンは自然消滅すると考えていた[25]

アルカイーダのアラブ人チェチェン人、ウズベク人やアフリカ人などの外国人兵士はカブールが陥落すると都市部を放棄して、対ソ戦時代に建設されたパキスタン国境の地下要塞トラボラに立てこもった(トラボラの戦い[27]。対ソ戦時代、ソ連軍は爆撃で地下要塞を破壊しようとしたが上手くいかなかった[27]。アメリカ軍も同様に爆撃を行ったが地下要塞を破壊することは出来なかった[27]。トラボラ周辺の国境地帯は広大だったが、2000~3000人のアメリカ軍が包囲すればビンラディンを捕らえることが出来たと考えられている[27]。しかしアメリカ軍は派遣できる部隊が存在していたにも関わらずリスクを恐れてトラボラ周辺に部隊を派遣しなかった[27]。代わりに派遣されたアフガニスタン軍閥の戦意は低く、パキスタン軍はヘリコプターが揃わないため十分に兵力を展開することが出来なかった[27]。ビンラディンは死を覚悟していたが、国境を越えてパキスタンに脱出することが出来た[27]。アメリカのブッシュ政権は最小限の被害でターリバーン政権を崩壊させたことに満足し、戦後の国家建設や平和維持には興味を示さなかった[27]。アフガニスタンの国家建設や平和維持は国連に託された。

ハーミド・カルザイ大統領

2001年11月、ドイツボン近郊のケーニヒスヴィンターにおいて北部同盟を含むアフガニスタンの4つのグループの代表を国際連合が招集して会議が開かれた。ボン会合当時、ターリバーンとの戦闘は継続していたが、すでに北部同盟軍がカーブルを占領しており、早急に暫定政府の設立、国際的な部隊による治安維持を決める必要が生じたので、急遽、ボン会合が招集されることとなった[28]。これにより暫定政府の成立、ロヤ・ジルガの招集、国際治安支援部隊 (ISAF)の成立と国連アフガニスタン支援ミッション (UNAMA)の設立が合意され、翌日国連安全保障理事会において承認された(国際連合安全保障理事会決議1383)。これをボン合意といい、以降のアフガニスタン復興計画のスタートとなった。

同月、国際連合安全保障理事会決議1378が採択され、国際連合安全保障理事会はタリバンを非難し、有志連合諸国と北部同盟によるターリバーン政権の打倒を支持した。また、その後の国内外の軍事行動は1510、1386、1746等複数の決議によって承認されており、国連アフガニスタン支援ミッション等と連携して行われている。

12月、ISAFは国際連合安全保障理事会決議1386、UNAMAは国際連合安全保障理事会決議1401によって正式に承認され、以降のカーブル周辺の治安維持活動はISAFが担うこととなった。しかし、ターリバーンはボン合意に参加しておらず、また、ボン合意に基づき成立した暫定政府にタジク人が多かったため、パシュトゥン人の不満が高まり、ターリバーンが復活する一因となった[29]

2001年12月22日にはハーミド・カルザイを議長とする暫定政府、アフガニスタン暫定行政機構が成立し、正式な政府成立までの行政を行った。同月、テロ対策特別措置法に基づいて日本海上自衛隊海上阻止行動に参加し、2010年までインド洋で給油活動を行った(自衛隊インド洋派遣)。

2002年[編集]

2002年1月、アルカーイダには数百人から2000人ほどの兵力があり、パクティーカー州の都市ガルデーズ付近のシャーヒーコート渓谷に潜伏していた[30]。シャーヒーコート渓谷にはハッカニー・ネットワークの基地があり、主にウズベキスタン・イスラム運動の兵士が立てこもっていた。3月、アメリカ軍は「アナコンダ作戦」を行い、シャーヒーコート渓谷を掃討した[30]。この作戦でアメリカ軍は150人~800人ほどのアルカーイダを殺害したと考えられているが、アメリカ軍の損害も比較的多かった。生き残ったアルカーイダの兵士はパキスタンの連邦直轄部族地域に撤退した[30]

アメリカのブッシュ政権はアフガニスタンに深入りすることを恐れて、少数の部隊(5200人)しか派遣していなかった[31]。ブッシュ政権はアフガニスタンの国家建設も各国の分担で行うことを主張し、アフガニスタン軍の再建はアメリカ、警察の再建はドイツ、司法の再建はイタリア、麻薬取り締まりはイギリスに任せて、国連に統括させた[31]。6月11日から8日間、カーブルにおいて緊急ロヤ・ジルガが開催された。会議の結果、暫定行政機構に代わり、カルザーイを大統領とするアフガニスタン・イスラム移行政府が成立した。ブッシュ政権はターリバーンは打倒されたと考えており、今後は敗残兵の掃討を行えばよいと考えていた[31]。アメリカのアフガニスタンに対する予算は極めて少なく、援助を期待していた地方住民は失望した[31]。また少ない予算の中から学校の建設が行われたが、アフガニスタンの特に田舎では女学校の建設は社会の急進的な変化や欧米の価値観の押し付けとみなされ、一部の住民が反発した[32]

パキスタンではムッラー・ダードゥッラーなどのターリバーンの幹部がクエッタ郊外で公然と暮らしており、結婚式に州の幹部や軍人を招くほどだった[33]。アメリカはいずれ撤退するとターリバーンや周辺諸国は考えており足元を見ていた[33]。ターリバーンはパキスタンから近隣のカンダハールに出撃して迫撃砲で攻撃し、「夜の手紙」(シャブナーマ)を使って住民を脅迫し支配下に組み入れた[33]

2003年[編集]

2003年、アフガニスタンで戦闘は続いていたが、ブッシュ政権はアフガニスタンについてほとんど何も考えていなかった[34]。特にラムズフェルド国防長官は戦争は終結したと公言しており、コソボ紛争を教訓に外国軍の長期的な駐留を避けようとしていた[34]。アメリカ軍もイラクで次の戦争を始めようとしていた(イラク戦争[34]。8月11日、国連とアフガニスタン政府の要請により、ISAFの指揮権がNATOに委譲された。10月13日の国際連合安全保障理事会決議1510においてISAFの活動範囲がアフガニスタン全土に拡大され、OEF-A参加部隊の指揮権はISAFに移譲されることとなった。また武装解除・動員解除・社会復帰が行われ、アフガニスタン北部では伊勢崎賢治などが中心となり軍閥から武器を取り上げた。

パキスタンはアメリカ同時多発テロ事件の後、アメリカ政府から「空爆して石器時代に戻す」と脅迫され、アメリカに協力していた[35]。しかしパキスタンは19世紀のグレート・ゲームや20世紀のインド・パキスタン分離独立などの結果、パンジャーブ人パシュトゥーン人などの複数の民族が相互不干渉の微妙なバランスの下で1つの国家を形成しているだけで、パンジャーブ人が主体となる中央政府がパシュトゥーン人の領域(連邦直轄部族地域)を支配している訳ではなかった[35]。大英帝国の時代から連邦直轄部族地域(FATA)はパシュトゥーン部族の自治が認められており、中央政府の法律は現在でも及んでいない[35]。また中央政府の軍隊が連邦直轄部族地域に入ったことも無かった[35]。パキスタンは建国後も苦難の歴史が続き、印パ戦争で3回インドに敗北し、東パキスタン(バングラディッシュ)を失い、現在もカシミール地方をいつ失うか分からない状態が続いている[35]。インド軍はパキスタン軍の2倍の戦力を誇りパキスタンは通常戦力では歯が立たない為、軍統合情報局(ISI)がターリバーンやカシミール過激派を養成して、インド軍に対してゲリラ戦やテロ攻撃を仕掛けることを黙認している[35]。またパキスタンは国家統一を図り、インドのヒンドゥー・ナショナリズムに対抗するためにイスラム化を進めたので、パキスタン国民の大半はオサマ・ビン・ラディンを英雄だと思っていた[35]。パキスタンが国内でターリバーンやアルカーイダを取り締まることは困難であり、また将来の印パ戦争やカシミール紛争に向けてターリバーンを取り締まりすぎることは国益に合致しない。アメリカに対する協力は国内の反発を生み、2003年12月にカシミール過激派がムシャラフ大統領の暗殺未遂事件を起こした[36]。パキスタン政府は重い腰を上げ、建国以来初めて南ワジリスタンに軍を派遣した(ワジリスタン紛争[36]。しかしパキスタンは国内のターリバーンの存在は否認しており[36]、アメリカ軍の無人攻撃機や特殊部隊もクエッタなどの大都市には手を出せないでいた[36]。連邦直轄部族地域の国境警備は現地採用の辺境部隊が担当しているが、辺境部隊の兵士はターリバーンと同じ民族であり思想的にも近いため、取り締まりには非協力的でありターリバーンの越境時に援護射撃を行う場合すらあった[36]

2004年[編集]

カンダハール

2003年12月14日から2004年1月4日にかけて、カーブルにおいて憲法制定ロヤ・ジルガが開催された。これによりアフガニスタン憲法が成立し、2004年1月26日から施行された。10月9日にはアフガニスタン全土およびイランパキスタンを投票地域とする大統領選挙が行われ、カルザイが55.4%の票を獲得。アフガニスタン・イスラム共和国初代大統領に選出された。カルザイは12月に大統領に就任し、アフガニスタン・イスラム共和国が正式に成立した。しかし地方の政治は軍閥に委ねられており、住民サービスを行うどころか住民に対して州知事がゆすり集りを行い、敵対部族をターリバーンとみなしてアメリカ軍に攻撃させていた[37]。カルザイ大統領の異母弟のアフマド・ワリー・カルザイカンダハール州の実力者として権勢をふるい、麻薬取引にも関わっていたと言われている[37]

同年、ターリバーンの最高評議会(クエッタ・シューラ)が軍事作戦の再開に向けた文書を作成したと言う[37]。アルカーイダはパキスタンの南ワジリスタンのワナやシカイ渓谷に拠点を持っていた[37]。ワナはワズィール族の武装組織指導者のネーク・ムハンマドが支配していたが、アメリカは無人攻撃機を使って爆殺した[37]

同年、アメリカで大統領選挙が行われ、ブッシュ大統領が再選した。ブッシュ政権はパキスタンに協力を求める一方で、パキスタンの主敵であるインドと米印原子力協力について協議を行うなど政策が首尾一貫していなかった[37]。アメリカはアフガニスタンの国家建設が順調に進んでいるため、ターリバーンの復活の可能性は低いと考えており[37]、アフガニスタンの治安維持をNATO軍に任せて、イラク戦争に専念した[37]

第一回大統領選挙後[編集]

2005年[編集]

ターリバーンの勢力拡大(2002年~2006年)

2005年9月18日、下院議員選挙と県会議員選挙が行われた。

2005年後半からタリバンを中心とした武装勢力が南部各地で蜂起した。このタリバンの蜂起は国際治安支援部隊(ISAF)が南部や東部に展開し始めた時期と重なっている。当時、ISAF側はタリバンの攻撃増加はタリバンがISAFに追い込まれた結果として抵抗するためのものである、という強気の見方を示していた[38] 。しかし、ISAFの説明とは異なりアフガニスタンの治安は急速に悪化していった。対ソ連戦争や軍閥内戦時代にもなかった自爆攻撃(2005年27件、2006年139件)が行なわれるようになったことから、イラク戦争で伸張し数多くの自爆テロを行なってきたアル・カーイダの影響を指摘する声もある。

同年、パキスタン軍は南ワジリスタンで和平を結び、北ワジリスタンに進軍した[39]。一方、軍統合情報局(ISI)はサウジアラビアの支援を受けて、ターリバーンに対する支援を積極化させたと言う意見がある[40]。軍統合情報局は2万5千人の職員を擁し、秘密工作を行うS局など様々な部門があり統制が取れていなかった[41]。アメリカはビンラディンの探索を続けていたが難航していた[40]。アメリカは連邦直轄部族地域にターリバーンやアルカーイダが潜伏してアフガニスタンを攻撃していることを理解していたが、核兵器保有国のパキスタンに対する遠慮があり越境攻撃をためらっていた[40]。また住民の協力も得られないため攻撃を強行しても成果が出なかった[40]

ターリバーンやアルカーイダは「アッ=サハーブ」や「トラボラ」などのウェブサイトやネットマガジンを使って宣伝戦を積極的に行っており[40]、イギリス在住のパキスタン人などがテロを行っていた(ロンドン同時爆破事件)。

2006年[編集]

有志連合の月別の損害(2002年~2015年)

2006年、アフガニスタン南部に国際治安支援部隊(ISAF)が展開し、「マウント・スラスト作戦」を実施した。イギリス軍は手付かずだったヘルマンド州に展開したが、ターリバーンに包囲されて苦戦した[42]カンダハール州ではターリバーンが攻勢に転じてカナダ軍に塹壕戦を挑んだが、カナダ軍に撃退された(マウント・スラスト作戦、メデューサ作戦[42]ウルーズガーン州ではオーストラリア国防軍パース作戦を実行した。連合軍はターリバーンの最高指導評議委員の1人ムラー・アフタル・ウスマーニを殺害するなどの戦果を挙げたものの[43]、アフガニスタンの治安は大幅に悪化し、アフガニスタンにおける治安事件の数は2003年の10倍に達した[42]。またアヘンの収穫量が急増し、国連薬物犯罪事務所 (UNODC) が警告を発した[44]。アヘンの大半はヘルマンド州で生産されており、ターリバーンの資金源となっていると言う[45]。またアヘン生産者が国内の混乱を継続させるためにターリバーンに献金を行っているという意見もある[46]

アフガニスタンのアヘンの生産量(1994年~2016年)

同年、パキスタンではパキスタンの特殊部隊がハッカニー・ネットワークの複数の拠点を攻撃したことに地元武装勢力が反発したことなどにより[47]、パキスタン軍の被害が増大した[39]。ハッカニー・ネットワークは北ワジリスタンのミランシャー郊外のダンデ・ダルパヘイルにある大規模な神学校を拠点にしている[47]。パキスタン軍は北西辺境州のオークラザイ知事の提案で、ワジリスタンの部族長やターリバーン、外国人戦闘員と和平協定を結んだ(ワジリスタン和平合意)[47]。パキスタン軍は連邦直轄部族地域から撤退したので、ターリバーンはアフガニスタンに自由に越境できるようになった[47]。パキスタン政府は数千人の戦闘員を擁し政府に対して好戦的なマスード族に対抗するために、ワズィール族と手を結ぼうとしていた[47]。一方、パキスタンの軍統合情報局(ISI)はISAFの展開はアメリカ軍撤退の兆しであると考え、アメリカ撤退後のターリバーン政権の樹立について真剣に考えていたという意見がある[47]。アメリカでは中間選挙民主党が勝利し、アフガニスタンに対する予算がようやく増加した[47]

2007年[編集]

2007年、アフガニスタンでは自爆テロ無差別爆撃によってISAFや民間人に多数の犠牲者が出ていた[48][49]。ターリバーンはカブールで自爆テロを開始した[50]。歩兵戦も続き、国際治安支援部隊(ISAF)はアフガニスタン南部でクリプトナイト作戦(ヘルマンド州)やフーバー作戦(カンダハール州)などを行った。またウルーズガーン州ではターリバーンが攻勢に出てオランダ軍と戦闘を行った(チョーラの戦い)。アフガニスタン北部ではドイツ軍などがハレカテ・ヨロ作戦を実施した。連合軍はターリバーンの最高指導評議委員の1人ムラー・オバイドゥラー・アクンドを拘束し、ムラー・ダードゥラーを殺害するなどの戦果を挙げたがターリバーンの勢いは衰えなかった[51]ガズニー州ではターリバーンの力が州都のすぐそばの幹線道路にまで及んでおり、州内の3分の2の郡では職場放棄が起き、郡裁判所などが業務を停止していた[52]。アフガニスタン大統領のハーミド・カルザイはターリバーンに和平を提案したが、ターリバーンは外国軍の存在を理由に拒絶した[53]。ターリバーンは外国人を敵視しており2007年ターリバーン韓国人拉致事件が起きた。

パキスタンではラール・マスジッド籠城事件が起き、ワジリスタン和平合意が破れ戦闘が再開した[54]。アメリカは権力を失いつつあるムシャラフ大統領に代わってブット元首相を再登板させようと考えたが選挙中に爆殺された[55]

9月、ISAFの活動期限延長を主題とし、不朽の自由作戦 (OEF)に対する謝意が前文に盛り込まれた国際連合安全保障理事会決議1776が採択されたが、ロシアが棄権にまわった。

2008年[編集]

2008年、アフガニスタン北部では雨不足による穀物の不作により出稼ぎや難民が発生した[56]。アフガニスタン南部ではGarmsirの戦い(カンダハール州)、Eagle's Summit作戦(ヘルマンド州)などが行われた。ウルズガーン州ではヘルト・ウィルダースの製作した反イスラム的な短編映画に対する報復と称してターリバーンがオランダ軍にIED攻撃や自爆攻撃[57][58]、待ち伏せ攻撃を行った(Khaz Oruzganの戦い)。アフガニスタン東部のワナトの戦いなどの結果、アメリカ軍の戦死者は155人に及び(3割増)、NATO軍の戦死者も増加した[59]。アフガニスタンにはNATO軍を主力とする39か国5万5千人の部隊が展開していたが、統一した指揮がなく各部隊がバラバラに戦っていた[59]。ターリバーンは効果の薄い自爆攻撃や空爆を招く大規模な歩兵戦を避けて、即席爆発装置(IED)による攻撃を増加させた。ターリバーンはアルカーイダやパキスタン軍の訓練によって練度を上げ、迫撃砲の命中精度を向上させた[59]。またアフガニスタン政府の支配が地方まで及ばないため、ターリバーンがもめごとの仲裁などの住民サービスを行って住民の心をつかんだ[59]。ターリバーンと同じようにNPONGOがアフガニスタン政府に代わって住民サービスを担ったが、ターリバーンはNPOを攻撃しアフガニスタン日本人拉致事件が起きた。米国のマコネル国家情報長官は「ターリバーンはアフガニスタンの約10~11%を支配している」と述べた[60]

パキスタンではパキスタン・ターリバーンが首都から240キロのスワート地区を占領した[59]軍統合情報局(ISI)が後援するカシミール過激派はインドとの戦いを続けていた(ムンバイ同時多発テロ)。アルカーイダは連邦直轄部族地域でパキスタン・ターリバーンとも連携を取り、両国のターリバーンと行動を共にするようになった[59]。アメリカ軍は無人攻撃機や特殊部隊を使って連邦直轄部族地域のアルカーイダを攻撃したが、アルカーイダもイスラマバード・マリオット・ホテル爆破テロ事件などで反撃した[59]。また無人攻撃機の活用により民間人の被害が急増した。事態は緊迫し、もはや単なるテロ対策ではなく反乱鎮圧を真剣に行う必要があるとアメリカも認めざるを得なかった。一方、イラクでは戦争がようやく落ち着きつつあった。アメリカ大統領選挙ではオバマ候補がアフガニスタンへの関与を拡大する考えを示し、アメリカ軍も新大統領の下で増派を行う決意を固めた[59]

2008年9月20日、OEF参加諸国、海上阻止行動への謝意を前文に盛り込んだ国際連合安全保障理事会決議1833が採択され、全会一致で採択された。

2009年[編集]

ヘルマンド州サンギン郡のJackson前線基地

1月、アメリカ合衆国ではバラク・オバマ大統領に就任し、アフガニスタンでは二回目の大統領選挙が迫っていた。アフガニスタンでは2008年からデービッド・マキャナン将軍が正規戦によって敵兵を殺害するテロ対策を行っていた。しかしアメリカ軍はアフガニスタン東部では勝利していたものの、アフガニスタン南部で劣勢だった[61]。アメリカはイラクに15万人を派兵していたが、アフガニスタンには3万8千人しか派兵していなかった。アフガニスタンにはその他にNATO軍2万9千人[61]や現地人で構成された3千人の対テロ追撃チーム(CTPT)[61]などが居た。2月、オバマ大統領はアフガニスタンの大統領選挙を支援するために戦闘部隊1万7000人と訓練要員4000人を派兵した[61]。増派した海兵遠征旅団(8000人)は手薄だったヘルマンド州に配置され、ナウザドの戦いストライク・ソード作戦が行われた。しかし、そこはケシの大生産地ではあるものの過疎地帯の「死の砂漠」であり、カンダハールのような大都市は手薄なままだった[61]。5月、オバマ大統領はマキャナン将軍を事実上更迭して[62]スタンリー・マクリスタル将軍を後任に任命した[61][63]。アメリカの軍部はイラクで成功した反政府活動鎮圧をアフガニスタンでも行おうとしていた[61]。反政府活動鎮圧とはイラク駐留アメリカ軍司令官のデヴィッド・ペトレイアス将軍が考案した作戦で、「敵を殺しても戦争を終わらせることは出来ない」「住民を守り、人心を収攬し、ともに生活し、安定した有能な政府が栄えるように治安を維持しなければならない」と言う考えに基づく作戦である(対反乱作戦[61]。8月、マクリスタル将軍は反政府活動鎮圧を行うためにオバマ大統領に4万人の増派を要求した[61]

しかしオバマ大統領は大統領選挙ではアフガニスタンに増派すべきと主張したものの、際限のない駐留や出費には反対だった[64]。反政府活動鎮圧を行うには40~50人の住民を守るために軍人や警察官が1人必要で、理論上はアメリカ軍が10万人必要だった[64]。また10年以上の長期的な国家建設を行い、アフガニスタンの警察や軍を40万人養成する必要があり、その場合の経費は8890億ドルに及ぶと予想された[64]。しかしソビエト連邦はかつてアフガニスタンに10万人を派兵し、100万人のアフガニスタン人を殺害したが戦争に勝利することは出来なかった[64]。アメリカ政府は反政府活動鎮圧や国家建設に深入りして、アフガニスタンから撤退出来なくなることを恐れていた[64]

アメリカの軍部はアフガニスタンに4万人を増派して、時間をかけて反政府活動鎮圧を行いターリバーンを撃滅したいと考えており、共和党もそれを支持していた[65]。しかしオバマ大統領は短期間で迅速に軍事行動を行って撤退することが出来る出口戦略を求めていた。軍部や政権内で議論が行われ、結局オバマ大統領は本格的な反政府活動鎮圧やアフガニスタン軍の長期的な養成は行わず、一時的に3万人の増派を行ってアフガニスタンの軍や警察が治安を管理できる程度にターリバーンの戦闘能力を弱体化させ、2011年7月から撤退を始める「掃討・堅守・建設・転移」を行うと決断した[65]。12月1日、オバマ大統領はニューヨーク州の陸軍士官学校で新戦略を発表し[65]、残りの1万3000人を派兵した[66]

アメリカの軍部はオバマ大統領の決断に従ったが本心では納得しておらず、不足した兵力をNATO軍の増派で補って反政府活動鎮圧を行おうとした[65]。一方、NATO加盟国には様々な国情があり、例えばドイツでは戦争継続について国論が分裂していた。ターリバーンやイスラム聖戦連合(IJU)はドイツ軍を撤退に追い込むため、クンドゥーズ州駐留のNATO軍に数か月間攻撃を加えた。その結果、巻き添えで民間人に死傷者が出て(クンドゥーズ空爆事件)、ドイツの閣僚が辞任した[67][68]。イギリスはアフガニスタンに9000人を派兵していたが、更に500人の増派を発表した。マクリスタル将軍は兵力不足に対応するために、アフガニスタン全土での反政府活動鎮圧は諦めて400郡中80郡を重点地域に指定し、ヘルマンド州やカンダハール州、カブール周辺やパキスタン国境などで反政府活動鎮圧を行って支配地域を広げることにした[69]。戦争は激しさを増し、2008年と比べてアメリカ兵の死者が急増した。

アフガニスタンの大統領選挙はカルザイが再選したものの、選挙不正や汚職が酷くアメリカの言う事を聞かなくなっていた[70]。パキスタンではパキスタン・ターリバーンが首都から100~160キロにまで迫り、核兵器備蓄基地のタルベラを脅かした[71]。パキスタン政府は連邦直轄部族地域(FATA)に14万人の軍を派遣してパキスタン・ターリバーンと戦った[69]。パキスタン軍の戦死者は2006年以降の5年間で2300人に及んだ[69]。一方、パキスタンはアフガニスタン・ターリバーンに対しては複雑な態度をとっていた。パキスタン政府はアフガニスタン・ターリバーンと戦うアメリカ軍やNATO軍に対する軍需物資の通過を認め、連邦直轄部族地域に対する無人機攻撃も認めていた[70]。一方、軍統合情報局(ISI)はハッカニーネットワークターリバーン指導部との関係を継続しており、連邦直轄部族地域はアメリカ軍やNATO軍や諜報機関が侵入できない安全地帯と化していた[70]。アフガニスタン・ターリバーンはアフガニスタン東部や南部に2万5千人の兵力を展開し[69]、パキスタンの連邦直轄部族地域で十分な休息を取って戦争を続けていた[70]

ヘルマンド州マルージャ郡

第二回大統領選挙後[編集]

2010年[編集]

アルガンダーブ川

アメリカ軍やオバマ政権はターリバーン発祥の地であるカンダハール州や麻薬取引の中心地であるヘルマンド州を戦争の重心とみなしていた。2010年2月、国際治安支援部隊(ISAF)はヘルマンド州のマルージャ郡でモシュタラク作戦を行った。マクリスタル将軍はマルージャ郡にアフガニスタン政府の公務員を派遣して住民にサービスを行う移動政府を試みたがうまく行かなかった[72]。同月、アメリカ軍はカンダハール州に精鋭部隊である第101空挺師団の第二旅団(4800人)を投入した[72]。ターリバーンはアルガンダーブ川沿いの灌漑地帯に潜み、アメリカ軍を即席爆発装置(IED)で攻撃し、地下水路から奇襲攻撃を行ったので[72]、アメリカ軍の損害が増大した[72]。6月、マクリスタル将軍が兵力不足を嘆き、マクリスタル将軍の部下がバイデン副大統領などを批判したことをローリング・ストーン誌が面白おかしく報道し、マクリスタル将軍が辞任した[70]。9月、国際治安支援部隊(ISAF)はドラゴン・ストライク作戦を実施して、ターリバーンを灌漑地帯から一掃した[72]

辞任したマクリスタル将軍の後任には、反政府活動鎮圧理論の考案者であるペトレイアス将軍が就任した。ペトレイアス将軍は統合特殊作戦コマンドによる夜間襲撃を前年の5倍に増やし、365人のターリバーン指揮官を殺害し、1400人のターリバーンを捕虜にした[72]。また国際治安支援部隊(ISAF)は重点地域を96郡に増やしてターリバーンを攻撃した。しかし戦況に劇的な変化は生じなかった[72]

10月、北大西洋条約機構(NATO)の首脳会議がリスボンで開かれ、国際治安支援部隊(ISAF)からアフガニスタン治安軍への段階的な治安維持権限の移譲(撤退)が決まった[73]

パキスタンでは連邦直轄部族地域(FATA)がタイムズスクエア爆破未遂事件(5月)のようなアメリカ本土に対するテロ攻撃の温床になっていた[70]。CIAは連邦直轄部族地域に対して無人攻撃機で122回の攻撃を行い[72]、アフガニスタン人で構成された対テロ追撃チーム(CTPT)を越境させた[70]。9月、アメリカ軍の攻撃ヘリコプターがパキスタンに領空侵犯し、パキスタン軍の検問所と交戦した。パキスタンは抗議のためトールハムを一時的に封鎖し、NATOの補給路を妨害した[74]。ハッカニーネットワークもクエッタなどでNATOの燃料輸送車を攻撃した[75]

2011年[編集]

アメリカ合衆国のオバマ大統領は2009年の増派の際、2011年7月から撤退を始めると決めていた。撤退開始が間近に迫った5月、アメリカ軍の特殊部隊がパキスタンの首都イスラマバード郊外のアボタバードにあった邸宅を急襲し、 ウサーマ・ビン・ラーディンを殺害した。一方、「掃討・堅守・建設・転移」戦略の進展は思わしくなかった。ターリバーンはアメリカ軍と互角の戦いを行い、カルザイ政権の汚職は改善せず、アフガニスタン軍の規模拡大も計画通りには進まなかった[76]

7月、カンダハールからアメリカ軍とカナダ軍が撤退を開始した。同月、カンダハールの実力者アフマド・ワリー・カルザイが暗殺された[77]

パキスタンではアメリカ軍が前線基地を設置するためにアメリカ軍の関係者285人を非公式に活動させていたが臨時職員のモラルは低く、1月にレイモンド・デイビス事件が起きた[76]。11月、NATO軍が再びパキスタン軍と交戦・誤爆したので、パキスタンはトールハムを一時的に封鎖し、NATOの補給路を妨害した[78]

2012年[編集]

2012年7月、「アフガニスタンに関する東京会合」が開催された[79]。アフガニスタン治安軍の年間予算(41億ドル)の負担割合(米国24億ドル、欧州12億ドル、アフガニスタン政府5億ドル)などが決まった[80]

2013年[編集]

2013年6月、国際治安支援部隊(ISAF)からアフガニスタン治安軍への治安権限の委譲が完了した[81]

同年11月、アメリカ軍はパキスタン・ターリバーンの指導者ハキームッラー・マフスードを空爆し殺害した[82]

2014年[編集]

2014年12月、国際治安支援部隊(ISAF)が終了し[83]、最盛期には約13万人にも及んだ外国軍の多くが国外に撤退した。多国籍軍は確固たる支援任務に移行し、治安はアフガニスタン軍や警察が独力で維持することになった。

同年5月、トルクメニスタン軍がファーリヤーブ州ゴールマーチ郡から越境してきた武装集団に襲撃された[84]。ウズベキスタン人やトルクメニスタン人などで構成された武装集団はISAF撤退を機に永世中立国であるトルクメニスタンからアフガニスタンを攻撃しようとしていた[84]

同年4月、ジンナー国際空港に対する攻撃の報復として、パキスタン軍が北ワジリスタンを攻撃した(Zarb-e-Azb作戦)。12月、パキスタン・ターリバーンは軍が運営する学校を襲撃し、140人以上の生徒を殺害した(2014年ペシャーワル学校襲撃事件[85]

第三回大統領選挙後[編集]

2015年欧州難民危機

2015年[編集]

2015年、イスラム国パリ同時多発テロ事件などを起こし、世界に活動の輪を広げていた。1月、ターリバーンの一部がイスラム国に寝返って「ホラサン州」(ISIL-K)の設置を宣言した[86]。5月、アフガニスタン政府とターリバーンとの間で非公式協議が行われ、ターリバーンの政治事務所をカタールのドーハに開設することで合意した[87]。7月、パキスタンの仲介でアフガニスタン政府とターリバーンとの間で公式の和平協議が行われ、ターリバーンの最高指導者ムハンマド・オマルが声明を発表した[87]。ところがその直後オマルが2013年に病死していたことが明らかとなり交渉は中断した[87][88]。ターリバーンの内部で抗争が勃発し、武力衝突が起きた[87]。その後、ターリバーンの最高指導者にアフタル・ムハンマド・マンスールが就任した[89]。9月、ターリバーンはアフガニスタン第六の都市クンドゥーズを短期的に占領した(クンドゥーズの戦い)。10月、衝撃を受けたアメリカ合衆国のバラク・オバマ大統領はアメリカ軍の完全撤退を断念した[90]。同年、多くのアフガン難民が欧州に避難しようとして、2015年欧州難民危機の一因になった。

2016年[編集]

2016年3月、ターリバーンの内部抗争が勃発し、ヘラート州で150人が死亡する大規模な戦闘が行われた[91]。5月、アメリカ合衆国はターリバーンの最高指導者アフタル・ムハンマド・マンスールを殺害した[92]。一説によるとアフタルは和平協議には否定的だったと言う[92]。後任の最高指導者にはハイバトゥラー・アクンザダが就任した[93]

2017年[編集]

2017年10月、イスラム国の首都ラッカが陥落した。アフガニスタンでもイスラム国の最高指導者がアメリカ軍による空爆で死亡し、後継者争いにより組織が2つに割れ、ムアウィア・ウズベキスタ派がアフガニスタン北部に移動した[94]。同月、アフガニスタン政府の支配地域は407郡中231郡(57%)にすぎないことが判明した。政府とターリバーンは122郡(30%)の支配を争っており、ターリバーンが54郡(13%)を支配していることが分かった。ターリバーンの支配地域は2015年11月から2017年8月の間に倍増しており、紛争地域も1.4倍に増加した。特にウルズガーン州(7郡中5郡)やクンドゥーズ州(7郡中5郡)、ヘルマンド州(14郡中9郡)は大半をターリバーンに支配されていた[95]。アメリカ合衆国のドナルド・トランプ大統領は状況の悪化を防ぐために増派を決定した[96]

12月、約200人のイスラム国の部隊がジョウズジャーン州ダルザーブ郡(Darzab)を支配下に置き、基地を建設していた。部隊にはシリアから逃げてきたアルジェリア人やフランス人なども居た[97]

2018年[編集]

2018年2月、アメリカ軍はジョウズジャーン州のイスラム国部隊をB52で爆撃し、特殊部隊で急襲して現地司令官を殺害した[98][99]。ターリバーンもイスラム国と交戦し、大打撃を受けたイスラム国の部隊は8月にアフガニスタン政府に投降した。投降したイスラム国の部隊は約250人でフランス人の他にインドネシア人やウズベキスタン人やタジキスタン人、パキスタン人なども加わっており、女性や子供の戦闘員も居た[100]。一方、イスラム国は戦闘員にアフガニスタンへの入国を呼び掛けており[101]、アフガニスタン北部に潜伏中の戦闘員は5000人に達するという説があった[102]

8月、ファーリヤーブ州ゴールマーチ郡のチャイニーズ・キャンプ基地が1000人のターリバーンに包囲され、孤立無援で陥落した[103]。基地には106人の守備隊が居たが[104]、アフガニスタン軍はガズニ州の攻防戦やジョウズジャーン州のイスラム国部隊の降伏などに忙殺されてヘリコプターが足りず、ゴールマーチ郡まで支援の手が回らなかった[104]

同年5月、パキスタンは連邦直轄部族地域を廃止し、カイバル・パクトゥンクワ州に併合した。国連によると連邦直轄部族地域に対する軍事作戦により、アルカーイダ系の武装集団がアフガニスタンに退避した。2018年現在アフガニスタンには1万人~1万5000人の外国人戦闘員が居り、そのうちアルカーイダは265人~400人だった。アルカーイダはターリバーンの保護の下でザーブル州に訓練基地を設けており、ウサマ・ビン・ラディンの息子ハムザ・ビン・ラーディンに統率されている部隊もあった[105]。同年6月、アメリカ軍はパキスタン・ターリバーンの指導者マウラナ・ファズルッラーをアフガニスタン領内で空爆し殺害した[106]

2019年[編集]

2019年3月、ファーリヤーブ州では州都マイーマナをはじめ州内の大半の郡がターリバーンに包囲され、アフガニスタン軍に多数の戦死者が出た[107]。9月、四回目の大統領選挙が行われた。12月、ナンガルハル州でNPO活動を行っていた中村哲 (医師)が殺害された。

同年2月、インドは2019年プルワマ襲撃事件の報復のために、パキスタン領内のカシミール過激派の拠点を爆撃した(バラコット空爆)。8月、インドはパキスタンのテロを防ぐためにジャンムー・カシミール州の自治権を廃止・はく奪し直轄領化した(ジャンムー・カシミール連邦直轄領[108]

第四回大統領選挙後[編集]

2020年[編集]

2月29日、アメリカ合衆国とターリバーンの間で和平合意が成立した(アフガニスタン和平プロセス)。アメリカ合衆国は135日以内に駐留軍を縮小し、14ヶ月後にNATO軍と共に完全撤退すること、ターリバーンはアフガニスタン国内で攻撃を停止することが決まった[109]。また合意にはアフガニスタン政府が5000人、ターリバーンが1000人の捕虜を解放することも盛り込まれた。しかし和平合意に参加していないアフガニスタン政府は5000人の解放に同意せず、1500人の解放しか認めなかった[110]。3月、ガニー大統領が再選し大統領就任を宣言したが、対立候補のアブドラ行政長官は納得せず、4月現在も混乱が続いている[111]。4月、アフガニスタン政府は合計300人の捕虜を解放したが[112]、ターリバーンは納得せずアフガニスタン政府との交渉を打ち切った[110]。また交渉中も戦闘は継続しており、ターリバーンは3月から4月中旬までに2804回の攻撃を行い、789人の民間人が死傷した[113]

年表[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

出典[編集]

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関連項目[編集]