アンナ・エシポワ

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アンナ・エシポワ
Essipoffkl.jpg
ウェルテ・ミニョンに録音するエシポワ(1906年2月7日撮影)
基本情報
生誕 (1851-02-12) 1851年2月12日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国ペテルブルク
死没

1914年8月18日(1914-08-18)(63歳)


ロシア帝国の旗 ロシア帝国ペテルブルク
職業 音楽家, 大学教授
担当楽器 ピアノ
活動期間 1871年1914年

アンナ・ニコライェヴナ・エシポヴァロシア語: Анна Николаевна Есипова, 英語: Anna Yesipova, 1851年2月12日1914年8月18日)は、ロシア帝国ピアニスト・音楽教師。

略歴[編集]

ペテルブルク音楽院テオドール・レシェティツキーに師事する。1871年ペテルブルクで初舞台を踏むと、とりわけ苦労を感じさせない超絶技巧と歌うような音色に対して、熱狂的な評価を受け、ピョートル・チャイコフスキーフランツ・リストといった芸術家からも称賛された。その後、演奏旅行に赴き、まずはロシア国内を、次いで1875年ヨーロッパの諸都市を廻り、1876年にはアメリカ合衆国を訪れて称賛を浴びた。

アメリカではファニー・ブルームフィールドの演奏を聴いて、レシェティツキーに入門するように助言している。1880年に旧師レシェティツキーと結婚して、アネット・エシポフ=レシェティツキー(Annette Essipow-Leschetizky)と名乗るもやがて離婚した。2人の間に生まれた娘テレーゼ(Therese、1873-1956)は声楽家となった[1][2]

1885年プロイセン宮廷ピアニストに任命され、激しい情熱と詩的な解釈とが美点として称賛された。

1893年から1908年までペテルブルク音楽院ピアノ科教授に就任して、レオニード・クロイツァーやトマス・ド・ハルトマン、イサベッラ・ヴェンゲーロヴァ、アレクサンドル・ボロフスキー、セルゲイ・プロコフィエフマリヤ・ユーディナレオ・オルンスタインらを養成した。

エシポワは、当時流行していた神智学協会とたびたび交流した。

ローマ字への転写例[編集]

  • 姓名ともそのままの転写
    • Anna Esipova
    • Anna Essipova
    • Anna Yesipova
    • Anna Jessipowa
  • 名前が西欧風で姓はロシア語式(女性語形)
    • Annette Essipova
  • 姓名とも西欧式(姓は女性変化しない)
    • Annette Essipoff
    • Annetta Essipoff
    • Annette von Essipow

脚注[編集]

  1. ^ <対談>クロイツァー教授と語る 属啓成著 雑誌「音楽」1948年8月
  2. ^ Leschetizky (Leschetitzky, Leschitizky, Leszetycki), Familie
  • Wikisource-logo.svg この記事にはパブリックドメインである次の出版物本文が含まれる: Gilman, D. C.; Thurston, H. T.; Colby, F. M., eds. (1905). "要記事名". New International Encyclopedia (1st ed.). New York: Dodd, Mead.