アヴァール人

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アヴァールの位置。西の赤色がアヴァール可汗国。中央の黄土色が大ブルガリア、南の紫色は東ローマ帝国、東の濃い青はハザール汗国、その東の薄い青は西突厥

アヴァール(Avars)とは、 59世紀中央アジアおよび中央東ヨーロッパで活躍した遊牧民族。支配者は遊牧国家の君主号であるカガン(khagan:可汗)を称したため、その国家はアヴァール可汗国とも呼ばれる。ルーシの史料ではオーブル人(Obrs)とも呼ばれる。

目次

概要

フンが姿を消してから約1世紀の後、フンと同じく現在のハンガリーの地を本拠に一大遊牧国家を築いたのがアヴァールである。フンほどの強大さはなく、またアッティラほど傑出した指導者がいたわけでもなく、さらに周辺民族による記録が少なかったためにアヴァールの歴史はよく知られていない。しかし、アヴァールが東ローマ帝国およびフランク王国と接触し、スラヴ諸民族の形成に大きな影響を与えたことは注目すべき事である。

起源

アヴァールの起源は謎に包まれており、いくつかの仮説が立てられた。

  1. 突厥に敗れた柔然が西に逃れてアヴァールになったとする説(柔然=アヴァール説)。
  2. エフタルと関係があったとする説。
  3. 柔然とエフタルがアヴァールになったとする説。

いずれも推測の域を出ない説であるが、5~6世紀に中央ユーラシアを支配した柔然やエフタルの影響を多少なりとも受けていたことは間違いないと思われる。

歴史

東ローマ帝国との同盟

アヴァールが歴史上に現れるのは558年のことで、時に東ローマ帝国ではユスティニアヌス1世(在位:518年 - 565年)の治世であった。

アヴァールはテュルク(突厥)の圧力に押されて北カフカスに姿を見せ、アラン人の仲介で東ローマ帝国と同盟関係を結んだ。

561年、アヴァールはドナウ川下流域に達し、西進しつつ周辺のウティグル,クトリグル,サビルなどの諸族、およびベッサラビア[1]のアントを服属させた。さらにアヴァールはドナウ川を渡り、ドブルジャ[2]に定住したいと東ローマ帝国に要求した。しかし、これは帝国に無視された。一方でアヴァールはフランクとも接触しており、562年アウストラシア王ジギベルト1世との戦い(チューリンゲンの会戦)で敗北したが、中部ヨーロッパで着々と地盤を築いていった。

567年、アヴァールはゲルマン系ランゴバルド人と組み、ダキアトランシルヴァニア、東パンノニアに割拠していたゲルマン系のゲピダエ人を滅ぼし、その地を奪った。翌年(568年)、ランゴバルドがイタリアに向かうと、アヴァールはそれに代わってハンガリー盆地全域を支配した。ここにおいてアヴァールの勢力範囲は、ティサ川流域を中心にボヘミアからドナウ川流域を経て南ロシアにおよぶ広大なものとなった。この年、突厥可汗国のディザブロス(シルジブロス)の使者がコンスタンティノープルに現れ、東ローマ帝国と対ペルシア同盟を組み、互いに友好関係を結んだ。

東ローマ帝国ではユスティニアヌス1世に代わり、ユスティヌス2世(在位:565年 - 578年)が即位していた。ユスティヌス2世はアヴァールなど“北方の蛮族”に対して強硬な姿勢を取り始め、アヴァールの使節に対して貢納の支払いを拒否した。しかしそれはアヴァールの指導者バヤン・カガンの怒りを買うこととなり、バルカン半島の守りともいうべきサヴァ川沿いの要塞シルミウムを陥落寸前までに追い込まれた。これによってユスティヌス2世は574年にアヴァールへの貢納を再開することとなる。

東ローマ帝国と突厥可汗国は568年以来使節を行き来させてきたのだが、ふたたび東ローマがアヴァールと同盟を組んだことで両者の関係が一気に崩れ、576年に突厥は東ローマの使節を非難するとともに、クリミア半島の東ローマ領を攻略した。

アヴァールとスラヴ

600年頃のアヴァール(Avars)と東ローマ(ROMANE)。

ユスティニアヌス1世の時代から大量のスラヴ人がドナウ川を渡って東ローマ帝国領に侵入していたが、ここにきてそれが問題となってきたため、ティベリウス2世(在位:578年 - 582年)はアヴァールを使ってスラヴの侵入を抑えようと考えた。しかし、アヴァールのバヤン・カガンは言うことを聞かず、逆にスラヴとともに帝国領のトラキアイリュリアギリシアに侵入して各地を荒廃させた。そして2年の攻囲の末に要塞シルミウムをも陥落させてしまう。

これら東ローマ帝国が守勢にまわったのは、サーサーン朝(ペルシア)との戦争のためであり、北方にまでは兵力をさけなかったからである。しかし、マウリキウス(在位:582年 - 602年)の時代になってサーサーン朝との戦いに勝利すると(591年)、帝国は攻勢に転じ、将軍プリスクスを北方の守備にあたらせ、シンギドゥヌムをアヴァールの手から奪還し、600年の和議でドナウ川を両国の国境とすることが決められた。翌年(601年)、プリスクスはドナウ川を越えてアヴァールに壊滅的な打撃を与えることに成功し、ほどなくしてバヤン・カガンも亡くなった。

こうしてアヴァールとスラヴの脅威は去ったかにみえたが、602年フォカス(在位:602年 - 610年)による帝位簒奪事件が起こると、北方の守備が手薄となり、ふたたびアヴァールとスラヴの侵入が激化してしまう。とくにスラヴ人はバルカン半島南部(現在のギリシア)へ大量に移住した。

623年、アヴァールとスラヴ、さらにサーサーン朝も加わった連合軍が東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを海と陸から攻撃した。しかし、東ローマ帝国軍の防御は固く、コンスタンティノープルはもちこたえ、アヴァールは2度と帝国の中心へ近づくことはなかった。

アヴァール対スラヴ

623年頃、最初のスラヴ国家であるサモ王国が旧チェコスロヴァキアの地に形成され、その地のスラヴ人がアヴァールの支配を脱したため、アヴァールによる西への拡大はくいとめられた。一方、ヘラクレイオス(在位:610年 - 641年)は626年以降からスラヴ系のクロアト人セルブ人をイリュリアに呼び寄せてアヴァールに対抗させ、635年には北カフカスのオノグル・ブルガールとも同盟を組み、アヴァール包囲網を形成した。

サモ王国は7世紀後半にアヴァールによって滅ぼされるが、すでにアヴァールの方も衰退期に入っており、全体としてはスラヴの方が独立性を強めていった。

アヴァールの崩壊

791年、フランクのカール大帝がアヴァール可汗国に遠征し、804年までにドナウ川中流域を征服。一方で南のブルガールもアヴァールを追ってパンノニアまで進出したため、アヴァール可汗国はフランク,ブルガール,スラヴの3者によって分割されることとなり、アヴァールの名もここに潰えた。

考古学的時代区分

考古学遺物から判断すると、ヨーロッパに侵入したアヴァールの歴史は3つの時期に分けられる。

第一期

アヴァールは6世紀中ごろから約100年の間に、ハンガリーのティサ川の東、ハンガリー盆地の南部に留まっており、東方、とくにブルガール人との関係が深かった。

第二期

7世紀の後半、ハンガリー盆地の全域、現在のウィーン付近まで拡大した。これはサモ王国の崩壊にともなうもので、この時期にはモンゴロイドの要素が前の時期より強いとされる。

第三期

8世紀以降、アヴァールにはいくつかの新しい民族が加わる。

出土品

ハンガリーではアヴァールの墳墓が多数発見されており、その出土品は他の遊牧民のものと大きな違いがない。青銅製のバックル、装身具、馬具、武器などはずっと東方のいわゆるオルドス青銅器との類似を示している。また、装飾に用いられた動物文様も他のステップ遊牧民のものと共通だが、アヴァールの方が多少優美に感じられる。動物文様の他には幾何学文様も用いられた。

アヴァールの国家組織

アヴァール可汗国は強力な軍事力と発達した政治機構を持つ遊牧国家であり、支配者は遊牧国家の君主号であるカガン(khagan:可汗)を称した。カガンを中心として「イウグル」と「トゥドゥン」と呼ばれる二人の高官が補佐する体制であったとされる。またパンノニアで発見されたアヴァールが残したと考えられる鐙・火打ち金などの出土品は東アジア、または北アジアに起源を求められ、アヴァールが鐙を西欧に伝えたことで西欧の戦闘法に大きな影響を与えたとする説もある。一方で、アヴァール人の進出によってカルパチア盆地やドナウ川上流域に残るローマ帝国の統治組織は完全に消滅し、キリスト教の信仰も全くなくなったわけではないがテウルニア、ウィルーヌムといった司教区は消滅した。

言語系統

アヴァールの言語は「テュルク系」説、「柔然と同族ならモンゴル系」説、「エフタルと同族ならイラン系」説など、さまざまな説が立てられているが、いまだに不明である。このうち「柔然と同族ならモンゴル系」であるが、柔然自体モンゴル系なのかテュルク系なのかが不明なので、何とも言えない。

柔然=アヴァール説

詳細は「柔然#柔然=アヴァール説」を参照

初めて柔然=アヴァール説を唱えたのは、フランスのジョゼフ・ド・ギーニュ(en)であった。彼は7世紀東ローマ帝国の歴史家テオフィラクト・シモカッタ(en)の記録と中国の史書を照らし合わせ、その共通点を見出した。

テオフィラクトの記録
  • テュルク(Türk)に破られる前のアヴァールは全スキタイ(東方遊牧民)中の最強者であった。
  • アヴァールはテュルクに撃破されると、その一部がTaugasなる国とMukri(ムクリ)に逃亡した。
  • アヴァールの君主号は「Gagan」または「Khaghan」という。
中国の史書
  • 柔然が突厥(テュルク)に撃破される以前は、北狄第一の強者であった。
  • 柔然は突厥に破られると、その一部は西魏に逃亡した。
  • 柔然の君主号は「可汗」という。

ドギーニュはこの3点から柔然=アヴァールと推定したのである。

また、テオフィラクト・シモカッタはその著書『世界史』において、アヴァールを真アヴァール偽アヴァールに分けているが、柔然=アヴァール説では真アヴァールを柔然に比定し、偽アヴァールをヨーロッパのアヴァールに比定することもある。

関連項目

脚注

  1. ^ソ連のモルダヴィア共和国内
  2. ^ 黒海沿岸のルーマニア南部とブルガリア北部、ドナウ川以南の地域。

参考資料

今日は何の日(6月25日

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