アムガ

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アムガ(Amuga,モンゴル語: Амуга,中国語: 阿木哥,? - 1324年)とは、クビライ・カーンの孫ダルマバラの庶子で、モンゴル帝国の皇族。『元史』などの漢文史料では阿木哥、『集史』などのペルシア語史料ではاموگهĀmūgeと記される。

概要[編集]

アムガの母親郭氏は元来はクビライ・カーンの女侍であったが、クビライは孫ダルマバラが成長するとこれを下賜し、結果としてダルマバラと郭氏との間にアムガが生まれることとなった。この後ダルマバラは正后としてコンギラト出身のダギを娶り、彼女との間に嫡子カイシャンアユルバルワダを持ったため、アムガは庶長子として扱われるようになった[1]

クビライ・カーンが亡くなりテムル・カーンが即位すると中央アジアのカイドゥが好機と見て大元ウルスに大攻勢をかけた。この戦役にアムガも司令官として参加し、1302年11月には善射軍を率いて河西地方の寧夏へと向かった[2]。これは、河西方面の脅威がやや和らいだために本来この戦線を担当する安西王アナンダ率いる大部隊をアルタイ地方の主戦場に投入し、アナンダ軍が抜けた河西方面の備えとしてアムガが派遣されたものと見られる[3]。この功績からか、1306年8月には鈔三千錠を賜っている[4]

皇太子デイシュが早世したことによってテムル・カーンが嗣子を残さずに亡くなると、テムル・カーンの甥に当たるダルマバラの遺児たちが後継者として浮上した。しかし皇后ブルガン・ハトゥンはダギとその息子達を嫌い、アナンダを帝位に即けようと画策したが、コンギラト派官僚の工作によってアユルバルワダがクーデターを起こし、カイシャンがモンゴリアで諸王の支持を得て南下し帝位に即いたため、以後ダルマバラの家系が重視されるようになった。1311年、帝位に即いたカイシャンが早世し、新たにアユルバルワダが即位するとアムガは朝廷に参内した。この時アユルバルワダは省臣に「朕とアムガは異母兄弟であるのに、朕が[アムガを]助けなければ彼は誰を頼ればよいというのだ」と言って特別に鈔二万錠をアムガに賜った[5]。翌1312年には慶元路定海県六万五千戸を賜り[6]、その後も定期的にアユルバルワダより下賜を受けている[7][8][9][10]

英宗シデバラが暗殺された時、ダルマバラの子孫としてはカイシャンの息子(コシラトク・テムル)、アムガが残っていたが、コンギラト出身のダギの下で権勢を得ていた旧臣は非コンギラトの妃から生まれたカイシャンの遺児やアムガを戴くことはできず、結果としてやや遠縁だがコンギラト出身の母を持つ晋王イェスン・テムルが推戴されてカーンとなった。1324年正月にアムガは封地大同へ戻ったが[11]、程なくして同年五月に亡くなった[12]。アムガの娘は、高麗第27代王忠粛王降嫁した金童慶華公主

家系[編集]

『元史』宗室世系表では以下のような系図を伝える:

  • 魏王アムガ
    • トク・ブカ大王(Toq-buqa,脱不花)
    • マンジ大王(Manzi,蛮子)
    • 西靖王アルク(Aruq,阿魯)
    • 魏王ボロト・テムル(Bolot-temür,孛羅帖木児)
    • タングタイ王(Tangutai,唐兀台)
    • ダルマシュリ王(Darmaširi,答児蛮失里)
    • ボロト大王(Bolot,孛羅)

出典[編集]

  1. ^ 『元史』巻116,「裕宗居燕邸及潮河、順宗倶在侍、稍長、世祖賜女侍郭氏、後乃納後為妃、生武宗及仁宗」
  2. ^ 『元史』巻20,「(大徳六年)十一月……戊午、籍河西寧夏善射軍隸親王阿木哥、甘州軍隸諸王出伯」
  3. ^ 杉山2004,317-318頁
  4. ^ 『元史』巻21,「(大徳十年)八月……辛亥、賜王侄阿木哥鈔三千錠」
  5. ^ 『元史』巻24,「(至大四年)六月……己巳、衛王阿木哥入見、帝諭省臣曰:『朕与阿木哥同父而異母、朕不撫育、彼将誰頼?』其賜鈔二萬錠、他勿援例」
  6. ^ 『元史』巻24,「(皇慶元年)正月……戊午……改封済王朶列納為呉王、賜衛王阿木哥慶元路定海県六萬五千戸、加崇福使也里牙秦国公」
  7. ^ 『元史』巻24,「(皇慶二年)五月……庚子……勅衛王阿木哥歳賜外、給鈔萬錠」
  8. ^ 『元史』巻24,「(延祐元年)秋七月……庚午……賜衛王阿木哥等鈔七千錠」
  9. ^ 『元史』巻24,「(延祐二年)秋七月……癸酉、賜衛王阿木哥鈔萬錠」
  10. ^ 『元史』巻24,「(延祐三年)夏四月……壬午、諭中書省、歳給衛王阿木哥鈔萬錠」
  11. ^ 『元史』巻29,「(泰定元年)春正月……己酉、命諸王遠徙者悉還其部。召親王図帖睦爾於瓊州、阿木哥於大同」
  12. ^ 『元史』巻29,「(泰定元年)五月……庚申……諸王阿木哥薨、賻鈔千錠」

参考文献[編集]

  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 新元史』巻113列伝10
  • 蒙兀児史記』巻97列伝79