アントン・ロマコ
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アントン・ロマコ Anton Romako | |
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![]() 自画像 | |
生誕 |
1832年10月20日![]() |
死没 |
1889年3月8日(56歳没)![]() |
国籍 |
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代表作 |
『リッサ海戦のテゲトフ提督』 『居間で寛ぐ紳士とご婦人』 |
この人物に影響を 与えた芸術家 | フランシスコ・デ・ゴヤ[1] |
アントン・ロマコ(ドイツ語: Anton Romako、1832年10月20日 - 1889年3月8日)は、オーストリア=ハンガリー帝国の画家。
生涯[編集]
生家は代々チェコの高級家具職人であった[1]。姓をチェコ流に呼ぶと、「ロマコ」ではなく「フロマートコ Hromádko」である[1]。ウィーンでフェルディナント・ゲオルク・ヴァルトミュラーとカール・ラールに師事した[1]。その後、修行のためにイタリアとスペインに行き、フランシスコ・デ・ゴヤの影響を強く受けた[1]。
長年ローマで活躍していた[2]。妻に逃げられ[1]、1876年にウィーンに戻ってきたが、祖国では評価されなかった[2]。注文の多くは時代の寵児であったハンス・マカルトのもとに持ち込まれてしまうため、ロマコにはあまり仕事が回ってこなかった[1]。ロマコは筆が早く、肖像画を描いて何とか生計を立てた[1]。
ロマコの最期は自然な病死だったが、自殺という噂も立った[1]。
評価と作風[編集]
今日では、19世紀後半のオーストリア画家の中で、最も技量に優れていたと評価されている[3]。ロマコの肖像画は、モデルの特徴を的確に捉えたものであった[1]。
ロマコの最も有名な作品は、おそらく『リッサ海戦のテゲトフ提督』である[1]。これは、海戦の激しさが生々しく描かれている点で画期的であった。『リッサ海戦のテゲトフ提督』のように、瞬間性とバロック的な激しい動きを結び付けたロマコの絵画は、マカルトのものよりも芸術としての長い生命を持っている[1]。
ギャラリー[編集]
『落穂拾い』(Nach der Ernte)
『祭壇の前のピッフェラーリ』(Pifferari before an altar)
『ナポリの酒場』(Neapolitanische Schenke)
ヨハン・シュトラウス2世の肖像画(Bildnis Johann Strauß)1880年頃
カール・ライヒェルトの肖像画 1873年-1876年
出典[編集]
参考文献[編集]
- W.M.ジョンストン『ウィーン精神1:ハープスブルク帝国の思想と社会 1848-1938』井上修一、岩切正介、林部圭一訳、みすず書房、1986年8月22日。ISBN 4-622-01768-7。
- エーリヒ・ツェルナー『オーストリア史』リンツビヒラ・裕美訳、彩流社、2000年5月10日。ISBN 4-88202-580-9。
- 西川智之「芸術により飾られて 分離派結成までのウィーンの芸術運動」『言語文化論集』29号、2008年3月31日、 187-203頁。
関連項目[編集]
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- ウィーン芸術家協会 - 「アントン・ロマコ賞」が存在する。過去の受賞者にミヒャエル・クーデンホーフ=カレルギーなど。