アレクセイ・コスイギン
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アレクセイ・コスイギン Алексей Косыгин | |
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![]() 1967年 | |
生年月日 | 1904年2月21日 |
出生地 |
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没年月日 | 1980年12月18日(76歳没) |
死没地 |
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出身校 | レニングラード専門学校 |
前職 |
教師 公務員[1] |
所属政党 |
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称号 | 赤旗勲章 |
配偶者 | クラウディア・アンドレエーヴナ(1966年死去) |
在任期間 | 1964年10月15日 - 1980年10月23日 |
最高会議幹部会議長 |
アナスタス・ミコヤン ニコライ・ポドゴルヌイ レオニード・ブレジネフ |
在任期間 | 1960年5月4日 - 1964年10月15日 |
閣僚会議議長 | ニキータ・フルシチョフ |
在任期間 | 1959年3月20日 - 1960年5月4日 |
閣僚会議議長 | ニキータ・フルシチョフ |
在任期間 | 1943年6月23日 - 1946年3月23日 |
その他の職歴 | |
![]() 第18・22-25期政治局員・幹部会員 (1960年5月4日 - 1980年10月21日) (1948年9月4日 - 1952年10月16日) | |
![]() 第18・19・20期政治局員候補・幹部会員候補 (1957年6月29日 - 1960年5月4日) (1952年10月16日 - 1953年3月5日) (1946年3月18日 - 1948年9月4日) |
アレクセイ・ニコラエヴィチ・コスイギン(ロシア語: Алексей Николаевич Косыгин、ラテン文字表記の例:Aleksei Nikolaevich Kosygin、1904年2月21日(ユリウス暦では2月8日) - 1980年12月18日)は、ソビエト連邦の政治家。ソビエト連邦共産党政治局員、人民委員会議議長、国家計画委員会議長、閣僚会議第一副議長を歴任し、フルシチョフ失脚後の16年間に渡って後任の閣僚会議議長(首相)を務めた。
生涯[編集]
1904年2月21日[2]にロシア帝国のサンクトペテルブルクで、父のニコライ・イリイチ・コスイギンと、母のマトロン・アレクサンドロヴナの間に、労働者階級の家庭に誕生する[3]。3月7日に洗礼を受けた[4]。
ロシア革命に遭遇し、1919年に赤軍に志願する[5]。1921年の召集解除後、レニングラード生活協同組合技術学校に入り[6]、シベリアのノヴォシビルスクの生活協同組合[7]に就職[8]。組合の経済部門にいた頃のことを聞かれたコスイギンは、ウラジーミル・レーニンのスローガンである「協調 - 社会主義への道」に言及して答えた[9]。コスイギンは同地に6日間滞在し、ソビエト連邦共産党への入党を志願し、1927年に同党に入党する[7]。
1930年にレニングラードに戻り、レニングラード専門学校にて勉強し、5年後の1935年に卒業した[9]。その後は織物工場職長、工場長として勤務中に大粛清に遭遇する。1938年から1939年までレニングラード市長を務めた。
1939年から1940年まで織物工業人民委員[10]を務め、以後、軽工業を中心に主に経済関係のポストを歩む。1939年に党中央委員に選出される[7]。1943年から1946年までロシア共和国人民委員会議議長(首相)を務める[7]。大祖国戦争(独ソ戦)においてはソ連国家防衛委員会の委員にもなった[7]。ロシア共和国首相としては、ナチス・ドイツの侵攻に対して、ヨーロッパ・ロシアの企業・工場をウラル山脈以東に疎開させることに尽力した[11]。
第二次世界大戦終結後は1946年から1953年までソ連邦副首相、1948年から党政治局員・軽工業大臣に任命される。ヨシフ・スターリンの死後は1956年にゴスプラン(国家計画委員会)第一副議長、1957年に副首相、1957年にゴスプラン議長を歴任した。1960年には第一副首相に就任した。
1964年10月14日、宮廷クーデターとも言える手段で第一書記兼首相のニキータ・フルシチョフが失脚した。これに伴い、同年10月に後任の首相に就任した。コスイギンは陰謀とは無縁な潔癖な政治家で、フルシチョフ追放の計画については直前まで知らされていなかった。計画を知らされたコスイギンはKGBがバックにいることを確認したあとに、計画に賛同した。
コスイギンは第一書記(後に書記長)に就任したレオニード・ブレジネフ、最高会議幹部会議長となるニコライ・ポドゴルヌイ(当初は第二書記)と「トロイカ」と言われる集団指導体制を組む。西側からは当初、「ブレジネフ・コスイギン政権」と表現されていた。
1965年9月には計画・管理面における企業分権化を図る経済改革(コスイギン改革)を推進するが、1960年代末までに改革は頓挫し、ソ連経済は停滞する。コスイギンは主に経済を中心とする内政を担当したが、1960年代後半から、外交面でもデタントの波に乗ってアメリカのリンドン・ジョンソン大統領、イギリスのハロルド・ウィルソン首相ら西側首脳とも積極的に会談を行い、西側陣営との平和的共存を模索した。また、1966年にはインドとパキスタンの両国を調停し、第二次印パ戦争の解決に尽力した。ただ、会談の際には「ニェット(Niet、英語のNo)」を繰り返し、西側からは「Mr.Niet」のあだ名がついた。
中ソ対立の最中の1969年に北ベトナムのホー・チ・ミンの葬儀の帰りに立ち寄った北京国際空港で中国の周恩来首相と会談するが、この会談からは前向きな結論は得られず、中ソ両国は1969年から1970年にかけて軍事衝突を繰り返した。その一方で、ソ連と中国との全面戦争だけは望んでいなかったらしく、1974年9月17日に面会した創価学会の池田大作会長(当時)に対して、「ソ連は中国を攻撃するつもりも、孤立化させるつもりもありません」と語っている[13]。
1980年10月、病気により首相を辞任した。後任には第一副首相のニコライ・チーホノフが就任した。同年12月18日死去。遺灰は慣例に従い、他のソ連の指導者と同様にクレムリンの壁に葬られた。
その他[編集]
デタント期においてはアメリカ合衆国の消費物資導入を積極的に推し進めた。その代表例として挙げられるのがペプシコーラであろう。1974年には南ロシアのノヴォロシースキィでペプシの工場が操業を開始した。それによってソ連時代からロシアでは「コーラ=ペプシ」であり、ペプシ社のコーラ市場シェアはロシアでは75パーセントを超えていた。しかし、ソ連崩壊後にはコカ・コーラが「西側の飲み物」として徐々に人気を集め、やがてそのシェアは変化した(詳細はソビエト連邦の食事情を参照)。
脚注[編集]
- ^ Law 1975, p. 214.
- ^ ユリウス暦では2月8日。
- ^ Law 1975, p. 221.
- ^ Андриянов, Виктор (2003年8月23日). “Неизвестный Косыгин” (ロシア語). ロシア新聞. 2010年9月4日閲覧。
- ^ Вергасов, Фатех. “Организация здорового накала” (ロシア語). pseudology.org. 2010年9月4日閲覧。
- ^ Society for Contemporary Studies (1979). The Contemporary. 23. R.N. Guha Thakurta for Contemporary Journals Ltd. p. 15. ISBN 0141037970
- ^ a b c d e Law 1975, p. 222.
- ^ Safire, William (1988). Before the fall: an inside view of the pre-Watergate White House. ペンシルベニア州立大学: ダ・カーポプレス. p. 610. ISBN 0141037970
- ^ a b “Алексей Николаевич Косыгин” (ロシア語). モスクワ州立紡績大学 (2010年11月27日). 2010年9月5日閲覧。
- ^ 人民委員は大臣に相当する。
- ^ “Алексей Гвишиани: «Не надо жалеть Косыгина!»” (ロシア語). Pravda Online (2004年4月9日). 2010年9月4日閲覧。
- ^ ニュース速報・字幕スーパー | 番組表検索結果詳細 | NHKクロニクル https://www2.nhk.or.jp/archives/chronicle/pg/page010-01-01.cgi?recId=0001000000000000@0000000000000000000000-5257-6000000000000000000000
- ^ 「大白蓮華」2014年9月号p30
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
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